2011/07/01 - 2011/07/01
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ちどり OYAJIさん
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仕事で職場の防災などもやっておりまして、3月11日以来本当に東京湾内には津波被害がないと考えていいのか?と色々考えておりました。そうしたら近くにある金沢区の「富岡八幡宮」は波除八幡の異名があることが分かり、休日に散歩がてら富岡八幡宮を詣でて、金沢区の旧来の陸地と海の狭間を歩いて来ました。
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富岡八幡の入口。 実はこの入口は昭和40年代以降に作られた入口です。それ以前はここは海だったようです。
入口は反対側にあったようです。 -
富岡八幡の本殿。富岡八幡は1191年に源頼朝がこの地の鎮護のため建立したもののようです。本殿は天正14年(1586年桃山時代)のものだそうです。外側の建物は覆殿ということでこの本殿を覆っているものです。
1311年応長の大津波の時、周りの村落は大きな被害を受け、長浜千軒は一夜にして海に没したといわれる中、富岡は八幡様に守られ津波の被害がなかったとか。以来「波除八幡」と呼ばれ地元で慕われたようです。 -
1311年応長の津波から地元を救った富岡八幡は江戸初期に徳川幕府が進める深川の干拓が度々高潮の被害に会い、干拓が思うように進まないとき「波除八幡」の異名をとるこの富岡八幡を分社し江戸深川に祀ったようです。
深川八幡のルーツは実はこの富岡八幡のようです。 -
富岡八幡を降りたところに、記念碑がありました。昭和40年代に金沢地先埋め立てに同意し、優良な漁場を手放した猟師たちの記念碑です。富岡八幡の東側の平地はほとんど昭和の埋め立てによってできたものなのですね。
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長浜の運動公園の芝を刈るトラクターが気持ちよさそうです。このあたりも昭和の埋め立てでできた土地なのでしょう。
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今日の散歩の目的は波除八幡こと富岡八幡を見て、野島の伊藤博文の別邸を見ることです。野島に向けて歩いていたら何やらハイカラな建物が・・・
明治時代にかの野口英世がアメリカ丸の乗組員からペスト菌を発見した長浜検疫所が保存されていました。
建物そのものは大正12年の関東大震災で倒壊し復元されたもののようです。 -
ここで野口英世先生が仕事をしていたのでしょう。
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通勤の途中幸浦の丘の上の方に青いネットがたくさん張られているのを不思議に見ていました。今日はここも尋ねてみましょう。農林水産省の補助事業で進められている団体営農村基盤総合整備事業というものらしいです。趣味でやっているような方から、仕事として出荷しているような方まで色々な方が参加しているようです。
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農場から急な下り坂を下って海の公園に出ました。ここでお昼ご飯をいただきましょう。次は野島の伊藤博文別邸を目指します。
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野島伊藤博文別邸
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伊藤博文別邸の客間の縁側。高床の作りで海風が程良く抜けて行き本当に気持ちの良い部屋です。 富岡からずっと歩いてきた私にはこの縁側で冷えたビールでも飲みたい気分です。
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庭から客間方向を見る。
ここでバーベキューでもやりたいねと罰当たりな発想を・・・ -
野島の伊藤博文別邸を後にして、さすがにこれ以上歩く気にもなれず、新交通システムで金沢八景に向かいました。金沢八景駅の近くの枇杷島神社には津波で枯れた木のことが残されているとかで枇杷島神社を尋ねます。
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枇杷島神社に残る枯れた木。これは柏槇(びゃくしん)という木で300年前の延宝年間の高潮によって枯れてしまったものの朽ち果てることなく残っているものとか・・・
やはり東京湾でも津波による高潮は来るんだという確信をもった2万歩の歴史散歩でした。
あ〜あ 疲れた・・・・
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