2011/05/21 - 2011/05/24
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frau.himmelさん
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二回続けてドイツの重たいテーマで旅行記を書いてまいりましたので、今回は気分を変えて旅情溢れる九州道の旅を振り返ってみたいと思います。
ドイツから帰国して1週間後に用があり九州に行ってまいりました。
そのついでに(どちらがついでなのか…・笑)熊本・鹿児島を回ってきました。
鹿児島空港に着いたとたん、例年より10日も早く鹿児島地方が入梅したとテレビで言っていましたが、幸い大降りの日もなく、緑が綺麗な九州路を満喫できました。
やっぱり九州はいいわー。
なんとなく故郷に帰った気持ちです(笑)。
おことわり
表題は熊本県観光連盟の旅行カタログより使わせていただきました。
◇◆
返す返すも残念なのはカメラの調子がおかしかったこと。
カメラの機能をよく勉強しないであれこれいじくり回したのが原因です。
ドイツに行く前に買い換えたばかりのカメラなんですよー(泣)。
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-
空港で遅めの昼食を摂って、空港バスで人吉に向かいます。
人吉まで1時間くらいです。
人吉は熊本空港よりこの鹿児島空港からの方が便利なのです。 -
鹿児島空港のバス発着所の前には天然温泉足湯があります。
バスの出発まで時間がある人には大変助かります。
そんなに頻繁にバスがあるわけではないので、飛行機の到着時間しだいでは何時間も待たされることがあります。
おやっとさあ(おつかれさま)鹿児島弁ですね。 -
空港バスで人吉インターで降りて、タクシーでホテルまで向かいました。
ホテルのフロントで「この辺で美味しい料理屋さんありません?」って聞いて、紹介してもらったところがここ「二代目」。
球磨川の支流、山田川沿いにあります。 -
とても感じが良さそうなところです。
実は、人吉インターからホテルまでのタクシーの運転手にも聞いたのです。
ところが彼が紹介してくれたところは、タクシー会社専属のレストランらしくて、和・洋・中華なんでも揃うようなお店のようでした。
人吉まで来て、何でもレストランは勘弁してよ! -
夫は球磨焼酎のロック、私は焼酎の柚子サワーでまずはお店お薦めのお刺身をいただきます。
きびなご、まぐろ、鯛のレモン締め、うになど鮮度がとてもよくて美味しかったです。 -
人吉にきたら球磨川の鮎でしょ…?
ところが今はまだ鮎の時季ではないと…。
冷凍のものだったらあるけど…、って言われたけどやめました。
山女の甘露煮。
地元(球磨川、川辺川)でとれた山女ですって。 -
夫婦二人きりだとめったに家では作らない天ぷらをいただきます。
実はこれも山菜の天ぷらを期待していたのですが、時期的に遅いらしくて…。
でもこちらの名産細い筍の天ぷらが入っていました。
それとサラダ。
野菜はやはりとらなきゃね。
夫は球磨焼酎をスイスイいただいています。
あんまり飲みすぎないでね! -
あと、何をいただいたかしら?
入口の隅には獅子おどしなども配置してあり、落ち着いたとても感じのいいお店でした。
お客さんも多くて、さすが、ホテル朝陽館お薦めの人気のお店です。 -
翌日…
夫と別行動で私は一人で人吉の街を歩きます。
ここは温泉の街、人吉の目抜き通り、九日町通り。
大きな老舗ホテルが並んでいます。このホテルは「鮎の里」、もう少し行くと「鍋屋旅館」があります。
手前は、温泉饅頭で有名な秋山製菓店です。 -
熊本名物「いきなり団子」ってご存知ですか?
蒸かしたサツマイモと小豆餡を、小麦粉の衣でくるんで蒸した素朴なお団子です。
関東地方でも時々デパートなどで売られており、見つけたらすぐ買います。
私はこれが大好きなんです。
今日はお休みらしいですね、残念! -
水の手橋にやってきました。
日本三大急流のひとつに数えられる球磨川にかかる橋、この水の手橋を渡って人吉城址のほうに向かいます。 -
橋の上から右手の方向には、球磨川沿いに建つ旅館やホテルが…。
あの橋は大橋です。 -
そして正面には、わあー、なんてステキな風景なの!
清流・球磨川に人吉城址の緑の森がくっきりと写っています。
返す返すもカメラの調整がよかったらなー、悔しいです。 -
橋の中ほどから、人吉城の長塀と、その先に石垣が見えてきました。
人吉城は、1198年遠江国(静岡県)相良より、人吉にやってきた相良長頼が城を築城したのが始まりだといわれています。
豊臣秀吉の九州征服により、人吉藩22,000石の大名として、明治4年の廃藩置県まで存続しました。 -
橋の袂から左に曲がって城址の方に入ってみましょう。
たかが地方の小大名の城、とは到底思えないくらいの立派な城です。
右手の石垣は「武者返し」という工法で造られたこの城独特のものです。
左は「間米蔵」跡。 -
武者返し
この写真では解かりにくいかと思いますが、「武者返し」と呼ばれる「はね出し工法」で造られた石垣です。
防火のためのものです。
函館の五稜郭や江戸湾のお台場など、日本では数例しか見られないヨーロッパ式の珍しい工法です。 -
間米蔵
右手の、丸い石が残っている建物跡は年貢米を納めておく米蔵でした。
江戸幕末期、文久2年、人吉城と城下町の大半が焼失する「寅助火事」によりここも焼けてなくなりました。 -
水の手門
球磨川に面する門で水運のための門でした。 -
堀合門
城主の住む御館の北側に造られた門で、先の寅助火事でも消失をまぬかれたそうです。
この門は、近年観光客のために造られたもので、現存する門は市内にある武家屋敷に移築されています。
後ほどご案内します。 -
観光客用に設置されたチャチな相良(さがら)の殿様。
◆◇
せっかく今まで歴史を感じながら気持ちよく歩いていたのにぃ…。
興ざめです!。 -
堀合門をくぐって城内に入ります。
この石段を登ります。
今の季節は、お城の中も緑が豊かで雰囲気がいいですね。 -
更に登るとこのような立て札が立っています。
カメラの調子が悪く文字が写っていませんが…。
この先は本丸、二の丸、三の丸があった場所です。
先の大火で今は残っていませんが、石垣や跡が残っているそうです。
私はここには登りませんでした。 -
道なりに行くと、そこには球磨川の川運に私財を投げ打った人の碑や…、
-
力石と呼ばれる石。
どうしてそういう名が付いたのか、残念ながら立て札の字が読めません。 -
居石と呼ばれる石
-
その先には池があります。
カキツバタがとても綺麗です。 -
お城の水堀には蓮の葉が生い茂っていました。
蓮の花の季節にはさぞ綺麗でしょうね。 -
ここにこのような碑が。
ここより東に8キロの場所に高原(たかんばる)という地があり、そこに人吉海軍航空隊があったと…。
それを記念して昭和46年にこの先400メートルの地に「予科練留魂の碑」(望岳苑)が建てられているそうです。 -
更に付近を散歩していると「林慶寺」があります。
境内に幕末の志士・勝海舟の揮毫「明治十年戦死の碑」があるそうです。
この人吉は、西南戦争の折、西郷隆盛軍が1ヶ月ほど陣を構えた街なのです。市内のあちらこちらにそれらに関わるスポットがあります。 -
温泉の街として有名な人吉には、源泉が30箇所以上もあるそうです。
温泉を利用したこのようにひなびた共同浴場も多く点在しています。
この「元湯」は、その中でも最も古い共同浴場です。
入湯料200円。 -
いかにも城下町という風情の通りです。
その昔この辺には武家屋敷が並んでいたのでしょうか。
そんなステキな通りを更に歩を進めます。 -
人吉市役所
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この道路は、環境庁によって「九州自然歩道」に指定されているんですね。
道理でとっても雰囲気がいいと思いました。 -
こんどは球磨川の支流・胸川にかかる大手橋(おおてばし)を渡って、市内のほうに向かいましょう。
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橋の右側には復元された「多門櫓」が見えます。
現在は人吉城歴史館になっています。
館内には、城主相良氏の領域を示す球磨絵図や人吉城の歴史、人吉城の別名「繊月城」の由来となった繊月石や、古文書などが展示されているそうです。 -
大通りを突っ切って裁判所の角をさらに進むと、人が大勢集まっている場所がありました。
風船をもった子供連れや、友人と連れ立って入っていく若者たち。
私もそこに入ってみましょう。 -
そこは「繊月酒造」という球磨焼酎の老舗醸造所。
ここで「繊月祭り」をやっていました。
賑やかそーう!楽しそーう!
ドイツでよくやっている「ワイン祭り」のようなものね。 -
焼酎ケースを台にしたテーブルや、イスに座って、みんな楽しそう!。
-
模擬店もいろいろ出ています。
-
相良村直送「茶の葉の天ぷら」
人吉市の隣村、相良村は上等のお茶の生産地です。
いま丁度茶摘の時期ですね。
柔らかい新芽を使った、さぞかし美味しい天ぷらでしょうね。 -
ここは鮎の塩焼きコーナーです。
串の刺し具合がいいですねー。
いかにも若鮎が球磨川の清流でピチピチ跳ねているような、そんな風情です。 -
会場の奥まった所で、人だかりがしています。
舞台の上では俳優の宇梶剛士さんが出演していました。
みんな有名な俳優さんを一目見ようと集まっているのでした。 -
彼は繊月酒造の次回のCMに出演するそうで、そのお披露目のため来ていたのです。
壁に次回からのCMの絵コンテが掲示してありました。 -
せっかく来たのですから焼酎工場のほうも入ってみましょう。
残念ながら、今日はお祭りとあって中には入れないようです。
入口に焼酎を仕込む年代ものの樽やタライなどがあり、いかにも老舗の醸造所といった感じです。 -
会場を出ようとしてこんなものを見つけました。
「繊月酒造」は人吉城の別名「繊月城」から名づけられたものです。
ここにそのお宝「繊月石」の写真と由来が書いてありました。
そして「繊月酒造」ではお社を造って奉っているそうです。
「繊月」とは三日月のような細い月のこと、それに似た石が1199年人吉城の修築中に出土したそうです。
これから満ちてゆく繊月に思いを込めて、人吉城を別名「繊月城」と名前が付けられたそうです。 -
醸造所に隣り合っている温泉は同じ経営者が造ったものです。
ここも共同浴場となっており、誰でも入ることが出来ます。 -
とても鄙びた温泉です。
適応症がいろいろ書いてあります。
毎日この温泉に浸かっていたら、ホントにこれらの病気がすぐ治りそうです。 -
武家屋敷
さて、ここが人吉城から移築された堀合門です。
寅助火事により、人吉城はほとんど焼失しましたが、この門は唯一残った建造物です。
またまた入口のハリボテが目障りですね。 -
西南戦争時の西郷隆盛です。
この家を西南戦争で逃れてきた西郷隆盛が宿舎として使っていたそうです。 -
-
西郷隆盛が西南の役の際、本陣を設けたことで知られる「永国寺」です。
観光客には、「幽霊の掛け軸」がある寺としての方が有名かも知れません。
山門を入ります。 -
永国寺の説明文
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仁王門
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仁王門を入ると市指定文化財の四重石塔があります。
1227年に造られたもの。
当時は五重石塔でした。 -
西郷本営跡碑。
明治10年、田原坂の戦いで敗れた西郷軍は4月27日人吉に逃れ、ここ永国寺に本営を築き官軍を防ごうとした。
33日間官軍を防いだが、遂に5月29日、加久藤峠を越えて小林へと逃れた。
その時この寺もあらかた燃えてしまったが、焼け残ったひとつが「幽霊の掛け軸」である。
この碑は、西本営を記念して海軍大将・山本善輔が揮毫したものである、そうです。 -
さあ、では私も本堂に上がって幽霊の掛け軸にご対面しましょうか。
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これが幽霊の掛け軸。
正面から撮ったら、私と幽霊さんがツーショットで写ってしまいますので、それは勘弁!
私が入らないように横から撮りましたので、見難い写真でごめんなさい。 -
西郷隆盛のお位牌もあるそうです。
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またこの寺には幽霊が出たと言う池もあるそうです。
行って見ましょうか。 -
ここが実際に幽霊が出たという池です(ほんとかなー)。
そんなおどろおどろしい感じはしませんが、夜は近寄れませんね。
池泉回遊式庭園。 -
帰りにこのお墓を見つけました。
一井正典(歯科医師、別名ジュグリット先生)
1862年人吉に生まれる。
明治18年アメリカに歯科医師の勉強をする。
近代歯科医学の先駆者で、歴代天皇の歯科医師をつとめた。 -
ついでですから、その他私が知っている人吉の偉人も紹介しておきますね。
高木惣吉(海軍少将)
太平洋戦争末期、戦局が悪化していく中、井上成美海軍次官から密命をうけ、終戦工作に奔走した。
*一億玉砕の悲劇から、命がけで日本を救った海軍少将高木惣吉。 渋谷敦著・「積乱雲」より*
写真も同上 -
日野熊蔵
日本初のパイロット。
旧相良藩士の長男として生まれ陸軍軍人となる。
1901年徳川家の徳川好敏氏と共に日本初飛行に成功した。
人吉には、歴史上の偉大な人物が多くいるのですね。 -
さて、今度は人吉橋を渡って、国宝に指定された青井阿蘇神社に向かいます。
橋の上からは中河原公園が見えます。ここで毎年花火大会が開催されているそうですが、今年はどうなるのでしょうかね。
◆◇
あんまり人吉が居心地がいいので、ゆっくり歩きすぎました。
いったん、ここで第1部を終わります。
続きは第2部で…。
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この旅行記へのコメント (6)
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- 哈桑湖さん 2011/07/01 23:39:49
- 人吉は、まだです
- frau.himmel様
こんばんわ、九州はかなり周りましたが、人吉と日田は、まだ行ったことがありません
人吉が美しいとは聞いていましたが、こんなに綺麗だったとは。
綺麗なお写真,有難うございました。
- frau.himmelさん からの返信 2011/07/03 09:33:16
- RE: 人吉は、まだです
- 浦潮斯徳さま ご無沙汰しています。
人吉のメッセージありがとうございました。
人吉は、歴史もあり、自然もとても綺麗なところです。
ぜひ、一度いらっしてください。
さて、私はこの5月、ドイツのダッハウ強制収容所に行ってまいりました。
殆どはパネルの展示でしたが、それでもその悲惨さは想像を絶するものでした。
またダッハウでは、大勢のロシア人捕虜が処刑されているんですね。
ロシア、ドイツ両国に造詣の深い浦潮斯徳さまが、ここをご覧になったらどういう感想をお持ちになるかしら?とその時思ったものでした。
現代の歴史について、まだまだ知りたいことはたくさんあります。これからもどうかご教示ください。
浦潮斯徳さまの旅行記、新しくアップなさったかしら?と時々覗いています。
himmel
- 哈桑湖さん からの返信 2011/07/03 10:46:54
- アメリカ兵も、戦後ドイツの武装SS将校を、ここで拷問を繰り返していました。
- お便りありがとうございます
ダッハウのお写真、アウシュヴィッツとは、なんとなく趣がちがいますね。
アウシュヴィッツでは、盗みが横行していたようですが、政治犯の多いダッハウでは、囚人の知的レベルが高く、盗みは皆無ということでしたが。
あとベルゲン・ベルゼン収容所もありました。ここには、看護婦の資格をもつ、ブロンドのイルマ・グレーゼという女看守がいました。世界一美しい野獣といわれ、戦後、英軍の裁判で絞首刑判決に。
この22歳の美しい女囚を、英軍兵士が処刑するのを嫌がり、英国本国から、本職の死刑執行人を連れてきました。
http://www.youtube.com/watch?v=inZprLOMHRk&feature=related
この動画は、戦後アメリカ軍が、同じダッハウで、ドイツの武装親衛隊(強制収容所のSSとは、また別の組織)の将校を、マルメディ事件で、裁判にかけているものです。大半のドイツ人は、アメリカ軍の拷問により、歯を撲り折られていました。
http://www.youtube.com/watch?v=VWZT3YKYBzg&feature=related
こっちは、上の動画の一部です。アメリカ兵捕虜を、ドイツの武装親衛隊が,マルメディで殺害したという事件の首謀者として、取調べを受けているヨアヒム・パイパーです。
パイパーは、このマルメディ事件に対して、部下のしたことは、いかなることであれ、指揮官の責任とのべます。ただ射殺命令を出してはいないので、絞首刑ではなく、(軍人として名誉ある)銃殺刑を、請願します。
このマルメディ事件は、真相はつかめぬまま終了し、全員が釈放されます。この裁判は、アメリカの復讐劇とドイツ人には映りました。現在では、マルメディ事件は、雪中での偶発事故とされています。
ただ映画バルジ大作戦では、ドイツの武装親衛隊によるアメリカ兵捕虜殺害が、描かれています。
ヨアヒム・パイパーは、日本のプラモデルのミリタリー・マニアなら、必ず知っています。
- frau.himmelさん からの返信 2011/07/05 20:41:33
- RE: アメリカ兵も、戦後ドイツの武装SS将校を、ここで拷問を繰り返していました。
- 浦潮斯徳さま こんばんは。
早速、大変興味深い情報ありがとうございました。
ユーチューブのオアヒム・パイパーの画像、ワクワクして見ました。(英語が理解できないのが残念でしたが…)
昔の戦争映画でパットン将軍やロンメル将軍のことはよく知っていましたが、ヨアヒム・パイパーの名前は初めて知りました。
なかなかハンサムですし、また
> パイパーは、このマルメディ事件に対して、部下のしたことは、いかなることであれ、指揮官の責任とのべます。ただ射殺命令を出してはいないので、絞首刑ではなく、(軍人として名誉ある)銃殺刑を、請願します。
との正義感の強さが民衆受けして、日本のプラモデルでも人気者になっているのでしょうか。
でも、裁判で一旦は死刑と宣告(でしたっけ?)されながら、その後の裁判で釈放されたとのこと。また彼は家族ともどもどこかの国に亡命して偽名を使って生活していたけど、それがばれて強制出国の直前に、家に投げ込まれた爆弾により死亡したとのこと。どこまで波乱万丈な人生を送った人なんでしょう。
こんなところもプラモデルの人気者になる要素なんでしょうね。
マルメディ事件の真相や、バジル大作戦の有名な話より、そのような枝葉(えだは)に大変興味があります。
> アメリカ兵も、戦後ドイツの武装SS将校を、ここで拷問を繰り返していました。
ダッハウの虐殺のことですね。
ダッハウ強制収容所は日系人部隊が中心になって解放されたけれど、このことは長い間隠し続けられたことの真相も大変面白かったです。
次はイルマ・グレーゼのことも調べてみます。
興味あるお話ありがとうございました。
himmel
-
- 横浜臨海公園さん 2011/06/14 13:40:21
- 球磨人吉
- frau.himmelさま、こんにちは。
横浜生まれの横浜育ちの小生にとって人吉市内の見慣れた光景に改めて新鮮さを感じた旅行記でした。
高木惣吉海軍少将、実は、小生高木海軍少将を身近で見た体験がございます。
昭和47年4月に父方の祖母が亡くなり、その告別式参列者に祖父の海軍兵学校同期や先輩後輩の中に高木さまがおられました。
皆さん昨今の男性とは違い、きりりとした方ばかりでしたが、眼光が鋭かったのが印象的です。
また、存命中に1度お話を聞く機会があり、メモなど見ずに数字を覚えておられ記憶力が抜群で老いを感じさせなかったものでした。
その、高木海軍少将も亡くなられて、もう32年が経過し、旧海軍兵学校卒業生存命者も僅かになってしまいました。
横浜臨海公園
- frau.himmelさん からの返信 2011/06/14 20:41:40
- RE: 球磨人吉
- 横浜臨海公園さま こんばんは。
いつも私のつたない旅行記にお寄りいただきありがとうございます。
> 横浜生まれの横浜育ちの小生にとって人吉市内の見慣れた光景に改めて新鮮さを感じた旅行記でした。
横浜臨海公園さまにそう言っていただけるなんて光栄です。
ようやく人吉・球磨編に手をつけました。
ステキな街ですねー(笑)。もっと観光客が増えて賑やかになってもいい街だと思います。
> 高木惣吉海軍少将、実は、小生高木海軍少将を身近で見た体験がございます。
私も高木惣吉少将に関する本を何冊か読みましたが、九州のはずれであんな高邁な考えを持った偉人が生まれたなんて、人吉ってさすが素晴らしい土地です。
そのお方と横浜臨海公園さまは因縁があった方なのですね。お祖父様と海軍兵学校で高木少将は同期だったのですか。
> その、高木海軍少将も亡くなられて、もう32年が経過し、旧海軍兵学校卒業生存命者も僅かになってしまいました。
ホントにそうですね。海軍兵学校の集まりの海空会や、同じような集まりで水交会など昔ありましたが、今はどうなっているのでしょうね。
月日の経つのは早いものです。私もウカウカしておれません。
今後ともよろしくお願いいたします。
himmel
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