2011/10/08 - 2011/10/10
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しんちゃんさん
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“おしん”に会えるかなと思いましたが、もうすでに何処かにお嫁に行ったようです。博物館・展示等は酒田市内にはありませんでした。残念!早朝「山居倉庫」を見学、何も知らず市内地図をみたら「おくりびと」撮影地がありました。行くしかない、行くべきだ。場所を頭に入れて…行き過ぎ、酒田埠頭でUターン…適当に町並みに入り、坂道にて「おくり人撮影地に行きたいんですが…」「地元ではないの分かりません」十数メール右側にありました。いつも場所を聞くと、すぐ近くあります。こんなもんだ!!酒田市観光場所を凝縮しました。
- 交通手段
- 自家用車
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岩手県から秋田県、山形県とドライブしました。途中秋田県サービスエリアにて「ババヘラアイス」を販売していました。一説には高校生が名付け親と聞きましたが、定かではない。ネットでは…
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新庄市から酒田市へ向かう国道47号線、コンビニの隣にありました。
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「ダシ風物語記念館」田んぼに風力発電機があり、ここは風が強いらしい。多分この辺に吹く風を“ダシ風”と呼ぶのでしょう。
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早朝7時前のため閉館中でした。ガラス窓から盗撮。
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山居倉庫はどこだ〜
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着いたぞ〜。でも、早すぎ…7時10分
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閉館中
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倉庫に門はなし…チェーンがあるのみ。
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写真を撮っている方が…入ってOKなんだ!
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と言うわけで、見学開始。
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イチオシ
良く見る写真!!酒田市商工観光部HPからです【米どころ庄内のシンボル、山居倉庫は明治26年旧藩主酒井家によって建てられた米保管倉庫です。米の積出港として賑わった酒田の歴史を今に伝え、NHK朝の連続テレビ小説「おしん」のロケーション舞台にもなりました。白壁、土蔵づくり9棟からなる倉庫の米の収容能力は10,800トン(18万俵)。夏の高温防止のために背後に欅並木を配し、内部の湿気防止には二重屋根にするなど、自然を利用した先人の知恵が生かされた低温倉庫として、現在も農業倉庫として使用されています。敷地内には酒田市観光物産館「酒田夢の倶楽」、庄内米歴史資料館が併設されています。】
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盛岡市から来たというKさん夫妻?恋人同士?「ネットに載せちゃいますよ!」OKでした。
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「小鵜飼船」説明文からです。【小鵜飼船(こうがいぶね)は最上川舟運において物資の輸送をするために作られた船です。慶長6(1601)年に山形藩主となった最上義光は、難所の開削や河岸の設置によって最上川舟運の整備を図りました。最上川本流に就航する250俵積み四人乗りの「掃船(ひらたぶね)」に対し、この小鵜飼船は支流や船着場間の近距離輸送に使われ、積載量は五〇俵程度でした。最上川の上流松川(現在の米沢市の流域)に小鵜飼船が登場した時代は元禄年間といわれています。長さは約13〜15m、幅は約2mで、前方に帆をかけて風を利用し、舳先がとがった流線型をしているためスピードもあり、川幅の狭い支流では重宝がられました。上り船では、塩、砂糖、海産物、木綿、茶など、下り船では米、紅花、青苧(*あおそ)、大豆などが運ばれました。上りには2週間程度、下りは4〜5日かかったと伝えられています。この舟は、最上川・川舟保存会の熱意により製作(舟大工 大石田町木村成雄氏)され、往年の舟運で活躍して当時をしのび、この地に展示したものです。参考文献 「最上川舟運と山形文化」横山昭男氏】*青苧(あおそ・からむし)は「http://4travel.jp/traveler/hatago/album/10027862/」参照
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山居橋、新井田川にかかるクラシック調、歩道専門橋
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山居倉庫内「三居稲荷神社」
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本殿内部より
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山居倉庫Map
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おくり人撮影地「旧割烹小幡」案内板は日和山公園の東側です。
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「おくりびと」Yahoo映画案内からです。【楽団の解散でチェロ奏者の夢をあきらめ、故郷の山形に帰ってきた小林大悟(本木雅弘)は好条件の求人広告を見つける。面接に向かう…
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こんな映画のシーン見覚えあるでしょうか。広告内容が『年齢間わず、高給保証! 実質労働時間わずか。 旅のお手伝い。 NKエージェント!!』を見て小林大悟(本木雅弘)はここを訪ねてきました。
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「NKエージェンシー」納棺代理店・代理行でした。
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ここがNKエージェンシー撮影地です。
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「旧割烹小幡」
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事務所の再現。映画では、スタジオ撮りだったようです。
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事務所右側
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「何をする会社ですか?」印刷ミスです「旅(立ち)のお手伝い」の会社ですと“立ち”を記入した部分が残っていました。
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事務所の棺
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事務所
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社長がふぐの白子を食べるセットがそのまま・・・
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社長がふぐの白子を食べる部屋、スタッフがセット中
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説明版からです。【この雛人形の部屋はキスマークで送り出された、おじいちゃんのシーンの再現です。実際の撮影現場はここから直ぐ近くの米穀店さんにて行われました。華やかに、そして楽しく笑って皆から送りだされる、おじいちゃん。おくりびとの中に数ある名シーンの一つです。】
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入館受付の奥の部屋。「鶴乃湯のお母さん(吉行和子さん)の納棺のシーン」を撮影しました。
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実際の映画シーンを放映していました。
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「映画シーン」後ろのガラス戸が同じでしょ。
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今にも壊れそうな旧割烹小幡
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「旧割烹小幡」の西側は「日和山公園」です。公園から「旧割烹小幡」の南側の部屋が見えました。
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「常夜灯」お札書きより【文化10年(1813)建立。酒田港に出入リした船頭衆と回船問屋の寄進により、灯台として日和山の高台に建てられた。】
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日本最古級の洋風木造灯台の「六角灯台」。酒田市HPより【六角灯台は、1895年(明治28年)、現在の酒田市宮野浦の最上川河口左岸に、酒田出身の大工棟梁・佐藤泰太郎(1861〜1931)によって建てられました。佐藤は山王くらぶ、相馬屋(現:相馬樓)などの料亭をはじめ数多くの著名な建物を手がけたことでも知られています。1923年に大浜に移転。老朽化により高砂に2代目が建てられた折り、市民の要望により、1958年に日和山公園内に移築されました。酒田市指定文化財。】
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日和山公園には多くの銅像・石碑があります。数枚ご紹介します。「松尾芭蕉」説明版からです。【『暑き日を海に入れたり最上川 芭蕉』昭和54年酒田ロータリークラブが建立。元禄二年(1689)奥の細道の途次、酒田滞在中によまれた句。書は素竜本からとって刻まれた。】
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「河村瑞賢翁」説明版からです【河村瑞賢翁は元和4年(1618)伊勢に生まれ、すぐれた独創力と行動によって江戸屈指の豪商となった。寛文12年81672)幕府の命により、出羽の幕府米を酒田港から江戸に回漕する西回り航路を開発し、わが国の米穀・紅花などの流通と海運の向上に大きく貢献した。これにより酒田港の名声は全国に高まり、日本海有数の良港として、繁栄する基礎が築かれたのである。】
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河村瑞賢が開発した西廻り航路を往復した北前船(千石船)縮尺1/2が復元されていた。酒田には「鐙屋」「本間家」という豪商があり、この後見学しました。
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「野□雨情記念碑」【野□雨情 大正15年(1926)8月 酒田の荒木京之助 川柳集出版記念音楽会に中山晋平、〈佐藤千夜子と共に来酒の折荒木氏に贈ったものである。】
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「旧白崎医院」酒田市HPからです。【旧白崎医院は大正8年(1919)に造られた外科専門の病院建築です。木造2階建て、寄棟、瓦葺で外壁は下見板張りで縦長の上げ下げ窓を採用して、窓回りの額縁も洋風の要素を取り入れています。特に玄関回りの意匠に力を入れており、洋風に彫り込まれた彫刻や金属製の方立て、玄関扉上の欄間などが印象に残ります。建物内部も当時の外科病院の病室がほぼそのままの姿で残っていて興味深いものでした。旧白崎医院は昭和55年(1980)に、酒田大火後の復興政策の一環として日和山公園の一角に移築保存される事となり酒田市に残る数少ない洋風建築として酒田市指定有形文化財に指定されています。】
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「海向寺」日本に現存するミイラ(即身仏)の内、2体があり、見学可能です。羽黒山、湯殿山でもミイラは見られなかったです。いつ来れるか分からない、本日見るしかない。嫌がる神さんを連れて見学開始。
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Wikipediaでは【僧侶が土中の穴などに入って瞑想状態のまま絶命し、ミイラ化した物を「即身仏」(そくしんぶつ)と呼ぶ】となっています。縦穴に生き埋め状態木の実等をほそぼそと食べ、自分から餓死します。日本で最後のミイラは村上市にあると見ました。「http://4travel.jp/traveler/hatago/album/10486052/」参照。現在即身仏は法律で禁止されているそうです。自殺幇助にもなります。皆さん止めましょう!
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「即仏堂」この建物に2体の即身仏が祀られています。
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見学開始。事務員さんが分かりやすく説明。後からご夫婦が見学に来たため又、初めから説明を聞きました。ここのお寺では、3人の住職が即身仏になっています。2人はここに居ますが1人は湯殿山と…聞いたような?
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展示物
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即身仏になったときに着ていた服
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円明海上人が“土中入定”した場所がお寺の一角にありました。ここに穴を掘り埋められ、断食をしながら即身仏になります。
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円明海上人が“土中入定”した場所。即身仏になる方法を詳しく書いてくれたオンラインマガジンがありました。「http://www.hakubutu.jp/?p=1758」
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お寺の山門のみ、奥は山(藪)、どこからか移築かな?説明版を読んで納得。【「随神門」神社の尊厳を境内の警護を願い太い玉命戸屋根命の神像を安置するものこの門をくくり参道が曲折しておるのは、俗界と聖境を区分し参拝者の精神統一を計ったのもである。天明7年本間光丘建立明治27年酒田大地震にて全壊…略…明治35年本間光輝が再建…略…鳴き天井は名工の秘術とされ、反響の大小により神意をうかがったとも云う】拍手の反響は“大”であった!日枝神社の山門でした。
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「海向寺」西側、「日枝神社」です。山門と離れており日枝神社とは別々と思ってしまいます。
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木鼻
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蟇 股
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我が会社の盛岡出身のおじさんは「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と時々口にします。その本間家が建設しました。「光丘文庫」酒田市立図書館よりコピーです【宝暦(ほうれき)8年(1758年)本間家三代目の当主光丘(みつおか)は、修学のために文庫を兼ねた寺院の建立を江戸幕府に願い出ましたが、新寺停止の政策により、果たし得ませんでした。光丘(みつおか)の遺志を継ぎ、八代目当主光弥(みつや)は、先祖伝来の蔵書2万冊と建設費、及び維持基金として10万円を寄贈して大正14年(1925年)に財団法人「光丘(ひかりがおか)文庫」を設立し、同年9月に銅板ぶき、鉄筋コンクリートブロック造り2階建の光丘(ひかりがおか)文庫が竣工しました。】
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「本間家旧本邸」
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説明版からです。【山形県指定有形文化財 本間家旧本邸 本間家三代光丘が明和5年(1768)に省内藩主酒井家のために寮府の巡見使宿舎として建造し、献上した建物である。旗本二千石の格式を有する長屋門構えの武家屋敷で、その奥が商家造りとなっている。その後拝領し、本邸として使用、戦後には公民館としても利用されていた。武家屋敷と商家造りが一体となっているのは極めて珍しい。県文化財に指定されている。 酒田市 (社)酒田観光物産協会】
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「鐙(あぶみ)屋」【鐙屋を訪れた客人をもてなす台所の様子が、西鶴の「日本永代蔵」に描写されている。米味噌出入の役人焼木の請取肴奉行料理人椀家具の部屋を預り菓子の捌き莨*(たばこ)の役と細かに仕事が分担されていたという。】*は不明、詠み方はたばこです。
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説明するお姉さん。酒田市HPからです。【鐙屋は、酒田を代表する廻船問屋で、江戸時代を通じて繁栄し、日本海海運に大きな役割を果たした姿を今に伝えております。】鐙(あぶみ)とは馬に乗り足を掛ける部分の事です。名前の由来は【戦国時代の末に、最上義光が庄内を治めて豪商池田惣左衛門に「鐙屋」の屋号を与えました。】菊勇株式会社のHPからです。「http://www.36nin.jp/explanation.html」
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井原西鶴の「日本永代蔵」Wikipediaからです。【『日本永代蔵』(にっぽんえいたいぐら)は、井原西鶴作の浮世草子で、町人物の代表作の一つ。 貞享5年(1688年)に刊行され、各巻5章、6巻30章の短編からなる。副題として「大福新長者教」。金持ちはいかにして金持ちになったか、町民の生活の心得を飾らずに描いた内容になっている。軽妙な文体は、後の太宰治の文体に影響を与えたといわれる。】
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拡大。見た事ありませんか。
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台所
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「酒田町奉行所跡」説明版からです。 【酒田は日本海有数の湊町として栄え、酒田三十六人衆を中心とした自治都市が形成されていました。 元和8年(1622)、酒井家が庄内に入部し、酒田町代官(のち酒田町奉行に改称)が置かれました。 酒田町奉行所は、町奉行が執務および居住したところで、東側には庄内藩の米蔵(いろは蔵)等がありました。・・・略・・・酒田町奉行は亀ヶ崎城代の下で、酒田町の治安や町政を担当し、その配下には同心や町年寄役、大庄屋、三十六大衆、肝煎、長人などが置かれていましたが、明治2年(1869)3月酒田民政局によって廃止されました。酒田市 教育委員会】
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「酒田町奉行所跡」1/20模型。酒田市でも慌しく過ぎ去ったしんちゃんでした。お昼は「さかた海鮮市場」にて新鮮な刺身をお腹一杯食べました。次なる目標は山形「紅花」についての研究です。_次回に続く
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