2010/10/06 - 2010/10/06
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キヌちちさん
函館・五稜郭公園内に今年7月29日にオープンした箱館奉行所を見学してきました。幕末の1854年にアメリカと締結された日米和親条約により下田とともに開港した箱館。開港に伴って設置された江戸幕府の箱館奉行所は当初、港に近い箱館山麓に置かれた。その後防備の面から内陸の亀田に移された。奉行所は開拓使の手で1871年に解体されたが今年、140年を超えて再現された。
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箱館奉行所の説明看板。箱館奉行所は1864年(元治元年)幕府の北辺防備の拠点五稜郭内に竣工。本庁舎は約3000平方?の壮麗な和風建築。1868年(明治元年)戊辰戦争最後の舞台となり、旧幕軍降伏2年後の1871年(明治4年)解体。地上に存在した期間は僅か7年。2010年(平成22年)、当時の工法・材料を可能な限り活用、庁舎の3分の1の規模を部分復元。幕末・明治維新のピンと張りつめた時代の空気を感じとれる貴重な歴史遺産の空間(箱館奉行所公式HPより )。
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最初の箱館奉行所はロシアの脅威に対抗。箱館奉行所は、江戸時代後期になって新たに設けられた徳川幕府の役所で、2度にわたって設置された。18世紀後半、鎖国体制をとっていた日本沿岸に、外国船が近づく事件が頻発するようになった。ロシアの南下政策の影響もあって、蝦夷地での接触が避けられないものとなり、日本とロシアの関係悪化が進んだ。そこで幕府は、1799年(寛政11年)に松前藩が統治していた東蝦夷地を直轄地にして、幕府が外交上の問題に直接かかわれる体制をつくった。1802年(享和2年)には蝦夷奉行(同年に箱館奉行と改称)が設置され、その翌年には箱館の港を見おろせる土地(現在の元町公園)に奉行所を建てた(箱館奉行所公式HPより )。
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箱館奉行所前、写真撮影屋さん。当時の衣装を着用して写真を撮る。
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箱館奉行所前、写真撮影屋さん。
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箱館奉行所。箱館に根拠地を置いた海商・高田屋嘉兵衛は、クナシリ・エトロフ・ネモロ(根室)などに漁場を開拓して幕府の蝦夷地経営を助ける一方で、良好な日露関係を築くよう尽力。しかし幕府は財政難の問題と、対外関係の緊急の問題は去ったとの判断から1821年(文政4年)に松前藩を蝦夷地に戻した。ここでいったん、箱館(松前)奉行は役割を終えた。外国船はその後も蝦夷地の沖に姿を現し、1832年(天保3年)には椴法華沖、天保5年には現在の矢不来沖(北斗市茂辺地付近)に異国の船が現れたという記録が残っている。このほかにも多くの外国船が日本沿岸に近づいた事例があった(箱館奉行所公式HPより )。
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ペリー艦隊来航と再度の箱館奉行所設置。1853年(嘉永6年)にアメリカのペリー艦隊が浦賀に来航した。翌年(嘉永7年・安政元年)には日米和親条約が締結され、下田港と箱館港が開港された。ペリー艦隊は同年4月に箱館に入港した。このとき幕府からペリー提督の応接を命じられたのは、松前藩家老・松前勘解由らだった。幕府はペリーが箱館を去った翌月に、箱館奉行所を34年ぶりに復活し、箱館および周辺5−6里四方(現在の函館市・七飯町大沼・木古内町札苅までの一帯)を松前藩から上知して(取り上げて)幕府直轄地とした。さらに、その翌年の1855年(安政2年)、松前藩から福山周辺を除く蝦夷地の全領地を上知した。再設置された箱館奉行所の任務は、開港に伴う諸外国との応接(外交交渉)、蝦夷地の海岸防備、箱館を中心にした蝦夷地(アイヌをふくむ)の統治。開港場となった箱館の貿易額は多くはなかったが、各国の領事館が設置されるなかで、箱館奉行所が外国との重要な窓口であったことは間違いない (箱館奉行所公式HPより )。
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函館山山麓の奉行所は対外防衛に不利。箱館の開港当時、奉行所は函館山のふもとにあった。そこは現在の元町公園がある場所で、奉行所から箱館の港と町を一望できた。しかし、奉行所からの見晴らしの良さは、箱館に入港する外国船からも奉行所が良く見えることを意味した。箱館港に出入りする外国の軍艦からは、格好の標的になる不用心な場所に奉行所は建っていた。また、港から5里四方(1里は約4?)を外国人遊歩地としたので、函館山の山頂付近から役所や役宅を背後から観察(監視)される可能性もあった。そこで、箱館奉行所の移転が検討されることになった。また、箱館港周辺の防衛対策として、港湾を取り囲む台場(砲台)の整備も同時に進められた(箱館奉行所公式HPより )。
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箱館奉行所館内案内図。
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入館券自動販売機。
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入館券
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パンフレット
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玄関
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再現ゾーン。手前から四之間、参之間、弐之間、壹之間。
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使者之間
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使者之間、ガイダンス。
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揚場小用所清所(大小便所)。
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廊下
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奉行所移転先は亀田村柳野に。箱館奉行所の移転先に選ばれたのは、箱館の隣村・亀田村の奥にある柳野と呼ばれる緩やかな丘陵地。港から約3?ほど離れた場所で、これは当時の大砲の射程距離から外れていた。軍事的に優れた立地にありながら、箱館の市中からそれほど遠く離れた場所ではなく、赤川(亀田川)から清流を引き込むことができ、さらに周囲にある泥沼や曲がりくねった道が防衛上の利点になると判断された。この地に、四方を土塁で巡らせた役所を建てる計画が決まり、蘭学者であり箱館奉行支配下であった武田斐三郎(後に諸術調所教授役)が設計を行うことになった。この役所を囲む土塁こそが、亀田御役所土塁すなわち五稜郭(通称)。ちなみに、箱館奉行所の正式名称は箱館御役所(箱館奉行所公式HPより )。
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廊下と右に再現ゾーン、大広間(手前から順に壹之間、弐之間、参之間、四之間)。
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大広間(手前から順に壹之間、弐之間、参之間、四之間)。
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大広間
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大広間と廊下
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大広間
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廊下、檜の格子と竹の節の欄間。漆を塗り黒く輝いている。
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廊下
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漆が塗られた違い棚。
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第2代箱館奉行として箱館奉行所の移転を計画した堀織部正利煕(ほりおりべのしょうとしひろ)が、五稜郭の築造に着手した1857年(安政4年)に揮毫した書。
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堀織部正利煕の書の説明文。
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表座敷
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当時のヨーロッパの築城術に習った五稜郭。設計の最初から星形の土塁を計画していたわけではない。1855年(安政2年)に箱館へ入港したフランス軍艦の軍人が、大砲や小銃による戦闘が中心となったヨーロッパで考案された土木技術を伝え、築城術が書かれた書籍を箱館奉行に贈呈。武田斐三郎は設計図や絵図面を写し取って、西洋式築城術を学び五稜郭築城の参考にした。箱館奉行から幕府に対して提出された書状には「箱館に入港する外国の軍艦は、どれも大砲が充実している。それに対応するためには、西洋各国で採用されている築城術を参考にして、西洋式土塁の方法で役所を築造したい」と書かれている。武田斐三郎は独自の工夫を加えて設計図を完成させ、1857年(安政4年)の春から五稜郭の工事が始まった。途中、予算不足による縮小(半月堡を5個所から1個所に減らした)など、当初の設計や工事計画の変更があったが、1860年(万延元年)末までに土塁・掘割・石垣の工事が完成した(箱館奉行所公式HPより )。
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1862年(文久2年)奉行所建築着工、64年完成。1862年からは江戸の中川伝蔵(代理人伊兵衛)によって、五稜郭の内部で御役所(奉行所)の建築が始まった。五稜郭の築造が始まってから約7年がたった1864年(元治元年)に御役所の建物がほぼ完成した。箱館奉行の小出大和守秀実により、函館山のふもとから五稜郭へと奉行所は移転し、新役所での仕事が始まった。五稜郭は蝦夷地における政治的中心となった (箱館奉行所公式HPより )。
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廊下、左側に中庭。
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釘隠し、3種類使用されている。
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釘隠し
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釘隠し
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釘隠し
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五稜郭の構造
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五稜郭各部の特徴
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五稜郭各部の特徴
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世界の五稜郭
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世界の五稜郭
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五稜郭の歴史を説明
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五稜郭の歴史を説明
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五稜郭の歴史を説明
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五稜郭の歴史を説明
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五稜郭の築造
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五稜郭の説明
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天井裏の造りが見えるようになっている。
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御役所調役、奉行所内で最も広い45畳の部屋。
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小屋組、御役所調役の梁材の組み方の説明。
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越前赤瓦
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こけら葺き
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2階「臨時調所」への階段。公開されていなかった。
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廊下
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廊下
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五稜郭・箱館奉行所クイズ。
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