2010/12/25 - 2011/01/01
704位(同エリア1868件中)
ねいちゃさん
長らくご覧くださいましてありがとうございました。
この旅行記も今回が最終回。クトゥブ・ミナールとフマユーン廟を観光した我々は、昼食後インド門を経て、最後の世界遺産ラール・キラーへ向かい、その後インドを離れることになります。天気は最後まで晴れてくれました。驚くような異文化体験ばかりでしたが、やはり最後はこう言えます、「インドに来てよかったぁぁぁ」と。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 1.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 レンタカー 飛行機
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
-
イサ・カーン廟[Tomb of Isa Khan]
白大理石で八角形の墓の主、イサ・カーンなる人物については、はっきり言ってよくわからない。フマユーンを一時追放したスール族の貴族だとか、王の付き人?だとか、まぁ色々言われている方ですが、この廟を見るかぎり、今はだいぶ大理石もはがれ落ちてはいますが、これだけの均斉のとれた建築物を廟とでき、しかも自分専用のモスクを持てるだけの人物・・・とすればやはりそれなりの才覚と権力をお持ちだったのではないかと思われます。 -
大統領官邸[Rashtrapati Bhavan]
昼食を有名なカリー屋で激ウマのタンドリーチキンをいただいた後、コンノート・プレイスの西南約2.5?にある大統領官邸へ。大統領官邸は元イギリスのインド総督官邸だった。だよね、イギリスが植民地のためにこんな立派な建物を建てるわけない。とてもいい流用だと思いますね、インド人えらい!
で、素朴な疑問。インドってテレビで見かけるのはターバン巻いたシン首相で、大統領?いたの?って感じ。調べてみると、現職はプラティバ・デーヴィーシン・パティルさん、インド初の女性大統領だそうで、国民は親しみを込めて「プラティバおばさん」と呼んでいるそうな、人気あるんだ。 -
大統領官邸門扉にかがやくアショーカ王の柱頭と法輪
ただ大統領はあくまで象徴的な存在で、政治上の権力はやはり首相が握っているとのこと。大統領職は南インドのドラヴィタ系やシク教徒などの宗教的マイノリティや低カーストの人々が選ばれ、首相は北インドのヒンドゥー教徒がなるってことになっているらしい、やっぱりねぇー。多数派がおいしいトコは独占して民主的なフリってところはどこの国も変わらない。独立後は独立後でまぁ色々あるってことだ。 -
イチオシ
大統領官邸からインド門に続く直線道路ラージ・パト[Raji Path]
オートリキシャーも元気いっぱい。デリーでは牛こそ余り見かけませんが、黄色と緑のリキシャーはまだまだ健在、普通乗用車のタクシーもバスもたくさん走ってますが、リキシャー頑張ってます。
ラージ・パトには国会議事堂をはじめ政治上の建物が多く、日本で言うところの霞ヶ関的なわけで、様々な式典にも利用されてます。この日も1月26日に行われる共和国記念日の準備で両サイドに椅子が設営されつつありました。それにしても1?以上も続く見事な直線道路でした。 -
インド門[India Gate]
コンノート・プレイスの東南2.5?にある高さ42mのインド門は、第一次世界大戦で戦死したインド人兵士の慰霊碑。壁面に戦没者13500人の名前が刻まれています。大戦後の独立を約したイギリスは、戦後当たり前のように約束を破棄し、多大な犠牲は実を結ぶことはなかった。
イギリスはアラブ人やユダヤ人にも同様の約束を結び、結局フランス・ロシアとで事実上の分割を行っている。二枚舌三枚舌の外交・・・世界史を学べば学ぶほど列強の破廉恥さに言葉を失い、イギリスという国は今も信頼に値しない国と私は断罪しております。日本も似たようなものですが、一部の人をのぞいてアジア人に対する蔑視感情はないだけマシと思っています。 -
これは何をしているところかというと、ヘナタトゥー(メヘンディ)の様子です。インド門周辺は大晦日でもあり大層な人混みで、それをアテにした露店が出てましたが、これはその中のひとつ。可愛い少女が道端で道具片手に器用に絵柄を描いていきます。ガイドさんが「やりたいですか?」と聞いてきたので即答「やる!」となったわけ。インドとしては結構な値段でしたが、これこそが異文化交流そのもの。
このヘナタトゥーは「ヘナ」という植物の葉っぱの自然の力で、肌を一時的に染めるもので、仕上がりはオレンジ・茶色・こげ茶色になります。ペーストは数時間で乾き、その後にタトゥーのように肌が染まります。持続力は一週間程度ですが、なかなかおしゃれな代物でした。 -
ラール・キラー[Lal Qila]
オールドデリーの最大の見所、ラール・キラー。シャー・ジャハーンはアグラからデリーに遷都し、都城シャー・ジャハーナバードを造営、これが今日のオールドデリーで、その中心に1639〜48年に建設されたラール・キラーである。赤砂岩で築かれた城壁からレッド・フォート[Red Fort]、「赤い砦」とも称される。 -
イチオシ
ラーホール門[Lahore Gate]
大通りチャンドニー・チョウク[Chandni Chowk]に面した正門で、ここから帝国の要衝ラーホールへの道が始まる。現在ラーホールはパキスタン領だが、1929年インド国民会議のラーホール大会で、ネルーらがプールナ・スワラージ(完全独立)が採択された場所としても有名。1940年にはジンナーらのラーホール決議でヒンドゥーとムスリムの分裂が決定的となり、パキスタンの樹立も不可避となった。 -
入場門からラーホール門をのぞむ
1947年8月15日、ネルーはこの赤き城の壇上において高らかにインド共和国の独立を宣言し、同日パキスタンも独立し、イギリスにおけるインド統治の歴史は幕を閉ざされることとなった。今も燦然とインド国旗がたなびくこの場所こそが、まさに現代史の舞台そのものである。 -
ラーホール門の門塔
高さ33mでそびえ立つ八角形の門塔はシャー・ジャハーンが建てた頃の本来の門。後に6代アウラングゼーブが建て増しした補強用の外壁と城門によってラーホール門は外から見えなくなってしまった。彼は防御を優先し「美女の顔を隠すヴェールのように」と語ったという。
この門は単に防御だけでなくヒンドゥーとイスラムの両建築が融合した装飾はムガルの絶大なる権勢を誇示しており、ここから続く城壁は実に総延長2?に及ぶ壮大な建造物の起点となっている。 -
チャッタ・チョウク[Chatta Chowk]
門をぬけると両側にバザールが広がる。チャッタ・チョウクは「屋根付き市場」の意で、往時は王室のための高級店が並んでいた。今もシルクや貴金属店が軒を連ねる。 -
ナウバート・カーナ[Naubat Khana]
別名ドラム・ハウス[Drum House]、かつては1日5回皇帝や王族らが到着した際ドラムやシンバルを鳴らし迎えた。王族を除き全ての人々は乗り物から降りて徒歩で入城したという。1754年皇帝アフマッド・シャーが暗殺された場所でもあり、現在上階はインド戦争記念博物館[Indian War Memorial Museum]になっている。 -
ディワニ・アーム[Diwan-i-Am]
一般謁見の間、ここはムガル皇帝が一般人からの不平や告発を聞くための施設で、シャー・ジャハーンは毎日2時間を過ごしていたと言うが、アウラングゼーブはこの習慣を廃した。 -
ディワニ・アームの玉座
かつては宝石がちりばめられていた大理石の玉座。浪費の限りを尽くす愚帝シャー・ジャハーンであったが、この話を聞くに及んで、アウラングゼーブよりも国民目線に近かったのは彼の方かもしれない。イメージ的には悪政を止めたアウラングゼーブが「善」だと短絡的に捉えていたのだが認識を新たにする必要があるかもしれない。 -
ディワニ・アームの列柱
優雅な曲線をもつアーチとそれを支える柱群は20世紀初頭に修築され見事な美しさを表現。赤砂岩の建造物が続くのはここまでで、これを抜けると一気に大理石の建造物となり贅を尽くした皇帝の居住空間が次々と現れる。 -
ラング・マハル[Rang Mahal]
大理石の建造物が4つ並んだ空間の右に位置する皇帝の第一婦人の住まい。皇帝が最もよく食事をした場所と言われる。 -
カース・マハル[Khas Mahal]
ラング・マハルとディワニ・カースの間の中央にある皇帝の寝殿。 -
ディワニ・カース[Diwan-i-Khas]
カース・マハルを挟んで、ラング・マハルと対になる貴賓謁見の間。閣議や外国大使の謁見が行われた白大理石の建物。美しい草花の模様が刻まれた四角の太い柱によって支えられ屋根の四隅にはチャトリが置かれインド風建築を主張している。 -
カース・マハルの見事な大理石
内部の大理石には壁面・天井を問わず、見事な象嵌が所狭しとちりばめられ、タージ=マハルを作ったシャー・ジャハーンの面目躍如といったところ。「浪費」などという言葉すら陳腐な表現であると感じざるを得ない。 -
ディワニ・カースの草花の象嵌
太い柱一本一本の四面全てに、これら草花が可憐に花をつけている様子は遠目に見ても圧巻で、言葉を失う美しさである。 -
ディワニ・カースの大理石列柱
向こうにはモティ・マスジット[Moti Masjid]が見える。「真珠のモスク」と呼ばれるこの建物は、アウラングゼーブが1662年建造したもので、敬虔なイスラム教徒であった彼が毎回モスクに出かけるのが億劫になって個人用に作ったもの。ますます「善」のイメージが崩れてきます、規模は違ってもシャー・ジャハーンと同じじゃないか。まぁ規模は問題ではあるけれど。 -
3連の大理石建造物を貫く水路。
暑さが尋常ではないインドで涼をとるために水を流したという。うだるような暑さの中、クーラーなどのない当時にとって大理石を冷やしてくれる水という存在がどれだけ有難かったかを想像すれば、こういった実利的な建築上の工夫というのは一概に贅という言葉では片付けたくない気がする。 -
サイクル・リキシャーに乗ってみた
ほんの数百mでしたが、お試しサイクル・リキシャー体験です。これもガイドさんが「乗りますか?」とおたずねになったので、今回も即答・・・後で考えるとツアーのパンフに「リキシャー体験」と書いてありました、ガイドさんが今まで忘れていたんでしょう。
でも、このリキシャー・ワッラーのおじさん、それなりのお歳だと思うのだけれど頑張ってくれました。見かけ以上に乗り心地もよく風を感じるスピード感で、うんいい体験でした。 -
ラージ・ガート[Raji Ghat]
ツアーコースにはないもので、私がガンディーゆかりの地にどーしても寄りたいという我が儘をガイドさんのご厚意で実現していただいたものです。「会社には言わないでね」と仰ってました。ガイドさんがいかにいい人かということと、インドに来たならやはりガンディーは語っておきたいということで、ホントは内緒ですが今回掲載いたします。
このガートの斜め向かいには道をはさんで、ガンディー記念博物館があり、命を奪った銃弾や血に染まった白い布なども展示されています。そこへはさすがに寄れなかったのですが、次に訪れる時は是非行きたいと思います。暗殺現場のガンディーの最後の足跡も見てみたい。 -
1948年1月30日ヒンドゥーの原理主義者の青年によって凶弾に倒れたガンディーは、ここで火葬され河に流された。ここは墓ではないが聖域として今も多くの参拝者が訪れる。正方形の黒大理石の奥には「聖なる火」が灯され、台上の献花は絶えることはない。参拝者は入口で靴を脱がないと聖なる地を歩くことはできない。大理石の正面にはガンディー最後の言葉「ヘーラーム(おぉ神よ)」が刻まれている。
「マハトマ(偉大なる魂)」と呼ばれるガンディーは、宗教的な確執に苦労しつつも、決して諦めず粘り強く戦い続けた。時に彼の運動を生ぬるいとか時代遅れと表現する人もいるが、私には世界史に登場する多くの偉人の中でも、誰よりも尊敬できる人物だと思っている。 -
この後空港に直行しガイドさんとお別れしました。「また来てくださいね、今度は会社を通さないで直接連絡してください、私が無料でガイドしますから」って仰ってくださって、ものすごく感動いたしました。
旅は人との出逢いもあるんだと改めて感じた今回のインドの旅。
これをもって終了といたしましょう。
お立ち寄りくださりありがとうございました。
気がつけば年が明けておりました。
みなさん、あけましておめでとうございます。(笑)
次回は「イタリア旅行記」でまたお会いしましょう。
ではでは〜・・・。
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