2010/08/15 - 2010/08/16
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近鉄バッファローズさん
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お盆の帰省で実家に帰ったときに、地元の「歴史まちめぐり」をしてみようと、少し訪ねてみました。
本当はもっと色々訪ねたかったのですが、如何せん時間がなく中途半端ですいません。
小学校の社会科で習ったときにも「色々歴史的なところがあるんだな」と思っていましたが、
今はより多くのところが紹介され、また、より見やすいように地図や看板、案内板がたくさん配置されるようになりました。
堺市は、仁徳天皇陵の世界遺産登録を始めとする様々な観光産業活性化を進めていて、「歴史まちめぐり」などもその一環のようです。
堺市は政令指定都市になりましたが、経済的には停滞気味の状況が長く続いています。液晶テレビの工場誘致なども進めていますが、観光都市としての振興も歴史的資産の豊かな堺復活の一助になると信じています。
何かの御参考になれば幸甚です。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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堺の旧市街地を町の周りを巡っていた環濠に架かっていた「北之橋」についての説明書きです。
堺の町には住吉大社から紀州と続く「紀州街道」が町の真ん中を通っていてそこを縦軸にして街並みが碁盤目状に作られていました。その紀州街道が堺へ入ってくる入り口になっていたのが「北之橋」です。大阪夏の陣後の堺の環濠再建時に公儀橋として建設され、長さ七間(12.7m)、幅二間半(4.5m)だったそうです。
現在は北側の環濠は埋め立てられたので、橋もなくなってしまい、ただの交差点になっています。 -
そこから少し西へ行ったところに、観光案内板がありました。
近くにある歴史的な建物などについて案内されています。
その横には、線香の薫主堂の看板もちらっと見えます。 -
次は、現在地から少し西にある「千日井」に行きます。
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千日井です。看板の後にくみ上げポンプが見えます。
千日井は、奈良時代に行基が開いたとされる「高渚寺(たかすでら)の井戸」と言われています。上下水道が整備されるまで、付近の住民の飲料水源となっていたそうです。すぐそばの道路はかつて環濠で、この井戸の近くには千日橋というのが架かっていたそうです。井戸のそばにはその橋のたもとにあった石碑が移されています。千日橋の建立に関わった「岩ノ喜兵衛」や水難でなくなった人々の供養のために文政九年(1826年)に神南辺隆光(道心)が発起し、道路の向かい側にある宗見寺の真誉上人が導師、付近の農民が世話人となって建立されたそうです。ちなみに、神南辺隆光と言う人は現在の堺市車之町西二丁付近に住んでいた人で、元々燗鍋(かんなべ)の優れた鋳工でしたが、素行が悪く世間の評判がよくなかったそうです。仏門に入った子供に諭されて自らも仏門に入り、諸国を行脚して道標などの建立、架橋などの善行を盛んに行ったそうです。 -
南海本線七道駅へ向かって歩いていくと、駅の手前に橋が架かりその欄干に環濠(土居川、内川)に架かる橋々についての紹介がされています。環濠も半分ほど埋め立てられましたが、それに伴い橋もかなり少なくなってしまっています。環濠と橋の位置を示す地図と、環濠の歴史の解説書が見られます。
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環濠に架かるあるいは架かっていた個々の橋についての説明が書かれています。環濠が半分ほど埋め立てられたので、橋も半分近くになっています。いつか、環濠巡りもしてみたいもんです。
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南海本線の高架下をくぐったところのロータリーに河口慧海像と説明文があります。河口慧海は1866年に堺で生まれ、西蔵研究の第一級史料と今でもされている「西蔵旅行記」を著し、数多くの西蔵の仏典やもたらしたことで有名です。
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河口慧海像のアップです。荷物を背負って、ヒマラヤ越えをしているところをイメージした像のようです。
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「歴史まちめぐり」が整備される前からある「てくてくろーど」の案内板です。どちらも堺の名所旧跡を案内するものですが、「てくてくろーど」では道路に埋め込まれたサイコロの目に従って進んでいくと各名所を順番に見ていくことが出来るというもので、全長6kmで2時間程度の行程だそうです。紹介されている名所が少なめなのがになるところでしょうか。
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「てくてくろーど」のマップをアップにしました。上部真ん中あたりの七道駅脇にある星印が現在地です。
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南海本線七道駅改札口から東西へ続く道を東へ歩いて河口慧海生家跡を目指します。生家跡へ向かう交差点に立つ「歴史まちめぐり」の案内板です。
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河口慧海生家跡の石碑と説明文です。本当に民家の間に石碑があり昔の面影はないです。
河口慧海(幼名:定治郎)は1866年にこの地で桶樽製造を家業とする父善吉、母ツネの長男として生まれました。信仰心の篤かった両親の影響と、15歳頃に読んだ釈迦伝によって仏教に深い関心を持ち、苦学の後に25歳で仏門に入り慧海の法名を受けました。28歳の時に仏教のサンスクリット語原典を求めるべく西蔵へ行くことを決意し、1897年に神戸を出発しました。二度の苦難な西蔵行では、目的であったサンスクリットの仏典だけでなく、動植物の標本などを持ち帰ることに成功し、日本の仏教界、生物学界に大変な貢献をしたそうです。晩年は僧籍を返還しましたが、その後も自分を律し精進する生活を続けながら、仏教の原典を追求し、それに関わる著者の執筆に関ったそうです。 -
元の道へ戻って更に一筋東進すると、再び交差点に立つ「歴史まちめぐり」の案内板があります。南へ行くと「清学院」と言うのがあるようです。
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これが清学院の表なのですが、看板も説明文もなく、一瞬通り過ぎてしまうほど分かりにくかったです。
堺市のホームページによると、「清学院(せいがくいん)は元禄2年(1689)の「堺大絵図」にも描かれている修験道の歴史を持つ寺院です。都市部での極小な敷地内に、不動堂、庫裏、門がコンパクトにまとめられいます。
幕末から明治5年(1872)まで寺子屋として使われていた時期もあり、日本人初のチベット入国者である河口慧海(かわぐちえかい)(1866-1945)もここで学んでいます。
向かって左側に不動堂、右側に門を構えており、寺院の趣を備えています。不動堂と庫裏は、間取りとしては一体となっていますが、外観上は不動堂部分のみ切妻屋根を一段高く上げ、独立した建物の様相となっています。
」とのことでした。 -
門の庇の下にあった門灯です。これがなかったら、気付かないところでした。
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更にもう一つ東へ行った筋には、旧鉄砲鍛冶屋敷があります。ここは今も個人が居住しているため非公開となっています。
江戸後期の鉄砲鍛冶屋敷町の中で堺に唯一残る屋敷で、現在は四棟の切り妻造り平入りの建物からなり、建物総間口は12間半となっているそうです。南端の棟は二階建て、その北の棟は後半二階建て、またその北の棟も背面のみを二階にし、北端の棟は平屋で、ほとんどは本瓦葺きだそうです。北寄り二棟が母屋で、入り口より通り庭によって裏口に通じているそうです。母屋の土間より北側はもともと鍛冶場でその後半は書院などを備えた12畳半の大座敷だったと言われています。江戸期の鉄砲鍛冶の生活実態を伺う上で貴重な建物だそうです。 -
鍛冶屋敷の全景です。いつの日にか内部が公開されるようになれば、良いんですけどね。
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更に東へ行って紀州街道まで出て来ました。紀州街道を南へ行くと「紀州街道」と書かれた石碑があります。そのすぐ北には「水野鍛錬所」があります。
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榎並屋・芝辻屋敷跡の説明文を見ようと思ったのですが、水野鍛錬所が工事中で木枠に囲われて看板が見えませんでした。ついてませんでしたが、また見に来たいと思います。
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更に紀州街道を南へ行くと、綾ノ町の交差点に出ます。交差点の片隅には「歴史まちめぐり」の案内地図が立っています。いろんな所が紹介されています。次は山口家住宅へ向かいます。
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山口家住宅へ着きました。10時から16時まで開いていて、休館日は、火曜日と年末年始だそうです。入館料は200円で見やすいお値段だと思います。
山口家は、江戸時代に近隣農家の庄屋を務め、奉行所と町方・村方を繋ぐ役割も担っていたそうです。 -
山口家住宅の正面入り口を遠目に見ました。こちらは南側にあるのですが、江戸時代は東側の道路に面する方が入り口だったと、古地図にあるそうです。
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山口家住宅の前にも「てくてくろーど」の道路標識がありました。
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入り口を入ってすぐ右側の受付で入場料を払ってから、中へ入りました。入ってすぐが土間になっていて、いろんなものが展示されていました。まず目に入ったのが、甕でした。
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梁の方には駕籠が吊り上げられていました。この駕籠は、山口家は嫁入りしてきた方が、婚儀の際に乗ってきた駕籠だそうです。
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土間にあった竈門です。左半分が新しい感じですが、一般公開に際して復元作成したそうです。山口家住宅の説明が書かれたボードもあります。堺の環濠は秀吉によって一旦埋め立てられたのですが、大坂夏の陣後に家康によって再建されたそうです。山口家住宅はその頃に建てられたようです。
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天井の梁とその上に見える光取りの障子などです。
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別の梁を撮ってみました。古い日本の民家という感じがします。
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土間の横には三つの和室が見えます。帳場などがありました。
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こちらの部屋が帳場になっています。
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みずやなどが板の間にありました。
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帳場の算盤や硯箱がこれです。
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その奥には、中庭も見えます。
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こぢんまりとした日本庭園です。
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土蔵も母屋の続きにあります。その中も公開されていました。でも、文物はありませんでした。代わりに色々なパネルが掲示されていました。
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元禄二年の堺大絵図です。
家々の敷地の間口や奥行き、所有者、掛屋敷の区分まで記された江戸時代の住宅地図のようなものになっています。 -
山口家住宅のあたりを拡大した写真が別のパネルに載っています。
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山口家の歴史について書かれたパネルです。江戸初期から15代続く家柄で、屋号は越前屋だったそうです。
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1618年の建築以降、1775年と1800年に改築されて、現在に至るそうです。
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山口家住宅の変遷が図示されています。最初は土間とその横の和室だけだたのが、更に西側に土蔵や玄関などを増やし、1800年には北土蔵や応接の和室などが作られたようです。
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3種類の棟札が保管されていて、そこから先ほどの増改築の様子が分かったそうです。
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山口家住宅は一般公開に際し、耐震補強工事を施したとのことで、その工事の様子が写真で解説されています。実際、鉄の柱などもありましたが、ペンキで塗ることで背景に馴染む努力がされていました。
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ここは1800年に増築された上質な和室で、実際に武士や町衆のような身分が比較的高い人たちが来たようです。
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別の和室ですが、こちらには扇風機があってちょっと雰囲気が壊れるかな、とも感じましたが、何せこの暑い中なのでしょうがないですよね。エアコンはなかったですから。
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これらの部屋の北側には別の庭が広がります。
今回はここでタイムアップとなってしまいました。また別の機会に色々回りたいです。
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