2010/07/19 - 2010/07/19
677位(同エリア1480件中)
まみさん
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2010/07/19月 午前:タリン観光3日目&午後、出国・ヘルシンキ経由
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・トームペアの丘の展望ポイントを回る
・民芸市場でショッピング
・市庁舎のトーマスおじさんの写真を撮る
・聖霊教会
【機内泊】
・帰りの機内で見た映画:ティム・バートン監督の「Alice in Wonderland」(日本語吹替えで)&「Clash of the Titan(邦題「タイタンの戦い」)(日本語吹替えで)&アニメ「ムーミン」
2010/07/20火 成田着
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本日、日本に帰国するのがますます名残惜しくなるような、すばらしい写真日和となりました。
雲一つない青空ではなく、涼しげな淡い水色の空にちぎれ曇が浮かんだ、私にとって理想的な空模様でした。
タリンを去るフィンランド航空は14時45分発なので、午前中に最後のタリン観光ができます。
ホテルは12時までにチェックアウトすればよいので、朝食後、荷物を部屋に置いたまま、8時半頃から11時頃まで、タリンの旧市街観光と、民芸品マーケットで買い物をしました。
この日は、真っ先にマーケットで、足らないおみやげの買い物をすませようと思っていたのですが、昨日、曇天で途中で切り上げたトームペアの丘めぐりを、まずさっとすませることにしました。
タリン旧市街の山の手であるトームペアの丘も、なにげない道角に写欲が刺激されるところがたくさんありましたが、石造りの町をくっきり際立たせるような青空が見事で、ますます写欲がそそられました。
トームペアの城や大聖堂など、昨日も撮影した同じターゲットをまた撮影したくなりましたが、がらっと違う雰囲気で撮れたと思います。
トームペアの丘の展望ポイントから旧市街の下町やタリン港を見下ろすアングルは、あいにく午前中は逆光となる向きでしたので、せっかくの青空が写真では白飛びしてしまいました。
肉眼で見ていても、太陽がまぶしくて、空は白っぽくみえたくらいでした。
でも、順光であっても昨日のような曇天に比べれば、晴天の逆光の方が遙かに明るい雰囲気の写真になります。
トームペアの丘から見下ろす景色は、昨日のクム美術館で見た絵の中にもありました。
絵の記憶と目の前の景色が二重写しになりました。
トームペアの丘はもともと静かなエリアのようですが、朝9時前、私のように観光客がいないわけではなかったけれど、人影は少なく、時の中にひっそりと忘れ去られたような雰囲気がありました。
でも町はマイペースで、それでも構わないと思っているよう。
ゆっくりしたい雰囲気がありました。
それでも残念ながら本日はゆっくりしている余裕はありません。
第一目的の展望台ポイントからの景色を眺めることができたし、他にも写真を少しだけゲットできました。
30分ほどの散策で切り上げて、トームペアの丘を下りました。
2010年バルト3国旅行の旅程一覧はこちら。
簡易版「2010年バルト3国旅行プロローグ(旅程一覧)地図付」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10481279/
詳細版「2010年バルト3国旅行の詳細旅程(写真付き)」
http://mami1.cocolog-nifty.com/travel_diary1/2010/07/2010-ccbf.html
「トーンペアの丘は要塞としては最適の場である。石灰岩で出来た丘の上にあり、丘の周辺部は絶壁となっている。現在のタリンに千年以上前から存在していたものをあげるなら、海岸沿いの港、その近くの市場、そして丘の上に建てられたこの要塞である。言い伝えによると、トーンペアの丘はエストニアの英雄カレヴの妻であるリンダが愛する夫の慰霊碑として築き上げたものであると言われ、またその丘の位置をアラビアの地理学者イドリーシーが1154年にQlwryの名前で世界地図に記したと考えられている。」
(タリンで買った日本語カラーパンフレット「タリン 歴史あふれる町」より)
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まるで修道院の入口のような、トームペアの丘の城壁入口
昨日と同じ、リュヒケ・ヤルク通りの階段からアクセスしています。
昨日撮ったリュヒケ・ヤルク通りの写真
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/22354057/
関連の旅行記
「2010年バルト3国旅行第15日目(1)タリン:ゴシック芸術の傑作の聖ニコラス教会とエストニアの山の手トームペアの丘とアダムソン・エリック博物館」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10575252
「トームペアは、石灰岩の層でできた高さ約24m(海抜約47m)の丘。市街を見下ろすトームペアは常に権力の居城となり、市議会が支配する下町とは政治的にも物理的にも厳格に隔てられている。その強固な丘も現在は崩落の危機にあり、補強作業が続けられている。
エストニアの神話で、トームペアは古代の王カレフが眠る墓陵であるとされている。彼の妻リンダは彼を埋葬したのち巨大な石を集め、墓陵を造ろうと考えた。墓陵が完成する最後の石をエプロンに包み丘を登っていたそのとき、エプロンの紐が切れ石は転げ落ちてしまった。疲れ果てた彼女はその石に腰を下ろし、悲しみの涙にくれた。彼女の涙は、ウメミステ湖(Ulemiste Jarv)になったという。
トームペア城の南側下の広場には、今も泣き続けるリンダの像が見られる。」
(「‘09〜’10年版 地球の歩き方 バルトの国々 エストニア・ラトヴィア・リトアニア」より) -
トームペアの丘の可愛いカフェと看板と、アレクサンドル・ネフスキー聖堂のドームの一部
アレクサンドル・ネフスキー聖堂の写真はこちらの旅行記にて。
内部の撮影は不可でしたが、代わりにポストカードの写真をアップしました。
関連の旅行記
「2010年バルト3国旅行第15日目(1)タリン:ゴシック芸術の傑作の聖ニコラス教会とエストニアの山の手トームペアの丘とアダムソン・エリック博物館」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10575252 -
美しい青空の下の大聖堂
それに対して昨日の曇天の空の下で撮った大聖堂の写真
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/22354085/
関連の旅行記
「2010年バルト3国旅行第15日目(1)タリン:ゴシック芸術の傑作の聖ニコラス教会とエストニアの山の手トームペアの丘とアダムソン・エリック博物館」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10575252
こちらの旅行記には大聖堂内部の撮影代わりのポストカードの写真をアップしました。
「(前略)広場の中心にトームペアの呼び名のもととなった「大聖堂」トームキリクがある。この大聖堂は1219年に建設が始まり1233年に完成した。その頃は聖マリア大聖堂と呼ばれていたようだ。ヴァルデマール2世による奉献は1240年だったという。この聖堂は14世紀にゴシック様式に改築され、その後、400年かけて大きくなっている。エストニアで最古といわれるこの大聖堂の内部の調度は立派である。1687年に大火災でほとんどが焼失したが、当時の支配者だったスウェーデン王カール11世が特別課税の措置で2年後にはほとんど元通りに修復している。だが、作業を急ぎ古い基礎の上に再建したので地中に埋まったような形になっている。バルト・ドイツ人の手による祭壇は古色蒼然としている。オルガンは1913年にフランクフルトで製作された。バルト・ドイツ人の教会だったことから、いくつもの貴族の紋章が壁を飾り、床には彼らが眠っている。スウェーデン人の名もいくつかある。」
(「バルト三国歴史紀行 エストニア」(原翔・著/彩流社/2007年発行)より引用) -
さわやかな緑の中の煉瓦造りの館───コフトゥ(Kohtu)通りにて
「要塞と教会のほかにトームペアには貴族の館がいくつか存在した。これらはどれも崖の方に集中していて、教会を半円形で囲むような形で位置していた。現在目にすることができるクラシック様式の建物は1684年の火災後に建てられたものである。(中略)ドイツ系の貴族たちは普段は田舎の荘園で暮らしていたが、(クリスマスからイースターまでの)行事の多い時期は町で過ごした。かつて著名なドイツ系の貴族の館であった建物は、現在それぞれ別の用途で使われている。(後略)」
(タリンで買った日本語カラーパンフレット「タリン 歴史あふれる町」より) -
展望ポイントから、空に雲を集めているような聖ニコラス教会の塔を中心に
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展望ポイントから、新旧の顔のタリン
巨大なホテルが林立している新市街が見えます。 -
展望ポイントから、大型フェリー停泊中のタリン港と、彼方にテレビ塔?
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展望ポイントから、塔のあるタリン旧市街
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赤いとんがり屋根の門と塔が並ぶ
もうちっと塔が見やすいと良かったんですけど。
手前の茶色い丸ドームと塔は、たぶんキリスト変容教会のものだと思います。
この教会までは回れませんでした。 -
別の展望ポイントへ出る中庭
展望ポイントのベンチの人の影@
「トームペアはとても静かなところであるだが、かつてはここで大変な殺戮がおこなわれてもいる。大きな城に滞在していた教皇代理ボールドウインが(リヴォニア)騎士団に小さい城からの退去を求め、両者の間で1233年8月から9月にかけて戦いがおこなわれた。騎士団はボールドウインの部下数百人を殺し、鎧をはぎ取って死体を積み上げたり、死体をエストニア人の家に投げ込んだりした。シトー会がバルトの地で勢力を失う原因となった出来事(後略)。」
(「バルト三国歴史紀行 エストニア」(原翔・著/彩流社/2007年発行)より引用) -
城壁の塔がいくつも見える
左の緑深いあたりは、塔の広場ではないかと思います。 -
トームペアの城壁と、おそらくトーム公園あたり
奥にきっとタリン駅があります。 -
城壁の塔
こうやって見ると、森の中のお城のよう!? -
ラフコトゥ(Raukohtu)通りの行き止まり
城壁から眺望が楽しめるポイントは限定されていて、こうやって個人宅に阻まれて見えないところもありました。 -
見上げるアングルで、大聖堂、再び
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昨日よりもズームで狙ったトームペア城
いかにもロマノフ王朝の宮殿というかんじです。
城の脇にあったはずの塔「のっぽのヘルマン」は見損ねました。
昨日の曇天下で撮ったトームペア城正面の全体の写真
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/22354061/
関連の旅行記
「2010年バルト3国旅行第15日目(1)タリン:ゴシック芸術の傑作の聖ニコラス教会とエストニアの山の手トームペアの丘とアダムソン・エリック博物館」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10575252 -
キーク・イン・デ・キョクとはアレに違いない@
クム美術館で見た19世紀の絵にあった姿と、今の姿が大きく変わっていません@
関連の写真
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/22385407/
関連の旅行記
「2010年バルト3国旅行第15日目(2)タリン:カドリオルク地区再び&絵画で触れるエストニア絵画(クム美術館・前編)」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10575253/
「キーク・イン・デ・キョクはトームペアの南端にそびえる高さ49mの塔。15世紀末に町の防備のために造られ、16世紀初めに補強されて今に残っている。外壁をよく見ると9つの砲弾が壁に埋め込まれているのがわかる。
このおかしな名前は、低地ドイツ語で「台所をのぞけ」という意味。かつてこの上からは下町の家々の台所が手に取るようにのぞき見えたという。現在は博物館(内部改装のため2009年9月まで閉館)として使われ、最上階にも上がれるので、何が見えるか確かめてみよう。(後略)」
(「‘09〜’10年版 地球の歩き方 バルトの国々 エストニア・ラトヴィア・リトアニア」より)
「(前略)一番下の階は武器庫だが、四階には射程距離が市の境界外まであったという大砲がおかれていた。この増強工事は1480年に南エストニアで勃発したリヴォニア騎士団とプスコフのロシア人との戦いに備えたもので、この時点でタリンに初めて砲塔が出現したのだ。1532年には塔の下部が15メートルから18メートルの土で覆われて堅固な要塞となる。だが、1577年にロシア軍に包囲されたとき上部は砲撃で破壊された。これを戦後すぐに補修したのが現在の姿である。(後略)」
(「バルト三国歴史紀行 エストニア」(原翔・著/彩流社/2007年発行)より引用) -
中世風の射的ゲームと、トームペアを囲む城壁
あの塔は、ネイツィトルンかな?
「(前略)(キーク・インデ・キョク)の隣の四角い塔がネイツィトルン。中世には売春婦の牢として使われたので、“乙女の塔”という皮肉な名が付けられた。
ネイツィトルン前の広場から下町にいたるあたりは「デンマーク王の庭」として知られている。エストニア人との戦いで窮地に陥った王は、ここで神に祈った。すると空から赤地に白十字の旗が舞い下りて来て、それに鼓舞された彼らは砦を落とすことができたといわれている。その旗は、後にデンマーク国旗となった。1219年6月15日、国旗の起源がはっきり記録された珍しい例といえよう。」
(「‘09〜’10年版 地球の歩き方 バルトの国々 エストニア・ラトヴィア・リトアニア」より) -
トームペアの城壁を出たところ
ものものしくて、かっこいい@
この城壁前の広場が「デンマーク王の庭」でしょう。
「北ヨーロッパの都市には領主の居住地ができて、その周辺に後から街が形成されていったものが多い。旅をする商人が一時の安全を求めて城の近くに滞在する。その滞在期間が延びてやがては住み着く。そういった経緯をたどっている。当時の商人は一攫千金を狙う荒くれ者の集団で、盗賊や山賊が跋扈する道中を危険をかえりみずに旅する命知らずの人たちだった。領主はそんな武装した素性の知れない連中からは離れていた。だが、商人が多く集まって市場がたつようになると、彼らは場所を提供して商売をさせ、市場から税金を徴収することに利点を見いだすようになる。それでも領主は決して一緒に住もうとはしなかった。だから、商人は城壁の外に市場をつくり、それを中心に街ができ、その街を防御するために壁で囲った。これが城の周囲に城壁で囲まれた下町ができた理由だが、タリンもこうしてできた街である。
タリン(Tallinn)の旧市街は山の手と下町からなるといわれているが、山の手と下町は長らく異なる行政で運営されてきた。双方が一体化してタリンの名称で呼ばれるようになるのはずっと後の1889年になってからである。(後略)」
(「バルト三国歴史紀行 エストニア」(原翔・著/彩流社/2007年発行)より引用) -
カフェになっている城壁
エストニアの国旗と、デンマークの国旗? -
城壁前の広場「デンマーク王の庭」
昨日撮影した同じ広場の写真
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/22354058/
関連の旅行記
「2010年バルト3国旅行第15日目(1)タリン:ゴシック芸術の傑作の聖ニコラス教会とエストニアの山の手トームペアの丘とアダムソン・エリック博物館」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10575252 -
トームペアから下町に降りるリュヒケ・ヤルク通り
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リュヒケ・ヤルク通りの家の屋根
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昨日訪れた、アダムソン・エリック美術館の看板
アダムソン・エリック美術館の写真のある旅行記
「2010年バルト3国旅行第15日目(1)タリン:ゴシック芸術の傑作の聖ニコラス教会とエストニアの山の手トームペアの丘とアダムソン・エリック博物館」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10575252
次はいよいよ、最後の旅行記「2010年バルト3国旅行第16日目(2)タリン:聖霊教会を回って、バルト3国を後にする(完)」です。
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