2011/01/02 - 2011/01/03
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近鉄バッファローズさん
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2011年のお正月の帰省で実家に帰ったときにも、地元の「歴史まちめぐり」をしてみようと訪ねてみました。
2010年のお盆には一部しか訪ねられなかったので、今回は二日をかけて環濠内(旧市街)を完全制覇しました(前後編に分かれています)。まずは、前編です。
旧市街には狭い地域にたくさんの寺院があります。そのため、今回の旅行記では多くの部分が寺院になります。
堺が隆盛を極めていた頃は京都が戦乱で荒廃していたため多くの寺院が自治都市で比較的安全だった堺へ避難していたためとも言われているそうです。また、裕福な商人が多く、その財産を寄進して寺院を建造したこともあるのではないかと思います。寄進はその信心の深さを示すことになりますから。
小学校の社会科で習ったときにも「色々歴史的なところがあるんだな」と思っていましたが、
今はより多くのところが紹介され、また、より見やすいように地図や看板、案内板がたくさん配置されるようになりました。
堺市は、仁徳天皇陵の世界遺産登録を始めとする様々な観光産業活性化を進めていて、「歴史まちめぐり」などもその一環のようです。
堺市は政令指定都市になりましたが、経済的には停滞気味の状況が長く続いています。液晶テレビの工場誘致なども進めていますが、観光都市としての振興も歴史的資産の豊かな堺復活の一助になると信じています。
何かの御参考になれば幸甚です。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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以前作成した北辺編で抜けていたところの補足です。
南海本線七道駅すぐそばにある「鉄砲鍛冶射的場跡」の碑です。江戸時代に砲術指南に携わっていた小浜民部丞嘉隆が、七道浜と呼ばれていたこの付近に小高い丘を造り大和川堤防に的を立てて試射するために作った場所だそうです。 -
以前作成した北辺編で抜けていたところの補足です。
大正三年にこの付近で、運河開削工事中に「放鳥銃定限記」と題した碑が発見されました。この碑には、寛文四年(1664年)砲術家川名金右衛門忠重によって、「鉄砲は優れた兵器で、正しく扱えば命中確実である。しかし、そのためには不断の習練が必要である。小濱民部丞嘉隆は文武両道を兼ね備えた人であり、堺浜に射撃場を設け砲術家の養成や銃の試射を行うなど、大きな功績を残した。」と、恩師小濱嘉隆への讃辞と鉄砲試射場の由来が記されていたそうです。 -
以前作成した北辺編で抜けていたところの補足です。
千日井の由緒書きです。 -
以前作成した北辺編で抜けていたところの補足です。
千日井にあった行基の仏像です。碑には「菩薩」と書かれています。 -
方違神社へ行ったついでに、三国ヶ丘周辺を見てきました。
ここは反正天皇陵です。百舌鳥古墳群の一つでここから南や西の方角にたくさんの古墳が連なります。最大のものは仁徳天皇陵です。 -
方違神社へ行ったついでに、三国ヶ丘周辺を見てきました。
紅谷庵です。案内板によると、
紅谷庵(こうこくあん、通称べにやあん)は堺大小路在住の豪商紅屋喜平がこの地に草庵を建てたのが始まりです。池田から乱を避けて堺に来た連歌師牡丹花肖柏をこの草庵に住まわせました。その後荒廃しましたが、浄土僧是得が居住、諸宗の徒も来住。元和(1615〜1623)以降は堺の金谷伊右衛門の所有となり堂宇も朽ち果てていましたのを、安政元年(1854)泉北郡信太村蔭涼寺の住職環溪密雲が日々多数の僧を連れ、堺付近を托鉢の際、当庵の荒廃を見てこれを惜しみ、自ら譲り受け大修理をし、僧侶養成の法を講じて遂に五十余員の僧侶を安住させました。しかし、環溪が武蔵世田谷豪徳寺に転住後、遺風を継ぐ者がなく、再び廃庵となるところ、これを知った環溪が山城宇治の興聖寺に昇住する際、櫛屋町の土川茂平らに援助を請い大修理を行い、明治元年(1868年)本堂・庫裏を建て曹洞宗の寺としました。 -
方違神社へ行ったついでに、三国ヶ丘周辺を見てきました。
旧天王貯水池です。
案内板によると、
旧天王貯水池は堺で初めての上水道施設の一つとして明治43(1910)年に建設し、昭和39(1964)年まで使用していました。建設にあたっては当時盛んに堺で作られていた煉瓦が使われました。正面の入り口は、水道施設の先進地であったヨーロッパで用いられていた建築の古典様式に倣い「凱旋門」風のデザインです。内部は点検用の通路を挟み、両側に貯水槽が作られています。それぞれの貯水槽は五区に区切り半円筒のヴォールト天井としています。貯水槽の周囲には土を盛り上げて、直射日光などを遮ることで細菌の繁殖を防ぎ、水質の安全を図りました。そのデザインと施工技術の優秀さはもちろん、堺における上水道の歴史の一端を知る重要な建物です。 -
方違神社へ行ったついでに、三国ヶ丘周辺を見てきました。
平成11年10月15日に「造形の模範」となる建物として登録文化財に指定されている「旧三丘会館」です。三丘会館とは大阪府立三国丘高等学校の同窓会会館のことです。旧制堺中学校時代の昭和九年に、新校舎の完成と天皇陛下の行幸を記念して、同窓会によって建設されました。かつては図書館や集会室としてあるいは学校食堂として利用されていましたが、現在は三国丘高校の歴史を語る資料の保管・展示及び授業・部活動等に利用されているそうです。設計者の久野 節は、旧制堺中学校の第一期生で明治四十年に東京帝国大学工学部を卒業した後、鉄道省建築課鉄道院技師を経て、久野建築設計事務所を設立し活躍したそうです。
白い箱を重ねたような全体の構成と外観、二層通しの窓を背景にコの字型に上昇する階段の構成、内部の天井周辺の幾何学的モールディング(浮き彫り)が特徴だそうです。建築史的には二十世紀後半の世界の建築の主流であったインターナショナルスタイルのデザインが鮮明に表現され、我が国モダニズム建築の波頭に位置する建築と言うことだそうです。 -
以前作成した北辺編で抜けていたところの補足です。
水野鍛錬所です。現在は刃物の製造販売を行うところです。
江戸時代には、大道(紀州街道)に面するこの敷地あるいはその隣接地に、榎並屋勘左衛門(桜之町東一丁)、芝辻理右衛門(桜之町西一丁)があったそうです。芝辻理右衛門は、徳川家康から大坂城攻めのために鉄張りの大砲を作ることを命ぜられ、慶長十六年(1611年)銃身一丈(約3m)口径一尺三寸(約39cm)砲弾重さ一貫五百匁(約5.6kg)の大砲を作ったそうです。これは、我が国で作られた鉄製大型大砲のはじめであったと言われています。また、また、大坂冬の陣(1614年)の前に、1000丁の鉄砲を急いで製造するようにという徳川家康からの命に応え、その功労により、元和元年(1615年)高須の地(高須神社付近)を賜ったそうです。江戸幕府の御用鉄砲鍛冶として重用され、芝辻理右衛門家とともに鉄砲年寄として堺の鉄砲鍛冶の中心的地位にあったのが榎並屋勘左衛門家だそうです。この両家に、分家の榎並屋九兵衛(次右衛門)、榎並屋勘七(忠兵衛)、芝辻長左衛門を加えた五鍛冶(後に二鍛冶が脱落して三鍛冶)が平鍛冶と呼ばれた他の鉄砲鍛冶を統制したそうです。
鉄砲を製造する技術はその後、刃物、自転車の製造へとつながり、堺の伝統産業の礎となりました。 -
ここからが自治都市・堺の歴史まちめぐり(環濠内全制覇編)の本番です。
海船政所跡です。
四国阿波の三好長輝は堺と関係の深い細川氏の先鋒として北国の兵を京都で破り、細川澄元を援助し、足利幕府の管領に据え、その後見人として権力の座に着いたそうです。長輝は京都に近く、阿波に渡るのに都合の良い堺に目を付け、永正元年(1504年)二月海の見える海船町に館を建てることを計画、京都から堺に来て四月から工事を始めましたが、完成は孫の元長の代になり、大永元年(1521年)三月に政所の号をもらいました。その規模は桜之町三丁付近を中心に東西360歩(約652m)、南北これに倍しとあり、錦之町にあった梅黄寺も政所跡と言い伝えられているところから相当広い区域であったと想像されます。建物は、館の中央に高楼を作り、楼上より常に四方を監視し、一旦ことが起きると鐘・太鼓を打ち鳴らし一族郎党に知らせたそうです。元長歿後、政所は長慶・義興・義継三代相次いでここに住み、この政所は摂河泉(摂津、河内、和泉の国)の各支城の本城的な役割も果たしました。 -
風間寺です。
慶長二十年(1615年)大坂夏の陣で、約二万戸といわれた堺の町は全焼したそうです。当時の堺奉行長谷川藤広は、堺の復興を同年六月十八日よりとりかかりました。実際に地割奉行として就任して風間六右衛門は、町割りを碁盤の目のように計画、実施しました。これを元和の町割りと言うそうです。しかし、祖先と同様に日蓮宗の熱心な信者だった六右衛門は実直な人柄でしたので、寺の地割りの際に祖先の遺志を受けて日蓮宗の寺に広い土地を与えたとされ、堺の一部の権力者から反感を買い、これがもとで、徳川幕府は元和四年(1618年)八月に、彼に江戸へ来るように命じました。責任を感じた六右衛門は堺の町のため、また日蓮宗のために一身を捧げる覚悟を決め、同月十五日、江戸に行くと言い残し、自分が地割りしをした堺の町を出たこの地で割腹自刃したそうです。行年四十七歳。堺の人々は彼の死を悼み自刃の地にお堂を建てねんごろに供養したのが始まりだそうです。このお堂を風間堂と言います。現在の風間堂は、六右衛門の四百遠忌を記念して平成二十二年(2010年)五月、新たに復興したものです。 -
浄因寺です。
錦光山浄因寺は、天文年間(1532〜54年)紀伊雑賀の郷士、名和修理介が本願寺顕如上人紀州鷺ノ森在寺中に功労があり、上人より尊正の法号を授与されたので天正六年(1578年)に、堺桜之町西七堂浜に一寺を開設したのが始まりだそうです。和泉の国を守護していた藤堂高虎が「慶長の役」出陣の際、預かった庶子が後に出家して第七世住職尊順となる。その後大坂夏の陣(1615年)の大火により消失、現在地に移転したそうです。本尊阿弥陀如来像は大仏師康雲の作だそうです。当時ゆかりの人物で、日本演劇界に喜劇王として千本以上の脚本を書き、製作・演出・俳優の四役を兼ね、新喜劇いわゆる「五郎劇」を始めた曽我廼家五郎は、幼少の折浄因寺第十五代住職祖父幻中然学に引き取られて、生母の実家である当時に居住していたので、ここは五郎の住居跡でもあります。 -
林昌寺です。
天桜山林昌寺は、昌翁道林が十五世紀中期に創建したと言われ、融通念仏宗に属し、御本尊の阿弥陀如来像は、聖徳太子作と伝えられ、本尊霊験記は、堺市史にも紹介されている。本堂は宝暦三年(1753年)八月谷善右衛門が両親菩提のために再建。庫裏は田中次兵衛(贈従五位)の再興によるものである。両氏とも屋号を布屋(繊維問屋)と称した。布屋次兵衛は、宝永元年(1704年)大和川が付け替えられ、港が上流からの土砂で埋まり、大型船の入港が不能となったので、私財をもってその改修を江戸幕府に願い出、許可されたが三十一歳で病死。その志を次兵衛の舅、谷善右衛門が引継ぎ、享保十三年(1728年)より工事を始め遂に完成(今の旧堺港)。善右衛門は、茶道、華道にも優れなお楽焼にも長じ、その作品は谷焼と銘名、今に珍重されているそうです。境内には江戸時代末期の浄瑠璃、三・四代目竹本春太夫の墓碑が五代目により建立されたそうです。 -
福成寺です。
正覚山福成寺は、天文七年(1538年)洛西嵯峨清涼寺を復興した化主尭淳上人が慈覺大師将来の赤栴檀木の釈迦牟尼仏を同寺より移して本尊としたため、菩提樹院とも釈迦堂とも言われていました。浄土宗知恩院に属します。高国軍記に薬師寺三郎左衛門はその子を細川晴元に人質として差し出したが、享禄四年(1531年)三月堺北の釈迦堂で殺害されたと見えるのは当時と考えられるそうです。宝永(1704〜10年)のころには塔頭に養龍庵の名があり例年三月十九日に御本尊の身拭会式があります。また寺宝として、絹本涅槃像を蔵しています。境内に榎並屋勘左衛門と共に堺の鉄砲年寄(堺の鉄砲鍛冶を取り締まる役)を勤めた堺鉄砲鍛冶芝辻理右衛門入道道逸の墓があります。芝辻理右衛門製作の大筒が現在の大阪城に保存されています。 -
浄念寺です。
慈門山浄念寺は、文明四年(1472年)善誉浄念上人によって開創され、当初は、大阿弥陀仏寺(旭蓮社)の末寺でしたが、現在は浄土宗知恩院に属しているそうです。本尊は、平安後期の阿弥陀如来座像で、脇侍に観音・勢至の両菩薩がいるそうです。堂内脇壇には主夜神像と、当寺開山浄念上人座像が、須弥壇には持国・増長・広目・多聞の四天王がまつられているそうです。本堂・庫裏とも昭和五十六年に老朽化のため新築しました。境内にある井戸は、浄念寺井として昔は堺名水の一つで、この水を清酒の醸造に用いる人が多かったと言われています。境内本堂前には、堺の鉄砲鍛冶榎並屋勘左衛門の墓があるそうです。勘左衛門は堺の菅原神社の仁王門や高野山・奥の院の不動明王を寄進しているそうです。 -
伽羅陀山十輪院は、天文九年(1540年)五月権律師賢盛が創建、当初は前之坊と言っていましたが、延宝六年(1678年)に十輪院と改称しました。本尊地蔵菩薩は海船の浜(現南海本線七道駅周辺)から賢盛が感得したものと言われており、真言宗御室派に属しています。境内に大阪府古文化紀念物に指定されている板状塔婆が建っているそうです。単に板碑と呼ばれ、頭部が船形をし、下部は通例通り二段の切り込みがありますが根部は欠損しているそうです。碑身上部には蓮華座上に建つ地蔵菩薩立像が半肉彫りされ、その下に阿弥陀の種子が印刻されているそうです。さらにその下に銘文もあり根部を欠失しているため完全ではないですが向かって左側は「明徳二年六月」右側は「為阿弥陀仏」などと判読できるそうです。この板状塔婆は、当時流行した阿弥陀仏と地蔵とを同体とする信仰を物語る資料として、府下においては、数少ない南北朝時代塔婆の貴重な遺品となっているそうです。
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覺応寺です。
伊予(愛媛県)の豪族河野通有の子であった通元は、本願寺覺如上人に帰依して、覺応と名乗ったそうです。正中二年(1325年)、日向(宮崎県)の霧島山の麓に一宇を建て、覺応坊と名付けたそうです。その後、数代を経て堺に移り、北鏡屋町(錦之町東一丁)に寺地を持ったそうです。第五世覺貞は蓮如上人に師事して、坊を改めて覺応寺としたそうです。その後、現在地に移ったそうです。当寺の住職であった河野鉄南は、与謝野晶子と浪華青年文学会の機関誌「よしあし草」によって歌を通じて親しく交わりを交わしていたそうです。また、与謝野鉄幹とは少年時代から親しく、晶子を鉄幹に紹介したそうです。これらのことにちなんで、当寺の境内に「その子はたち くしにながるる くろかみのおこりの春の うつくしきかな」と言う晶子の歌碑が建てられているそうです。毎年五月二十九日晶子の命日に晶子を偲ぶ白桜忌が催されているそうです。 -
本願寺堺別院です。
本願寺堺別院は、文明八年(1476年)に蓮如が堺の樫木屋町に建立した信證院に始まるそうです。蓮如は、遣明貿易などで繁栄し始めた堺で、新しい時代の担い手である商人や手工業者に布教するため、信證院などに幾度となく滞在していたそうです。その後、享保十三年(1728年)に、現在地に本堂を落慶しましたが、寛政十年(1798年)の火災で表門と鐘楼を残して焼失したそうです。鐘楼の梵鐘は、元は大坂夏の陣後の堺復興を進めた堺奉行 長谷川藤広が念仏寺に寄進したもので、元和三年(1617年)の銘があり、年代が明らかなしない最古の貴重な梵鐘だそうです(市指定有形文化財)。文政八年(1825年)に再建された現在の本堂は、現存する堺最大の木造建造物だそうです。
また、ここは堺県庁跡でもあります。明治四(1971)年の廃藩置県後、明治十四年までの十年間、当寺は堺県庁の庁舎となっていたそうです。堺県は和泉、河内、大和を合わせた大きな県だったそうです。 -
本願寺堺別院の本堂です。
本殿内には桁行九間(幅約28m)、梁行十一間(奥行約29m)の本堂は、大阪府下でも屈指の規模を誇っているそうです。正面に阿弥陀如来、向かって右に親鸞聖人、左に蓮如上人が安置されています。きらびやかな襖絵には、中世の自由都市・堺を彷彿とさせる南蛮貿易の様子が描かれているそうです。
また、本堂の前には向かって右に親鸞聖人立像、左に蓮如上人立像があります。 -
真宗寺です。
創建は南北朝時代の延元年間(1336〜39年)に、源義国の曾孫・足利義氏の第四子祐氏が母と共に堺に来て住み、出家して本源院道祐と号して天台僧となったが、本願寺第三代宗主・覺如上人に帰依し、招じて一寺を開いたのが始まりだそうです。覺如は当所に赴いて、灰具左上の御影や自筆の三帖和讃を授与し、寺号を真宗寺と名付けたそうです。延元三年には足利尊氏が荘園を寄進しているそうです。文明二年(1470年)、真宗寺第五世・本覺院道顕は真宗寺を再興し、本願寺第八世宗主・蓮如上人を請じて落慶、境内に信證院を建立して蓮如上人の堺での布教の拠点としたそうです。これが樫木屋道場だそうです。御本尊には阿弥陀如来を祭り、蓮如上人の御木像を安置しているそうです。真宗寺第十世・本宗院顕珍は、本願寺・教如上人と共に織田信長と戦った石山合戦(1570〜80年)において、越後などの坊主宗や門徒たちとの折衝に当たり、泉州堺における一向一揆のリーダー的立場にあったそうです。第十四世・光闡院円珍にいたり、寛文三年(1633年)五月、寺地を分割して真宗大谷派に属し、以降、本願寺における教学や儀式などの中心的な役割を担うことになったそうです。 -
善長寺です。
将軍山善長寺は、天文十八年(1549年)に三好政勝が、父宗三の菩提所として、宗三戦士の日(六月二十四日)を以て開基と定め、浄土宗粟生光明寺(京都)の顕空を請じて開山としたそうです。境域には、本堂・庫裏及び門外に観音堂があり、本尊は阿弥陀如来像で、観音堂には、永正十三年(1516年)八月十三日宗三が戦陣を堺に布き、網道場(金光寺)に宿泊した際感得したものといわれる十一面観世音菩薩像(微笑観音)を安置。政勝はこれを「松の観音」と称して、天文九年(1540年)三月堂宇を創立して像を移し、荘厳なる供養を行ったと寺伝に書かれているそうです。粟生光明寺の末寺であった当寺は、寛永五年(1628年)九月八日、第六世の住持聴誉利道の時、浄土宗知恩院の末寺に改め今日に至っているそうです。 -
大法山成就寺は、応永十三年(1406年)十月日蓮宗本國寺の日伝の命を受けた、法光院日験により創建、摂津・和泉の布教の拠点としたそうです。天文年中(1532〜1554年)に京都六条本國寺の化主日助が法乱を避けて本寺に七年も住むことになったので、通称当寺を六條と呼ぶことになったそうです。宝永元年(1704年)の記録には本地院・玄龍院・要泉坊・安住院・十如院・聖主院・本行院等七坊の名があり、境域は広く中央に方十間の本堂があり、拝所・客室・庫裏・玄関・納屋・土蔵・門番所が並び、外に方七間の祖師堂と番神堂があり障壁を巡らせ、三宝に門を設けていたそうです。本尊に題目宝塔・釈迦牟尼仏を祀っているそうです。寺宝に日蓮聖人像(応永時代)十六羅漢画四幅対・土佐光起画一幅・嵯峨天皇宸翰法華経一部八巻などがあるそうです。境内には鉄砲伝来時に種子島で鉄砲の製法を習得し、堺に帰りこれを広めたと伝えられる堺の商人橘屋又三郎や三鍛冶の一人芝辻長左衛門(邦考)の墓があるそうです。
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本受寺です。
陽光山本受寺は、寛正二年(1461年)法華宗・本覺院日陽の開基で、嘉永三年(1850年)には鎮守堂も造られ中には室町時代作の三十番神を祀っているそうです。寺宝に徳川家康より賜受の渡海御朱印状一幅、西ルイスの遺品・由緒書(寛永廿一年極月十五日西宗真)一幅などがあるそうです。また、西宗真(キリスト教名ルイス)は肥前大村の領主大村喜前の家臣として、慶長から元和(1596〜1615年)にかけ徳川幕府より海外渡航の朱印を受け度々渡航し、徳川家康に海外の国情を報告していましたが、元和二年(1616年)より堺に居住してから当寺は西家の菩提所となったそうです。境内には巨大な五輪塔の墓碑があり、その塔には法号東漸院宗真日源居士をはじめ、父宗源及び母妙信、宗真の妻養光院宗月、宗月の父永徳、母妙崇などの法号及び没年を刻しているそうです。奥庭にキリシタン燈籠(織部燈籠)があり、ルイスがキリスト教信者であったことを物語っているそうです。 -
宝珠院です。
三光山宝珠院は、栄亮大僧正の開基で真言宗高野派叡福寺に属し、本尊に虚空像菩薩を祀ります。明治三十五(1902)年七月に北隣の金光寺を併合。境内には、明治維新に起きた堺事件で割腹した土佐十一烈士のお墓があるそうです。堺事件とは、慶応四年(明治元年)二月十五日夜明け大阪港内を測量中、無断で堺へ上陸を行ったフランス軍艦デュプレー号水兵と、堺を警備していた土佐藩士とが衝突、土佐藩士の発砲により、フランス兵に十数名の死傷者が出たそうです。そこで、フランス側は事件に関わった者の処刑、十五万ドルの賠償など五箇条の謝罪を要求したそうです。当時の政府は、警備隊長箕浦猪之吉以下二十名の土佐藩士の切腹を命じ、切腹は妙国寺の境内でフランス軍士官立ち会いのもとに行わたそうです。しかしその凄惨な切腹シーンにフランス士官は、十一名が切腹し終えた時点で中止を申し入れたそうです。切腹した十一名の遺骸は、前土佐藩主山内容堂らにより本寺に葬られて厚く弔われたそうです。烈士の墓は、昭和十三(1938)年八月八日国の史跡に指定されたそうです。 -
妙國寺の門前です。
妙國寺は、永禄五年(1562年)、堺を支配した三好四兄弟の一人、三好実休(義賢)と日洸上人の尽力により建てられたそうです。日洸上人は、堺の豪商、油屋(伊達)常言の息子だそうです。堺での日蓮宗の代表的な寺院として、上人や来堺した戦国武将達の信奉を受け、朝廷より勅願寺と定められました。境内には国の天然記念物に指定されている大ソテツがあります。今回はソテツのあるところまで行けなかったので、遠くからの写真だけです。幕末フランス兵との間で起こった「堺事件」において十一人の土佐藩士が切腹した場所でもあるそうです。 -
妙國寺の本堂です。
三箇日と言うことからか受付していないようでした。
利休寄進六地蔵燈籠、利休寄進瓢形手洗、徳川家康句碑、正岡子規句碑、与謝野晶子文学碑、その他歴史資料も展示あるそうで、拝観料は四百円、拝観時間は十時から十六時だそうです。 -
土佐十一烈士の供養塔です。
この供養塔の左ある本堂との間にある通路と行くと割腹跡の碑もあります。
供養塔の前には、後の時代に建てられた烈士を讃える石碑も建っています。 -
妙國寺の大ソテツを見たいと思いましたが、通路への道が閉まっていて遠くからしか見ることが出来ませんでした。
現在、450年以上の歴史を有するソテツはその樹勢が衰え始めていて、その回復対策を行うため、国などの助成を受けて平成20年より「天然記念物ソテツの再生事業」が行われているそうです。診断調査が終わり、現在は樹勢回復処置中だそうです。 -
境内にはなぜかキャラクターの石造がありました。
これはドラえもんです。 -
これはドラミちゃんです。
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これは、ピカチューです。
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最後にキティーちゃんです。
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糸割符会所跡です。
生糸は江戸時代の重要な輸入品であり、慶長九年(1604年)家康により堺・京・長崎の商人にのみ買付が許された。後に江戸・大坂の商人が加わったが、その割合は堺百二十丸(一丸=30kg)に対し、京・長崎・江戸百丸、大坂五十丸だったそうです。堺には多いときで二百人以上の糸割符商人がおり、これらの商人が事務を執るために置いたのが糸割符会所である。当初、戎之町東三丁に建てられたものが、後に現在地(櫛屋町東三丁)に移された。 -
堺刃物博物館です。
堺の伝統産業として有名なものに自転車と刃物がありますが、そのうちの一つの刃物の博物館です。
http://www.sakaihamono.or.jp/museum01.html
この日は閉まっていましたが、いつか訪れたいと思います。 -
郷学所址の碑です。
江戸時代後期の堺では米・綿・搾油・肥料・砂糖などの商取引や、包丁・鉄砲・酒・丹・朱などの製造など、多方面にわたる経済活動を背景に、市民の間に豊かな教育活動が展開したそうです。天保十三年(1842年)には、市中の未成年者に無料で学問を教授する「稽古所」ができたのをはじめ、記録によると幕末には二十二軒もの寺子屋があったそうです。こうした市民の旺盛な教育活動を受けて、天保十四年(1843年)堺奉行所は北糸屋町(現在の車之町東一丁)に新たに町屋を買い取り、「郷学所」を発足させます。郷学所は多くの門弟を集めたため手狭になり、安政六年(1859年)にここ九間町東一丁に移転したそうです。移転後幕府の積極的な援助が与えられたため、大坂今橋の郷校「懐徳堂」と同列のものとされるなど、市民の上級教育機関として発展していったそうです。また、堺市中のみならず近隣の河内・和泉の農村から多くの人々が学びに来たそうです。明治維新の際に堺に進駐した新政府軍は、郷学所を一時閉鎖し、蔵書を没収しましたが、慶応四年(1868年)四月に市民の側から郷学所再興願いが出され、八月には郷学所が明治政府によって再興され、明治三年(1871年)十月に廃止されるまで公教育の中心を果たしたそうです。郷学所は、堺県の郷学校、県学の先駆けとなるものであり、近代の学校教育へとつながるものだったそうです。 -
堺自転車会館です。
堺の伝統産業として有名なものに自転車と刃物がありますが、そのうちのもう一つの自転車会館です。地場産業である自転車の総合展示場だそうです。
この日は閉まっていましたが、いつか訪れたいと思います。
ちなみに、堺自転車博物館は、別に大仙陵のそばにあります。
http://www.h4.dion.ne.jp/~bikemuse/index0.html -
ザビエル公園です。
以前は戎公園と呼ばれていましたが、昭和二十四(1949)年ザビエル来港四百年を記念してザビエル公園と名付けられました。天文十九年(1550年)に堺に来たイエズス会の宣教師フランシスコ ザビエルを、手厚くもてなした豪商・日比屋了慶の屋敷跡に作られた公園であったことが理由だそうです。また、十月の堺まつりの「なんばん市」の会場にもなります。 -
堺奉行所跡、旧堺市役所跡です。
堺奉行は江戸幕府の遠国奉行の一つです。奉行所の位置は現代の車之町東櫛屋町東両町の二丁から三丁にまたがる一帯に該当し、江戸時代は奉行屋敷、与力同心屋敷など武家屋敷が建ち並んでいたそうです。奉行は旗本の中から選ばれ、境の町内と港湾を管理し、町民の訴訟を処理することが仕事だったそうです。その前身は、安土桃山時代から江戸時代のはじめに堺を支配した「堺政所」に求めることができるそうです。堺政所は貞享年間(1684〜1687)頃堺奉行と改称され、与力十騎、同心五十人と共に堺の支配に当たったそうです。堺奉行所は元禄九年(1696年)幕府の方針によって廃止され、大坂町奉行所が堺を管轄することになったそうです。しかし、元禄十五年(1702年)には再興され、慶応三年(1867年)まで堺の支配を行ったそうです。明治二十五(1892)年には、奉行所跡に堺市庁舎が建設され、昭和十九(1944)年に南瓦町へ移転するまでの五十二年間は、ここに庁舎が置かれていたそうです。 -
櫛笥寺です。
具足山櫛笥寺は、明応元年(1492年)櫛笥大納言隆朝が創建し、本住院日染の開山だそうです。本山立本寺の末寺ですが、奉行所札書付に「京都立本寺、当地櫛笥寺、両寺一寺と申す」と記されているそうです。朱印寺で、豊臣秀吉は、天正十四年(1586年)一石一斗の朱印を寄せ徳川幕府もこれを引き継いだそうです。大坂夏の陣(1615年)で焼失したが、元和三年(1617年)本堂等を再建したそうです。当寺に安置されている霊鷲院日審は、母が懐妊中に死亡した後、甕棺の中で出生し、説法に優れた高僧となり、安産守護の「つぼ日審さま」として慕われ、帰依するもの九万人に及んだと言われ、立本寺の十七世、当寺八世中興の師となったそうです。宝永元年(1704年)の記録には延成院・久祥院・良圓坊・扇翁坊の四塔頭の名があり、境内地墓地計千二百三十八坪だったそうです。昭和二十年、戦火で全焼の後、昭和四十年現在の本尊等が再建されました。 -
圓光山興覺寺は、徳治二年(1307年)創建されたと伝えられています。総本山は日蓮宗身延山久遠寺だそうです。大和郡山城主筒井順慶ゆかりの、中百舌鳥町筒井家(夕雲開き)の菩提所でもあるそうです。本尊は南無妙法蓮華経大曼荼羅、久遠実成の釈迦牟尼仏、本化上行などの四大菩薩だそうでです。他に鬼子母神、七面天女、恵比寿天、大黒天を勧請し、古くから痔封じの神様秋山自雲霊神が祀られているそうです。また、茶人として有名な当寺の檀家であった里美東白は鶏鳴庵を造営したそうです。第二次世界大戦で堂宇を焼失し、その後昭和四十五(1970)年現在の本堂等を再建したそうです。大正年間からの伝統を持つ日蓮宗大荒行修練の祈祷道場でもあり、毎月一日午後二時水子供養会と、八日午後八時鬼子母神祈祷修行会があるそうです。
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妙満寺です。
取要山妙満寺は、永正九年(1512年)九月京都総本山妙満寺の第十七世智覺院日誠の開創だそうです。当時照光寺と称していたが、天文五年(1536年)七月比叡山僧兵による京都法華寺院焼き討ちの法乱に際し、本山が避難してきたことにより寺号を妙満寺と変えたそうです。それより約六年間、貫主が居住し門流五百ヶ寺の本山として機能したそうです。その後災禍にあったが寛文五年(1665年)登覺屋五平の外護により本堂書院が再建され、尭本院・寂照院などの四子院を有し、泉州の門流五ヶ寺の筆頭寺として復興したそうです。第二次大戦で堂宇並びに寺宝の日蓮聖人消息四軸・同板曼荼羅・日経上人消息一幅・同曼荼羅二幅など全てを焼失したが昭和四十一年四月に再建したそうです。本尊に題目宝塔、釈迦多宝二仏、上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩を祀っているそうです。常楽院日経上人慶長法難の折、師弟六人連判の畧曼荼羅があるそうです。 -
超善寺です。
法界山泉勝院超善寺は、天正年間(1573〜91年)住蓮社存誉貞公上人の開創で浄土宗知恩院に属します。大坂夏の陣(1615年)の時、第二世の念蓮社専誉は、弟子を携えて大和に避難、塔頭長泉庵の開基浄専は、本尊阿弥陀如来像を背負い末寺の河内大ヶ塚の善性寺に逃れたそうです。大坂夏の陣後、現在地に専誉が再建したそうです。寺宝には木像阿弥陀如来・裾取地蔵・賓頭盧尊者・弁財天・開山存誉上人座像、阿弥陀如来来迎図などがあるそうです。境内には超善寺井と呼ばれる堺第一の清泉があり茶の湯や酒造りなどに利用されていましたが、戦後寺地の一部に熊野小学校が建ち、井蓋をして埋められて、運動場となっているそうです。堺と友好都市提携の中国連雲港市美術協会主席、王宏喜氏揮毫の「三国聖賢図」十二面(本堂の襖絵と屏風)及び田室幾朗画伯の核廃絶悲願の現代地獄極楽油絵百号二面が所蔵展観されているそうです。また、一名堺千体大黒天の寺とも言っているそうです。堺の桜の名所の一つとしても有名だそうです。 -
線香立てに「堺大黒天」の文字が見えます。
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線香立てに「堺千体大黒天」と書かれた建物の中の様子です。壁にたくさんの小さな仏像が見えます。
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常安寺です。
心光山観音院常安寺は、当初心光山観音寺と呼ばれ塔頭八坊を持つ大伽藍でしたが、その後衰退し本坊観音寺と塔頭白庭庵を残すのみとなったそうです。慶長十二年(1607年)豊臣氏の遺臣金田屋常安が発起人となり、観音寺と白庭庵を合わせて一寺を建て、融誉浄圓大徳が中興開山として寺号を常安寺としたそうです。大坂夏の陣(1615年)で当時は焼失し、常安の長男政守が、元和二年(1616年)に再興しましたが、またも昭和二十(1945)年七月第二次世界大戦の戦火で焼け昭和六十一(1986)年11月に再々建さたそうです。浄土宗総本山知恩院に属し、本尊には慈覺大師の作と伝えられる旧白庭庵の本尊であった阿弥陀如来立像と、平安朝の遺作と思われる梵天像俗称腹帯観世音菩薩像を安置しているそうです。共に大阪府の指定文化財です。他に江戸時代作の絵本著色聖徳太子像一幅、銅造伏鉦二口を蔵しています。 -
養壽寺です。
宗圓山養壽寺は、千利休・津田宗久と共に三宗匠の一人と言われた今井宗久の兄秀光が、永禄十年(1567年)九月に当地に屋敷を建てたものを、寛永十三年(1636年)に今井宗圓が即明院日相上人(宗圓の甥)を開山として今井一門の菩提を弔うため寺院に改めたもので今井家一門が永代当寺の外護者となると堺市史に記されているそうです。日蓮宗に属するそうです。当寺の建物及び寺宝などは第二次大戦で全て焼失したそうですが、永禄十年頃に作られたものと言われる庭の石組みが現存するそうです。この庭は、室町末期から桃山時代にかけて盛んに行われた集団石組みが主体となり、室町様式を伝える桃山初期の書院式枯山水で、正面には亀島をその左には低く釣島を設け、右の方にも集団の石組みを設けた三集団の庭園であると伝えられており、その当寺の庭園の様子を窺うことができる石組みが保存されているそうです。庭に今井宗薫の五輪塔があり天外宗薫、宝永四年(1707年)四月十一日と刻しているそうです。 -
法華寺です。
卯木山法華寺は俗称柳の寺といい、本門法華宗妙蓮寺末で、妙顕寺の日像の法弟にあたる権大僧都法印日輪が延文年間(1356〜1360年)に開山したそうです。当寺は初め堺郊外に法華庵と号する小庵を建てたのに始まりその後、大壇越満田盛讃が堺南大小路町に移転創建、本堂・御影堂・番神堂及び塔頭十二坊を有していた。天文五年(1536年)京都の法乱に際し京都妙蓮寺貫主難を避け同十一年(1542年)まで本寺にとどまったそうです。この因縁並びに法義の同じを以て本末の契約を成す。元和の兵火で焼失後寛永十八年(1641年)六月当所に奈良屋道汐が再興、中興開山は龍国院日統だそうです。当時三子坊があったが、その後寂れて明治維新に本坊に併合されたそうです。本尊に題目宝塔・釈迦牟尼仏を祀るそうです。第二次大戦の空襲で堂宇は焼失したが、当時の日富上人が身を挺して守った伝日蓮上人筆鯉曼荼羅などの寺宝古文書を奉じ昭和三十五年本堂を再建したそうです。境内に徳川幕府より最初の糸年寄役を命じられた奈良屋道汐の墓碑があるそうです。 -
祥雲寺です。
堺の豪商谷正安は、沢庵宗彭に深く帰依して、一寺を建てようとし、海会寺の跡地に寛永二年(1625年)に工を起こし、同五年に完成し、沢庵を開山として迎え瑞泉寺と名付けたそうです。後、寛永九年(1632年)、瑞泉寺を祥雲庵と改め、さらに同十六年、祥雲寺としたそうです。当寺は将軍徳川家光より後、幕府巡見所の一つに加えらたそうです。かつては松の寺と称せられ、堺の名所の一つであった当寺も昭和二十年七月の戦災で焼失し、昔の面影を失ってしまったそうです。幸いなことには、国の重要文化財に指定されている「沢庵和尚像」と「釈迦二声聞像」のいずれも絹本着色の絵画が焼失を免れました。 -
祥雲寺の庭園だと思います。
当寺の庭園は枯山水の様式により、大徳寺方丈庭園とよく似ていることから、大阪府指定文化財となっているそうです。 -
開口神社の鳥居です。
神功皇后によって創建されたと伝えられ、奈良時代には開口水門姫神社とも称せられていたそうです。港を守る役割を持ち、最古の国道と言われる竹内街道・長尾街道の西端にあったそうです。また、行基により念仏寺も建立されたと言われているそうです。その後、平安末期の天永四年(1113年)、開口村、木戸村、原村の三村の神社が合わさって三村宮(または三村明神)とも称されたそうです。念仏寺の通称が「大寺」であったため、念仏寺が廃寺となった今も、堺の人々は「大寺さん」と愛着を込めて呼んでいます。明治時代には、境内に現在の堺市役所、大阪府立三国丘高等学校、大阪府立泉陽高等学校、堺市立第一幼稚園などが置かれたこともあったそうです。堺に所縁の深い絵師土佐光起が本神社の創建を描いた『大寺縁起』や古くから伝来する『伏見天皇宸翰御歌集』、『短刀(銘吉光)』は、重要文化財に指定されているそうです。開口神社の御祭神は三柱あり、塩土老翁神(元開口村の神)
は海上交通を守る神で伊弉諾尊の子、塩(潮)を司る神で、命の源泉を護る神とも言われ、安産の神と崇められているのだそうです。素戔嗚神(元木戸村の神)は伊弉諾尊・伊弉冉尊の子、天照大神の弟で、国土の安全、植林の神、疫病除災の神として崇められているそうです。生国魂神(元原村の神)は国土開発発展の基となる神として崇められ、生嶋神ともいわれるそうです。 -
境内にある竈神社です。
三宝荒神社とも呼ばれ、堺の荒神さんとも俗称されます。縁日は毎月二十八日で、御祭神は庭津日命だそうです。堺市には「三宝」の地名もあるほど三宝荒神信仰が盛んで、私の実家の神棚にも荒神さんが祀られていました。お正月は荒神さんに休んで頂くと言うことで、風呂に入らない風習もありました。 -
影向石です。
開口大神(主祭神塩土老翁神)が御影向の時、この石に腰掛けられ、その後住吉へ向かわれ住吉の神になったとも、行基上人と法談した場所とも、弘法大師と御対面されたときの御座所とも言われる石だそうです。 -
白一龍神社です。
歯痛の神様だそうです。 -
白髭神社、塞神社です。
両方神社とも猿田彦大神が御祭神だそうです。
白髭神社は毎月十二日が、塞神社は庚申の日が縁日だそうです。 -
舳松神社、松風神社です。
両方の神社とも住吉大神が御祭神だそうです。
舳松神社は二十五日が、松風神社は十五日が縁日だそうです。 -
菅原神社、岩室神社です。
複数の神様が合祀されています。
菅原道真公、金山彦大神他二柱が祀られています。
菅原神社は二十五日、岩室神社は八日が縁日です。 -
大阪府立泉陽高等学校発祥の地の碑です。
明治七(1874)年五月、ここに堺県により子女教育の場として女紅場が設置され、明治三十三(1900)年に堺市立堺高等女学校、明治四十五(1912)年に大阪府立堺高等女学校、昭和二十三(1948)年に学制改革により共学の大阪府立泉陽高等学校になったそうです。卒業生の数は既に三万人を超えるそうです。平成十二年に堺高等女学校創立から百周年を祝ってこの記念碑が建てられたそうです。碑を建立したのは泉陽高校の同窓会「泉陽会」だそうです。 -
薬師社です。
縁日は毎月八日だそうです。 -
熊野神社、厳島神社、兜神社、三宅八幡神社、琴平神社、神明神社、豊受神社だそうです。
複数の神様が合祀されています。
熊野神社は熊野大神、厳島神社は市杵島姫大神、兜神社は神功皇后他二柱、三宅八幡神社は誉田別大神、琴平神社は大己貴大神、神明神社は天照大神、豊受神社は豊受姫大神が祀られています。
熊野神社は十五日、厳島神社は七日、兜神社は十五日、三宅八幡神社は十五日、琴平神社は十日、神明神社は十七日、豊受神社は十七日が縁日だそうです。 -
産霊神社、北辰神社、大國魂神社、恵比須神社、少彦名神社、舟玉神社、楠本神社です。
複数の神様が合祀されています。
産霊神社は高産霊大神他一柱、北辰神社は天御中主大神、大國魂神社は大國魂大神、恵比須神社は事代主大神、少彦名神社は少彦名大神、船玉神社は天鳥船大神他三柱、楠本神社は久々能智大神が祀られています。
産霊神社は十日、北辰神社は十五日、大國魂神社は十日、恵比須神社は十日、少彦名神社は十五日、船玉神社は十五日、楠本神社は十五日が縁日だそうです。 -
堺の幼稚園教育発祥の地の碑です。
堺市立第一幼稚園が初めに置かれた地であることを記念しています。 -
豊竹稲荷神社です。
倉稲魂命が祀られています。午の日が縁日だそうです。 -
こちらが本殿です。
先ほども記述しましたように、塩土老翁神、素戔嗚神、生国魂神が祀られています。一日と十二日が縁日で、九月に例大祭である八朔祭が催されるそうです。社格は式内社、旧府社だそうです。 -
大阪府立三国丘高等学校発祥の地の碑です。
明治二十八年開口神社内にあった旧堺市庁舎を仮校舎として、大阪府第二尋常中学が開校したそうです。翌年本校舎が完成し、現在地(三国ヶ丘)に移転したが、移転後も約一年寄宿舎は境内内にあったそうです。その後校名を堺中学校に改め、昭和二十三年学制改革によって三国丘高等学校となり今日に至ったそうです。この碑は創立百十年を記念して、発祥の地を後世に伝えるべく三国丘高等学校の同窓会「三丘同窓会」によって建立されたそうです。 -
海会寺の金龍井です。
臨済宗東福寺派海会寺は、元弘二年(1332年)洞院公賢(1291〜1360)が草創し、乾峯士曇(1285〜1361)を招いて開山とした寺院だそうです。天正十三年(1585年)頃までは甲斐町東にあり、その後大町東に移転し、さらに慶長二十年(1615年)大坂夏の陣の大火以降現在の南旅篭町東に移転したそうです。海会寺金龍井(海会寺井)の名称は、海会寺がこの甲斐町東付近にあった時代に掘られたこと、乾峯士曇が干ばつの時に龍神に祈ったところ、老人に化身した鬼面龍神が現れ井戸を掘る場所を教えたという由緒があることにちなんでいるそうです。室町時代の記録「角虎道人文集」には、この井戸は、泉南第一の井戸と書かれているそうです。また江戸時代の記録「全堺詳志」には豆腐製造に、同じく江戸時代の記録である「和泉志」には茶の湯に適した水を出す井戸であると書かれているそうです。 -
三好元長戦死跡の碑です。
墓所は別にあります。 -
与謝野晶子生家跡の碑です。
いくつかの碑が建っています。 -
与謝野晶子生家跡の石碑です。
こちらが一番古いようです。 -
与謝野晶子の生い立ちや業績について書かれています。
与謝野晶子(1878〜1942年)は、明治十一(1878)年十二月七日、当時の堺県甲斐町四十六番屋敷で菓子商駿河屋を営む鳳宗七の三女として生まれたそうです(幼名:志よう)。幼い頃から『源氏物語』などの古典に親しみ、17歳の頃から歌を詠み始め、明治三十四(1901)年与謝野鉄幹のもとへ上京するまで、青春時代を堺の町で過ごしたそうです。駿河屋の店舗は現在の紀州街道になっています。店舗があった頃は旧紀州街道に面していたそうですが、戦後の道路拡幅時に西へ移動したためだそうです。 -
与謝野晶子の歌碑です。
堺市内で最初の晶子の歌碑として歿後二十年にあたる昭和三十六(1961)年に建立されたそうです。晶子二十六歳、明治三十七(1904)年の雑誌「明星」に初出した歌で、巻物「春風抄」(堺市博物館所蔵)の中に記されている自筆を刻印しているそうです。中央にあるアマリリスと百合の花は晶子が好んだ花といわれ、碑全体の形は晶子の旧姓「鳳」より、鳳凰が大きく羽を広げている姿を象徴しているそうです。 -
千利休屋敷跡です。
千利休は堺の豪商魚屋の長男として生まれ、初め北向道陳に茶道を学んだが、さらに道陳の師武野紹鴎に師事し、遂に「侘び茶」を大成させたそうです。本名を与四郎と言い、茶名千宗易といい、織田信長・豊臣秀吉に茶頭として仕え、正親町天皇より利休居士号を賜ったそうです。また、壮年時には抛筌斎とも号していたそうです。天正十五年(1587年)十月秀吉の北野大茶会を司り、秀吉に次いで二番の席を設けるなど天下一の茶人として、茶器などにも種々の工夫を凝らし、わび・さびの境地を切り開いたそうです。その根底には大徳寺の禅師に深く禅を学び、茶禅一味の悟りに達していたことが考えられるそうです。その後天正十九年(1591年)二月秀吉の怒りを買い京都から追放されて堺にて謹慎していたが、京都に呼び戻され同月二十八日尼子三郎左衛門らを検使として切腹させられたそうです。この屋敷跡には、利休が茶湯に利用していたと言われる椿井(写真右奥)が、また南宗寺には実相庵と称する二畳台目の茶席(塩穴寺より明治九年に移築、第二次大戦で焼失、昭和三十五年七月復興)がありるそうです。 -
住吉大社飯匙堀です。
住吉皇大神は伊弉諾尊が日向の橘小門で契りを交わした際に生まれたお子で、我が国民に清らかで明るい心で事に当たるべきであることを教えてくださったそうです。神功皇后の三韓征伐に際しては終始皇軍を御守護下さり、凱旋の時神功皇后はこの飯匙堀にて禊祓を受けて国の彌榮を祈ったそうです。そこで住吉大社の特殊神事である南祭を御祓祭と称し、ここで大祓の式を行うようになったそうです。このように由緒ある霊域が昔ながらに残っているのは大神の御神威で歴史を重んじる堺市民の誇りです。 -
白夜の兎の群像です。
この群像は、昭和三十八(1963年)年十一月獣医で動物彫刻家の岩田千虎(1893〜1965年)氏指導の下、住吉大社堺頓宮横に作らたそうです。古代、住吉大社の鎮座は神功皇后年紀十一辛卯年(211年)卯月卯日とされ、今日でも「卯の葉神事」が毎年五月の最初の卯の日に大社にて営まれているそうです。卯、即ち兎は住吉大社のシンボル的動物で、それになぞらえてこの像が造られたそうです。岩田千虎氏は、堺市熊野町で獣医をする傍ら、彫刻家、とりわけ動物彫刻の分野では第一人者として知られ日展審査員なども歴任したそうです。大浜公園の「樺太犬」群像をはじめ、現在もいくつかの野外彫刻を市内で見ることが出来るそうです。 -
宿院頓宮本殿です。
宿院頓宮は古くから住吉大社の御旅所として堺の人々に馴染みの深い宮で、毎年七月三十日から八月一日にかけて住吉大社から「御神輿」が渡ってくる「住吉祭」が行われているそうです。これは堺の人々が住吉神に深い信仰を寄せていたことを示す由緒ある祭礼だそうです。戦前はこの界隈は堺でも一番の繁華街で「卯の日座」という映画館なども周囲にあったそうです。 -
こちらにも宿院頓宮の由来が書かれてあります。
宿院頓宮は、住吉大神と大鳥井瀬大神がお祭りされているそうです。鎮座の年代については不明だそうですが、堺荘が中世まで住吉神社の神領であったことや、頓宮前の飯匙堀は住吉大社の潮干珠を埋めたところで、その形が飯匙に似ていることから名付けられたとの伝承もあり、古くより住吉大社との縁が深く、住吉行宮・御旅所とも称されているそうです。「堺鑑」に『この地は住吉明神毎年六月晦日の御祓御旅所なり』とあるように、この御祓祭りは今日では七月三十一日夜に大鳥大社から、八月一日には住吉大社から御輿を迎えて祭典を行っており、飯匙堀で摂津・河内・和泉三国の大祭として知られた有名な"荒和大祓神事"が執り行われるそうです。また住吉大神は海路平安の神として、例大祭には全国の漁師達が神前に数々の鮮魚を献じて、その年の大漁や、航海の安全などを祈願し、併せて魚を浜で販売した伝統の堺大魚夜市が七月三十一日に行われるそうです。 -
武野紹鴎屋敷跡です。
武野紹鴎は文亀二年(1502年)大和の生まれで、後に堺に移ったそうです。厠の屋号を持つ豪商の一人で、若い頃、郷で三条西実隆に和歌を、村田珠光一門に茶の湯を学び、堺に帰って津田宗及、今井宗久、千利休らに珠光の侘び茶を伝え、特に宗久を娘婿にして財産・茶器を譲ったそうです。茶人北向道陳らと交友し、南宗寺の開祖大林宗套に禅を学んだそうです。南宗寺には紹鴎の供養塔があり、この供養塔に耳を当てるとシュンシュンとお茶を沸かす音がするそうです。また、千利休が武野紹鴎に弟子入りする際のエピソードとして「千利休が与四郎と言われていた頃、このあたりに住んでいた武野紹鴎という茶人に弟子入りしました。紹鴎はゴミ一つない綺麗な庭を与四郎に掃除させたところ、与四郎が木を揺すって落ち葉を散らし庭に風情を出したことに感心し、すぐに弟子にした」と言うものがあるそうです。 -
今井屋敷跡です。
今井宗薫は、堺の豪商で茶人の今井宗久の長男として生まれ、茶の湯を父に学び、豊臣秀吉の近侍となったそうです。秀吉の死後は徳川家康の寵を受け、関ヶ原の戦いで功を上げて、河内・和泉二国の代官となったそうです。堺市五箇荘花田に屋敷があったが、大坂冬の陣に際して関東に通じる嫌疑を受け、家財を没収され、大坂城に監禁された。のち、逃れて城中の様子を家康に伝え、徳川軍に従ったそうです。現在地にあった宗薫の屋敷は、織田有楽斎から譲り受けたもので、当時の尺度で東西二十九間(約55m)・南北三十二間(約61m)と考えられているそうです。 -
長谷寺です。
神栄山長谷寺は、天平勝宝五年(753年)三月徳道上人の開創で、聖武天皇が大和長谷寺を造立後、上人に勅令を賜り諸国に新長谷寺を造営させた最初の寺を言われているそうです。当時は広大な地域に荘厳な殿宇と塔頭六坊を有し、本尊は大和長谷寺建立に際し試作の十一面観音菩薩像を祭り、真言宗豊山派に属しているそうです。寺宝に浄土への希求を援助し、現世の福徳を与えてくれる観音への信仰の中で、多数の観音信仰縁起が平安後期頃より流行し、和泉長谷寺縁起もこのような風潮の中で生まれたもので、大和長谷寺の十一面観音菩薩及び長谷寺造寺譚、開基者徳道や行基の行状を交えて語られているそうです。別に泉堺長谷寺建立縁起二巻があり、和泉三十三ヶ所札所・西国第十番の札所としても有名だそうです。第二次大戦で焼失し、昭和二十三(1948)年に再建されたそうです。 -
顕本寺です。
常住山顕本寺は、大本山本能寺、本興寺を建立した日隆上人が、宝徳三年(1451年)堺の木屋、錺屋の自宅を転じて建てた法華堂を準大本山顕本寺とし、日浄上人を開山とした。明治四十三年五月本門法華宗となったそうです。顕本寺は当初甲斐町山之口にあって、七堂伽藍を配置し、百有余の末寺があったそうです。元禄十四年(1701年)の記録には法泉・実教・円澄・遠住・本勝の五支坊の名があるそうです。元和の兵火(1615年)で焼失、日典上人によって当所に再興、昭和二十(1945)年に戦災で全焼、再び再興したそうです。本尊は題目宝塔・釈迦多宝二仏・四菩薩・四天王・二明王を所蔵するそうです。足利末期に天下を狙った三好海雲元長の墓があるほか、歌謡の元祖、隆達節の自在庵隆達の墓と碑が境内にあるそうです。隆達は、山之口の薬屋高三隆嘉の末子で父の建てた高三坊(本寺塔頭)の住職だそうです。隆達節は豊臣、徳川の世に流行したそうです。隆達小唄の一つに『おもしろの春雨や花の散らぬほど降れ』というのがあるそうです。 -
妙法寺です。
長栄山妙法寺は、興国四年(1343年)四月、京都の大本山妙顕寺開山日像の直弟子、微妙坊日祐を開山とする寺院だそうです。創建後、天文年間(1532〜1554年)革屋道賀一族、石津屋宗栄の一門、北向道陳(茶匠武野紹鴎の友、利休の最初の師)、京屋道寿らにより再建されたそうです。その後、大坂夏の陣(1615年)で焼失したものの、檀徒の茶屋四郎次郎の助力と地割担当奉行風間六右衛門の計らいで、旧南宗寺の寺地を得て現在地に復興したそうです。宝永年間(1704〜1710年)の記録には、寺内に報恩・正善・慧龍・本行・久遠・法泉の六坊あったと記されているそうです。天文法乱(1536年)の際、京都妙顕寺が刹堂等を当地に移し、三代にわたって当寺に避難、滞在したことから二条半の愛称で親しまれており、境内には北向道陳の墓碑や曽呂利新左衛門の三百五十年忌碑があるそうです。 -
本成寺です。
登宝山本成寺は、文安元年(1444年)久遠成院日親が播磨東条の危機を逃れ、兵庫より海路堺浜に来着、石を高座に伝道中付近の豪商桔梗屋重兵衛の帰依を得て建立された寺で、日親を開山と仰いだそうです。日親は室町中葉、乱世を伝道に生き抜いた日蓮宗の傑僧で「立正治国論」を著し、将軍足利義教に直訴を試みたが失敗し、かえって厳しい拷問にあった。その一つが真っ赤に焼けた鉄鍋を頭に被せられたことだったが、これを耐え抜いたので町衆達は「なべかむい上人」と畏敬したそうです。当時の生御影木像は、日親の生けるが如き姿という意味で、生御影の名があり、堺の有力商人達が造立供養した像で他の寺々に安置されている上人像の原形になっているそうです。その形状は、円頂・眉根を寄せ、額に皺を刻み、僅かに髪際を彫出、眼光鋭く戦国期のきびしい特長を現しているそうです。なお、墓地には俳優二代目中村富十郎の墓碑があるそうです。 -
源光寺です。
光明山源光寺と号し、浄土真宗本願寺派に属するそうです。正和五年(1316年)源義家の四代後胤足利義氏の四男大聖院権大僧都祐源の開基だそうです。祐源はその師忍性が四天王寺主務の際、抜擢され勝鬘院別当となり、のち堺塩穴に来て、観音堂を再興し、これに住んだそうです。東福寺虎関を訪ね、偶々本願寺覺如宗主の説く他力専修の法要に値遇して改宗し、新たに念仏弘通の道場を当地に建立、源姓にちなんで「源光寺」と称したそうです。延元元年(1336年)六月足利尊氏はその由来を聞き、先祖有縁の寺として寺領若干、数多の寺産を寄進したというが、第三世祐心はこれらの寺産を北ノ庄の御坊(現在の本願寺堺別院)に悉く譲ったそうです。第七世空善、蓮如宗主を当寺へ迎えたそうです。元亀元年(1570年)より11年間の石山合戦の際には、米、塩、味噌などの兵糧を供出、石山本願寺への物心にわたる支援を行ったそうです。次いで天正十三年(1585年)八月三十日顕如が貝塚より大坂へ移居の際には頗る奔走したそうです。第十五世教祐の時、霊元院法皇は八景色紙その他を妙法院尭延一品法親王は大祖絵伝両軸等を、肥後八代城主長岡帯刀は、白石の手水鉢を寄進し、本願寺の寂如、法如、文如宗主等が来堺したそうです。昭和二十(1945)年の堺空襲により、全伽藍、寺宝は灰燼に帰したそうです(親鸞聖人伝絵四幅、阿弥陀如来絵像一幅、寺宝目録のみ現存するそうです)。平成二年(1990)年十二月本堂再建、対面所、事務所、集会所、門、外壁が完成したそうです。十二月八日入仏法要勤修したそうです。 -
大阿弥陀経寺(旭蓮社)です。
甘露山大阿弥陀経寺は、元徳二年(1330年)澄円上人の開創で後村上天皇の勅願所であり旭蓮社とも言うそうです。澄円上人は後醍醐天皇正中二年(1325年)入元、中国廬山の東林禅寺において、優曇普度禅師について、廬山慧遠大師の白蓮社の念仏の流れを汲み、留学すること五年、元徳元年(1329年)に帰朝、廬山の白蓮社に模して、堺の浜に精舎を建てこれを旭蓮社と称した。国家安全・宝祚延長を祈らせて、功によって菩薩号を賜り澄円菩薩と言ったそうです。当寺は当寺は慧遠派念仏本山として栄えたが、第二十三世徹誉の時、知恩院の支配に属し、本尊阿弥陀如来像を祀るようになったそうです。明治維新以降当寺は堺県裁判所となったが、後に払い下げを請い、堂宇を修繕し旧観に戻ったそうです。第二次大戦のため、毘沙門堂を除き諸堂を焼失したが、復興を図り、本堂・山門・庫裏を再建して現在に至るそうです。また第十四世燈誉に勅点和歌集にがあり、第二十四世成誉蓮阿は「泉州堺旭蓮社縁起」上中下三巻を作ったそうです。第三十七世願誉知海は浄土宗総本山知恩院第八十代住職となったそうです。 -
引接寺跡です。
引接寺は勅定山と称し、貞和三年(1347年)に創建された由緒の古い寺院で、時宗四条道場(京都金蓮寺)の末寺となっていたそうです。寺の縁起によれば、堺の商人三宅十五郎が父親の病気び回復を住吉社に祈念し、夢告によって海より無量寿仏(阿弥陀仏)を得てこれを拝したところ病気が治ったため、伽藍七堂・坊舎四十余院を造立し、俊澄(後の釈阿智演)と言う僧侶を導師として寺院を建立したと伝えられているそうです。また、創建当初は住吉社領内、現在の宿院町西付近を中心に、広大な寺地を有しており、中世都市堺の南側は、引接寺と共に発展していったそうです。その後移転し、江戸時代には、現在の少林寺小学校の敷地に当たる部分に「白蔵主の釣狐」で名高い少林寺に隣接して位置しているそうです。明治以降寺勢が衰え明治六年に廃寺となったそうです。 -
少林寺です。
萬年山少林寺は、元徳二年(1330年)桃源宗悟の開山で、寺号は開基大壇越小林修理亮法の姓をとり小林寺としましたが、のちに菩提達磨の少林寺にならって少の字に改めたそうです。当時、寺の境域は今の寺地町・少林寺町を併せた両町の海浜にまで達していましたが、寺地の多くを織田信長に没収され次第に衰退したそうです。その後、豊臣秀吉が石田三成・小西行長に命じて境内竹木の伐採を禁止したとありますから当時なお名刹であったことをうかがい知ることができるそうです。本尊は釈迦牟尼仏、鎮守白蔵主稲荷明神、明治39年に禅通寺を合併、その鎮守今池弁財天をまつります。大徳寺派黄梅院末に属します。永徳元年(1381年)塔頭耕雲庵の住持白蔵主が、鎮守稲荷明神に参籠して霊狐を得、狂言大蔵流の始祖霊狐の所作を狂言に作り、釣狐として上演されました。以降狂言歌舞伎関係者は釣狐上演の際は当時に参詣し技芸の上達上演の成功を祈願し寺内の逆芽竹を一本祈祷してもらい持ち帰り、上演の時の杖に使用する習慣となっているそうです。 -
発光院です。
元和八年(1622年)風海によって開創され、遍照山大日寺と称していたそうです。元は高野山一心院延明院の末寺であったが、元禄十年(1697年)四月真言宗大覺寺派となり、その後高野山派に戻って現在に至るそうです。本尊は室町時代に作られたと推定される愛染明王で、そのため当院は通称「愛染さん」とも呼ばれているそうです。旧市内に伝存する数少ない純粋密教の尊蔵だそうです。また、中将姫作と伝えられ、旧向泉寺の本尊で「方違観音」と言われる十一面観世音菩薩像は、第二次大戦の際焼失、暹羅(タイ国)より将来した降魔釈迦銅像も同大戦で破損した。境内にある旭地蔵尊は、天保の飢饉の際、現在の龍神あたりで作られ、それが明治にいたって当院に移されたものだそうです。毎年五月三十一日・六月一日に愛染祭りを催し、当院周辺は夜店・植木市で賑わうそうです。 -
長泉寺です。
天龍山玉光院長泉寺は室町時代・文亀元年(1501年)衆徳恩冏によって開かれた浄土宗の寺院だそうです。衆徳恩冏は近江で生まれ、出家後は叔母を頼って堺で念仏者として修行に励み、その後戦乱の世を憂いて教典十萬巻を書写したことから、十萬上人と呼ばれていたそうです。十萬上人は錦之町東の北十萬の開基でもありこれに対して長泉寺は南十萬とも呼ばれているそうです。本尊の阿弥陀如来立像は鎌倉時代の製作で、中国風の秀麗な青年相を表し、宋様式が極めて強く、類例の少ない貴重な作例として評価が高いそうです。寺宝である閻魔王図は画絹や描法から鎌倉時代の製作と考えられ、地獄で死者の罪業を裁く閻魔王の姿が、画面中央に肩をいからせ、目を剥き、口を大きく誇張した表現によって生き生きと描かれていると評されているそうです。独立した閻魔王図の古例は珍しく大変貴重な作品であり、国の重要文化財に指定されているそうです。 -
専称寺です。
専称寺です。
松凉山専称寺は慶長年間の初め頃(1597〜1599年)口蓮社称誉松林によって開かれた浄土宗の寺院だそうです。当初は専称庵と称していましたが、寛永十六年(1639年)に現在の名に改められたそうです。本尊の阿弥陀如来立像は、延宝三年(1675年)に黄檗宗の名僧高泉性潡が記した『松凉山弥陀如来霊応記』によれば、干魃の時に水をもたらす仏として、水牽如来とよばれて厚く信仰されていたことがわかるそうです。寺宝の阿弥陀三尊来迎図は鎌倉時代の作で、正面から来迎する阿弥陀如来・観音菩薩(向かって右)・勢至菩薩(向かって左)の三尊が精巧な切金文様を用いて描かれているそうです。来迎とは浄土に往生しようと願う人の臨終に仏が迎えに来ることを言い、浄土教信仰の高まりと共に来迎の有様を表現した来迎図が数多く製作されるようになったそうです。三尊が立ち姿で正面向きに来迎する様式は鎌倉時代中期頃から見いだされますが、本図はその中でも古い例に属するものとして貴重であり、大阪府の有形文化財に指定されているそうです。 -
大安寺です。
布金山大安寺は応永年間(1394〜1428年)徳秀士蔭によって開かれた臨済宗東福寺派の寺で、本堂及び障壁画は国の重要文化財に指定されているそうです。本堂は上段の間をもった書院造りの部屋などもあり、総檜造りの立派な邸宅を移して本堂としたものだそうです。中央の部屋の長押を少し上げたままで、かつての豪商の屋敷の姿をそのまま残しているそうです。金砂子あるいは金箔押しの襖に、鶴・さるすべり・梅・檜・松・藤などの極彩色の狩野派の絵が描かれているそうです。特に藤の絵は優れており、大安寺の藤として知られているそうです。また鶴と松の絵は、かつて小学校国語読本にも載せられたこともあるそうです。上段の間は、他の部屋と違って墨一色で、中国の西湖の絵が描かれ、非常に落ち着いた感じを与えており、上段の上の天井だけは、小組格天井となっているそうです。また、庭には利休好みの虹の手水鉢などもあるそうです。
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