2010/05/02 - 2010/05/02
3394位(同エリア5603件中)
またぬきさん
さて、次に参りましたのはポン吉の氏神様でもあります湊川神社です。
湊川神社(みなとがわじんじゃ)は、兵庫県神戸市中央区にある楠木正成を祭る神社で、地元では親しみを込めて「楠公(なんこう)さん」と呼ばれている。建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社である。
「湊川神社」の社名は、神祇官官吏の八木雕の提案によるもので、地名をつけることで覚えやすくなるだろうと、鎮座地の地名である湊川に由来するものである。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
-
神戸高速鉄道に乗り高速長田から高速神戸へとやって来ました。
-
地下から出ると、目の前に表神門があります。
-
表神門をくぐりました、参道正面に大鳥居が見えます。
-
境内案内図です。ここには兵庫県の神社庁があります。
-
大鳥居です。
-
参道を進むと、右手に手水舎があります。
-
正面には本殿が見えます。
誰かエライ人でも参拝に来るのかしら? -
今来た参道を振り返ってみました。
-
本殿です。
主祭神である楠木正成は、河内に本拠地をおいたいわゆる武将で、1331年(元弘元年 / 元徳3年)に後醍醐天皇に応じて挙兵し、鎌倉幕府倒幕に貢献する。建武の新政後の足利尊氏の反乱において、九州から京都に向かう尊氏を摂津国湊川の地で迎え打ち、新田義貞らとともに戦うが、1336年(延元元年 / 建武3年)5月25日(新暦7月12日)に敗退し自刃する。大楠公と呼ばれる。 -
湊川神社の特徴は、まず「人を祀る神社」であること、次に「政府が建てた神社」であることが挙げられる。本来、神社の祭神というのは、自然神を祀るところであったが、次第に祭神の範疇が拡大して、人物神も祀られるようになった。天満宮や日光東照宮などがその代表であるが、人物神を祀る神社でも湊川神社は新たなタイプの神社である。殆どの人物神は、天満宮に代表されるように、御霊信仰に基づくものである。
また従来の神社において、神社の創建の契機となるのは、神社を建てて祀れという神の意志であり、それを託宣などの形で人々が受けて神社を建てるのである。これは人物神を祀る神社の場合も同様であった。しかし、湊川神社の創建においては、楠木正成の霊が神社を建てて祀ってほしいなどの要求を出したわけではなく、人々が彼の霊を一方的に祀ったのである。
このような人物を顕彰する神社は、近世の中頃から建てられるようになってきたようだが、近代になって建てられた湊川神社はそのタイプの神社の中でも最も存在感を示し、湊川神社の創建に刺激されて、近代以降、数多くの人物顕彰の神社が建てられるようになった。また靖国神社を始めとする招魂社の創建も基本的には湊川神社と共通した背景を持ち、例えば乃木神社が湊川神社の子孫と言うならば、靖国神社は湊川神社の兄弟であると言えるだろう。湊川神社の創建は、新しいタイプの神社が広がるきっかけとなったという意味で、神社史上重要な位置を占める神社であるといえる。 -
もうひとつの特徴は湊川神社は明治政府によって建てられたということである。明治になり、湊川神社の創建は当初、複数の藩や有志により提唱されたが、政府はいずれの団体にもその創建を任すことはなく、政府自らが主体となって建てた。国家の英雄である楠木正成の祭祀を政府以外の者に行わせるわけにはいかなかったのである。
-
本殿西側の、この奥が楠木正成公の戦歿地ということです。
-
本殿東側には、菊水天神社があります。
-
本殿の後ろにはこのように森が残されています。
ポン吉が豆狸の頃は、この森はオイラの縄張りでした、夏には蝉やカブト虫捕り、秋にはどんぐり拾いといつも仲間と潜り込んでは、竹箒を持った神主に見つかって追い掛け回された事が懐かしい思い出です。(だって、都会には樹の生えてる所は無いんだもん) -
湊川神社にもお稲荷さんはあります。
-
楠本稲荷神社となっています。
-
お社です。
-
お社の裏側へと廻れます。
-
キツネどんはここでもお仕事しています。
キツネどんの一族は、お稲荷様のお遣いという尊いお仕事があって、日本全国へ出張しています。一方、ポン吉には山神様の下僕という大変なお仕事があって、畏敬の念を持って日々を過ごしております。 -
さて、表神門の東側にやって来ました。
-
楠木正成公の墓碑です。
楠木正成は、延元元年(1336年)5月25日、湊川の地で足利尊氏と戦い殉節した(湊川の戦い)。その墓は長らく荒廃していたが、元禄5年(1692年)になり徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立した。以来、水戸学者らによって楠木正成は理想の勤皇家として崇敬された。幕末には維新志士らによって祭祀されるようになり、彼らの熱烈な崇敬心は国家による楠社創建を求めるに至った。1867年(慶応3年)に尾張藩主徳川慶勝により楠社創立の建白がなされ、明治元年(1868年)、それを受けて明治天皇は大楠公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するよう命じ、明治2年(1869年)、墓所・殉節地を含む7,232坪(現在約7,680坪)を境内地と定め、明治5年(1872年)5月24日、湊川神社が創建された。 -
現在の社地に楠木正成を祀る施設を設け、祭祀を行うという意味では、徳川光圀の楠木正成墓碑の建立が現在の湊川神社の起源といえる。
この墓碑創建には、立案者であり、出資者である光圀のほかに、重要な役割を果たす2人の人物がいる。一人は光圀の家臣、広く「助さん」として知られる佐々介三郎宗淳であり、もう一人は廣嚴寺の僧侶の千巖である。光圀の墓碑建立は実はこの2人の出会いにより、実現への運びをみるのである。
徳川光圀は1680年(延宝8年)春より、南朝正統論を裏付ける史料を手に入れるため、史臣たちに全国を探索させた。1685年(貞享2年)、宗淳は楠公戦没の地の廣嚴寺を訪れた。ここで宗淳は千巖と会ったのである。ここで宗淳は徳川光圀に建碑の意向があることを伝えたと思われ、千巖もそれを強く請願したと思われる。
碑の表には「嗚呼忠臣楠子之墓」と光圀の文字で彫られている。 -
徳川光圀像です。(昭和30年7月11日完成)
-
また神社史上、神道学上注目される事項として、墓を境内に含んで神社が建てられていることがある。本来、神社において死のケガレはもっとも忌避すべきものだとされているのにも関わらず、ケガレを持つ墓に隣接して神社が建てられているのである。これは豊国神社・日光東照宮などを受け継ぐものだと言える。ケガレの問題は祭神となった人物は生前にも遡って神と見なすことによって、回避しているのだろう。
-
湊川神社東門。
-
同、西門です。
-
今日のワンコ、凛々しいお姿です。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
27