2011/02/13 - 2011/02/13
317位(同エリア836件中)
吉備津彦さん
長浜城へは2度目の登城。
前回は桜が満開でした。
今回は梅盆展が目的の長浜だったので桜は無しです。
吹雪の長浜でしたが城の写真を撮る時だけ雪が止みました。
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- JRローカル
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1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に当時今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名した。小谷城で使われていた資材や、あらかじめ、竹生島に密かに隠されていた材木などを見つけ出し、それらを使用し築城を開始した。同3・4年頃完成し入城。湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した。そのため、現在でも城下町には当時の面影や名残がある。秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の城下町経営の基礎を醸成した所でもある。 本能寺の変後、清洲会議で長浜の支配権を獲得した柴田勝家の甥の柴田勝豊が入城するも、まもなく勝家と対立した秀吉に攻められ落城した。賤ヶ岳の戦い後は、山内一豊が6年間在城し、内藤信成・信正が城主になるが1615年(元和元年)に廃城になり資材の大半は彦根城の築城に流用された。彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられている。その他、長浜市内にある大通寺の台所門は長浜城の大手門を移したものと伝えられ、今でも矢尻の跡が残っているを見ることができる。同市内にある知善院の表門は、長浜城の搦手門を移したものと伝えられている。
長浜城歴史博物館 美術館・博物館
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現在の天守は1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元されたもので市立長浜城歴史博物館として運営されている
長浜城歴史博物館 美術館・博物館
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織田信長が浅井長政(あざいながまさ:信長の妹・お市の夫)の居城、小谷城(おだにじょう)を攻めたとき、横山城を守る木下藤吉郎(きのしたとうきちろう:後の豊臣秀吉)は大活躍しました。小谷城が落城する直前にお市と三人の娘を救出したエピソードは有名です。
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天正元年(1573)9月、浅井氏が滅亡すると、藤吉郎は戦功により浅井氏の領地の大部分を与えられ、 羽柴秀吉(はしばひでよし)と名乗り、はじめて城持(しろもち)の大名に出世しました。翌年、今浜(いまはま:現在の長浜)が交通の要衝であると考え、お城を造り始めました。築城工事のため領内の住民を集めたり、竹生島(ちくぶしま)の材木を運んだりした古文書は残っていますが、当時のお城の絵図面などもなく、長浜城がどのようなものだったか分からないことがたくさんあります。
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イチオシ
天正3年秋頃、お城が完成すると地名を今浜から「長浜(ながはま)」に改め、秀吉は小谷城から家族とともに移り、天正10年(1582)まで住んでいました。 この間、秀吉はこの長浜城から信長の先兵として北陸攻めや中国攻めへと出発していったのです。
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長浜城天守閣は、『長浜歴史博物館』となっている。 開館時間 AM9:00 〜 PM5:00(入館はPM4:30まで)
休館日 毎週月曜日と毎月最終火曜日
入館料 一般 400円 -
太閤井戸
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秀吉銅像
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長浜駅から望む長浜城
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イチオシ
駅前の秀吉と石田佐吉出会いの銅像
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佐吉像
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石松丸墓所の碑
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イチオシ
石松丸秀勝(ひでかつ、元亀元年(1570年) - 天正4年10月14日(1576年11月4日))は、安土桃山時代の人物。羽柴秀吉が近江国・長浜城主時代に側室・南殿(一説に同じく側室である京極高次の妹・竜子とも)との間にもうけた長男で、幼名は石松丸(いしまつまる)。
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秀吉の正室のねねには子がなかったため、秀吉にとっては初めての男児であったが、6歳で夭折した。秀吉は幼くして没した息子を偲ぶためか、彼の名である「秀勝」を養子のうちの何人かに名乗らせており、羽柴秀勝や豊臣秀勝もその一人である。その存在を疑問視する声も多いが、宝厳寺の「竹生島奉加帳」に秀吉の子の「石松丸」の存在は、その母の南殿と共に記されている。また、滋賀県長浜市の妙法寺には秀勝の肖像画が所蔵されていたが、現在は焼失し現存していない。しかし、法要用の掛け軸「本光院朝覚居士絵像」の写真が残っている。他にも天正4年10月14日の銘文がある、秀勝のものと思われる供養塔も残っている(法名は「朝覚霊位」)。更に、同市の徳昌寺には位牌があり、法名は「本光院朝覚居士」となっている
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浅井氏を亡(ほろ)ぼした信長は、秀吉に湖北の地を治(おさ)めるように命(めい)じました。秀吉は、湖岸に城を築(きず)き、今浜を長浜と改めました。まず道路を京都のように整え、有名な社寺を城下町に移(うつ)し、商人(しょうにん)や職人(しょくにん)をこの新しい町に住まわせました。そして秀吉は長浜の町に300石分の朱印免税地(しゅいんめんぜいち)を設けました。また、土地の鎮守(ちんじゅ)である八幡宮(はちまんぐう)は、東西2町(約200メートル)、南北1町(約100メートル)の境内(けいだい)を免税(めんぜい)にしただけでなく、160石の神領(しんりょう)を寄進(きしん)しました。その他の寺院にもそれぞれ寺領(じりょう)を奉納(ほうのう)しています。また12組の曳山(ひきやま)は、わが子の誕生(たんじょう)を祝(いわ)って町民に配ったお金をもとにして建造(けんぞう)されたとも伝えられています。
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秀吉の茶亭門
江戸時代から続く鉦鋳造工匠・西川家の茶亭門。調査によりこの門は、江戸期以前、秀吉公の茶亭門であったことがわかった。秀吉公がこの門をくぐって茶の湯を愉しまれた。現在、この場所は、カフェレストランになっています。洋風の食事やデザートが楽しめます。 -
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置手拭形兜
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