2011/09/11 - 2011/09/11
17位(同エリア1089件中)
横浜臨海公園さん
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明治初期まで宿場町を形成していた興津(おきつ)は明治22年(1887年)まで興津郷と称したが、即ち、興津と云ふ地名は、別途、奥津、沖津、息津とも称したが、何れの読みも「おきつ」である。
該地は静岡県駿河國に属し、東に、さった峠(さったとうげ)を控え古くから通行難所として知られた存在だった。
天武帝(てんむ てんのう)(舒明3年(631年)〜天武朱鳥元年(686年)10月1日)在位中、天武8年(679年)に蝦夷襲来防御の為に、大和國龍田山、山背國大坂山、及び、駿河国清見崎に関所を設置し同時に関所鎮護の為に創建されたのが現在の清見寺である。
大宝元年(701年)には大宝令が制定され、諸街道整備と共に驛令制度施行に拠り興津にも驛家(うまや)が設置された。
和銅元年(708年)に、都から毛野國國司として赴任途上の田口朝臣益人(たぐちのあそん ますびと)(齋明4年(658年)〜孝謙6年(723年)なる人物が存在した。
此の当時、毛野國と云えば坂東の蛮地で國司赴任先では最下位扱いであり、50才にして國司に任ぜられた際は気分も重くのしかかり、赴任に気分が進まぬ憂鬱な状態で清見関まで差し掛かった処、駿河湾を通し富士山や三保を観て風景に感激したのであろう、
葦原の 清見の崎の 三保浦の 寛けき見つつ もの念もなし
と残し、此の風景を観て心中のモヤモヤが解消され、改めて國司としての使命と義務感を認識したに相違無い(萬葉集第3巻296)。
興津中町には身延道標が現存するが、戦国期には甲斐武田家が駿河併合を目論み、進攻の為に武田家家臣筋者を興津付近に多数移住させ、水口屋先祖望月家も興津砦主出身である。
永禄11年(1568年)12月12日に薩多峠の戦いで、今川氏真(いまがわ うじまさ(天文7年(1538年〜慶長19年(1615年)12月28日)は部下の裏切りも遭って武田信玄に敗退し小田原に落ち延び北條氏政(ほうじょう うじまさ)(天文7年(1538年〜天正18年(1590年)8月10日)を頼り、翌年、氏政は出陣布陣した事から武田軍と約2ヶ月余に亘り興津川を挟み相対峙したが勝敗がつかず、その後、武田家滅亡後、望月家は甲斐國への塩、及び、海産物を送荷する商人となった。
関ヶ原の合戦で勝利を得た徳川家康(とくがわ いえやす)(天文11年(1543年)1月31日〜元和2年(1616年)5月22日)は、慶長6年(1601年)2月に全国の諸街道整備に着手し、伝馬制度導入と共に興津傳馬所が開設され此れが興津宿の嚆矢となる。
諸大名は参勤交代の都度、宿場在寺宿泊を余儀無くされたが、幕府は寛永12年(1635年)1月に諸街道各宿場に本陣設置を決定し、興津宿では市川家が本陣と定められた。
該宿場は、中宿、及び、本宿の2ヶ所で構成されたが、宿は本宿地区中心で中宿地区には数軒しか存在しないのが特徴とされた。
興津本町では、幕末まで本陣2軒、脇本陣2軒の存在に変更が生じなかったが、
享保元年(1716年)旅篭24軒
享和2年(1802年)旅篭24軒
文政3年(1820年)旅篭39軒
天保14年(1843年)旅篭34軒
と軒数に推移が見られる。
駿府静岡は城代が常駐している為に、主従上下関係が厳しい当時としては窮屈な存在であり、故に、諸大名などは駿府泊を忌避し、興津、若しくは、江尻に宿を求めるを常としていた。
江戸期の興津は膏薬販売でも知名度が存在だったが、但し、該販売は表向きであり、実態は驚愕すべき実態だった。
膏薬販売の起源は今川氏真家臣が今川家滅亡後、流転を反復させた後、清見に流れ着き、付近の松脂を収集し練合せた物を販売しながら糊口をしのいでいたが、店では美男童子を店頭に並べ客引きをしていた。
安政2年(1855年)10月2日に発生した安政大震災は、震源地が江戸直下だった事から死者数に於いて江戸期最大だったが、他方、第16番宿由比、第17番宿興津間には、冒頭に記述した様に、薩曙博Rが駿河湾に落込む地形で薩曙箔サが介在し、承應3年(1654年)5月に上道、天和2年(1682年)に中道が竣工以前は途中区間に下道と称する海辺道しか存在せず、天候良好な干潮時にのみ通行可能だったが、該震災で該付近が2m弱隆起した為に、以後は常時通行可能となっが、若し、此の震災で該付近の隆起発生無くば、34年後に此の地に於ける鉄道通過は当時は長大隧道建設困難な事情から鉄道建設自体が不可能と判断され、政府は当初案の中山道線建設を余儀無くされたものと推定される。
大政奉還後、興津は官軍側支配地となり、代々天領地だったものが慶應4年(1868年)7月6日附で静岡徳川藩領に編入された。
幕末以降、参勤交代が廃止された事から、明治3年(1870年)10月に本陣、及び、脇本陣が廃止になる。
明治維新以降は、明治4年(1871年)12月に大政官令に依り傳馬制度、及び、助郷制度が廃止され、大名の存在が消滅し当然ながら参勤交代制度も無くなった事から各街道筋宿場では危機感を抱いた所も少なからず存在したが、興津宿では伊勢参拝客を伊勢講詣と称し同盟組織として一新講社を設立して対応させたが、その為に、明治期以降に新たに此れらの者を宿泊させる木賃宿が創業している。
明治政府は、日清間の将来に於ける開戦を想定し横濱以西の鉄道建設を決定し、國府津-静岡間は明治22年(1889年)2月1日に開通し、同時に興津駅が開業したが、開業当初は現在地より東に約160mの現在の宗像神社付近横に設置された。
鉄道開通以降は風光明媚にして気候温暖な事から避寒地として熱海と共に脚光を浴び皇族や政府高官に好まれる事となった。
殊に、後の大正天皇(たいしょう てんのう)となる皇太子嘉仁親王(明治12年(1879年)8月31日〜大正15年(1926年)12月25日)は、鉄道開通直後の同年7月20日に興津を訪れ清見寺に3週間滞在中に清見潟に於いて海水浴を楽しまれた事から、興津清見潟は海水浴適格地として一躍知られた存在となり、海水浴客が大挙して押掛けた事から、静岡県は隣接する袖師や三保の開発を促進させ、此れを受け鐵道省は海水浴客輸送の為に、大正15年(1926年)7月3日に東海道本線興津-江尻(現 清水)間に袖師仮停車場を設置するに至った。
然し、興津の名を我が国国民に知らしめたのは、西園寺公望(さいおんじ きんもち)公(嘉永2年(1849年)7月3日〜昭和15年(1940年)11月24日)が興津清見寺に別邸を建築し薨去するまで在住した事である。
西園寺公は明治維新以降、記録に残るだけで度々興津を訪れ魅力を得たに相違無い。
当初は沼津御用邸至近地たる沼津千本松付近を検討地としたが、富士山から吹付ける西強冷風の存在に難色を生じ、結局興津に落着いた。
大正8年(1919年)9月21日竣工の坐漁荘(ざぎょそう)は、西園寺公が老後の静養を主目的として別荘で、当初は避寒期のみの滞在だったが、関東大震災で東京駿河台の本宅が全壊した為に、此れ以降は興津に定住した。
江戸期から明治期にかけて、木造建築主流の我が国に於いて火災は避けられない災難の1つであった。
興津宿では、記録に残るだけで、
延宝8年(1680年)10月」24日
中宿火災
天和元年(1681年)12月7日
興津宿大火
明治12年(1879年)12月2日
興津本町火災
明治13年(1880年)12月23日
興津中宿火災
が発生し、此の為に江戸期中期以前に於ける当時の資料は散逸し現存しない。
表紙写真は 興津本宿
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 5.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 徒歩
-
駿河湾
興津川河口(おきつがわ かこう)
天候が良いと駿河湾が一望可能。
静岡市清水区興津東町1234
東海道本線興津駅 しずおかシャトルライン興津団地前停留所降車 徒歩5分興津駅 駅
-
旧東海道
さった峠(さったとうげ)
旧東海道に於いて江戸期以前は、東の箱根、西の大井川と共に知られた交通難所地。
遠望の隧道は東海道本線洞隧道(ほら ずいどう)。
東海道本線該区間開通は明治22年(1889年)2月1日。
蒲原-興津間複線化は明治31年(1898年)7月15日。
静岡市清水区興津東町1210−8
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津団地前停留所降車 徒歩5分 -
旧東海道
興津川(おきつがわ)
興津川は短距離河川なれど、流れは上流ダム完成に拠り水量は少量だが、明治期以前はダム無き為に水量多く、江戸期は冬期渇水期に限定して仮橋を架橋。
仮橋無き時期の川越は川越人足に拠る。
左岸 内洞60名
右岸 興津宿100名
を設置した。
興津川への正式架橋は明治8年(1875年)12月26日。
浦安橋命名者は、初代静岡県令 大迫貞清(おおさこ さだきよ)(文政8年(1825年)5月7日〜明治29年(1896年)4月21日)。
写真は 国道1号線浦安橋
静岡市清水区興津東町1210−8
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津団地前停留所降車 徒歩5分 -
宗像神社(むなかた じんじゃ)
壱之鳥居
昭和8年(1933年)10月建立?
静岡市清水区興津中町554
?: 054−369−0649
東海道本線興津駅 しずおかジャストライン県営興津団地前停留所降車 徒歩1分 -
宗像神社
弐之鳥居
全景
手前の護岸は元防波堤。
旧防波堤外は駿河湾岸。
埋立が進行し海辺は遠路。
静岡市清水区興津中町554
?: 054−369−0649
東海道本線興津駅 しずおかジャストライン県営興津団地前停留所降車 徒歩1分 -
宗像神社
弐之鳥居
手前は静岡市立清水興津小学校敷地
興津小学校敷地も元宗像神社神領。
宗像神社は九州筑前國宗像神社末社の1つで、明治期以前は黒松巨木群をして、駿河湾を挟み旅人や漁民が興津の目印とした。
静岡市清水区興津中町554
?: 054−369−0649
東海道本線興津駅 しずおかジャストライン県営興津団地前停留所降車 徒歩1分 -
宗像神社
弐之鳥居
小学生児童と黒松巨木群。
静岡市清水区興津中町554
?: 054−369−0649
東海道本線興津駅 しずおかジャストライン県営興津団地前停留所降車 徒歩1分 -
宗像神社
社号標
石柱
中途より新製されているのは駿河沖地震(するがおき じしん)(平成21年(2009年)8月11日)の地震動で倒壊損傷し建立当時の原文を使用、破壊部分を再生した為。
静岡市清水区興津中町554
?: 054−369−0649
東海道本線興津駅 しずおかジャストライン県営興津団地前停留所降車 徒歩1分 -
宗像神社
元弐之鳥居
横浜臨海公園は、該鳥居は駿河沖地震で倒壊損壊したものと推定したが、実は、愚か者トラック運転手が積載クレーン降下を失念し上昇状態で鳥居下を通過破壊させた事を知り呆れる。
静岡市清水区興津中町554
?: 054−369−0649
東海道本線興津駅 徒歩7分 -
宗像神社
狛犬(左)
静岡市清水区興津中町554
?: 054−369−0649
東海道本線興津駅 しずおかジャストライン県営興津団地前停留所降車 徒歩1分 -
宗像神社
狛犬(右)
静岡市清水区興津中町554
?: 054−369−0649
東海道本線興津駅 しずおかジャストライン県営興津団地前停留所降車 徒歩1分 -
宗像神社
狛犬(右裏)
静岡市清水区興津中町554
?: 054−369−0649
東海道本線興津駅 しずおかジャストライン県営興津団地前停留所降車 徒歩1分 -
宗像神社
本殿
宗像神社は海上航海の守護神。
祭神は、
奥津島比売命
狭依姫命
多岐津比売命
である。
創建年代は明治13年(1890年)の興津中宿大火で資料焼失に依り不詳だが平安中期に創建していた事は確実。
以前は東海道沿いに社域が存在するも度重なる津波被害に拠り現位置に遷座。
静岡市清水区興津中町554
?: 054−369−0649
東海道本線興津駅 しずおかジャストライン県営興津団地前停留所降車 徒歩1分 -
宗像神社
本殿
扁額
田中光顕 書
田中光顕(たなか みつあき)(天保14年(1843年)11月16日〜昭和14年(1939年)3月28日)は、土佐藩出身の人物。
幕末に土佐勤皇党に属し、武市瑞山(たけち ずいざん)(文政12年(1829年)10月24日〜慶應元年(1865年)7月3日)、中岡慎太郎(なかおか しんたろう)(天保9年(1838年)5月6日〜慶應3年(1867年)12月12日)、及び、坂本龍馬(さかもと りょうま)(天保6年(1836年)1月3日〜慶應3年(1867年)12月10日)などと行動を共にした為に勤皇党所属と云う事で知名度が有るが他の者ほど人物は大物では無く、一時土佐藩から謹慎処分を受ける。
戊辰戦争勃発直前に赦免され奮戦し、明治維新以降は岩倉欧米視察団に随行し帰国後は主に宮内省で活躍した。
但し、田中は上士族階級出身でありながら常に収賄疑惑が拭えず、更に、生真面目一方で同郷出身の谷 干城(たに たてき)(天保8年(1837年)2月12日〜明治44年(1911年)5月13日)とは全くソリが合わなかった。
大正7年(1918年)より蒲原町に在住し別邸宝珠荘を建築移住したが、水源地問題で地元民とトラブルを起し再移住を余儀なくされる。
何故、此のかくの如き程度の人物に地元神社の扁額書を依頼したのか理解に苦しむ。
静岡市清水区興津中町554
?: 054−369−0649
東海道本線興津駅 しずおかジャストライン県営興津団地前停留所降車 徒歩1分 -
旧東海道
緋寒櫻(ひかんざくら)苗木
明治45年(1912年)2月に東京市長 尾崎行雄は米ワシントン市に桜樹贈呈が決定し早速贈呈したが輸送途中病虫害発生の為に全部焼却処分となった事から、現地風土に合った品種を贈る事を切望し、農商務省農事試験場園芸部園芸試験場に対し品種改良を要請してきた。
該試験場では、緋寒櫻を選定し品種改良した結果、良品と認められる苗木を選定し贈与する事となった。
現在、米ワシントン・ポトマック河畔に咲く桜樹原木は興津で育てられた苗木が利用され、記念植樹された。
静岡市清水区興津中町1−1
東海道本線興津駅 しずおかジャストライン県営興津団地前停留所降車 徒歩1分 -
身延道道標(みのぶどう どうひょう)
全景
右から
髭題目 承応3年(1654年)建立
常夜燈
道標 元禄6年(1693年)10月建立
静岡市清水区興津中町273
東海道本線興津駅 徒歩4分 -
身延道道標
身延山道碑
碑本体下部は悪ガキ達に削られ、経年変化と共に全体が風化し欠損が観られる。
早急なる保存対策が必要。
静岡市清水区興津中町273
東海道本線興津駅 徒歩4分 -
身延道道標
起点全景
一説に身延道は鎌倉期に現ルート開設。
静岡市清水区興津中町273
東海道本線興津駅 徒歩4分 -
身延道
東海道本線第一興津踏切
蒲原-興津間
静岡市清水区興津中町359
東海道本線興津駅 徒歩4分 -
元興津駅
元興津駅所在地
東海道本線國府津-静岡間開通(明治22年(1889年)2月1日)と同時開業。
開業当時は新橋方現位置に存在したが明治35年(1902年)11月1日に現在地移転。
静岡市清水区興津中町356
東海道本線興津駅 徒歩4分 -
興津(おきつ)駅
駅本屋
東海道本線國府津-静岡間開通(明治22年(1889年)2月1日)と同時開業。
但し、開業当時は新橋方160m地点に存在したが明治35年(1902年)11月1日に現在地移転。
現駅本屋は4代目 昭和56年(1981年)10月26日竣工。
http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/okitsu/index.html興津駅 駅
-
旧東海道
興津中町
従来の東海道は狭隘だったが、戦時体制強化輸送の必要性から、昭和11年(1936年)から昭和14年(1939年)にかけ拡張され、更に、昭和32年(1957年)再拡張。
静岡市清水区興津中町38
東海道本線興津駅 徒歩4分 -
旧東海道
興津中宿
高山仙吉商店(たかやま せんきち しょうてん)
米売買商に関する当時の資料類が展示。
静岡市清水区興津中町150
?: 054−369−1194
東海道本線興津駅 徒歩3分 -
旧東海道
興津中宿
たい焼き伏見(たいやき ふしみ)
毎年10月1日〜翌年5月31日限定営業
静岡市清水区興津中町198
?: 054−369−1343
10:30〜売切れ迄
不定休
東海道本線興津駅 徒歩3分 -
旧東海道
興津中宿
澤端川橋梁(さわはしがわ きょうりょう)
昭和初期まで澤端川は該橋付近で屈曲していた事が原因で度々氾濫を発生させていた為に護岸改修と共に河川付替を実施。
興津町内の国道拡張工事は翌昭和14年(1939年)3月26日竣工。
西園寺公棺が当時新橋だった該橋上を通過。
静岡市清水区興津中町178
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩10秒 -
旧東海道
興津中宿
澤端川橋梁
昭和13年(1938年)11月竣工
静岡市清水区興津中町178
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩10秒 -
旧東海道
興津中宿
大澤製麺所(おおさわ せいめんじょ)
店舗全景
昭和8年(1933年)建築。
静岡市清水区興津中町186
?: 054−369−0943
8:00〜18:00
日祭日定休日
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩15秒 -
旧東海道
興津中宿
大澤製麺所
住居全景
大正11年(1922年)建築。
静岡市清水区興津中町186
?: 054−369−0943
8:00〜18:00
日祭日定休日
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩15秒 -
旧東海道
興津中宿
大澤製麺所
住居
装飾硝子
大正11年(1922年)建築。
静岡市清水区興津中町186
?: 054−369−0943
8:00〜18:00
日祭日定休日
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩15秒 -
旧東海道
興津中宿
大澤製麺所
住居
装飾硝子
大正11年(1922年)建築。
静岡市清水区興津中町186
?: 054−369−0943
8:00〜18:00
日祭日定休日
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩15秒 -
旧東海道
興津中宿
大澤製麺所
店舗全景と澤端川橋
静岡市清水区興津中町186
?: 054−369−0943
8:00〜18:00
日祭日定休日
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩15秒 -
旧東海道
興津中宿
小阪畳店(こさか たたみてん)
静岡市清水区興津中町180−6
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩30秒 -
旧東海道
興津本宿
写真左手桐林肉店より奥が興津本宿(現 興津本町)。
嘉永4年(1851年)7月作成の宗門帳等々活用に拠り興津本宿に於ける当時の状況を復元。
静岡市清水区興津本町1
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩1分 -
旧東海道
興津本宿
桐林政夫 邸〔桐林精肉店(きりばやし せいにくてん)〕
嘉永4年(1851年)7月
当主 長助(民家)
明治元年(1868年)12月
当主 長七
明治5年(1872年)
当主 田中長七
平成3年(1991年)
戸主 桐林政夫
静岡市清水区興津本町1
?: 054−369−1002
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩30秒 -
旧東海道
興津本宿
星 英喜 邸
嘉永4年(1851年)7月
当主 権二郎(農業)
明治元年(1868年)12月
空地
明治5年(1872年)
当主 沖村金次郎(士族)/小管八十一(士族)
平成3年(1991年)
戸主 高山昌義
静岡市清水区興津本町2
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩30秒 -
旧東海道
興津本宿
田中 明 邸〔横浜屋クリーニング店(よこはま くりーにんぐてん)〕
嘉永4年(1851年)7月
当主 喜助(農業)
明治元年(1868年)12月
空地
明治5年(1872年)
当主 杉山とり
平成3年(1991年)
戸主 田中 昇
静岡市清水区興津本町3
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩45秒 -
旧東海道
興津本宿
小田恵仁 邸〔割烹旅館 岡屋(かっぽう りょかん おかや)〕
嘉永4年(1851年)7月
当主 権二郎(漁業)
明治元年(1868年)12月
当主 権二郎
明治5年(1872年)
当主 菅谷吉蔵
平成3年(1991年)
戸主 小田恵仁
静岡市清水区興津本町4
?: 054−369−0018
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩1分
http://www.okaya18.com -
旧東海道
興津本宿
小田恵仁 邸〔割烹旅館 岡屋(かっぽう りょかん おかや)〕
嘉永4年(1851年)7月
当主 善蔵
明治元年(1868年)12月
木屋善蔵(玩具製造販売業)
明治5年(1872年)
当主 田邊半平
平成3年(1991年)
戸主 小田恵仁
静岡市清水区興津本町5
?: 054−369−0018
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩1分
http://www.okaya18.com -
旧東海道
興津本宿
小田恵仁 邸〔割烹旅館 岡屋(かっぽう りょかん おかや)〕
嘉永4年(1851年)7月
当主 弥左衛門
明治元年(1868年)12月
旅篭 岡屋弥左衛門
明治5年(1872年)
当主 小田長三郎
平成3年(1991年)
戸主 小田恵仁
岡屋旅館は明治5年(1872年)創業の割烹旅館。
静岡市清水区興津本町6
?: 054−369−0018
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩1分
http://www.okaya18.com -
旧東海道
興津本宿
田中辰男 邸
嘉永4年(1851年)7月
当主 平五郎
明治元年(1868年)12月
当主 畳屋喜助
明治5年(1872年)
当主 田中嘉七
平成3年(1991年)
戸主 田中辰男
静岡市清水区興津本町7
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩1分 -
旧東海道
興津本宿
伏見ひで子 邸〔海山堂本店(かいざんどう ほんてん)〕(駄菓子店)
嘉永4年(1851年)7月
当主 傳七
明治元年(1868年)12月
当主 粉屋兵蔵(菓子製造販売)
明治5年(1872年)
当主 伏見弥八
平成3年(1991年)
戸主 伏見良雄
粉屋は明治5年(1872年)創業の木賃宿だったが途中転業。
静岡市清水区興津本町8
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩1分 -
旧東海道
興津本宿
望月光一 邸
嘉永4年(1851年)7月
当主 市右衛門
明治元年(1868年)12月
丸屋(畳刺)
明治5年(1872年)
当主 望月市五郎
平成3年(1991年)
戸主 望月光一
静岡市清水区興津本町9
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩1分 -
旧東海道
興津本宿
駐車場
嘉永4年(1851年)7月
当主 平右衛門
明治元年(1868年)12月
当主 銭屋平右衛門
明治5年(1872年)
当主 菅沼耕岨
平成3年(1991年)
戸主 菅沼 淳
平成17年(2005年)
駐車場
静岡市清水区興津本町10
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩1分 -
旧東海道
興津本宿
田辺龍雄 邸
嘉永4年(1851年)7月
当主 長九郎
明治元年(1868年)12月
当主 田中屋十右衛門
明治5年(1872年)
当主 望月林蔵
平成3年(1991年)
戸主 田辺龍雄
静岡市清水区興津本町11
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩1分 -
旧東海道
興津本宿
望月康文 邸
嘉永4年(1851年)7月
当主 直吉
明治元年(1868年)12月
蒲原屋 いそ
明治5年(1872年)
当主 望月平吉
平成3年(1991年)
戸主 望月康夫
静岡市清水区興津本町12
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩1分 -
旧東海道
興津本宿
手塚 巌 邸
嘉永4年(1851年)7月
当主 十郎右衛門
明治元年(1868年)12月
賀登屋和七
明治5年(1872年)
当主 手塚亦次郎
平成3年(1991年)
戸主 手塚 巌
静岡市清水区興津本町13
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩1分 -
旧東海道
興津本宿
嘉永4年(1851年)7月
当主 定吉
明治元年(1868年)12月
吉村屋定吉
明治5年(1872年)
当主 手塚重三郎
平成3年(1991年)
戸主 手塚睦男
平成17年(2005年)
駐車場
静岡市清水区興津本町14
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩2分 -
旧東海道
興津本宿
山田直広 邸
嘉永4年(1851年)7月
当主 小平次
明治元年(1868年)12月
山田屋平右衛門(旅篭)
明治5年(1872年)
当主 山田小平太
平成3年(1991年)
戸主 山田直広
山田屋は江戸期から継続する宿屋だったが途中転業。
静岡市清水区興津本町15
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩2分興津駅 駅
-
旧東海道
興津本宿
LAID BACK(ダイビング・ショップ)
嘉永4年(1851年)
当主 由右衛門
明治元年(1868年)12月
空地
明治5年(1872年)12月
長崎由太(髪結)
平成3年(1991年)
戸主 近藤英二〔片山酒店(かたやま さけてん)〕
静岡市清水区興津本町16
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩2分興津駅 駅
-
旧東海道
興津本宿
山梨一男 邸〔魚幸本店(うおこう ほんてん)〕
嘉永4年(1851年)7月
当主 元兵衛
明治元年(1868年)12月
松川屋元平(旅篭)
明治5年(1872年)
当主 小田切紋次郎
平成3年(1991年)
戸主 山梨 宏
平成17年(2005年)
戸主 山梨一男
松川屋は江戸期から継続する木賃宿だったが明治期に転業。
静岡市清水区興津本町17
?: 054−369−0403
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩2分 -
旧東海道
興津本宿
青木ひとみ 邸
嘉永4年(1851年)7月
当主 仁左衛門
明治元年(1868年)12月
横田屋仁平次(砂糖・乾物販売)
明治5年(1872年)
当主 青木庄五郎
平成3年(1991年)
戸主 青木菊次
静岡市清水区興津本町18
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩2分 -
旧東海道
興津本宿
空地
嘉永4年(1851年)7月
作兵衛
明治元年(1868年)12月
池野屋作市
明治5年(1872年)
当主 池野治平
平成3年(1991年)
戸主 西前敏子
静岡市清水区興津本町19
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩2分 -
旧東海道
興津本宿
杉山陽一 邸
嘉永4年(1851年)7月
当主 重左衛門
明治元年(1868年)12月
小丸屋重左衛門
明治5年(1872年)
当主 海野重次郎
平成3年(1991年)
戸主 米澤美奈子
静岡市清水区興津本町20
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩2分 -
旧東海道
興津本宿
朝倉 繁 邸
嘉永4年(1851年)7月
当主 長五郎(大工職)
明治元年(1868年)12月
当主 万平
明治5年(1872年)
当主 宮城惣十郎
平成3年(1991年)
戸主 朝倉 繁
静岡市清水区興津本町21
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩2分 -
旧東海道
興津本宿
百瀬敏雄 邸〔IPS販社MOMO〕
嘉永4年(1851年)7月
当主 武八
明治元年(1868年)12月
亀島屋林助(旅篭)
明治5年(1872年)
当主 百瀬林三郎
平成3年(1991年)
戸主 百瀬雅一
亀島屋は江戸期から継続する宿屋だったが途中転業。
静岡市清水区興津本町22
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩2分 -
旧東海道
興津本宿
大石文三 邸
嘉永4年(1851年)7月
当主 多八郎
明治元年(1868年)12月
ます屋 長尾布山
明治5年(1872年)
当主 長尾布山
平成3年(1991年)
戸主 大石文三
静岡市清水区興津本町23
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩2分 -
旧東海道
興津宿
興津宿公園
傳馬所跡
助郷制度と共に、明治4年(1871年)12月廃止。
静岡市清水区興津本町220
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩1分 -
旧東海道
興津本宿
堀江君平 邸〔堀江糸店(ほりえ いとてん)〕
嘉永4年(1851年)7月
当主 清兵衛
明治元年(1868年)12月
島田屋喜助
明治5年(1872年)
当主 堀江喜平
平成3年(1991年)
戸主 堀江君平
堀江糸店は江戸文化文政記(1804〜1829年)創業の糸商人。
静岡市清水区興津本町24
?: 054−369−1067
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前降車 徒歩2分 -
旧東海道
興津本宿
浮州昌弘 邸〔浮州硝子(うきす がらす)〕
嘉永4年(1851年)7月
当主 小右衛門
明治元年(1868年)12月
当主 市川屋小右衛門
明治5年(1872年)
当主 市川小一郎
平成3年(1991年)
当主 浮州慎吾
静岡市清水区興津本町25−1−1
?: 054−369−1016
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩2分 -
旧東海道
興津本宿
薩川真吾〔薩川洋品店(さつかわ ようひんてん)〕
嘉永4年(1851年)7月
当主 小右衛門
明治元年(1868年)12月
市川屋小右衛門
明治5年(1872年)
当主 森川 豊(士族)
平成3年(1991年)
戸主 薩川真吾
静岡市清水区興津本町25−2−1
?: 054−369−1016
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩2分 -
旧東海道
興津本宿
吉田瀧次郎 邸〔吉田家具製造店(よしだ かぐ せいぞうてん)〕
嘉永4年(1851年)7月
当主 九郎右衛門
明治元年(1868年)12月
吉田屋九郎右衛門(旅篭)
明治5年(1872年)
当主 吉田新作
平成3年(1991年)
戸主 吉田瀧次郎
吉田屋は江戸期から継続した旅篭だったが明治期に転業。
静岡市清水区興津本町26
?; 054−369−0847
東海道本線興津駅 興津不動前停留所降車 徒歩1分 -
旧東海道
興津本宿
小沢千代子 邸〔宮様まんじゅう本舗 潮屋(みやさま まんじゅう ほんぽ うしおや)〕
嘉永4年(1851年)
当主 市右衛門
明治元年(1868年)12月
丸本屋栄七〔菓子製造業〕
明治5年(1872年)
当主 葛西市蔵
平成3年(1991年)
戸主 小沢憲一
静岡市清水区興津本町27−1
?: 054−364−0348
8:00〜19:00
火曜、及び、年末年始定休日
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩2分
http://www.miyasamamanjiu.com/ -
旧東海道
興津本宿
田中みゑ 邸
嘉永4年(1851年)7月
当主 源七(旅篭)
明治元年(1868年)12月
清水屋源七
明治5年(1872年)
当主 大久保利一
平成3年(1991年)
戸主 田中みゑ
清水屋は江戸期は旅篭だったが明治期に転業。
静岡市清水区興津本町28
東海道本線興津駅 興津不動前停留所降車 徒歩1分 -
旧東海道
興津本宿
坂場幸男 邸
嘉永4年(1851年)7月
当主 幸右衛門
明治元年(1868年)12月
小清水屋次郎八
明治5年(1872年)
当主 手塚新一
平成3年(1991年)
戸主 坂場幸男
静岡市清水区興津本町29−1
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前 徒歩1分 -
旧東海道
興津本宿
岡村晃雄 邸〔若狭屋清涼飲料本店(わかさや せいりょういんりょう ほんてん)〕
嘉永4年(1851年)7月
当主 半蔵
明治元年(1868年)12月
若狭屋惣八(豆腐屋)
明治5年(1872年)
当主 岡村勘七
平成3年(1991年)
戸主 岡村和彦
静岡市清水区興津本町30
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩1分 -
旧東海道
興津本宿
鈴与研修センター
嘉永4年(1851年)7月
当主 助左衛門
明治元年(1868年)12月
京屋盛太郎(旅篭)
明治5年(1872年)
当主 岡本盛太郎
平成3年(1991年)
鈴与研修センター
静岡市清水区興津本町31
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩1分 -
旧東海道
興津本宿
鈴与研修センター
嘉永4年(1851年)7月
当主 吾平
明治元年(1868年)12月
三河屋源三郎
明治5年(1872年)
当主 深津源三郎
平成3年(1991年)
鈴与研修センター
静岡市清水区興津本町32
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩1分 -
旧東海道
興津本宿
鈴与研修センター
嘉永4年(1851年)7月
当主 安兵衛
明治元年(1868年)12月
空地
明治5年(1872年)
当主 内藤雄次郎
平成3年(1991年)
鈴与研修センター
フェルケール博物館別館水口屋ギャラリー
江戸期以来400年余続いた一碧楼水口屋は興津本町32〜35を買収し経営拡大させたが、時代の趨勢から昭和60年(1985年)1月31日を以って廃業。
施設一式は、静岡県中央に於いて事業展開する鈴与が買収し施設を活用して社員研修センターを開設した。
他方、残された資料類は、第20代望月半四郎が保存管理していたが、今後の活用の途として、平成7年(1995年)1月に鈴与が運営管理する フェルケール(Verkehr)博物館に寄贈され、整理の上、平成11年(1999年)3月よりフェルケール博物館別館水口屋ギャラリーとして一般公開。
Verkehrとは独逸語で交通、通行、商交の意。
静岡市清水区興津本町33
?: 054−369−6101
10:00〜16:00
入場料無料
月曜、及び、年末年始定休日
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩1分 -
旧東海道
興津本宿
フェルケール博物館別館水口屋ギャラリー(ふぇるけーる はくぶつかん べっかん みなぐちや ぎゃらりー)
作家 内田百?(うちだ ひゃっけん)(明治22年(1889年)5月29日〜昭和46年(1971年)4月20日)は明治期から昭和期にかけて活躍した小説家で、作家 夏目漱石(なつめ そうせき)(慶應3年(1867年)2月9日〜大正5年(1916年)12月9日)の弟子。
第三阿房列車 時雨の清見潟 興津阿房列車(大日本雄弁会講談社 昭和31年(1956年)3月10日発行)に於いて、
『私は旅先の宿屋の名前を文中に記さない事にして、そのものを通してゐる筈である。その中に例外があり、一つは八代の松濱軒で、もう一つがこの水口屋である。水口屋の名前は私の三番目の阿房列車、「區間阿房列車」の中に出てゐるから、今更伏せても始まらない』
との記述が存在し行間から水口屋が格別気に入っていた様子が窺える。
フェルケール博物館別館水口屋ギャラリー
静岡市清水区興津本町35
?: 054−369−6101
10:00〜16:00
入場料無料
月曜、及び、年末年始定休
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩1分 -
旧東海道
興津本宿
鈴与管理建築物
嘉永4年(1851年)7月
当主 弥二郎
明治元年(1868年)12月
当主 弥二郎(個人宅)
明治5年(1872年)
当主 杉永弥七
平成3年(1991年)
戸主 望月半十郎
静岡市清水区興津本町36
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩30秒 -
旧東海道
興津本宿
伏見楊一 邸〔扇子屋薬局(おおぎや やっきょく)〕
嘉永4年(1851年)7月
当主 庄七
明治元年(1868年)12月
扇子屋宇兵衛(漢方薬店)
明治5年(1872年)
当主 伏見宇平
平成3年(1991年)
戸主 伏見楊一
静岡市清水区興津本町37
?; 054−
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩1分 -
旧東海道
興津本宿
興津スポーツ店
嘉永4年(1851年)7月
当主 惣兵衛
明治元年(1868年)12月
油屋惣兵衛(旅篭)
明治5年(1872年)
当主 渡邉京三郎
平成3年(1991年)
池田建設
静岡市清水区興津本町38
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩1分 -
旧東海道
興津本宿
鈴与研修センター駐車場
嘉永4年(1851年)7月
当主 惣蔵
明治元年(1868年)12月
佐野屋惣蔵(旅篭)
明治5年(1872年)
当主 佐野惣蔵
平成3年(1991年)
長崎商店
静岡市清水区興津本町39
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩1分 -
旧東海道
興津本宿
青木 茂 邸
嘉永4年(1851年)7月
当主 儀左衛門
明治元年(1868年)12月
大黒屋多八郎(旅篭・脇本陣)
明治5年(1872年)
当主 手束多八郎
平成3年(1991年)
戸主 青木 茂
静岡市清水区興津本町40
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩1分 -
旧東海道
興津本宿
市川誠二 邸〔市川製作所(いちかわ せいさくじょ)〕
嘉永4年(1851年)7月
当主 儀左衛門
明治元年(1868年)12月
大黒屋多八郎(旅篭・脇本陣)
明治5年(1872年)
当主 手束多八郎
平成3年(1991年)
戸主 市川誠二
静岡市清水区興津本町41−1
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩1分 -
旧東海道
興津本宿
倉橋 豊 邸
嘉永4年(1851年)7月
当主 三郎右衛門
明治元年(1868年)12月
丸屋三郎右衛門(旅篭)
明治5年(1882年)
当主 甲田くま
平成3年(1991年)
戸主 小池美代子
丸屋は江戸期から継続した旅篭だったが明治期に転業。
静岡市清水区興津本町41−2
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩30秒 -
旧東海道
興津本宿
山梨正文 邸
嘉永4年(1851年)7月
当主 利右衛門
明治元年(1868年)12月
当主 利右衛門(民家)
明治5年(1882年)
当主 菅沼保三
平成3年(1991年)
戸主 山梨正巳
静岡市清水区興津本町43
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩30秒 -
旧東海道
興津本宿
河村 博 邸〔旧河村医院(きゅう かわむら いいん)〕
嘉永4年(1851年)7月
当主 与左衛門
明治元年(1868年)12月
十文字屋忠助(旅篭)
明治5年(1872年)
当主 手塚忠作
平成3年(1991年)
戸主 河村 博
十文字屋は江戸期から継続する木賃宿だったが大正期に転業売却。
静岡市清水区興津本町44
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩30秒。 -
旧東海道
興津本宿
NTT興津電話交換所
嘉永4年(1851年)7月
当主 傳七
明治元年(1868年)12月
空地
明治5年(1872年)
空地
平成3年(1991年)
NTT興津電話交換所
静岡市清水区興津本町45
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩1分 -
旧東海道
興津本宿
嘉永4年(1851年)7月
当主 一蔵〔脇本陣 身延屋(わきほんじん みのぶや)〕
明治元年(1868年)12月
身延屋七郎左衛門
明治5年(1872年)
当主 大野忠平(料理屋)
平成3年(1991年)
NTT興津電話交換所
身延屋は江戸期から継続する旅篭だったが明治期に転業。
静岡市清水区興津本町46
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩1分 -
旧東海道
興津本宿
手前が海岸側。
土地の状態から旅篭業は鰻の寝床状態の建築物を増築々々を重ねていたものと推定。
静岡市清水区興津本町50
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩2分 -
旧東海道
興津本宿
東本陣跡記念址碑
昭和51年(1976年)建立
勝澤芳雄邸前
静岡市清水区興津本町210−10
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩2分 -
旧東海道
興津本宿
東本陣跡址碑
昭和51年(1976年)建立
静岡市清水区興津本町210−10
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津交番前停留所降車 徒歩2分 -
旧東海道
興津本宿
西本陣跡址碑
昭和51年(1976年)建立
静岡市清水区興津本町170
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津不動前停留所降車 徒歩1分 -
清見寺
旧清見ヶ関址
静岡市清水区興津清見寺町29
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩30秒 -
清見ヶ関址
天武8年(679年)に大和國龍田山、及び、山背國大坂山と共に蝦夷襲撃防備の為に設置された関所跡。
後に、山背國は平安京遷都と共に山城國に改称。
静岡市清水区興津清見寺町29
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩30秒 -
清見寺
清見ヶ関鎮護の為に創建。
右から、佛殿(慶長4年(1599年))、鐘楼(文久3年(1863年))、本堂(元和2年(1616年))
静岡市清水区興津清見寺町418
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺前停留所降車 徒歩30秒 -
大正天皇在東宮海水浴御成道
記念碑
後に大正天皇となられる皇太子嘉仁親王殿下は、明治22年(1889年)2月1日に東海道本線國府津-静岡間開通年の7月に興津清見寺に行啓された際に清見潟で海水浴を嗜まわれた。
興津清見潟は海水浴場適格地として全国に知られた。
静岡市清水区興津清見町86
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見寺停留所降車 徒歩1分 -
旧東海道
興津清見寺宿
小長谷忠男 邸
膏薬店跡
江戸期に、
膏薬のへらで救える三保の松
膏薬でつきも吸出す清見寺
と云う川柳が存在する。
此れを読み単に膏薬製造販売店舗が存在したと考えたら古典文学読解力は不合格である。
長崎オランダ商館附ドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペル(Engerbelt Kampfer)(1651年(慶安4年)9月16日〜1716年(享保元年)11月2日)は、商館長随行に拠り長崎江戸を往還して『江戸参勤紀行(Geschichte und Beschreiburg von Japan)』を記述した当時では稀有の西欧人であり、江戸後期にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franz von Siebold(1796年(寛政8年)2月17日〜1866年(慶應2年)10月18日)をして該著を読み日本への傾倒を深めさせた書だが、該書籍に興津膏薬屋に関する記述が散見される。
即ち、
「余は此処に黙して過ぐる能はざる呆事を見たり。該村には街道に沿いて九軒、十軒の立派な構えの店あり。綺麗な造りの家にして、何れも二三人の十歳乃至は十二歳の麗しく化粧をさせ、着飾たる童児は店舗前に出て、列を成して坐したるを見るべく、行過ぐる愛溺者に買はれて、忌み嫌ふべく、亦神を蔑む方法を以て、婦人の形して吾身を委ねんとするなり。恰も世の誹謗を避けんが為、之を慮り、膏薬を店に売りつつ、一方事訳を知らざる者にして少しも醜悪の心を起さざらしめ、他方には旅行く人々をしてかかるものと恥無き契りを相ひ許す機会を得せしむるものなり。」
とされ、膏薬屋は表面上の存在で現実は男色茶屋たる事実を示し、プロテスタント教徒たるケンペルをして露骨な嫌悪感を隠していない。
因みに、該膏薬販売は宝永4年(1707年)10月4日に武蔵國から三河國地方にかけて広い範囲で被害が発生した宝永大震災(ほうえい だいしんさい)で膏薬屋は悉く倒壊全滅し再建されず男色茶屋は廃業に追い込まれた。
膏薬製造販売は大東亜戦争終結後も残存したが、GHQが我が国政府に圧力を掛け、薬事法改正に拠り私製薬物製造販売が禁止された事から興津膏薬の歴史に終止符が打たれた。
静岡市清水区興津清見寺町98
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン興津清見寺前停留所降車 徒歩2分 -
旧東海道
興津宿
井上 馨(いのうえ かおる)(天保6年(1836年)1月16日〜大正4年(1915年)9月1日)は9名存在した元老の1名。
自身の興津別宅 長者荘(ちょうじゃそう) に於いて銅像建立除幕式出席者が、当日、除幕式終了後に開催される園遊会会場に於いて配布予定の記念絵葉書投函の為に会場内に切手臨時販売所、及び、郵便ポスト設置を興津郵便局長に依頼したが、局長が前例無きを理由に此れを拒否した処、井上は当時の逓信大臣に半ば強制的命令を以って臨時局設置を依頼させ該会場内設置に成功したが、井上は当時の郵便ポスト本体の深緑色が気に入らず、更に、郵便ポスト本体色を赤色に塗装させる事を強要し実行させた。
赤色は夜目にも判別し易やすい事から後に正式採用され現在に到る。
現在の我が国郵便ポスト本体色が赤なのは元を糾せば井上のゴリ押しの成果(?)である。
静岡市清水区興津清見寺町156
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見潟停留所降車 徒歩1分 -
東海道本線
臨時停留所跡
井上は、内務省法制局長在任中たる明治23年(1890年)1月に初めて興津を訪れ水口屋に宿泊した事がきっかけとなり興津の地が気に入り、明治29年(1896年)7月に興津西米糠山に別荘 長者荘を建築したが、何事に於いても成り上り者特有の派手好みな井上は、長者荘に生前たる明治43年(1910年)11月に銅像を建立し、同月28日に除幕式と園遊会が開催され各界から当時の著名人が招待された。
然るに、井上は園遊会終了後に東京方面への帰参者利便の為に、当時の鐵道院長官に掛合い、長者荘下の波打川橋梁付近に臨時停留所を設置させた。
当時の井上が差出した除幕式園遊会招待状に、
『同五時東京方面ノ御方ハ御乗車盤木ヲ以テ報ス』
との記述が存在する。
盤木とは枕木の事であり、事実を示すが如く大正10年代まで現地に枕木が山積みになっていた。
静岡市清水区興津清見寺町467−33
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見潟停留所降車 徒歩1分 -
東海道本線
臨時停留所跡
尚、大宮の鉄道博物館に現存する該停留所設置一件に関する当時の鐵道院関係文書に記述が存在しない。
静岡市清水区興津清見寺町467−33
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見潟停留所降車 徒歩1分 -
井上 毅 公爵公園(いのうえ つよし こうしゃく こうえん)
公園
全景
静岡市清水区興津清見町無番地
東海道本線興津駅 しずおかジャストライン清見潟停留所降車 徒歩1分 -
井上 毅 公爵公園
子爵 杉 孫七郎 拝草
杉 孫七郎(すぎ まごしちろう)(天保6年(1835年)2月13日〜大正9年(1920年)5月3日)は長州出身。
明治維新後招致され宮内太丞や秋田県令を歴任。明治中期以降は宮内関係職に限定。枢密院顧問官を経て皇后大夫。
在りたいていに言えば、井上馨の腰巾着的存在だった。
静岡市清水区興津清見町無番地
東海道本線興津駅 しずおかジャストライン清見潟停留所降車 徒歩1分 -
井上 毅 公爵公園
井上侯 壽像ノ碑
男爵 澁澤栄一撰併書
澁澤栄一(しぶさわ えいいち)翁(天保11年(1840年)3月16日〜昭和6年(1931年)11月11日)は幕末から昭和初期にかけて活躍した財界人。
澁澤翁は井上馨の大胆不敵にして放埓な性格と異なり地道冷静沈着な人物だった。
静岡市清水区興津清見町無番地
東海道本線興津駅 しずおかジャストライン清見潟停留所降車 徒歩1分 -
井上 毅 公爵公園
井上 毅 は生前、明治43年(1910年)11月28日に自身の別荘たる米糠山長者荘に立銅像を建立したが、時移り、大東亜戦争開戦と共に政府の金属回収令に基き供出撤去され、残された長者荘も昭和20年(1945年)7月6日の空襲で焼失被災し、戦後、米糠山は井上家から業者の手に渡り、碑石は土建業者が整地の際に興津川河口に移動遺棄されていた。
旧興津清見寺住民が此れを回収し、且つ、井上家で銅像製作者に依頼し座像が製作され町に寄贈。
公園が整備された。
静岡市清水区興津清見町無番地
東海道本線興津駅 しずおかジャストライン清見潟停留所降車 徒歩1分 -
長者荘(ちょうじゃそう)
波多打川(はたうちがわ)
該川を挟み両側が井上馨の別荘地だった。
静岡市清水区横砂東町30−20
東海道本線興津駅 しずてつジャストライン清見潟停留所降車 徒歩5分
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この旅行記へのコメント (10)
-
- naniwa ladyさん 2011/12/11 08:11:04
- おはようございます。8(*^o^*)8naniwa
- いつもいつも我がつたない旅行記に、1票いただき有り難うございます。
横浜臨海公園さんの旅行記と比べると穴を掘って隠れたくなるのですが。。。
それぞれの町に歴史ありですね。。歴史の変遷を感じ、今の平和、私の回りではですが、を有り難く感謝しています。
静岡、駿河湾と言えば、私はやはり清水の次郎長でしょうか。。。昔見た映画や舞台が思いだされます。
海を見ると、やはり心が和みます。怖くて二度と見たくなくなった人たちが大勢いらっしゃると思うととっても哀しいです。
興津という名に見覚えがあるのは、どこかで習ったのかな。。。
今年も残り少なくなりました。どうぞご自愛なさって良いお年をお迎えください。お誕生日ももうすぐですね。来年は心機一転、素敵な年になって欲しいですね。
- 横浜臨海公園さん からの返信 2011/12/13 05:20:18
- RE: おはようございます。8(*^o^*)8naniwa
- naniwa ladyさま、おはようございます。
メッセージを賜りながら返事を差し上げるのが遅くなりまして誠に申し訳ございませんでした。
過分なるお褒めのお言葉に赤面の思いでございます。
naniwa ladyさまの旅行記、何時も楽しみに拝見させて頂いております。
兎に角、昨今のフォートラベルの他の会員の方の旅行記を見てもマンネリは免れないと思っております。
国内、何所に行っても同じような風景ばかりになってしまったからでしょうか。
寒くなっております。
naniwa ladyさまには、くれぐれもお体をご自愛くださいませ。
尚、東日本大震災で小生の甥が行方不明のままでございますので、年末年始意のご挨拶はご辞退申しますことを何卒お許しください。
横浜臨海公園
-
- frau.himmelさん 2011/12/05 22:39:37
- 駿河國興津編第2弾読ませていただきました。
- 横浜臨海公園さま こんばんは。
西園寺公望公の興津編に引き続き、第2弾の興津編も興味深く読ませていただきました。
いつもながらの、緻密な調査に裏打ちされた旅行記に頭が下がる思いです。
その中に、Verkehr(交通)というドイツ語が出てきてビックリしました。
Verkehr博物館なるものがあるのですね。
一碧楼水口屋の施設を買い取った「鈴与」という会社は私も名前は知っております。
でもあそこは、たしか倉庫業ではなかったですか?
どうして倉庫屋さんが交通博物館を?と不思議に思っておりましたが、鈴与運輸って会社もあったのでしたかしら?
すみません、よく調べもしないでコメントをして…。
でも、膏薬屋さんのところで、ドイツ人医師やシーボルトの名前が出てきたり、また、その膏薬屋さんが男色茶屋も経営していたなんて、いろいろ面白いですね。
横浜臨海公園さま、体調がお悪いとどなたかのコメントに書いていらっしゃったようですが、その後お体の具合は如何ですか?
あんまりご無理をなさいませんように。
himmel
- 横浜臨海公園さん からの返信 2011/12/07 02:41:46
- 拝復
- frau.himmelさま、こんばんは。
過分なるお褒めのメッセージを賜りまして誠に有難うございました。
仰せの通り、verkehrとは、交通、通商、商交と言った意味を有する独逸語です。
鈴与は、明治期に清水港が整備され、桟橋から直接船舶の入稿が可能になった際に倉庫業で創設され、現在では国際線で自便の路線を有するほどの総合商社に発展した企業になりました。
> でも、膏薬屋さんのところで、ドイツ人医師やシーボルトの名前が出てきたり、また、その膏薬屋さんが男色茶屋も経営していたなんて、いろいろ面白いですね。
→ケンペルの該書は日本語訳も公開されておりますが、翻訳の出来が芳しくない為に、今回は小生がオランダ原本を元に当時のスタイルで訳してみたものですので、多少如何わしい内容になったかもしれません。
> 横浜臨海公園さま、体調がお悪いとどなたかのコメントに書いていらっしゃったようですが、その後お体の具合は如何ですか?
> あんまりご無理をなさいませんように。
→睡眠時間は相も変らず毎日2時間以内の状況に変りございません。
横浜臨海公園
- frau.himmelさん からの返信 2011/12/07 20:12:23
- RE: 拝復
- こんばんは。
お返事をありがとうございました。
「鈴与」については、コメントを差し上げたあと気になり調べました。
おっしゃるように、今では大きな総合商社になっているのですね。
そんなことも知らなかったなんて、いつの間にか私も世の中に取り残されてしまったような感がしました。
> →ケンペルの該書は日本語訳も公開されておりますが、翻訳の出来が芳しくない為に、今回は小生がオランダ原本を元に当時のスタイルで訳してみたものですので、多少如何わしい内容になったかもしれません。
えっ、横浜臨海公園さまがオランダ語の原本を元に日本語に翻訳なさったのですか。しかも今風ではなく、その当時のスタイルでなんて、すごいですねー。
横浜臨海公園さまの旅行記は、そこまでなさって完成されたものなのですね。
本当に素晴らしいです。
これからも素晴らしい旅行記を楽しみにしています、と言いたいところなのですが、お身体の方もお気をつけくださいね。
himmel
- 横浜臨海公園さん からの返信 2011/12/08 14:27:11
- 再拝復
- frau.himmelさま、こんにちは。
重ね重ねメッセージを賜りまして誠に有難うございました。
我が国で公刊されているのは英訳本が原点となっているものですが、英訳の時点で既に内容が原点版と異なっている事と、英訳者が時代考証を怠った為に、現実には珍妙な和訳本となっているのが現状です。
今回の和訳には蘭本と独訳本の2種類を検討しながら対訳した内容が旅行記に投降したものでございます。
横浜臨海公園
-
- わんぱく大将さん 2011/12/05 00:26:33
- 海沿いを走る
- 横浜臨海公園さん
旅行記見ていただき有難うございます。
隣の街に行くのに、海沿いを走る電車に乗りました。それも、海、ぎりぎりの所を走る所もあり。 まあ、地中海だから、できることなのかもしれませんが、しかひ、錆びるが早いだろうな、と思うのですが。
大将
- 横浜臨海公園さん からの返信 2011/12/05 02:31:21
- 拝復
- 大将さま、こんばんは。
仰せの通り、東海道本線蒲原-興津-清水間は駿河湾沿を走る為に塩害の被害は大だと思われます。
以前は海沿だった為に、列車が駿河湾の大波を浴び、窓ガラスが割れるなどの被害を生じた為に、頑強な防波堤を設置しておりましたが、現在では、国道1号線バイパスや東名高速の完成で無用の長物と化した代わりに、あの眺望は永久に消滅してしまいました。
小生など、幼少の時に在来の、つばめに乗車した時に由比-興津間で見た富士山の眺望の記憶が今でも鮮明に残っております。
横浜臨海公園
-
- zzr-cさん 2011/11/26 17:32:35
- 凄い詳細まで
- 横浜臨界公園さま こんにちは!
これだけ詳細まで取材?調べられるのには相当な時間が
必要だったのではないでしょうか?
これも前にお聞きしたように文献から調べられるんですかね?
どちらにしても凄いです。
過去に皇太子殿下(大正天皇)が訪れたと云う事で、
石碑まで建てられるのも凄いですね。
じぃ〜
- 横浜臨海公園さん からの返信 2011/11/27 02:40:26
- 拝復
- zzr-cさま、こんばんは。
旅行記に投票とコメントを賜りまして誠に有難うございました。
仰せの通り、江戸期の人別帳や明治期の戸籍、当時の書簡等々を元に復元を試みた旅行記でしたが、当時の事なので印刷物などでは無く、当時の毛筆で書かれた草書体を読まねばならず、途中で投げ出したい心境になったのも事実ですが、何とか完成に漕ぎ着けられました。
興津は皇室や皇族に関する歴史もあり、それらに就いては次作にて公開したいと思っております。
横浜臨海公園
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