2011/10/25 - 2011/10/25
743位(同エリア941件中)
キヌちちさん
高杉晋作や吉田松陰など、萩は日本史に名をとどめる大人物をたくさん輩出した街。著名な歴史的な名前に触れる度にわくわくした気持ちになりました。
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萩焼工房
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萩焼の登り窯
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公園に掲げられていた萩市の観光マップです。
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円政寺。
明治維新の立役者である高杉晋作や伊藤博文が勉学に励んだ寺として知られている。寺には、幼い晋作が肝だめしをしたという大きく迫力のある“天狗の面”や、遊んだ木馬(神馬)が残っている。境内には十二支の彫刻が施された珍しい形式の金毘羅社や、県下最大の石灯篭もある(萩市観光協会HPより)。 -
「高杉晋作、伊藤博文両公幼年勉学之所」の看板が立っている。
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青木周弼 (あおきしゅうすけ)旧宅。
13代藩主・毛利敬親の侍医を務めた青木周弼が生まれ育った家。幕末当時、日本屈指の蘭学医でもあった。来客用と家人用の座敷に分けられた母屋が、全国から門下生が集まった青木家の事情を物語っている。
青木周弼は、享和3(1803)年、周防大島郡の医師青木玄棟の長男として生まれる。三田尻の名医能美友庵・洞庵父子に学び、江戸に出て蘭方医坪井信道などに学んだ。
長崎に遊学した際には、シーボルトに師事。一時、長崎で開業するも天保9(1838)年に能美洞庵などの推薦で藩医となり、嘉永元(1848)年、13代藩主・毛利敬親の信任を得て侍医となる。
早くから種痘法に注目し、弟・研蔵を長崎に遣わし研究させ、藩内でこれを施し大いに功を奏した。高杉晋作が10歳のとき疱瘡にかかった際、診療した医者としても知られる。
藩の医学館(好生堂)創設にかかわり、後に館長となり、防長医学の発展に大きく貢献。周弼が培った洋学の知識は、村田清風を通じて幕末の藩政改革に生かされた。文久3(1863)年、61歳でこの世を去る(萩市観光協会HPより)。 -
江戸屋横町。
旧萩城の外堀から外側に広がる城下町は、町筋は碁盤目状に区画され、中・下級の武家屋敷が軒を連ねていた。
現在でも町筋はそのままに残り、往時の面影をとどめている。
御成道に面して藩の豪商、江戸屋、伊勢屋、菊屋の商家が並んでいたため、横町には、それぞれの名が残る。
江戸屋横町には維新の三傑の一人である木戸孝允の旧宅や、蘭方医・青木周弼の旧宅、高杉晋作・伊藤博文ゆかりの円政寺などが並び、黒板塀の風情ある横町となっている(萩市観光協会HPより)。 -
木戸孝允旧宅。
維新の三傑と詠われた木戸孝允、別名“桂小五郎”の生家。生まれてから江戸に出るまでの約20年間を過ごした木造瓦葺の2階建ての家は、中に入ると、誕生の間や幼少時代の手習いの書を表装した掛け軸、写真などが展示されている。
建物内にはボランティアガイドが常駐しているので詳しい説明を聞くこともできる。
木戸孝允は、天保4年(1833)、萩藩医・和田昌景の長男として生まれる。
後に藩士・桂家の養子となり“桂小五郎”と名乗った。藩校明倫館に通い吉田松陰の兵学門下となり、文久2年(1862)藩の要職に就き京へと出て国事に奔走。慶応元(1865)年、藩命により姓を“木戸”と改め、翌年、坂本竜馬の仲介のもと薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通らと“薩長同盟”を結び明治維新に尽力。
維新後は、五箇条の御誓文の起草、版籍奉還、廃藩置県などの推進に功績を残す。明治10(1877)年、西南の役の途中で病死。享年45歳(萩市観光協会HPより)。 -
木戸孝允旧宅
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史跡 萩城城下町
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地名案内看板
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菊屋家住宅。
藩の御用商人を務めていた豪商・菊屋家。屋敷は江戸初期の建築、現存する商家としては最古の部類に属し、400年の歴史がある。
藩の豪商・菊屋家は、大内氏時代には武士であったが、毛利輝元公萩城築城の際には有力町人として萩に入り、町づくりに力を尽くした。
主屋をはじめ5棟が国指定重要文化財に指定され、約2000坪の敷地の約3分の1が現在公開されている。
また幕府巡検使の宿として本陣としての役割も持っており、当時の様子を約20年前に復元し一般公開している。すばらしい庭や美術品など貴重な資料が数多く展示されている(萩市観光協会HPより)。
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菊屋家住宅。こんな有名な人物を知りませんでした。
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重要文化財・菊屋家住宅。
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菊屋横町。
旧萩城の外堀から外側に広がる城下町は、町筋は碁盤目状に区画され、中・下級の武家屋敷が軒を連ねていた。
現在でも町筋はそのままに残り、往時の面影をとどめている。御成道に面して藩の豪商、江戸屋、伊勢屋、菊屋の商家が並んでいたため、横町には、それぞれの名が残されている。
藩の豪商・菊屋家をはじめ、幕末の風雲児・高杉晋作の誕生地、第26代総理大臣・田中義一の誕生地がある。
晴れた日には、太陽の光が反射してまぶしいほどの白いなまこ壁の美しいこの横町は「日本の道百選」の一つに選ばれている(萩市観光協会HPより)。 -
旧久保田家住宅。
呉服商・酒造業を営んでいた久保田家は、江戸時代の後期に建てられ、主屋・門・塀・離れが旧御成道(おなりみち・参勤交代の際に大名行列が往来した道)に面し、菊屋家住宅と対峙するかのように立ち並んでいます。
旧久保田家住宅の主屋は、屋根裏に物置や使用人の寝間を設けた「つし二階」を持ち、立ちが高いのが特徴です。
幕末から明治前期にかけての建物として、意匠・構造・技術に優れ、酒造業で繁栄した往時の状況もよく伝えており、史跡萩城城下町を構成するきわめて重要な建物です(萩市観光協会HPより)。 -
田中義一銅像
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田中義一誕生地。
文久3(1863)年、藩士・田中信祐の三男として生まれる。
陸軍教導団、陸軍士官学校、同大学校に学び、日清戦争出征後にロシアに留学。日露戦争では、開戦論を唱え満州軍参謀として出陣した。
山本権兵衛内閣の陸相を経て、政友会総裁へと就任。昭和2(1927)年、第26代内閣総理大臣となる。
翌3月、共産党に対し大弾圧を行い、同年6月には緊急勅令をもって治安維持法を改正するなど反動的政策を行う。
対外的には対中国侵略の強硬外交方針をとったが張作霖爆殺事件によって昭和4(1929)年に辞職。享年66歳(萩市観光協会HPより)。 -
高杉晋作誕生地。
幕末の風雲児・高杉晋作の生まれ育った家。建物は江戸期より縮小されているが当時の面影をよく残している。
敷地内には、晋作ゆかりの品や東行と号した句碑・産湯の井戸などがある。晋作は、天保10(1839)年に萩藩大組士、禄高200石 高杉小忠太の長男として生まれた。
藩校明倫館に通う一方、松下村塾に通い、久坂玄瑞と並び松門の双璧と称される。
文久2(1862)年、外国に支配される清国(現:上海)を視察し危機感を抱いた晋作は、翌文久3(1863)年に身分を問わない我が国初の軍事組織“奇兵隊”を功山寺(下関市)にて挙兵。討幕戦を勝利へと導くが、肺病が悪化し下関・吉田(現:東行庵)に隠居。
慶応3年(1867)結核のため、享年29歳という若さでこの世を去った(萩市観光協会HPより)。 -
高杉晋作誕生地
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高杉晋作誕生地
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高杉晋作誕生地
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高杉晋作誕生地
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高杉晋作誕生地
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晋作の足跡が絵で描かれていた。誕生地御誕生、金比羅社参詣
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松下村塾入門、小姓役となる、剃髪
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剃髪、奇兵隊の閲兵、入獄
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止戦講話、亡命、死亡
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安政大獄期の人相覚。平野次郎、高杉晋作、西郷吉之助の名前がある。
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高杉晋作誕生地
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高杉晋作誕生地
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高杉晋作誕生地
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高杉晋作誕生地
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高杉晋作誕生地、初湯の井戸。
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高杉晋作略伝
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菊屋横町
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高杉晋作立志像。
城下町にある「高杉晋作誕生地」の近くにある「晋作広場」に、平成22年10月に建立されました。
銅像は、晋作が明倫館や松下村塾に通っていた20歳頃の若々しくりりしい顔をイメージしており、両刀を差した羽織、袴の立ち姿です。
銅像の高さは1.8mで、台座を含めて3m。晋作誕生地と萩城の方角を向いて建てられています。
また広場には晋作が好きだった梅の花も植樹されています(萩市観光協会HPより)。 -
菊屋横丁の看板
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道路上の地名案内表示。ここは菊屋横町と記されておりました。上は「横丁」でした。
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人力車立場、武士の格好をした人がいました。
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山縣有朋の騎馬像
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山縣有朋の解説碑文。
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この旅行記へのコメント (1)
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- ブルートレインさん 2011/11/01 05:20:44
- 萩に行かれたのですね!!
- キヌちちさんへ
こんばんは、ブルートレインです。萩の街に行かれたそうですね。私も7月に
長男を連れて訪れました。日本の歴史で名をはせた政治家がこの田舎から多数輩
出された事実はとても興味深い点ですね。7月に訪問した際は、とりあえず松下
村塾を中心にまわりましたが、次回訪問する時にはキヌちちさんがまわられた場
所も是非訪問してみたいと思いました。
山口は今年3回訪問しておりますが、結構見る所が多くていいですよね。
また訪問させていただきますね。
ブルートレイン
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