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当日朝早く八王子駅を発ち甲府駅到着後躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)(現武田神社)訪問、続いて同駅南東側に位置する甲府城(こうふじょう、山梨県甲府市丸の内)を訪ねました。<br /><br />甲府駅南口広場からはビルしか見えませんが東京方向に戻る小道を行くと即座に甲府城跡が姿を現します。さすが近世の城郭で石垣がふんだんに使用され、壮大な天守台と本丸が中央部に建ち、それらを囲む大規模櫓が随所に配置され、真に圧巻と言わざるを得ません。<br /><br />かつては広大な敷地を誇る甲府城ですが明治30年中央線の延伸に伴う甲府駅の新設により当該城が南北に分断、北西部の曲輪が解体され、更に山梨県庁舎や県会議場建設により南西部の曲輪の解体並びに西側・南側の堀埋め立てによりその規模はかなり縮小され現在の規模に至りました。<br /><br />当城の築城者は武田遺領を引継いだ徳川家康ですが、天正18年(1590)の家康関東転封後は豊臣秀吉の支配となり、関東の動静を監視・牽制する為豊臣有力大名(羽柴秀勝・加藤光泰・浅野長政および幸長)を投入し併せて甲府城の更なる増改築を重ね近世城郭として完成させました。<br /><br />慶長5年(1600)の関ケ原の戦いに勝利した家康は江戸に隣接する甲斐国を重視し暫くは将軍家一門にその経営を委ねるほどの特別な城で、徳川義直(家康の9男、後に尾張徳川家の始祖)、徳川忠長(2代目将軍秀忠の3男)、徳川綱重(3代将軍家光の3男)、徳川綱豊(綱重長男、後の6代将軍家宣)が25万石もしくは35万石で入封しています。<br /><br />しかしながら宝永元年(1704)、かつては武田信玄・勝頼父子の支配下にあった山岳国境を守備する武川衆を先祖とする柳沢吉保(やなぎさわ・よしやす、1659~ 1714)が川越から古巣の甲斐国に入封、その後大名の城として最も整備され、城下町とともに大きく発展します。享保9年(1724)嫡男柳沢吉里(やなぎさわ・よしさと、1687~1745)が大和郡山に転封されると甲斐国は幕府直轄の天領となり明治時代を迎えます。<br /><br />明治時代になると廃城となり、明治10年には主たる建物は取り壊され勧業試験場に利用が始まりますが明治37年に本丸周辺を舞鶴公園として市民に開放され現在に至ります。<br /><br /><br />2022年3月3日追記<br /><br />訪問時入手したパンフレットには下記の如く詳細に亘り説明があります。<br /><br />「天正10年(1582)戦国大名の武田氏滅亡後、甲斐国は、織田信長の領国となり、本能寺の変の後は徳川家康の支配下に置かれました。<br /><br />しかし、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げると、秀吉の命により甥の羽柴秀勝と腹心の部下である加藤光泰らによって築城が始められ、浅野長政・幸長父子の手により完成を見ました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い以降は再び徳川家の城となり、幕末まで城の歴史は存続しました。<br /><br />舞鶴城(甲府城の別名)は江戸時代の初め、将軍家一門が城主となる特別な城でしたが、宝永元年(1704)徳川綱豊が第5代将軍徳川綱吉の養子となり江戸城へ移り住むと、柳沢吉保が城主となり、大名の城として最も整備され城下町とともに大きく発展しました。しかし、柳沢氏が大和郡山城主として転封されると、甲斐国は幕府の直轄地となり、舞鶴城は甲府勤番の支配下に置かれることとなりました。その間、享保年間の大火により本丸御殿や銅門などを焼失、壮麗な姿は失われていきました。<br /><br />明治時代になると廃城となり、明治10年頃には城内の主な建物は取り壊され、勧業試験場として利用が始まるなど、新たな歴史を歩み出しました。<br /><br />明治30年(1897)には、中央線敷設に伴い屋形曲輪、清水曲輪の解体が決定され、甲府停車場、すなわち今の甲府駅の建設地となっていきました。<br /><br />明治37年(1904)年に本丸周辺を舞鶴公園として開放、昭和5年(1930)には、甲府中学校の移転に伴い、県庁舎や県会議事堂が楽屋曲輪跡に移り、同時に西側、南側の堀は完全に埋められ、城跡はほぼ現在と同じ景観になりました」<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />

甲斐甲府 小田原北条氏滅亡後関東移封の家康動向を監視並びに牽制し秀吉の存在感を見せつけるため近世城郭として整備した『甲府城』訪問

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2011/07/06 - 2011/07/06

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滝山氏照

滝山氏照さん

当日朝早く八王子駅を発ち甲府駅到着後躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)(現武田神社)訪問、続いて同駅南東側に位置する甲府城(こうふじょう、山梨県甲府市丸の内)を訪ねました。

甲府駅南口広場からはビルしか見えませんが東京方向に戻る小道を行くと即座に甲府城跡が姿を現します。さすが近世の城郭で石垣がふんだんに使用され、壮大な天守台と本丸が中央部に建ち、それらを囲む大規模櫓が随所に配置され、真に圧巻と言わざるを得ません。

かつては広大な敷地を誇る甲府城ですが明治30年中央線の延伸に伴う甲府駅の新設により当該城が南北に分断、北西部の曲輪が解体され、更に山梨県庁舎や県会議場建設により南西部の曲輪の解体並びに西側・南側の堀埋め立てによりその規模はかなり縮小され現在の規模に至りました。

当城の築城者は武田遺領を引継いだ徳川家康ですが、天正18年(1590)の家康関東転封後は豊臣秀吉の支配となり、関東の動静を監視・牽制する為豊臣有力大名(羽柴秀勝・加藤光泰・浅野長政および幸長)を投入し併せて甲府城の更なる増改築を重ね近世城郭として完成させました。

慶長5年(1600)の関ケ原の戦いに勝利した家康は江戸に隣接する甲斐国を重視し暫くは将軍家一門にその経営を委ねるほどの特別な城で、徳川義直(家康の9男、後に尾張徳川家の始祖)、徳川忠長(2代目将軍秀忠の3男)、徳川綱重(3代将軍家光の3男)、徳川綱豊(綱重長男、後の6代将軍家宣)が25万石もしくは35万石で入封しています。

しかしながら宝永元年(1704)、かつては武田信玄・勝頼父子の支配下にあった山岳国境を守備する武川衆を先祖とする柳沢吉保(やなぎさわ・よしやす、1659~ 1714)が川越から古巣の甲斐国に入封、その後大名の城として最も整備され、城下町とともに大きく発展します。享保9年(1724)嫡男柳沢吉里(やなぎさわ・よしさと、1687~1745)が大和郡山に転封されると甲斐国は幕府直轄の天領となり明治時代を迎えます。

明治時代になると廃城となり、明治10年には主たる建物は取り壊され勧業試験場に利用が始まりますが明治37年に本丸周辺を舞鶴公園として市民に開放され現在に至ります。


2022年3月3日追記

訪問時入手したパンフレットには下記の如く詳細に亘り説明があります。

「天正10年(1582)戦国大名の武田氏滅亡後、甲斐国は、織田信長の領国となり、本能寺の変の後は徳川家康の支配下に置かれました。

しかし、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げると、秀吉の命により甥の羽柴秀勝と腹心の部下である加藤光泰らによって築城が始められ、浅野長政・幸長父子の手により完成を見ました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い以降は再び徳川家の城となり、幕末まで城の歴史は存続しました。

舞鶴城(甲府城の別名)は江戸時代の初め、将軍家一門が城主となる特別な城でしたが、宝永元年(1704)徳川綱豊が第5代将軍徳川綱吉の養子となり江戸城へ移り住むと、柳沢吉保が城主となり、大名の城として最も整備され城下町とともに大きく発展しました。しかし、柳沢氏が大和郡山城主として転封されると、甲斐国は幕府の直轄地となり、舞鶴城は甲府勤番の支配下に置かれることとなりました。その間、享保年間の大火により本丸御殿や銅門などを焼失、壮麗な姿は失われていきました。

明治時代になると廃城となり、明治10年頃には城内の主な建物は取り壊され、勧業試験場として利用が始まるなど、新たな歴史を歩み出しました。

明治30年(1897)には、中央線敷設に伴い屋形曲輪、清水曲輪の解体が決定され、甲府停車場、すなわち今の甲府駅の建設地となっていきました。

明治37年(1904)年に本丸周辺を舞鶴公園として開放、昭和5年(1930)には、甲府中学校の移転に伴い、県庁舎や県会議事堂が楽屋曲輪跡に移り、同時に西側、南側の堀は完全に埋められ、城跡はほぼ現在と同じ景観になりました」






一人あたり費用
1万円未満
交通手段
JR特急 JRローカル 徒歩
  • 内松陰門側道路<br /><br />甲府駅南口広場に面するビルのすぐ裏手になります。

    内松陰門側道路

    甲府駅南口広場に面するビルのすぐ裏手になります。

  • 城内見取図<br /><br />かつては20ヘクタ?ルもあった広大な城郭でしたが現在は6ヘクタ?ルが都市公園と県指定史跡となっています。

    城内見取図

    かつては20ヘクタ?ルもあった広大な城郭でしたが現在は6ヘクタ?ルが都市公園と県指定史跡となっています。

  • 舞鶴城公園案内図<br /><br />甲府城築城からの沿革が記載されてます。平成2年から整備事業を実施して石垣改修、門や壁の 復元、稲荷櫓の建設、発掘調査で本丸や天守台周辺から金箔を貼った鯱瓦・鬼瓦が数多く出土したそうです。<br />(案内板より)<br />

    舞鶴城公園案内図

    甲府城築城からの沿革が記載されてます。平成2年から整備事業を実施して石垣改修、門や壁の 復元、稲荷櫓の建設、発掘調査で本丸や天守台周辺から金箔を貼った鯱瓦・鬼瓦が数多く出土したそうです。
    (案内板より)

  • 内松陰門<br /><br />立派な門です。石垣も見事です。

    内松陰門

    立派な門です。石垣も見事です。

  • 本丸に繋がる石段<br /><br />江戸時代の甲府城は「甲斐府中城」と呼ばれていたそうです。<br />このほかに一条小山城(鎌倉時代に一条氏の居館のあった小山)や赤甲城などの別称があるそうです。<br /><br /><br /><br /><br />

    本丸に繋がる石段

    江戸時代の甲府城は「甲斐府中城」と呼ばれていたそうです。
    このほかに一条小山城(鎌倉時代に一条氏の居館のあった小山)や赤甲城などの別称があるそうです。




  • 本丸に繋がる石段<br /><br /><br /><br />

    本丸に繋がる石段



  • 城郭から高層ビルを一望<br /><br />歴史の相違を感じます。

    城郭から高層ビルを一望

    歴史の相違を感じます。

  • 本丸櫓跡<br /><br />明治初年まで残っていたと古写真で判明されて<br />いるそうです。

    本丸櫓跡

    明治初年まで残っていたと古写真で判明されて
    いるそうです。

  • 豪壮な石垣<br /><br />石垣の隅角部に石垣の重みが集中する為石材の長短を交互に組み合わせる積み方を採用しているそうです。この積み方を算木積み(さんきづみ)と呼びます。

    イチオシ

    豪壮な石垣

    石垣の隅角部に石垣の重みが集中する為石材の長短を交互に組み合わせる積み方を採用しているそうです。この積み方を算木積み(さんきづみ)と呼びます。

  • 天守台入口

    天守台入口

  • 天守台<br /><br />途中で観光ボランティアガイドの男性に親しく案内・説明していただきました。<br />又天気が良いと富士山頂が見えるそうです。<br />(ガイドさんから写真を頂きました)

    天守台

    途中で観光ボランティアガイドの男性に親しく案内・説明していただきました。
    又天気が良いと富士山頂が見えるそうです。
    (ガイドさんから写真を頂きました)

  • 天守台<br /><br />向かいの山から石が切り出されたのでしょうか。

    天守台

    向かいの山から石が切り出されたのでしょうか。

  • 天守台<br /><br />眼下に橋と埋立てを免れた濠が確認できます。

    天守台

    眼下に橋と埋立てを免れた濠が確認できます。

  • 長い城壁<br /><br />展望は格別です。

    長い城壁

    展望は格別です。

  • 稲荷櫓<br /><br />絵図、古文書、古写真、発掘調査結果等を基に江戸時代初期の建築当時の姿で復元したそうです。<br />(舞鶴城公園パンフレットより)

    稲荷櫓

    絵図、古文書、古写真、発掘調査結果等を基に江戸時代初期の建築当時の姿で復元したそうです。
    (舞鶴城公園パンフレットより)

  • 豪壮な石垣<br /><br />全般的に石材の加工は近世城郭の特徴であります「打込みはぎ」を採用しています。

    豪壮な石垣

    全般的に石材の加工は近世城郭の特徴であります「打込みはぎ」を採用しています。

  • 豪壮な石垣<br /><br />現在整備事業の一環として鉄門(くろがねもん)復元工事中でこの工事には山梨県教育委員会が 携わっています。

    豪壮な石垣

    現在整備事業の一環として鉄門(くろがねもん)復元工事中でこの工事には山梨県教育委員会が 携わっています。

  • 稲荷櫓を臨む<br /><br />当櫓の復元には相応な時間と共に億単位の事業資金が投入されたそうです。<br /><br /><br /><br />

    稲荷櫓を臨む

    当櫓の復元には相応な時間と共に億単位の事業資金が投入されたそうです。



  • 稲荷櫓内部<br /><br />江戸時代の甲府城説明と絵図面<br /><br />

    稲荷櫓内部

    江戸時代の甲府城説明と絵図面

  • 甲府城全景模型<br /><br />天守と石垣は見応えがあります。

    甲府城全景模型

    天守と石垣は見応えがあります。

  • 稲荷櫓から甲府駅構内を見る<br /><br />城内に線路が敷かれていることがよく判ります。

    稲荷櫓から甲府駅構内を見る

    城内に線路が敷かれていることがよく判ります。

  • 駅北口の城跡一部<br /><br />城跡の範囲が駅北口まで及んでいることが発掘調査で判明したそうです。<br /><br />

    駅北口の城跡一部

    城跡の範囲が駅北口まで及んでいることが発掘調査で判明したそうです。

  • 発掘調査説明文

    発掘調査説明文

  • 駅前食堂<br /><br />せっかくですからご当地食事を探します。<br />

    駅前食堂

    せっかくですからご当地食事を探します。

  • 鳥もつ煮セット<br /><br />B級グルメとして有名な鳥もつ煮をいただきます。臭みが無く美味しく食べました。

    鳥もつ煮セット

    B級グルメとして有名な鳥もつ煮をいただきます。臭みが無く美味しく食べました。

  • 帰路の電車案内<br /><br />時間の関係で特急で帰路につきます。約60分で八王子駅到着です。<br />(途中の停車駅はありませんでした)

    帰路の電車案内

    時間の関係で特急で帰路につきます。約60分で八王子駅到着です。
    (途中の停車駅はありませんでした)

  • 電車の入線<br /><br />自由席ですが空席がずいぶんあります。

    電車の入線

    自由席ですが空席がずいぶんあります。

  • 電車内部<br /><br />さすが特急電車です、快適な旅を楽しめます。

    電車内部

    さすが特急電車です、快適な旅を楽しめます。

  • 中央高速遠景<br /><br />電車とほぼ並行して走行してます。

    中央高速遠景

    電車とほぼ並行して走行してます。

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