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JR横浜線片倉駅から国道16号の西側にある片倉城(かたくらじょう、東京都八王子市片倉町)を訪問しました。周辺は住宅化され、当該城跡は公園として誰でも気軽に入場できる環境にあります。<br /><br />築城は応永年間(1394年~1428年)に源頼朝の側近の大江広元(おおえ・ひろもと(1148~1225)を祖先とする大江師親(おおえ・もろちか)ともその末裔の長井道広(ながい・みちひろ)とも伝えられていますが確証はないようです。<br /><br />戦国時代後半になると武蔵南部を勢力圏とした扇谷上杉氏が新興勢力の小田原北条氏の北進に抗しきれず敗退凋落、傘下にあった長井氏も没落ししばらく廃城となります。<br /><br />その後は山内上杉氏の重臣で伊豆守護代を務めた大石氏が武蔵守護代となり武蔵国に一定の勢力を保持すると滝山城を拠点とし片倉城をも支配下に入りますが、小田原北条氏との河越夜戦で山内上杉氏が大敗後は小田原北条氏の支配下に入りその経過として三代目当主氏康(うじやす、1515~1571)の三男である氏照(うじてる、1542~1590)を養子として迎い入れ事実上小田原北条氏に組み込まれるに至ります。<br /><br />地勢的には湯殿川と兵衛川との合流点に大きく張り出た丘陵部に位置し、その河川を敵を寄せ付けない水堀とし、その他外周は西側は深い空堀と共に30mの急涯に囲まれた自然の要害となっています。<br /><br />城郭内部については入口から急峻な大手道を登り切ると広々とした主郭が視野に入り、続く二廓は更に広がってなかなかの見ごたえがあります。主郭の東端は国道16号に面して車両往来の騒音はうっそうとした樹林に遮られ静寂を保っています。<br /><br />アクセスはJR横浜線片倉駅下車、又は京王・高尾線京王片倉駅下車それぞれ徒歩で約5~6分と恵まれています。<br /><br /><br /><br />2022年3月6日追記<br /><br />入手の資料には下記の通り説明がされています。<br /><br />「現存する遺構は、歴史的にはほとんど不明ですが、室町時代の初期に築城されたと思われています。<br /><br />15世紀後半、鎌倉幕府初期の重臣・大江広元を祖にもち関東管領家の扇谷上杉氏の家臣であった長井氏によって築城されたともいわれてますが定かでなく、また城主も城が放棄された時期も明確には判っていませんが、扇谷上杉朝定によって再築された深大寺城と築城の特徴が類似しています。<br /><br />先端部分の東側廓(本丸広場)が主廓で、住吉神社のある所が腰廓、西廓(二の丸広場)は南に大きく張り出し、東部の主郭を守るような形を成し、その前方には、大手道が低い位置を横切っています。この方向から来る敵に対して防御を考慮した造りです。二つの廓は空堀によって区画され、空堀は鍵の手に掘り込んであり、曳橋(ひきばし)か跳橋(はねばし)によって連絡されていたと考えられます。西廓(二の丸広場)は東廓に比べて約2倍の広さを持ち、ほぼ完全に空堀が巡らされており、その空堀は北に向かって深く落ち込み、そこに湧水があります。<br /><br />後世の改変が加えられているものの空堀・土塁等の名残があり、15世紀後半の中世城郭の形態を示す典型的なものです。<br />平成11年3月、東京都から史跡に指定されています。」<br />

武蔵八王子 和田合戦後の旧横山氏領を継承した鎌倉幕府重鎮大江広元、戦国期上杉氏守護代大石氏を経て小田原北条氏支配へと変遷の『片倉城』訪問

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2011/06/12 - 2011/06/12

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR横浜線片倉駅から国道16号の西側にある片倉城(かたくらじょう、東京都八王子市片倉町)を訪問しました。周辺は住宅化され、当該城跡は公園として誰でも気軽に入場できる環境にあります。

築城は応永年間(1394年~1428年)に源頼朝の側近の大江広元(おおえ・ひろもと(1148~1225)を祖先とする大江師親(おおえ・もろちか)ともその末裔の長井道広(ながい・みちひろ)とも伝えられていますが確証はないようです。

戦国時代後半になると武蔵南部を勢力圏とした扇谷上杉氏が新興勢力の小田原北条氏の北進に抗しきれず敗退凋落、傘下にあった長井氏も没落ししばらく廃城となります。

その後は山内上杉氏の重臣で伊豆守護代を務めた大石氏が武蔵守護代となり武蔵国に一定の勢力を保持すると滝山城を拠点とし片倉城をも支配下に入りますが、小田原北条氏との河越夜戦で山内上杉氏が大敗後は小田原北条氏の支配下に入りその経過として三代目当主氏康(うじやす、1515~1571)の三男である氏照(うじてる、1542~1590)を養子として迎い入れ事実上小田原北条氏に組み込まれるに至ります。

地勢的には湯殿川と兵衛川との合流点に大きく張り出た丘陵部に位置し、その河川を敵を寄せ付けない水堀とし、その他外周は西側は深い空堀と共に30mの急涯に囲まれた自然の要害となっています。

城郭内部については入口から急峻な大手道を登り切ると広々とした主郭が視野に入り、続く二廓は更に広がってなかなかの見ごたえがあります。主郭の東端は国道16号に面して車両往来の騒音はうっそうとした樹林に遮られ静寂を保っています。

アクセスはJR横浜線片倉駅下車、又は京王・高尾線京王片倉駅下車それぞれ徒歩で約5~6分と恵まれています。



2022年3月6日追記

入手の資料には下記の通り説明がされています。

「現存する遺構は、歴史的にはほとんど不明ですが、室町時代の初期に築城されたと思われています。

15世紀後半、鎌倉幕府初期の重臣・大江広元を祖にもち関東管領家の扇谷上杉氏の家臣であった長井氏によって築城されたともいわれてますが定かでなく、また城主も城が放棄された時期も明確には判っていませんが、扇谷上杉朝定によって再築された深大寺城と築城の特徴が類似しています。

先端部分の東側廓(本丸広場)が主廓で、住吉神社のある所が腰廓、西廓(二の丸広場)は南に大きく張り出し、東部の主郭を守るような形を成し、その前方には、大手道が低い位置を横切っています。この方向から来る敵に対して防御を考慮した造りです。二つの廓は空堀によって区画され、空堀は鍵の手に掘り込んであり、曳橋(ひきばし)か跳橋(はねばし)によって連絡されていたと考えられます。西廓(二の丸広場)は東廓に比べて約2倍の広さを持ち、ほぼ完全に空堀が巡らされており、その空堀は北に向かって深く落ち込み、そこに湧水があります。

後世の改変が加えられているものの空堀・土塁等の名残があり、15世紀後半の中世城郭の形態を示す典型的なものです。
平成11年3月、東京都から史跡に指定されています。」

交通手段
徒歩
  • JR片倉駅側から遠望<br /><br />丘陵部が樹木で生茂っています。<br />手前が湯殿川ですが今は流れは穏やかです

    JR片倉駅側から遠望

    丘陵部が樹木で生茂っています。
    手前が湯殿川ですが今は流れは穏やかです

  • 片倉城址案内<br /><br />国道16号に沿って歩きますと入口がわかります。<br />駐車場は狭く駐車台数が3~4台程度に限られています。

    片倉城址案内

    国道16号に沿って歩きますと入口がわかります。
    駐車場は狭く駐車台数が3~4台程度に限られています。

  • 当公園の案内図<br /><br />堅固な山城との説明があります。<br /><br /><br />「 片倉城跡公園案内図<br /><br />片倉城は、室町時代、大江広元を祖先とする長井氏によって築かれたと伝えられています。歴史的にはほとんど不明で、規模こそ小さいが、外敵に対して堅固な山城だったようです。<br /><br />太平洋戦争中は、高射砲陣地として使われました。<br /><br />公園に入ると湧水を受けて池があり、進めば少し息切れのするのぼり坂、高い広場は城あとです。<br /><br />春には、カタクリ、ニリンソウ・・・・夏、秋、冬の草花も負けじと可憐に火をを出します。小鳥も虫も林の中で生まれ育ちます。」

    当公園の案内図

    堅固な山城との説明があります。


    「 片倉城跡公園案内図

    片倉城は、室町時代、大江広元を祖先とする長井氏によって築かれたと伝えられています。歴史的にはほとんど不明で、規模こそ小さいが、外敵に対して堅固な山城だったようです。

    太平洋戦争中は、高射砲陣地として使われました。

    公園に入ると湧水を受けて池があり、進めば少し息切れのするのぼり坂、高い広場は城あとです。

    春には、カタクリ、ニリンソウ・・・・夏、秋、冬の草花も負けじと可憐に火をを出します。小鳥も虫も林の中で生まれ育ちます。」

  • 二の丸に導く階段<br /><br />確かに急峻な山城と言われるだけに階段の上りはひと苦労します。<br />

    二の丸に導く階段

    確かに急峻な山城と言われるだけに階段の上りはひと苦労します。

  • 住吉神社  <br /><br />鎌倉時代における源頼朝の側近大江広元(おおえ・ひろもと)の後裔である長井道広(ながい・みちひろ)が鎮守の神として摂津国(大阪市)から勧誘したと言われてます。

    住吉神社  

    鎌倉時代における源頼朝の側近大江広元(おおえ・ひろもと)の後裔である長井道広(ながい・みちひろ)が鎮守の神として摂津国(大阪市)から勧誘したと言われてます。

  • 住吉神社説明板<br /><br /><br /><br />「 住 吉 神 社 <br /><br />鎮座地<br />     八王子市片倉町2475番地<br /><br />御雷神<br />     上 筒 男 命<br />     中 筒 男 命<br />     底 筒 男 命<br /><br />由緒<br />     鎌倉管領、片倉城主、長井大善大夫道広が、応安5年(1372)城の   <br />     城の鎮守の神として、摂津国(大阪市)住吉大社を勧請したのである。<br />     慶安2年(1649)10月17日、徳川3代将軍より朱印7石を受け<br />     る。境内は城跡跡で、都の指定を昭和11年3月受ける。<br /><br />例祭日<br />     8月第4日曜日<br /> <br />             付 記<br /><br />     当神社には、嘉永4年(1851)川幡元右衛門泰吉および、その<br />     門人が「数字の実力がつきますように」という祈願された算額が奉納<br />     されています。」<br />

    住吉神社説明板



    「 住 吉 神 社 

    鎮座地
         八王子市片倉町2475番地

    御雷神
         上 筒 男 命
         中 筒 男 命
         底 筒 男 命

    由緒
         鎌倉管領、片倉城主、長井大善大夫道広が、応安5年(1372)城の   
         城の鎮守の神として、摂津国(大阪市)住吉大社を勧請したのである。
         慶安2年(1649)10月17日、徳川3代将軍より朱印7石を受け
         る。境内は城跡跡で、都の指定を昭和11年3月受ける。

    例祭日
         8月第4日曜日
     
                 付 記

         当神社には、嘉永4年(1851)川幡元右衛門泰吉および、その
         門人が「数字の実力がつきますように」という祈願された算額が奉納
         されています。」

  • 城址へ続く道

    城址へ続く道

  • 深い空堀

    深い空堀

  • 深い空堀

    深い空堀

  • 険しい登城道

    険しい登城道

  • 広大な二の丸<br /><br />読書している人が遠くに見えます。芝がよく手入れされています。

    広大な二の丸

    読書している人が遠くに見えます。芝がよく手入れされています。

  • 広大な二の丸<br /><br />芝の南側は樹木がうっそうと茂ってます。

    広大な二の丸

    芝の南側は樹木がうっそうと茂ってます。

  • 空堀<br /><br />二の丸(右)と本丸(左)を繋ぐ橋が見えます。たまたま誰かがサックスの練習をしていました。

    空堀

    二の丸(右)と本丸(左)を繋ぐ橋が見えます。たまたま誰かがサックスの練習をしていました。

  • 偽木の渡り橋<br /><br />周囲状況に合わせてよく作られています。

    イチオシ

    偽木の渡り橋

    周囲状況に合わせてよく作られています。

  • 本丸<br /><br />奥が国道16号に臨む位置です。<br /><br /><br /><br />

    本丸

    奥が国道16号に臨む位置です。



  • 本丸から二の丸を一望

    本丸から二の丸を一望

  • 二の丸から本丸を一望

    二の丸から本丸を一望

  • 本丸の空堀

    本丸の空堀

  • 土塁と巨木

    土塁と巨木

  • 土塁

    土塁

  • 二の丸西端から見る空堀<br /><br />実測図では堀の向こうは三の丸ですが既に畑となっています。

    二の丸西端から見る空堀

    実測図では堀の向こうは三の丸ですが既に畑となっています。

  • 片倉城・説明板<br /><br /><br />「 東京都指定史跡<br />       片 倉 城 跡<br />               所在地 八王子市片倉町2423<br />               指 定 昭和11年3月<br />                   平成11年3月3日 史跡指定<br /><br />片倉城跡は、湯殿川と兵衛川の合流点を臨む北東方面に張り出した丘陵先端部に位置する中世城館です。北・東・南の外周部は約30mの急崖となっており、自然地形を生かした城郭です。西からの丘陵頂部は平坦ですが、深い空堀により画された主郭と第二郭からなります。現道の配置等から第二郭の西方にも堀切がなされ、三郭からなる直線連郭式城郭であった可能性もあります。空堀により画された二つの郭には土塁や櫓台、腰曲輪、土橋などが良く残ります。<br /><br />「新編武蔵風土記稿」などでは応永年間(1394=1428)の大江備中守師親の在城を記し、大江氏や大江氏の後衛の長井氏の城郭とされていますが、確証はありません。 <br /><br />築城主体や年代の特定は困難ですが、深大寺城跡などの他の中世城郭との比較から15世紀後半以降に築城され、16世紀代に廃城となったと推定されています。しかし、城郭としての配置や技法、古川越街道や鎌倉街道と隣接する交通の要衝であることから、小田原北条氏による築城や利用の可能性も指摘されています。<br /><br />    平成22年3月  建設<br />            <br />                東京都教育委員会  」<br /><br />

    片倉城・説明板


    「 東京都指定史跡
           片 倉 城 跡
                   所在地 八王子市片倉町2423
                   指 定 昭和11年3月
                       平成11年3月3日 史跡指定

    片倉城跡は、湯殿川と兵衛川の合流点を臨む北東方面に張り出した丘陵先端部に位置する中世城館です。北・東・南の外周部は約30mの急崖となっており、自然地形を生かした城郭です。西からの丘陵頂部は平坦ですが、深い空堀により画された主郭と第二郭からなります。現道の配置等から第二郭の西方にも堀切がなされ、三郭からなる直線連郭式城郭であった可能性もあります。空堀により画された二つの郭には土塁や櫓台、腰曲輪、土橋などが良く残ります。

    「新編武蔵風土記稿」などでは応永年間(1394=1428)の大江備中守師親の在城を記し、大江氏や大江氏の後衛の長井氏の城郭とされていますが、確証はありません。 

    築城主体や年代の特定は困難ですが、深大寺城跡などの他の中世城郭との比較から15世紀後半以降に築城され、16世紀代に廃城となったと推定されています。しかし、城郭としての配置や技法、古川越街道や鎌倉街道と隣接する交通の要衝であることから、小田原北条氏による築城や利用の可能性も指摘されています。

        平成22年3月  建設
                
                    東京都教育委員会  」

  • 片倉城址実測図<br /><br />二の丸の奥に三の丸があったようです。<br />(三の丸は既に農地化されています)                   

    片倉城址実測図

    二の丸の奥に三の丸があったようです。
    (三の丸は既に農地化されています)                   

  • 住吉神社への登り口

    住吉神社への登り口

  • 神社へ続く登り口<br /><br />JR片倉駅からはこの入口が便利かと思います。

    神社へ続く登り口

    JR片倉駅からはこの入口が便利かと思います。

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