2010/08/18 - 2010/08/23
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あいあ〜るさん
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チュラーロンコーン大王記念日100年を控え、チュラーロンコーン大王の足跡を訪ねる旅も、いよいよ最終日となりました。
時間の都合で行きたい場所の半分も行かれませんでしたが、最終日はここも外せない場所の1つ「バーンパイン」を訪れました。
バーンパイン宮殿には10年以上前になりますが訪れたことがありますし、自分で行かなくても写真を調達することもできます。
しかしワットニウェートにも行きたかったので、バーンパイン行きを決行しました。
往路は鉄道で。
バンコクからバーンパインへは鉄道より早いバスもあるのですが、バスがどこから出ているのか調べるのも面倒だし、往路と復路で違う交通手段を使おうと思い、往路は鉄道・復路はバスにしました。
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 航空会社
- タイ国際航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
タクシーでバンコク駅(通称フアランポーン駅)へ。
タイの鉄道はチュラーロンコーン大王の命によって建設が始められました。
ホー族(天下泰平の乱で敗れた漢民族)の襲撃を度々受けていたラオス北部に、チュラーロンコーン大王はバンコクから大軍を派遣して討伐しました。
しかしその際に、水運を利用できない東北地方への物資輸送の問題が露呈し、国土防衛のために鉄道建設へと繋がりました。
鉄道がナコンラーチャシーマーまで開通すると、東北地方からの豊富な食糧や建設資材などがバンコクへ流入することになり、タイの近代化を下支えする大きな役割を果たすことになります。 -
バンコク駅の正面中央にはタイ鉄道の父とも言えるチュラーロンコーン大王の肖像が飾られています。
ただし現在の場所にバンコク駅が移転して営業を開始したのは1916年で、チュラーロンコーン大王の時代ではありません。
バンコク駅のすぐ隣りに汚いドブ川が流れていることに気付いた方もいらっしゃるでしょう。これはパドゥンクルンカセーム運河で、1853年に王都が拡張された際の外堀になります。
鉄道が建設された当時は、この運河の内側がいわゆる「城内」で、外側が城外だったようです。
鉄道のターミナル駅建設には広大な土地が必要ですから、城外のこの辺りはまだ開発前だったのでしょう。
バンコク駅は現在通称「フアランポーン駅」とも呼ばれていますが、フアランポーンは「葦の茂る原」だったかな?まあそんなような感じの荒地を指す言葉が語源のようです。
駅前にはトロン運河(フアランポーン運河)があったので、現在地に移転後そう呼ばれるようになったのでしょう。
フアランポーン運河は都心部はトロン通り(現在のラーマ4世通り)拡張で埋められてしまったので、現在ではクローントゥーイ以東しか残っていません。 -
ホームに入るとこんな展示が。
そういえばバンコク〜ノーンカーイ間に建設予定の高速鉄道を、中国が建設することに決まりそうだとか、決まったとか。
こんなところまで中国の影響が強まるとは、由々しき事態です。
高速鉄道が開通したら、将来的にはラオスを経て昆明まで通じることになるでしょう。
元々タイの国鉄(北部線)は、中国の雲南と接続することを想定して、中国の鉄道と同じ1435mm軌で建設されました。(現在は1000mm軌)
時間が無かったので展示内容は見られませんでしたが、どんなことが展示されているのかとても気になります。 -
バンコク駅を発車してしばらくすると、日本から譲渡されたブルートレインの編成が留置されていました。
最近はブルートレイン車両が運用されている列車はかなり減ったようですので、車両も減ったのかと思いましたが、まだかなり残っているようですね。
ただ、これらの車両が使用可能な状態なのかどうかは定かではありませんが。
この留置線の辺りが、開業時のバンコク駅があった場所です。 -
気になっていた「ニコムロッファイコーモー11」駅に到着しました。
日本語にすれば「鉄道11km地点集落」駅とでもなりましょうか。
バンコクからちょうど11kmくらいなんだと思います。
日本にもこのような大雑把な駅名はいくつも存在します。
しかしこのような駅は付近に固有の地名も無いような場所に付けられるので、当然ながら普通列車しか停まらないし、中には普通列車する通過する駅もあります。
ではどうして「ニコムロッファイコーモー11」駅が気になるのか。
実はこの駅に停車する特急列車すらあるんです。
いつかこの駅の調査をしてみたいと思います。
ちなみに19km地点と思われる場所には「カーンケーハコーモー19」駅がありますが、そちらは普通列車しか停まりません。 -
列車はバンコク都を出て、パトゥンターニー県に。
「クローンランシット(ランシット運河)」駅に到着しました。
ランシット運河も、チュラーロンコーン大王と切っても切れない運河です。
ところでタイの鉄道に乗車しているサイトなどを見ると、時々小さな駅が「時刻表にも載ってない駅」なんて書かれていますね。
恐らく外国人用のダイジェスト版を見てのことでしょうが、その人が「主要駅しか載っていない時刻表」しか見ていないだけなのに。
実際にタイに時刻表に載っていない駅が存在しているのかどうかは知りませんが、私は今のところ時刻表で見たこともない駅を一度も目撃したことがありません。 -
クローンランシット駅を発車してしばらくすると、ランシット運河らしき運河を越えました。
ランシット運河はチャオプラヤー川とバーンパコン運河とを結ぶ運河で、パトゥンターニーからナコンナーヨックまでほぼ一直線に掘られています。
今回時間があれば、50kmを超えるランシット運河を巡ってチュラーロンコーン大王の功績を見てみたかったのですが、残念ながら時間が足りませんでした。 -
パトゥンターニー県内は広大な平地が広がります。
東西に伸びるランシット運河を軸に、南北に多数の運河が掘られ、チャオプラヤーデルタの湿地帯は一大稲作地帯に姿を変えました。
そしてボウリング条約によってヨーロッパへの米の供給地という役割を義務付けられたタイを支えました。
それを可能にしたのが、チュラーロンコーン大王によるランシット運河の開削。そして長年の慣習を打破した身分制度改革でした。 -
「マハーウィッタヤーライタンマサート(タンマサート大学)」駅に到着しました。
ここタンマサート大学ランシット校から日本に来ている留学生がいるのですが、ちょうど駅名標の前に停車したので撮影して、帰国後彼にこの画像をメールで送りました。
すると彼からは「タンマサートへ行ったのですか?」との返事が。
いや、もしもタンマサート大学へ行くのなら列車では行かないし、行くのであれば行く前に彼に連絡しています。
この駅、どれくらいのタンマサート大学生が通学に利用しているのでしょうか? -
列車はパトゥンターニー県からプラナコンシーアユッタヤー県に入り、ほぼ定刻にバーンパイン駅に到着しました。
バーンパイン駅は思ったより降車客が多かったです。 -
バーンパイン駅舎です。
昔の日本の国鉄の駅舎にも似た風格を感じますね。
最近の日本の駅は、いくら駅舎が大きくなっても風格を感じません。
薄っぺらな駅という感じがします。 -
バーンパイン駅前にソーンテウが停まっていました。
これに乗ってバーンパイン宮殿に向かいます。
運賃は確か10バーツだったと思います。 -
バーパイン駅の片隅に、駅本屋よりもはるかに綺麗な建物が目に入ったので、見に行ってみました。
案内板を見ると、やはり王室用の待合所でした。
それによると、チュラーロンコーン大王がバーンパイン宮殿を訪れる際の休憩所として、チュラーロンコーン大王の命により造られたと書かれています。
そしてこの待合所で2439年(西暦1896年)3月26日にタイ国鉄の開業式典が行われたとも書かれています。
タイ国鉄の王室用待合所と言えばフアヒン駅のそれが有名ですが、どうしてフアヒンばかりがそんなに有名なんだろう?
鉄道遺産としては、バーンパインの方が何倍も価値があると思いますが。 -
待合所の道の反対には、水草に覆われた池のような場所がありました。
見てみると、そこは行き止まりになった不自然な水路でした。
王族が宮殿と鉄道駅との間を往来するために掘られた運河に違いありません。
チュラーロンコーン大王もこの運河を船で行き来されたことでしょう。 -
バーンパイン駅を出発したソーンテウは、満員の盛況でした。
バーンパイン宮殿で降りたのは私達だけで、他の人達はどこへ向かったのか判りません。 -
バーンパイン宮殿はこれまで2回訪れていますが、最後の訪問はもう10年以上前のこと。
バーンパイン宮殿と言えば、とにかく暑いというイメージしかありませんでした。
ですから今回のようにチュラーロンコーン大王というテーマがなかったら、二度と訪れることはなかったと思います。
宮殿内は電動カートで回りました。料金は300バーツでした。
でも受付には1時間400バーツ・延長100バーツって書いてありましたが。
確かタイ語でも同じ金額が書いてあったと思ったので、タイ人価格でもなさそうだし、空いているからタイムサービスなのかな? -
バーンパイン宮殿はアユタヤ朝時代に離宮として建設されました。
アユタヤ陥落後は放置されていましたが、モンクット王(ラーマ4世王)が復旧を始め、チュラーロンコーン大王が大拡張しました。
現在バーンパイン宮殿にある建築物の多くは、チュラーロンコーン大王によって建てられた物のようです。
案内所で「チュラーロンコーン大王が建てた建物はどれですか?」と尋ねたら、「ほとんどそうだ」と言われてしまいました。
バーンパイン宮殿については日本のガイドブックにもそれなりに紹介されていますし、他の方の旅行記にもたくさん投稿されていますので、有名どころの宮殿の投稿は省略します。 -
チャオプラヤー河畔に造られた渡船場です。
これは王族用のようです。 -
当時の様子を再現した渡船場の内部です。
宮殿の内部は撮影禁止ですが、ここだけは撮影可能のようでした。 -
チャオプラヤー大王王妃の慰霊塔です。
乗っていた船が転覆して溺れたのですが、当時は平民が王族の体に触れることが禁止されていたため、助けることができなかったそうです。
輪廻転生を信じるタイ人(中国人を除く)は、先祖を弔うようなことはしないので、お墓もなければ法事もありません。
ですから慰霊碑があるのはとても珍しいことだと思います。
今年のチュラーロンコーン大王記念日も、日本式に言えばチュラーロンコーン大王百回忌となりますが、チュラーロンコーン大王記念日100周年となります。 -
バーンパイン宮殿を後にし、対岸にあるワットニウェートに向かいます。
小腹がすいてきたところで、ちょうどクッティアオルアがあったので、チャオプラヤー川の流れを眺めながら食べました。
クッティアオルアは、日本語にすれば「船の麺類屋」とでもなりましょうか。
水路が主な交通路であった時代は、商いも水路を介して行われました。その名残が水上マーケットです。
流通が水上から陸上に移動するのに伴って、商いの場所も陸上に上がったのですが、船上で売られていた麺類も同様に陸上に商売の場所を移しました。
しかし水上時代の店舗であった船が、陸上でも店舗としてそのまま残りました。
生物進化論ではありませんが、まさに水上マーケット時代の生き証人と言えます。 -
ワットニウェートがある中州へは橋が架けられていないので、このようなゴンドラに乗って渡ります。
このゴンドラを操作しているのは、ワットニウェートのお坊様です。
ところで、バーンパイン宮殿はチャオプラヤー川の中州にあると書かれているガイドブックがありますが、ワットニウェートがあるのが中州で、バーンパイン宮殿があるのは河畔です。
もっともほとんどの日本人旅行者にとってはバーンパイン宮殿が中州であろうがなかろうが関係ないでしょうから、日本のようないい加減なガイドブックでも影響は無いのでしょうが。 -
ワットニウェートに着いて、まずはこちらの仏様にお参りしました。
ちなみにワットニウェートは略称で、正式な名前はワットニウェートタンマプラワットです。 -
お参りをした後、封筒にお金を入れてタンブンすると、お返しにお礼の封筒をくれました。
中を開けてみると、こんなものが。
なんとチュラーロンコーン大王の肖像が刻まれています。
これは今回最高のお土産(自分用の)です。 -
ワットニウェートにもありました。
チュラーロンコーン大王の騎馬象です。
もちろんこちらにもお参りします。 -
これがワットニウェートの本堂です。
どうみてもキリスト教の教会にしか見えませんが、れっきとした仏教寺院です。 -
ワットニウェートの本堂の内部です。
お参りをして、右隅に写っているお坊様に水をかけていただきました。 -
ワットニウェートの本堂にある、チュラーロンコーン大王を描いたステンドグラスです。
-
本堂と博物館の間に、日時計がありました。
こんな所にわざわざ展示してあるのですから、チュラーロンコーン大王の時代にも使われていたのでしょう。
もしかしたらワットニウェートの鐘が、バーンパイン宮殿の時計代わりだったのかもしれません。 -
再びゴンドラでバーンパイン宮殿側に戻り、バーンパイン宮殿の近くに停まっていたソーンテウをチャーターしてバス乗り場まで行きました。
確か料金は40バーツだったと思います。
これがバンコクとバーンパインを結ぶ路線バスです。
バンコクの発着場所はモーチットバスターミナル。
私は渋滞を避けてランシットで降りてタクシーに乗り換えましたが、運賃はランシットまで30バーツ。
モーチット〜バーンパイン間なら40か45バーツくらいだと思います。 -
バスの写真を撮っていたら、ちょうど隣りにアユッタヤーとバーンパインを結ぶロットゥーがやってきました。
アユタヤからバーンパイン観光にくる人は、このロットゥーを利用することになるのでしょうか。 -
ランシットでバスを降りて、タクシーでオーンヌットへ。
バレーボールの世界選手権に備えて小さい国旗を購入したいので、行きつけの国旗屋に行きました。
しかしこの国旗屋は、大きな旗は自前で作っているようですが、小さい旗は他所から仕入れているようなので値段が高いです。
1,000本買うと値段も相当違うので買うのをやめて、国旗は友人に買って送ってもらうことにしました。
ちなみに120x180cm以下の小さい国旗は他の店でも買いますが、200x300cmと300x450cmの国旗は今のところ全てこの店で購入しています。 -
あとはどこかで最後のマッサージをして、土産を買って、ホテルに戻るだけです。
今オーンヌットにいるので、スクンビットソイ19のロビンソンで土産を買えばいいかと、計画を立てます。
後で考えてみたら、BTSオーンヌット駅の前にもスーパーがあるので、そこで買物をして近くでマッサージ屋を探しても良かったのですが。
ロビンソンのあるアソークまでならバスで移動した方が楽なのですが、国旗屋の前はスクンビット通りを反対側へ横断することができません。
普段は不便で運賃も高いBTSを利用することはほとんど無いのですが、ちょうど現在地も目的地も駅の近くなので、BTSを利用しました。
BTSも開業してもう10年になるんですね。
この前できたような気がしているのですが、あの時から自分も10歳も歳をとったということか。 -
マッサージをして、食事をして、土産を買って、ホテルに戻ります。
友人が空港まで送ってくれるというので、準備万端でロビーで寛いでいました。
友人がなかなか現れませんが、21時まで用事があると言っていたので遅れているんだろう。
するとその友人から電話が。「今どこにいますか?」
ホテルのロビーにいるけどと答えると、「待ち合わせはどこでしたか?」
そうだった。
このホテルを知らないというので、ラチャダーピセーク通り沿いにあるフォーチュンホテルで待ち合わせにしたことを、すっかり忘れていました。 -
空港に着きチェックインを終えてから、空港内の郵便局へ行きました。
夜は新しい記念切手は買えないのですが、情報収集と時間潰しを兼ねて。
すると発売中として展示されている切手の中に、チュラーロンコーン大王をデザインした切手が。
一応買えないかと聞いてみたけど、やはりダメでした。 -
すると窓口氏が「切手は今は売れないけど、それが欲しければ持っていってもいいよ。」と。
見てみると、壁に貼られた宣伝用のポスターでした。
「剥がして持って行って」だって。
もちろん自分で剥がして貰って帰ってきました。 -
名古屋に帰るのはいつも深夜便なので、空港内の郵便局へ行くのは毎回23時前後です。
こんな時間にはお客さんもほとんどいないので、暇なのかいつも局員と長話になってしまいます。
話しをしていたら、タイを応援してくれているお礼にと、販売用の切手をくれました。
バンコクで行われたアジア大会の記念切手です。
でもこの切手の代金はどうやって処理したんだろう? -
郵便局を出て、ファミリーマートでミネラルウォーターを買いました。
実は健康診断の結果による精密検査で、胃カメラを飲まなければならないのですが、それが翌日なんです。
夜11時(タイ時間夜9時)以降は何も食べてはいけません。
いつもバンコクからは夜行便で帰るのですが、変な時間に機内食を食べるので仕事中に少し気持ち悪くなるんです。
でも機内食を食べなければちょうどいいやと思い、検査を帰国日にしました。
しかし乾燥した機内で水も抜くのは辛いので、水だけ買って持ち込むことにしたんです。
水を買ってから気付いたのですが、そういえばここで買っても機内には持ち込めません。
結局7バーツで買った水は2口ほど飲んだだけで捨てて、中に入ってから35バーツもする水を買いました。 -
沖縄を通過した辺りで機内食になり起こされました。
しかし全て断って、再び熟睡です。 -
着陸態勢に入ったところで起きました。
起きると私をタイ人と思ったのか、外国人用の入国書類が用意されていました。
日本人エアーホステスとは日本語で話したんだけどなあ。 -
中部空港に到着し、名鉄に乗って会社へ。
乗った特急電車がちょうどポケモン号でした。 -
今回自分で買わずに友人に購入を依頼した国旗が届きました。
その郵送料が2,490バーツです。
これだけあれば300本ほど余分に国旗が買えます。
国旗の費用はもったいないと思わないけど、なぜか送料はもったいない。
この国旗は世界バレーでタイを応援してくれる人に配る予定ですが、それまで私は1,200枚近いタイ国旗を持っていることになります。
おそらく日本人では世界一でしょう。
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この旅行記へのコメント (6)
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- ゲストさん 2010/10/25 11:57:32
- 並の旅じゃありませんね。
- チュラコーン大王を訪ねる旅。ついに完結ですね。
ほとんど学術探究のような旅でしたね。お疲れさまでした。
あいあーるさんの旅行記に触発され、チュラコーン大王の事歴を少し調べてみました。
パークナムの事件は当時「シャム危機」と呼ばれたそうですね。
1893年といえば日清戦争の前年。
仏軍は近代的な軍艦だったと思いますが泰軍は手漕ぎか帆船だったのでは・・・
しかも、泰にとっては無茶な言い掛かりをつけられ一方的に喧嘩を売られたようなもの完全な侵略ですよね。
結果、泰は仏の要求に屈しメコン河以東の領土を割譲。
この時、英は泰の救援や仲介要請を無視したそうです。
競い合ってアジアを食い物にしていた英仏。裏で話がついていたんじゃないでしょうか?
その後、英仏は勝手に泰を両国の緩衝地帯する共同宣言を行います・・・
タイの独立に腐心したチュラコーン大王の苦悩が察せられます。
日本も幕末に同じような目にあっていますが、英仏のやり方に比べれば浦賀にきたアメリカなんか紳士的な方だったみたいですね。
改めてファランの奴らのえげつなさに頭に来ました・・・
ちょっと思ったのが、タイ人と日本人の気質って似ているのかなってことです。
どちらも、比較的、過去の遺恨を引きずらない寛容性があることです。
日本なんかも「昨日の敵は今日の友」ですからね。
- あいあ〜るさん からの返信 2010/10/26 00:07:23
- RE: 並の旅じゃありませんね。
- 房州ロッカーさん、コメントありがとうございます。
事前に日本で調べられることは調べて行ったので、タイでは実際にその場に行って写真を撮っただけですよ。(笑)
もちろんその場に行って初めて判ったこともありますが。
フランス軍艦を砲撃したチョーンクラーオ砦の大砲は、イギリスで造られた当時世界最新鋭の物だったようですが、軍艦の戦闘力はかなり差があったようです。
日本とタイは第二次大戦の開戦時にタイムラグで交戦していますが、基本的に敵対したことはありませんし、同じような歩みをしてきました。
しかし面白いことに、当時の日本はロシアに対抗するためにイギリスと手を結びましたが、タイはフランスに対抗するためにロシアと友好関係にありました。
もしかしたら日本とタイが歴史上唯一敵対陣営にいた時期かもしれません。
- ゲストさん からの返信 2010/10/26 10:04:58
- RE: RE: 並の旅じゃありませんね。
- さすが、あいあーるさん。タイの歴史についても造詣が深い・・・
4トラにタイ好きは多いと謂えど、自前で日泰交流に貢献されている方だけに並のタイ好きとは次元が違うと思っていましたが・・・
確かに、タイ南部における日泰の交戦は敵国同士の戦争というより連絡調整の不調による不慮の事故といった感じでしたね。
(当時のタイ首相が怪しげな行動をとった所為のような気もしますが・・・)
事前に旅先のことを調べるというのは大事なことだと思います。
知っているか否かで旅の内容が変わってきますからね。
以前、チュンポンに行ったことがあります。
当初、滞在予定もなくサムイ島へ渡る通過点としか考えていませんでしたが、列車が遅れフェリーに乗れなくなり仕方なく一泊することになりました。夕方着いて翌早朝までの短い滞在です。
当時、チュンポンが日泰両軍の交戦した因縁深い土地だとは知りもしませんでした。
マレー作戦で日本軍がタイ領に上陸したのは知っていましたが、戦闘があったなど夢想だにしていなかったのです。マレー戦の緒戦といえばコタバルと認識していましたので・・・
チュンポンは「深夜特急」に出てくる町。タイ湾諸島へ渡る出航地という認識だけでした。
その事実を帰国後になって知りました。
事前に知っていれば、もう少し長く滞在し散策したのにと後悔しました。
ちなみに、この事件を題材にした「少年義勇兵」というタイ映画があります。
残念ながらツタヤでレンタルしていないので見ていません・・・
戦争物というより青春映画みたいな感じのようです。
P・S
読みが深いですね・・・
第一次世界大戦前は親ドイツでしたからね。
やはり、英仏への対抗手段だったのでしょうね。
- あいあ〜るさん からの返信 2010/10/27 12:50:32
- RE: RE: RE: 並の旅じゃありませんね。
- 房州ロッカーさん、こんにちは。
私は自国と同じくらいタイを愛していますので、タイ好き日本人と同じ次元だったら大問題ですが、タイの歴史を知っているのはたまたまです。
チュラーロンコーン記念日100年に合わせてチュラーロンコーン大王について勉強したので、たまたまこの年代の歴史を知っているだけで、タイについてはまだ勉強しなければならないことだらけです。
現地で勉強しているタイ人に教えてもらうのがもっとも簡単で早いと思いますが、いかんせん私はタイに滞在できる時間が限られているので、その時間をできるだけ有効に使うためには事前調査は欠かせません。
それでも今回はリストアップした場所の半分くらいしか行かれませんでした。
チュンポンにいらっしゃったことがあるんですね!
私はまだ行ったことが無いんですよ。
チュンポンにも行きたい場所がたくさんあるのですが。
当時のタイは近代化のために欧米先進国の力を借りなければなりませんでしたが、英仏に比べて領土的野心の無いドイツ系に多くを落札させたようです。
対抗というよりは、消去法でしょうか?(笑)
他にデンマーク企業も結構多かったみたいですね。
なぜか日本では王室系財閥なんて言われているサイアムセメントも、元々はデンマーク系です。
国鉄南線などは、ドイツに偏重し過ぎることを危惧してわざわざイギリスに落札させたようですから、ドイツ系は相当進出していたのではないかと思います。
ドイツで思い出しましたが、日本では「ファラン」は「白人と言えばフランス人が多かったので、白人全体を指すようになった」みたいなことが言われていますよね。
私はあれは嘘じゃないかと思っています。
- ゲストさん からの返信 2010/10/27 15:57:04
- RE: RE: RE: RE: 並の旅じゃありませんね。
- 好きこそ物のナントヤラじゃありませんが・・・
私の場合、旅行で訪れ気に入った国があるとその国の歴史が知りたくなります。
そして、その国の歴史を知ることで文化・慣習・信仰といった風俗にも興味が沸き、更にその国が好きになるといった感じです。
普通は言語なのでしょうが・・・語学が苦手なので敬遠してしまいます。
「ファラン」の語源は何なのでしょうね?
あくまでも白人を指しているようで黒人や黄色人種は含まれていないみたいな感じですし・・・
果物の「グァバ」をタイ語で「ファラン」と言うようですが実が白いとかでしょうか?
チュンポンは夕方着いて翌早朝までの僅かな滞在です。
一泊しただけなので何も見ていません・・・
気ままな旅で急ぐ理由は何も無かったのですが、タオ島やサムイ島へ行くことしか考えていなかったみたいでチュンポンを通過点としか捉えてていなかったようです。
どうも視野が狭くなっていたというか・・・
今、思うと本当に惜しいことをしたと悔やんでいます。
後になって知りましたが実に良い所みたいですよ。
再訪してジックリ滞在してみたい町No1です。
- あいあ〜るさん からの返信 2010/10/28 12:58:41
- RE: RE: RE: RE: RE: 並の旅じゃありませんね。
- 房州ロッカーさん、こんにちは。
いえいえ、好きになったらやはり文化・風習ではないでしょうか?
とりあえず英語で言葉が通じるのであれば、言語はその先かと思います。
私は恥ずかしながら、日本語を話せる友人がいたこともあって、初タイから7年間はサワッディー・コーップクン・サバーイ、マイペンライの4つの単語しか知りませんでした。
ある女性のある一言がきっかけになるまで、タイ語を勉強しようなんて思いませんでしたから。
ファランの語源がフランスなのは間違いないと思います。
私が嘘だろうと思っているのは、「白人と言えばフランス人だったので、白人全体を指すようになった」という理由です。
チュンポンやスラーッターニーなどはほとんどの人にとっては単なる通過点ですから、それもしかたないのではないでしょうか。
サムイ島やタオ島はかなりいい所らしいですからね。
10年ほど前にチェンマイで会ったバックパッカーが、「コタオはすごく綺麗らしい。」とコタオ、コタオと連呼していたのを思い出します。
当時の私はタオ島なんて名前も知りませんでした。
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