2010/04/24 - 2010/04/28
79位(同エリア1205件中)
なめさん
これまで何度もマラッカを旅行しており、マラッカ大好き人間を自任しているが、現地で出会った日本人旅行者からは "マラッカはイマイチですね?"と言われることがよくある。
確かに、、、、2008年7月、ペナン島・ジョージタウンと共に世界文化遺産に登録され、”東西文明の十字路&歴史の街マラッカ”というキャッチフレーズが前面に出ているが、世界遺産に登録されている旧市街の寺院などを見ても、”エッこれが世界遺産?”という感じを持たれる方が多く、いわゆる世界遺産というイメージからすると個々の歴史的建物はあまりにも貧弱なわけです。
多くの世界遺産がそうであるように、たとえば今回の旅行記前半で紹介したジャワ島のボロブドール寺院などは、建立当時の為政者が自分たちの権威を誇示する目的が強くあのような壮大なものが作られたわけです。
一方、ここマラッカは旧市街の”渾然一体となった多民族無形文化と町並”そのものが世界遺産として意味があるとされたわけで個々の建物の壮大さではありません。
そもそもマラッカの良さは、マレー、中国、インドなどの多国籍文化?にマッタリと浸かりB級グルメを楽しむ滞在型の旅行にあるのだが、一般旅行者としてはそうも行かないのが現実だと思う。
そこで今回の旅行を機会に、クアラルンプール又はシンガポールから移動する1~2泊旅行を想定した”マラッカの歴史ロマンに浸る観光”を提案してみようと思う。もちろん旅行の楽しみ方は千差万別であり、ジャランジャラン(マレー語でぶらぶら歩き)の一例として考えて頂きたい。
*歩き方のポイント*
(1)高温多湿な気候の中で体力の消耗を避けるため、宿は徒歩観光に便利な旧市街にとる。できればババ・ニョニャ文化に触れることのできるヘリテージホテルが良い(そもそもマラッカに高級ホテルは似合わない?)
(2)個々の観光スポットの背景にある歴史を理解するためにスタダイス(歴史博物館)から観光をスタートする。
(3)観光はできるだけ徒歩で楽しむ(遠くまでは行けないがそれで充分です)
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 飛行機
- 航空会社
- エアアジアX ユナイテッド航空
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* マラッカ海峡上空 *
今回はインドネシアの友人を訪ねる旅の後に、クアラルンプール(KL)経由でマラッカに立ち寄ったため、マラッカへの旅は以下のように始まります。
ジョグジャカルタ(インドネシア)での世界遺産(ボロブドール&プランバナン)観光の後、KLの友人と合流するためエアーアジア航空でマレーシアに向かった。
ジョグジャ空港を離陸した飛行機は、ジャワ海〜スマトラ島東岸を飛行し、2時間ほどでマラッカ海峡に入る。マラッカ海峡は狭い所で幅60Km、長さ800Km、インド洋と南シナ海を結ぶ海の銀座通りである。上空から見ると、海上交通の超過密航路と言われるのがよくわかる。現在でも写真のように船舶交通の大動脈であり、日本の石油タンカーの大部分はここを通過していく、この過密航路こそが15世紀に始まるマラッカの歴史を作ってきたわけである。
(前半のジョグジャカルタ観光はこちら)
http://4travel.jp/traveler/namesann/album/10467365/ -
* マレー半島に入る *
マレー半島に沿ってマラッカ海峡を飛行した後、クアラルンプール(KL)国際空港に向けて半島部に進入するとすぐにクアラ・ルンプール(マレー語で泥の川の合流地)という地名が納得できる景色に遭遇する。これから向かうマラッカもこのようなクアラ(河口合流点)に成立した都市です。 -
* クアラルンプール(KL)国際空港 LCCターミナル到着 *
(1)LCCターミナルについて
クアラルンプール(KL)国際空港にはJALやマレーシア航空など大手航空用のKLIAとエアーアジアなどの格安航空(LCC)専用のLCCーTの二つのターミナルがある。両者は滑走路を挟んで別れているため(移動距離10Km?)ターミナル間の移動は要注意です。
(2)マラッカまでのアクセスについて
KL国際空港はKL市街地から80Kmほどマラッカ寄りにあるが、一般にはKL市内経由でアクセスするため4〜5時間かかる。直行バスならばアクセス時間は2〜3時間程度と大幅に短縮されます。現在、LCC-T〜KLIA〜Melaka間の直行バスがトランスナショナル社により運行されているが4便/日しかない、詳細は下記HPを参照。
http://www.transnasional.com.my/destination.php?aid=KLA&bid=MKZ&cid=4&x=48&y=10 -
* 高速道路でマラッカへ直行 *
今回、LCCターミナルからはKLの友人の車でマラッカへ向かう。2時間程のドライブで高速道路上から見える景色は多くが油椰子やゴムのプランテーションでありマレー半島固有の原生林などの景色はほとんど期待できない。
蛇足ですが、、KL〜Tampin〜Singaporeを走っているマレー鉄道を使ってマラッカに行きたいという方が時々いますが、残念ながら鉄道沿線の景色もほぼこのような感じで車窓を楽しむことはできません。
シンガポール・クアラルンプール共にマラッカへのアクセスは高速バスをお勧めします。 -
* マラッカ・セントラルバスターミナル(Melaka Sentral) *
シンガポールやKL市内からの高速バスの多くはマラッカ郊外にあるセントラルバスターミナルの発着となっている。ここから市内までは市バス(50円程度)もあるがタクシー(500円程度)が現実的であろう。
なお、KL国際空港からの直行バスはマラッカ市内のマコタ.メディカルセンターまで行っている。 -
* ヘリテージホテルに泊る (Hotel Puri) *
効率よくマラッカの歴史を感じるためには、旧市街中心部にあるヘリテージホテルに泊るのが良いのではないでしょうか?ここはショップハウス(*)と呼ばれる古い建物を改築したホテルなのでかなり趣があります。
(*)1階が商店、2階が住居となっている建物で、東南アジアの中華街でよく見かける建築様式。
(ホテルプリのHP)
http://www.hotelpuri.com/ -
* 普通のホテルがお好みの場合は(Hotel Mimosa) *
旧市街にある数少ないビジネスホテルのHotel Mimosaです。
ヘリテージホテルの居住性が不安な方はこちらが良いかもしれません。
(ミモザホテルのHP)
http://www.mimosahotel.com/ -
* マラッカ観光の基点 オランダ広場(Dutch Square) *
さて、ホテルに荷物を置いてマラッカの街歩き開始です。
観光ガイドブックには必ず出てくるここオランダ広場は前記どちらのホテルからも徒歩10分程度の距離です。
写真奥に見える教会を含むこの広場だけは多少"歴史観光地"らしさを感じさせてくれます。 -
* スタダイス(Stadthuys) 歴史博物館 *
オランダ広場にある建物で、1650年オランダ統治時代、総督らの住宅として建てられたものです。
冒頭でも触れましたが、マラッカの観光スポットはスケールの点でかなり貧弱です。
予備知識なしで行くと、多くの方は”なんじゃこれ!”といった感想が多いようです。
そこでまず初めにここに入り、各観光スポットの歴史的背景を把握してから回ると、貧弱な観光スポットを見ても多少の歴史ロマンを感じることができるのではないでしょうか?
(マラッカ繁栄の3大要因)
(1)マラッカ王国とイスラム化
(2)鄭和(テイワ、中国明朝の高官)の大遠征
(3)マラッカ海峡と季節風 -
* 逃げまどう海の王子とマラッカ王国の成立(1400年頃) *
以下、スタダイス内部の展示物に沿ってマラッカの歴史に触れてみたいと思います。
14世紀後期の東南アジアはジャワ(インドネシア)のマジャパヒト王国やシャム(タイ)のアユタヤ王国などの農業を基盤とした大勢力にマラッカ海峡沿岸の港市国家が追いつめられる状況にあった。その中でスマトラ島(マラッカの対岸)パレンバンの王子パラメシュワラ(写真中の座っている人物)がジャワ勢力に追われシンガポールに逃げ、ここでもシャム勢力に追われマラッカに逃げて、この地で海洋部族の首長たちの支持を取り付けることができ、やっと建国したのがマラッカ王国である。
しかし、ここには農耕社会のように地付きの民衆がいたわけではない、港を整備し、市場を開き、商人たちを集めるには海峡周辺の海洋部族を動員する必要があった。そして部族の首長たちに与える報酬は海賊行為(当時の略奪は社会公認の行為であり戦果の分配は部族長の特権だった)による獲物の分配と王家一族との婚姻に基ずく官位・官職であり、おそらく京都公家と関東武士と言った関係であったと思われる。
その後600年、幾多の変遷を経てマラッカは現在のマレーシアの原点となった地域と言われているが、残念ながらマラッカ王国の残影は現在のマラッカにはほとんど残っていない。 -
* マラッカ王国(1403-1511頃)のイスラム化と繁栄 *
現在のマレーシア、インドネシア、ブルネイなどの東南アジア島嶼部の共通項はムラユ(マレー)語とイスラム教です。特に世界最大のムスリム人口を持つこの地域がイスラム化した時期はマラッカ王の名前から推測できます。
写真は歴代マラッカ王の名前です。最上部の Parameswara - Iskandar Syah はヒンズー教徒パラメシュワラが改宗してイスカンダルシャー(Syah)と言うムスリム王の称号を持ったということであるが、しかしその後継者はスリマハラジャ(SeriMaharaja)というヒンズーの称号に戻っており、ムスリム王であるスルタン(Sultan)***シャー(Syah)の称号が定着するのは在位1445〜58年のムザファールシャー(Muzaffar Syah)からであり、これ以降がこの地域のイスラム化に重要な影響力を及ぼすムスリム王国となったようです。そしてこのイスラム教の受容こそが多くのムスリム商人をマラッカに引き付ける原動力となり、マラッカ王国繁栄の大きな要因となったわけです。 -
* 鄭和の大遠征(1405-1433)とマラッカ *
ジャワのマジャパヒト勢力やシャムのアユタヤ勢力の攻撃を逃れて建国したマラッカは両勢力からの独立を保つために当時の超大国であった明朝と朝貢関係(上位の国家の臣下となる)に入ることはきわめて重要なことであった。
ちょうどそのころ始まった明朝の将軍鄭和(テイワ)による7度(1405〜1433年)に渡る南海大遠征隊がインド洋に抜ける途中、マラッカに寄航したことはまさに”渡りに船”であり、これをきっかけに歴代のマラッカ王は頻繁に朝貢(明朝詣)を続けシャムなどの圧力から逃れることに腐心した。
さらに、鄭和の遠征隊は船舶40〜100隻以上の編成に数千〜数万人?あまりの乗組員を有する大貿易艦隊でもあり、この遠征隊がマラッカの交易活動を活性化したこともマラッカの繁栄に大きく貢献した。
また、マラッカ王国自体が文字記録をほとんど残していないため、鄭和たちのマラッカに関する記録は貴重なマラッカ史の一部となっている。 -
* マラッカ王国の地政学的条件と勢力範囲 *
蒸気船の発達する19世紀後半までの帆船による航海はモンスーン(季節風)による風と海流に支配されていた。マラッカ海峡は ”モンスーンが始まりそして終わる所である”といわれており、半島が東西に2分する南シナ海とインド洋でモンスーンは春と秋に規則正しく入れ替わった。すなわち、中国方面からの船は12〜2月頃の東北モンスーンでマラッカに来航し、次の7〜8月頃の南西モンスーンで帰って行く、またモンスーンの時期が異なるインド方面からの船はその逆といったパターンで、風任せの帆船ではマラッカ海峡を一気に通過することができなかった。
このような地理的条件のためマラッカは外来商船の風待ち、補給、取引などの便宜をはかることで莫大な利益を上げることができたわけです。最盛期の勢力範囲はマレー半島全域からスマトラ島を含んだ広大な範囲にわたっており、人口4万人程度の港市国家となっていた。しかしながら、マラッカ王国自体は耕作できる後背地をほとんど持たない宿場町的な港市交易社会(見方によっては民主的な王朝?)であったこと、さらに偶像崇拝を嫌うムスリム王国であったことなどから、ジャワ島のボロブドールやプランバナンに見られるように王権を誇示するために壮大な建築物(遺跡)を残した”農民を底辺とする絶対王朝”ではなかった。 -
* ヨーロッパ商人の登場とマラッカの植民地化(1511頃) *
16世紀初頭になるとヨーロッパ商人が初めて東南アジアに登場する。
ポルトガルのインド総督アルブケルケがマラッカを攻撃、占領したのは1511年のことであった。
それは東南アジア島嶼部の交易を支配してきた港市国家の黄昏を象徴する出来事であり、当時のマラッカ王マフムードシャーはマラッカを追われマレー半島各地を転々としながら幾度もマラッカ奪還を図ったが再度マラッカに帰ることは無く、その後約400年に及ぶマラッカの西欧植民地支配が始まった。 -
* ポルトガル支配下(1511-1641)のマラッカ交易と日本 *
マラッカ占領後のポルトガルはマラッカを要塞化し東南アジア地域の交易を武力で独占しようとした。
日本との関連では、1543年、九州の種子島に渡来後いちはやく対日交易の利益に着目、1557年マカオに交易拠点を設立すると1570年(織田信長時代)には長崎交易を開始した。その結果、莫大な量の日本産の金銀が中国の絹と引き換えに流出することになる。
また、この時代はフランシスコ・ザビエルらによるキリスト教の伝来も日本にとって大きな出来事ですが、セントポール教会のところでお話します。 -
* オランダ支配(1641-1824)〜イギリス(1824-1957)の海峡植民地の完成 *
博物館の入口には16世紀以降マラッカを支配してきた国々、ポルトガル(1511〜1641)、オランダ(1641〜1824)、イギリス(1824〜1957)、日本(1941〜1945)の国旗が展示されておりマラッカの複雑な歴史的背景を象徴している。
16世紀、新興国オランダの商船はポルトガルの支配するマラッカ海峡を嫌い、スマトラ西岸経由でジャワ海〜南シナ海に出る航路を開拓した。その後、ポルトガルへの対抗が可能と見たオランダの商業資本は東南アジア地域で外交、軍事、行政など国家と同等の権力を本国から認められた”オランダ東インド会社”を組織し、強大な軍事力で1630年代からマラッカ海峡を封鎖し、1641年にはポルトガル領マラッカを占領した。
さらに、オランダ東インド会社のネットワークは強大な海軍力を背景に、長崎〜中国沿岸〜マラッカ〜ケープタウン(アフリカ)〜ヨーロッパを結ぶ長大な交易路を構築したが、1660年代の中国の沿岸交易禁止(遷界令)、日本の自給体制の確立(鎖国)などを背景に従来からの物資の交換貿易に頼った古い港市国家の時代は終焉を迎えた。
代わって港市国家と後背地の産物が結びついた植民地プランテーションの独占がオランダ東インド会社の統治システムとなった。そのため、プランテーションなどの後背地を持たないマラッカの立場は徐々に弱体化していくことになる。
以後、しばらくはマラッカのオランダ支配が続いたが、1786年イギリスのカントリートレーダー(海峡商人)フランシス・ライトによるペナン島の占領から1819年イギリス東インド会社のスタンフォード・ラッフルズによるシンガポールの建設に至ってマラッカ海峡におけるオランダの支配力は衰退に向かった。その後、1824年にはイギリス、オランダ両国間のロンドン条約で、マラッカ海峡を境にマレー半島はイギリス領、スマトラ島側はオランダの勢力範囲となり、マラッカの支配者はイギリスとなった。1832年には植民地政府の首都もペナンからシンガポールに移動し、イギリスの海峡植民地の完成である。 -
* スズとアヘン そして ゴム園 *
現在のマレーシアはおおまかに言うと、マレー系(6):華人(3):インド系(1)の多民族国家である。15〜16世紀のマラッカ王国時代には、マレー系だけの極度な人口希薄地帯(数十万人?)であったマレー半島が現在のような姿になったのは植民地時代のスズ鉱山とゴム園にある。
(スズと華人)
マレー半島のスズは古くから華人資本主体で採掘されていたが、19世紀後半になりイギリスの大資本に占有されると共に鉱山労働者を中国に求めるようになった。
さらに1850年以降になると、中国(清朝末期)での太平天国の乱やアヘン戦争が中国農民の東南アジア方面への流出を激増させた。
また、イギリス植民地当局はスズ鉱山の開発にあたり、インドで独占したアヘンの専売権をスズ鉱山の開発権とセットで売りつける事で現地の華人資本家などを利用した。清朝滅亡の一因となったアヘンの多くはマラッカ海峡を通過してインドから運ばれていたが、マラッカを素通りしていたわけではなかった。
(インド人とゴム農園)
南米原産のゴムがマレー半島に持ち込まれ、ゴム園が本格的になったのは20世紀初頭である。その後、自動車産業の勃興などでゴムの需要が伸びるとイギリス資本中心のゴム農園には当時英国植民地であったインドから多くのインド人労働者が投入され、その子孫が現在のインド系マレーシア人となるわけです。
このような背景が現在の多民族国家マレーシアの人種構成のもとになっています。 -
* スルタンパレス(王宮) *
スタダイスでマラッカの歴史を大まかに把握したところで観光に移りますが、できるだ歴史の古い順に回ることをお勧めします。
最初はマラッカ王朝時代の王宮を復元した建物”スルタンパレス”です。(スタダイスから徒歩10分)
スジャラムラユ(マレー王統記)を元に復元したとのことですが、王統記自体が後世に書かれたものであり、かなり誇張されたところがあるので、この王宮も少々立派過ぎる気もします。ここではマラッカ王朝の歴史をジオラマで解説してあり、重厚な木造建築は冷房なしでも快適に見学できます。残念ながらマラッカ王国に関する観光スポットはここしかありません。 -
* サンチャゴ砦(Famosa)*
現地ではファモッサと呼ばれておりマラッカのシンボルのひとつですが、あまり小さいのでガッカリする方が多いが、めげづに写真でも撮りましょう。
おそらく建設当時はセントポールの丘を囲むように城壁があり、城壁に付随した門の一部が残ったものだと思います。その後、城壁はスタダイスに展示された模型(4枚前の写真)のように海側のほうに拡大したようです。後述するように、最近の発掘でマラッカ川河口付近で城壁の一部が発見されています。
地球の歩き方などの旅行ガイドには、ポルトガルが1511年にオランダとの戦いに備えて作ったと書いてありますが、間違いだと思います。ポルトガルのマラッカ支配は1511年〜1641年であり、1641年からオランダ支配となりますので、ポルトガルとオランダの戦いはもっと後のことです。 -
* フランシスコ・ザビエル像とセントポール教会 *
サンチャゴ砦をくぐり抜けてセントポールの丘に登ると、朽ち果てた教会と日本でも有名なフランシスコ・ザビエルの像があります。
彼は1549年にイエズス会の布教基地であったインドのゴアから鹿児島に入り、長崎、平戸、山口などで約2年間にわたる布教の後1551年に離日しゴアに戻る。その後1552年に、中国での布教を目指したが広東付近で死亡、46歳であった。彼の死後、遺体がゴアに運ばれる途中この教会に9ヶ月間(風待ち?)安置されたことや、マラッカが彼自身の布教活動の中継基地となっていたことから、ここに像が建てられています。 -
* セントポール教会の内部 *
この教会は現在使用されておらず。内部に入ると屋根も無く無残に朽ち果てた状態におどろかれると思います。なぜか?理由は、、、キリスト教の宗派の違いによるものと思われます。すなわち、ポルトガル時代に来訪したイエズス会のザビエルたちはカトリックであるが、その後にマラッカを支配したオランダはプロテスタントであるため、彼らはオランダ広場にある教会を拠点として使用し、こちらは放棄された状態となったようです。 -
* セントポールの丘から見る夕日は必見です *
時期&気象条件がよければ、セントポールの丘からマラッカ海峡に沈む素晴らしい夕日を見ることができます。 -
* 教会内部の夕日鑑賞スポット *
このように教会内部の窓に腰かけて見るとかなりロマンティックです。
女性にお勧め、、、かな、、、 -
* マラッカタワー *
セントポールの丘からこのようなタワーが見えます。
次の観光スポットである”マラッカ海洋博物館”はこのタワーを目標に5分ほど歩いたマラッカ川にあります。このマラッカタワー自体は時間があれば上る程度で良いでしょう。 -
* マラッカ海洋博物館(Maritime Museum) *
16世紀初頭、ポルトガルからやって来た交易船を復元し、博物館としたものです。当時、アジア〜ヨーロッパの香料貿易は金に匹敵する利益を得ることができたそうです。そのため、はるばる喜望峰を回りインド洋〜マラッカまで命知らずの多くの商人がこの様な船でやってきました。いわゆる大航海時代の始まりです。交易都市として栄えたマラッカを想像できる数少ない場所です。
このような船でやって来たポルトガル艦隊は、1511年に近代兵器の大砲や鉄砲で、マラッカ王朝を崩壊させた後、マラッカ王宮を焼き払い先ほど見たサンチャゴ砦のような城壁と要塞を建造した。 -
* マラッカ要塞跡 *
海洋博物館から川沿いにオランダ広場方向に歩くとこれが目にとまるかと思います。
実はマラッカタワーをここに建てようとして地面を発掘したところ、なんと要塞の跡が発見されたため、急遽このようなチャチな復元物を作ったとの事です。 いっそのこと、発掘現場をそのままの形で残したほうが史跡としては価値があるのに、、、 -
* 旧市街の散策 *
前出のマラッカ要塞跡から数分でオランダ広場に到着するので、マラッカ川の橋を渡ると正面に伸びる道がJL.Hang Jebat(通称:ジョンカーストリート)です。
橋を渡ってすぐ、この写真の十字路を右折して50m程行った最初の枝道を左折するとJL.Tukang Emas(通称:ハーモニーストリート)となります。この通りではヒンズー教、イスラム教、仏教の3つの異なった宗教の寺院が隣り合って建っており、マラッカ文化の多様性を象徴しています。(ハーモニーストリートの意味はここから来ているそうです) -
* スリ・ポタヤ・ヴィナガヤ・ムーティ寺院 *
通称スリ・ポタヤ寺院、マレーシア最古のヒンズー教寺院だそうです。
非常に小さなお寺でいつも門が閉じられていますが、誰かいれば許可を得てから入ってください。 -
* カンポン・クリン・モスク *
スリ・ポタヤ寺院の隣に建っているイスラム教のモスクです。
イスラム教のモスクはドーム型の屋根が一般的ですが、ここでは隣のミナレット(尖塔)と共にスマトラ様式の屋根を持っており、マレーらしさを感じさせます。 -
* チェン・フー・テン寺院 青雲亭 *
モスクのすぐ先には青雲亭(観音亭)という仏教のお寺があります。
1646年のオランダ時代に建立され、観音菩薩を本尊とするマレーシア最古の中国寺院です。当時、ここには中国系住民を統率するチャイニーズカピタンの政庁が置かれ、かっては華僑社会の役所であり法廷でもあったそうです。
(参考)前出、鄭和の大遠征(1405-1433) -
* ババ・ニョーニャ・ヘリテージ(博物館) *
青雲亭のあるハーモニーストリートからジョンカーストリート通過して、Jl.Tun Tan Chen Lck(通称:ヒーレンストリート)にあるプライベート博物館です。
この博物館は中華系プラナカンの豪商チャン家の私邸を一般公開しているものなので、外から見ると普通の家と変わらない上に、入り口が閉じている場合があるが、窓から声をかけると入れてくれます。
内部の豪華絢爛な家具調度品は一見の価値がありお勧めです。
以上、8ヶ所の観光スポットを紹介しましたが、1〜2泊だとこれくらいが限界だと思います。B級グルメについては紹介してませんが、街中でお客さんが多く入っているお店ならばどこでも美味しいと思います。冒険してみてください。
もっと時間の取れる方は、Tony's net というマラッカを詳細に紹介したホームページがあるので、そちらを参考にすることをお勧めします。
(参考)ババとはマレーシアに移住した華人男性のことであり、ババと結婚したマレー系女性をニョーニャ、さらにインド系などを含めた移住者の混血子孫をプラナカンと呼んでいる。 -
* マラッカ川のテラスでビールタイム *
暑い暑いマラッカですが、日が暮れると少しは過ごし易くなります。
そこで、マラッカ川のほとりでビールタイムはいかがでしょうか?
オランダ広場辺りから上流に向かって伸びているこのようなテラスがお勧めです。 -
* マラッカ川のリバークルーズ *
最近は少し綺麗になったといいますが、まだまだ汚い?マラッカ川です。
でも、歩かずに観光できるので時間の余裕があればリバークルーズも良いでしょう。
オランダ広場から少し下流に行ったマラッカ要塞跡付近にクルーズ船の船着場があり、1時間程度のリバークルーズですが、マラッカ川の上流を見ることができます。 -
* マラッカ〜シンガポール間を運行しているVIPバス *
マラッカ発着のバスは、マラッカ郊外のセントラルバスターミナルが一般的ですが、シンガポール往復だけを市内から運行している会社があります。運賃は片道SGD20〜30、座席は横3列でなかなか快適です。
毎日1往復、グラスランド社(GrassLand Express 草原旅運)
マラッカの停留所はルネッサンスホテルから徒歩3分、ベイビューホテルの斜め手前/左側に”GrassLand Express 草原旅運”と”Carlsbergビール”の看板が目印です。チケットもここで買えます。
シンガポールのターミナルはビーチロードのゴールデンマイルコンプレックスビル(MRTの最寄駅はNicoll Highway -CC5)です。
運行状況/予約などは以下のHPで可能なようです。
http://www.grassland.com.sg/index.html -
* シンガポール空港に近いホテル *
UAやNW航空のようにシンガポール早朝発となる場合に便利な、空港迄TAXIで10分程度の安いホテルを紹介します。(近くに食事場所があり、寝るだけのホテルです)
(1)Gateway Hotel
最寄りMRT:Paya Lebar 100m
http://gatewayhotel.com.sg/system/room.php
(2)Hotel 81- Sakura
最寄りMRT:Paya Lebar 徒歩15分
http://www.hotel81.com.sg/index.shtml
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