二条・烏丸・河原町旅行記(ブログ) 一覧に戻る
神泉苑(しんせんえん)は、東寺真言宗の寺院で二条城の南にあり794年風水に基いて築かれた平安京の大内裏に接して造営された禁苑(天皇のための庭園)だった。<br />雨を呼ぶ龍の伝説が残っている神泉苑は「御池(おいけ)通り」の名前の由来の地とされ、桓武天皇お気に入りの庭だったとされる。<br />風水によると山脈からのエネルギー「気」は、平安京を目指して「龍穴:りゅうけつ」に向かい、この軸線に神泉苑が配置され「龍口水:りゅうこうすい」と呼ぶ水が湧き出ていた。龍が活動するには水を飲む所が必要で、なくなれば龍は逃げ「気」はなくなってしまうそうだ。神泉苑は龍が生きるための大切な「水飲み場」だったわけだ。<br />863年には都に疫病が流行り、神泉苑で御霊会が行われた。869年には神泉苑の南端に鉾を立てて祇園社から神輿を出し、現在の祇園祭の元になったと言われている。<br />また、伝承では源義経(みなもと の よしつね1159−1189年)と静御前(しずかごぜん、生没年不詳)が出会った場と言われる。<br />現在は京都の歴史遺産の中ではあまり目立たないが794年の平安京遷都の際から神泉苑は龍によって都の「気」を保つ龍口水が湧き出す重要な役割を持った庭園だった。<br />(写真は神泉苑の光景)<br />

日本の旅 関西を歩く 京都、風水で築かれた平安京の龍の「水飲み場」だった神泉苑

29いいね!

2010/05/15 - 2010/05/15

1035位(同エリア4023件中)

0

24

さすらいおじさん

さすらいおじさんさん

神泉苑(しんせんえん)は、東寺真言宗の寺院で二条城の南にあり794年風水に基いて築かれた平安京の大内裏に接して造営された禁苑(天皇のための庭園)だった。
雨を呼ぶ龍の伝説が残っている神泉苑は「御池(おいけ)通り」の名前の由来の地とされ、桓武天皇お気に入りの庭だったとされる。
風水によると山脈からのエネルギー「気」は、平安京を目指して「龍穴:りゅうけつ」に向かい、この軸線に神泉苑が配置され「龍口水:りゅうこうすい」と呼ぶ水が湧き出ていた。龍が活動するには水を飲む所が必要で、なくなれば龍は逃げ「気」はなくなってしまうそうだ。神泉苑は龍が生きるための大切な「水飲み場」だったわけだ。
863年には都に疫病が流行り、神泉苑で御霊会が行われた。869年には神泉苑の南端に鉾を立てて祇園社から神輿を出し、現在の祇園祭の元になったと言われている。
また、伝承では源義経(みなもと の よしつね1159−1189年)と静御前(しずかごぜん、生没年不詳)が出会った場と言われる。
現在は京都の歴史遺産の中ではあまり目立たないが794年の平安京遷都の際から神泉苑は龍によって都の「気」を保つ龍口水が湧き出す重要な役割を持った庭園だった。
(写真は神泉苑の光景)

PR

  •   神泉苑の光景。<br />

      神泉苑の光景。

  •  神泉苑周辺の街並み。<br />

     神泉苑周辺の街並み。

  •  神泉苑周辺の街並み。<br />

     神泉苑周辺の街並み。

  •  神泉苑の光景。<br />

    神泉苑の光景。

  •  神泉苑周辺の街並み。<br />

     神泉苑周辺の街並み。

  •   神泉苑の光景。

      神泉苑の光景。

  •   神泉苑の光景。

      神泉苑の光景。

  •  神泉苑の光景。

    神泉苑の光景。

  •   神泉苑の光景。

      神泉苑の光景。

  •   神泉苑の光景。

      神泉苑の光景。

  •  神泉苑の光景。

    神泉苑の光景。

  •   神泉苑の光景。

      神泉苑の光景。

  •   神泉苑の光景。

      神泉苑の光景。

  •   神泉苑の光景。

      神泉苑の光景。

  •  神泉苑の光景。

     神泉苑の光景。

  •   神泉苑の光景。

      神泉苑の光景。

  •  神泉苑の由緒説明。<br />

    神泉苑の由緒説明。

  •  神泉苑の光景。

     神泉苑の光景。

  •  神泉苑の光景。

     神泉苑の光景。

  •  神泉苑の由緒説明。<br />

    神泉苑の由緒説明。

  •  神泉苑の光景。

     神泉苑の光景。

  •  神泉苑の光景。

     神泉苑の光景。

  •  神泉苑近くの大政所御旅所の光景。<br />

     神泉苑近くの大政所御旅所の光景。

  •  大政所御旅所の説明。祇園会(ぎおんえ)の神輿(みこし)三基のうち、素盞嗚尊(すさのおのみこと 牛頭天王)と八王子との二基を大政所とよび、妃神奇稲田姫に一基を少将井と呼んだ。江戸時代にはこの大政所の神輿は八坂神社を出て四条通を経て神泉苑に入った。この御旅所は円融天皇の時代に秦助正という人が夢に八坂大神の神幸を見、また自宅の庭から八坂神社まで蜘蛛が糸を引いているのを見て朝廷にこのことを奏上した結果、助正の家が御旅所となり、その後大政所といわれるようになったといわれている。<br /> 後奈良天皇の天文5年(1536)に騒乱のため焼失し、天正19年(1591)豊臣秀吉の命により四条寺町に御旅所が移されたがそのあとに町の人々が小祠を建て、八坂大神を奉祀し、大政所町鎮護の社として毎年7月16日を例祭日と定めたそうだ。<br />

     大政所御旅所の説明。祇園会(ぎおんえ)の神輿(みこし)三基のうち、素盞嗚尊(すさのおのみこと 牛頭天王)と八王子との二基を大政所とよび、妃神奇稲田姫に一基を少将井と呼んだ。江戸時代にはこの大政所の神輿は八坂神社を出て四条通を経て神泉苑に入った。この御旅所は円融天皇の時代に秦助正という人が夢に八坂大神の神幸を見、また自宅の庭から八坂神社まで蜘蛛が糸を引いているのを見て朝廷にこのことを奏上した結果、助正の家が御旅所となり、その後大政所といわれるようになったといわれている。
     後奈良天皇の天文5年(1536)に騒乱のため焼失し、天正19年(1591)豊臣秀吉の命により四条寺町に御旅所が移されたがそのあとに町の人々が小祠を建て、八坂大神を奉祀し、大政所町鎮護の社として毎年7月16日を例祭日と定めたそうだ。

この旅行記のタグ

29いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

この旅行で行ったスポット

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

この旅行記の地図

拡大する

PAGE TOP