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 今回は、龍馬が関連した大阪・京都の遺跡巡りをした。大阪市内の本町界隈〜土佐堀〜西長堀の龍馬・幕末関連史跡を巡った。即ち勝海舟寓居・海軍塾跡、長州藩蔵屋敷跡、薩摩藩蔵屋敷跡、土佐藩蔵屋敷跡、土佐稲荷神社等を見て廻り京都へ。京では木屋町〜先斗町〜河原町を歩き、桂小五郎像、武市瑞山寓居跡、木戸孝允別邸、佐久間象山・大村益次郎遭難の地、から池田屋跡へ。酢屋(材木商)で龍馬が身を寄せており海援隊が置かれていた。明治天皇が見舞いに行幸された木戸孝允別邸を見る。幕末の志士の石碑も多く歴史を感じる京都であったが、記念すべき場所には石碑が建てられていた。この他多くの記念すべき石碑を見て廻ったが、石碑だけが多かったが往時を偲ぶことが出来た。<br /> 写真は木戸孝允別邸。

坂本竜馬、大坂・京都ひと回り

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2010/09/19 - 2010/09/19

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ひま人

ひま人さん

 今回は、龍馬が関連した大阪・京都の遺跡巡りをした。大阪市内の本町界隈〜土佐堀〜西長堀の龍馬・幕末関連史跡を巡った。即ち勝海舟寓居・海軍塾跡、長州藩蔵屋敷跡、薩摩藩蔵屋敷跡、土佐藩蔵屋敷跡、土佐稲荷神社等を見て廻り京都へ。京では木屋町〜先斗町〜河原町を歩き、桂小五郎像、武市瑞山寓居跡、木戸孝允別邸、佐久間象山・大村益次郎遭難の地、から池田屋跡へ。酢屋(材木商)で龍馬が身を寄せており海援隊が置かれていた。明治天皇が見舞いに行幸された木戸孝允別邸を見る。幕末の志士の石碑も多く歴史を感じる京都であったが、記念すべき場所には石碑が建てられていた。この他多くの記念すべき石碑を見て廻ったが、石碑だけが多かったが往時を偲ぶことが出来た。
 写真は木戸孝允別邸。

一人あたり費用
1万円未満
交通手段
観光バス JRローカル 私鉄

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  •  勝海舟寓居・海軍塾跡銘版、(現、大阪市中央区淡路町3丁目)に所在した勝海舟の私塾。勝海舟は文久3年(1863年)2月24日、船で江戸を出発、大坂の専称寺に寓居してはじめての私塾「海軍塾」を開いた。

    勝海舟寓居・海軍塾跡銘版、(現、大阪市中央区淡路町3丁目)に所在した勝海舟の私塾。勝海舟は文久3年(1863年)2月24日、船で江戸を出発、大坂の専称寺に寓居してはじめての私塾「海軍塾」を開いた。

  •  勝海舟寓居・海援隊跡、専称寺のあった場所。現在はビルが建っていて面影はない。

     勝海舟寓居・海援隊跡、専称寺のあった場所。現在はビルが建っていて面影はない。

  •  長州萩藩蔵屋敷跡記念碑。

    長州萩藩蔵屋敷跡記念碑。

  •  薩摩藩蔵屋敷跡石碑、薩摩藩は当時、江戸・大坂・京都・長崎・伏見に藩邸を持っていたが、伏見は藩邸と異なり「御仮屋」と呼ばれ、参勤交代時の藩主の宿泊所として利用されていた。大坂藩邸は、上屋敷(土佐堀)、中屋敷(江戸堀)、下屋敷(立売堀)の三邸から成り、「蔵屋敷」と呼ばれていた。写真は上屋敷があった所の記念碑。

     薩摩藩蔵屋敷跡石碑、薩摩藩は当時、江戸・大坂・京都・長崎・伏見に藩邸を持っていたが、伏見は藩邸と異なり「御仮屋」と呼ばれ、参勤交代時の藩主の宿泊所として利用されていた。大坂藩邸は、上屋敷(土佐堀)、中屋敷(江戸堀)、下屋敷(立売堀)の三邸から成り、「蔵屋敷」と呼ばれていた。写真は上屋敷があった所の記念碑。

  •  大村益次郎寓居地址石碑、文政7年(1824年)5月3日生、幕末期の長州藩医師、西洋学者、兵学者。長州征伐と戊辰戦争で立役者となり、太政官制において軍務を統括した兵部省初代次官を務め、事実上の日本陸軍創始者、或いは陸軍建設の祖と見なされる人物。46歳で死去。

     大村益次郎寓居地址石碑、文政7年(1824年)5月3日生、幕末期の長州藩医師、西洋学者、兵学者。長州征伐と戊辰戦争で立役者となり、太政官制において軍務を統括した兵部省初代次官を務め、事実上の日本陸軍創始者、或いは陸軍建設の祖と見なされる人物。46歳で死去。

  •  土佐藩邸跡、藩邸の周りには蔵屋敷が並び、土佐の鰹節や材木など、土佐の物産が長堀川を上って運び込まれていた。文久3年(1863年)1月21日、山内容堂が京都会議に出席した後、土佐勤王党が京・大坂で天珠を下す暴挙に溜まりかね、ここ大坂藩邸に入るや否や「達示書」を下した。藩士一同に、出過ぎた政治活動を禁止する命令書。

     土佐藩邸跡、藩邸の周りには蔵屋敷が並び、土佐の鰹節や材木など、土佐の物産が長堀川を上って運び込まれていた。文久3年(1863年)1月21日、山内容堂が京都会議に出席した後、土佐勤王党が京・大坂で天珠を下す暴挙に溜まりかね、ここ大坂藩邸に入るや否や「達示書」を下した。藩士一同に、出過ぎた政治活動を禁止する命令書。

  •  土佐稲荷神社本殿、創建の由緒不詳。天正年間の創建、土佐藩藩邸に古くから鎮座していた。享保2年(1717年)、土佐藩主・山内豊隆が社殿を造営して蔵屋敷の鎮守社とし一般の参拝も許し、以来、山内家は参勤交代の際は必ず当社に参拝し、社殿の修繕は藩費で行われた。

     土佐稲荷神社本殿、創建の由緒不詳。天正年間の創建、土佐藩藩邸に古くから鎮座していた。享保2年(1717年)、土佐藩主・山内豊隆が社殿を造営して蔵屋敷の鎮守社とし一般の参拝も許し、以来、山内家は参勤交代の際は必ず当社に参拝し、社殿の修繕は藩費で行われた。

  •  土佐稲荷神社、明治初年に岩崎弥太郎が藩蔵屋敷・神社とも譲り受け、弥太郎は当地で事業を営み三菱発祥の地となり、社殿の造営を行った。社殿のあちこちに三菱の社章が見られるが、旧社殿などは大阪大空襲で全焼し、その後三菱グループの勧進により復興。本殿のほか神社の回りの玉垣には三菱グループの構成企業の名が連なっている。<br /> 境内は桜の名勝としても有名である。

     土佐稲荷神社、明治初年に岩崎弥太郎が藩蔵屋敷・神社とも譲り受け、弥太郎は当地で事業を営み三菱発祥の地となり、社殿の造営を行った。社殿のあちこちに三菱の社章が見られるが、旧社殿などは大阪大空襲で全焼し、その後三菱グループの勧進により復興。本殿のほか神社の回りの玉垣には三菱グループの構成企業の名が連なっている。
     境内は桜の名勝としても有名である。

  •  土佐稲荷神社境内にある岩崎家舊邸址石碑。

     土佐稲荷神社境内にある岩崎家舊邸址石碑。

  •  ここから大阪より京都へひっ飛び。<br />桂小五郎像、後の明治維新の立役者、木戸孝允の像。この付近の河原町通りから木屋町通(高瀬川沿い)一帯には、長州藩京都藩邸が建てられ北側屋敷と南側屋敷に分かれていた。<br /> 高瀬川沿いには加賀藩邸、対馬藩邸、岩国藩邸、彦根藩邸、土佐藩邸などが居並び、高瀬川の舟運が繁盛していた。

     ここから大阪より京都へひっ飛び。
    桂小五郎像、後の明治維新の立役者、木戸孝允の像。この付近の河原町通りから木屋町通(高瀬川沿い)一帯には、長州藩京都藩邸が建てられ北側屋敷と南側屋敷に分かれていた。
     高瀬川沿いには加賀藩邸、対馬藩邸、岩国藩邸、彦根藩邸、土佐藩邸などが居並び、高瀬川の舟運が繁盛していた。

  •  木戸孝允別邸跡石碑。

     木戸孝允別邸跡石碑。

  •  木戸孝允別邸、木造2階建て、1階は茶室として利用されていた。木戸孝允は明治10年(1877年)、西南戦争の最中に明治天皇に従って入京するが、病に倒れ、同年5月19日、明治天皇は直々に木戸を見舞われた。危篤の床にあっても、うわごとで西郷隆盛の動静を気にかけながら同月26日、当地で亡くなった。45歳でした。<br /> 木戸孝允亡き後は息子・忠太郎が住み、茶室の向かい側に達磨堂(忠太郎の達磨コレクション)を建てた。

     木戸孝允別邸、木造2階建て、1階は茶室として利用されていた。木戸孝允は明治10年(1877年)、西南戦争の最中に明治天皇に従って入京するが、病に倒れ、同年5月19日、明治天皇は直々に木戸を見舞われた。危篤の床にあっても、うわごとで西郷隆盛の動静を気にかけながら同月26日、当地で亡くなった。45歳でした。
     木戸孝允亡き後は息子・忠太郎が住み、茶室の向かい側に達磨堂(忠太郎の達磨コレクション)を建てた。

  •  明治天皇木戸邸行幸石碑。

     明治天皇木戸邸行幸石碑。

  •  桂小五郎幾松寓居跡石碑。

     桂小五郎幾松寓居跡石碑。

  •  武市瑞山寓居跡石碑。瑞山はすぐれた剣術家で、龍馬とは遠縁であり幼い頃から友人であった。黒船来航の時勢に刺激を受けて土佐勤王党を結成。<br />参政・吉田東洋を暗殺し、藩論を尊王攘夷に転換させる事に成功した。京都と江戸での国事斡旋により一時は藩論を主導するが、「八月十八日の政変」で態度を一変させた山内容堂により投獄され、1年半の獄中闘争の果てに切腹を申し付けられ37歳で亡くなり、土佐勤王党は壊滅した。

     武市瑞山寓居跡石碑。瑞山はすぐれた剣術家で、龍馬とは遠縁であり幼い頃から友人であった。黒船来航の時勢に刺激を受けて土佐勤王党を結成。
    参政・吉田東洋を暗殺し、藩論を尊王攘夷に転換させる事に成功した。京都と江戸での国事斡旋により一時は藩論を主導するが、「八月十八日の政変」で態度を一変させた山内容堂により投獄され、1年半の獄中闘争の果てに切腹を申し付けられ37歳で亡くなり、土佐勤王党は壊滅した。

  •  佐久間象山・大村益次郎遭難の地石碑。佐久間象山は文化8年(1811年)2月28日生、信濃国松代藩士で兵学者、思想家。洋学、兵学を学び、大砲の鋳造、ガラスの製造、地震予知機の開発にも成功し、多岐にわたり才能を発揮。ペリーが浦賀に来航した際、視察し、翌年の再来航で弟子の吉田松陰が密航を企てて捕縛されたので、これに連座し、蟄居を余儀なくされた。元冶元年(1864年)、慶喜に公武合体論と開国論を説いたが、当時の京都は尊攘派の勢いが強く、同年7月11日尊攘派により暗殺された。享年54歳であった。

     佐久間象山・大村益次郎遭難の地石碑。佐久間象山は文化8年(1811年)2月28日生、信濃国松代藩士で兵学者、思想家。洋学、兵学を学び、大砲の鋳造、ガラスの製造、地震予知機の開発にも成功し、多岐にわたり才能を発揮。ペリーが浦賀に来航した際、視察し、翌年の再来航で弟子の吉田松陰が密航を企てて捕縛されたので、これに連座し、蟄居を余儀なくされた。元冶元年(1864年)、慶喜に公武合体論と開国論を説いたが、当時の京都は尊攘派の勢いが強く、同年7月11日尊攘派により暗殺された。享年54歳であった。

  •  池田屋事件跡地、幕末の元冶元年(1864年)6月5日、京都三条木屋町、三条小橋付近の旅館「池田屋」を京都守護職配下の新選組が急襲、ここに潜伏していた長州藩、土佐藩などの尊攘派が刺殺あるいは捕縛された。別名を、池田屋騒動、池田屋事変、三条小橋の変とも言われる。

     池田屋事件跡地、幕末の元冶元年(1864年)6月5日、京都三条木屋町、三条小橋付近の旅館「池田屋」を京都守護職配下の新選組が急襲、ここに潜伏していた長州藩、土佐藩などの尊攘派が刺殺あるいは捕縛された。別名を、池田屋騒動、池田屋事変、三条小橋の変とも言われる。

  •  酢屋(坂本竜馬寓居跡、海援隊駐屯所跡)、享保6年(1712年)から現在まで、創業約290年の材木商。慶応3年(1867年)11月15日、坂本竜馬が中岡慎太郎とともに近江屋で遭難する直前まで、この2階に身を寄せていた。<br /> 現在1階は創作木工芸展、龍馬が寓居していた2階は「ギャラリー龍馬」で、龍馬や幕末関係の資料の展示が行われている。

     酢屋(坂本竜馬寓居跡、海援隊駐屯所跡)、享保6年(1712年)から現在まで、創業約290年の材木商。慶応3年(1867年)11月15日、坂本竜馬が中岡慎太郎とともに近江屋で遭難する直前まで、この2階に身を寄せていた。
     現在1階は創作木工芸展、龍馬が寓居していた2階は「ギャラリー龍馬」で、龍馬や幕末関係の資料の展示が行われている。

  •  土佐稲荷神社、高瀬川沿いに土佐藩京都藩邸があり、土佐稲荷神社が鎮座している。

     土佐稲荷神社、高瀬川沿いに土佐藩京都藩邸があり、土佐稲荷神社が鎮座している。

  •  坂本竜馬・中岡慎太郎遭難の地址石碑(近江屋跡)。寺田屋事件後、おりょうとの霧島新婚旅行を終え、再び入京した龍馬は慶応3年(1867年)11月3日、河原町の醤油屋「近江屋」に入り、11月15日、夕刻、中岡慎太郎が訪ねてきて話し合っていた。夜になり、十津川郷士を名乗る男が訪ねてきたが、それが刺客であり、2階にいて不意を突かれた龍馬と中岡は抵抗する間もなく、龍馬は背中、額と切られ絶命。中岡は数十か所を切られながらも一命を取り留めたが、2日後に亡くなった。

     坂本竜馬・中岡慎太郎遭難の地址石碑(近江屋跡)。寺田屋事件後、おりょうとの霧島新婚旅行を終え、再び入京した龍馬は慶応3年(1867年)11月3日、河原町の醤油屋「近江屋」に入り、11月15日、夕刻、中岡慎太郎が訪ねてきて話し合っていた。夜になり、十津川郷士を名乗る男が訪ねてきたが、それが刺客であり、2階にいて不意を突かれた龍馬と中岡は抵抗する間もなく、龍馬は背中、額と切られ絶命。中岡は数十か所を切られながらも一命を取り留めたが、2日後に亡くなった。

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