2010/04/17 - 2010/04/17
964位(同エリア7859件中)
みにくまさん
初めての沖縄旅行。
今回は那覇市内の観光スポットを回ろうということになり、恐らく多くの方が真っ先に訪れるであろう、首里城跡にやってきました。
尚、首里城周辺には、園比屋武御嶽石門と玉陵があるので、一緒に見てしまうと、世界遺産を構成する9つの遺産群のうち、3つを簡単にクリアできます。
◎ 世界遺産 ~琉球王国のグスク及び関連遺産群~
今帰仁城跡(なきじんじょうあと)
座喜味城跡(ざきみじょうあと)
勝連城跡(かつれんじょうあと)
中城城跡(なかぐすくじょうあと)
⇒首里城跡(しゅりじょうあと)
園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)
玉陵(たまうどぅん)
識名園(しきなえん)
斎場御嶽(せーふぁうたき)
おまけ↓↓↓
http://yaplog.jp/awamoko/archive/198
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旧首里城守礼門
守礼門はかつての中山門に続く首里城第二の坊門で、琉球王国時代の尚清王代(1527〜1555年)に創建されたと伝えられている。
建築様式は、中国牌楼の流れをくむ装飾建築と言われている。
構造は三間重層入母屋造りで、屋根は赤瓦の本瓦葺き、高さ7.05m、両端柱間7.94mである。
昭和8年に国宝に指定されていたが、去る沖縄戦で破壊された。
現在の守礼門は昭和33年に復元されたものである。 -
旧首里城守礼門
当初は「待賢」、次いで「首里」の扁額が掲げられたことで、「待賢門」「首里門」と呼ばれていたという。
尚永王代(1573〜1588年)に「守禮之邦」の扁額が作られ、冊封使の滞在中だけ掲げていたが、尚質王代(1648〜1668年)から常時掲げるようになる、「守礼門」と呼ばれるようになったと伝えられている。 -
旧首里城守礼門
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園比屋武御嶽
この道の左右に広がる森を、園比屋武御嶽と言います。
詳しくは↓
http://4travel.jp/traveler/minikuma/album/10451524/ -
円鏡池と弁財天堂
「円鑑池」は1502年に造られた人工池で、首里城や円覚寺からの湧水・雨水が集まる仕組みになっている。また、ここからあふれた水が隣の池「龍潭(りゅうたん)」へ流れている。 -
円鏡池と弁財天堂
「弁財天堂」は航海安全を司る水の女神・弁財天を祀(まつ)っている。
建物は当初1502年に朝鮮から贈られた方冊蔵経(ほうさつぞうきょう)を納めるために建立されたが、1609年の薩摩侵入で破壊された。1629年に修復、このとき円覚寺にあった弁財天像を安置したが、その後荒廃したため1685年に薩摩から新像を移した。しかし、これも沖縄戦で破壊され、その後1968年(昭和43)に復元された。 -
園比屋武御嶽
森の中や、池の近くにはこんな鳥がたくさんいました。
バリケン(ノバリケン)という名前みたいです。 -
歓会門
首里城の城郭内に入る第一の正門です。
中国皇帝の使者「冊封使」などを歓迎するという意味でこの名がつけられました。
「あまへ御門(うじょう)」ともいいます。「あまへ」は沖縄の古い言葉で「歓んで迎える」を意味しており「歓会」はその漢訳です。 -
シーサー
門の両側に鎮座する一対の獅子像は「シーサー」と呼び、魔除けの意味を持っています。
沖縄に来たら、このシーサーは、幾らでも見る機会があります。 -
歓会門
内側から見たところ。 -
歓会門から右掖門方向を見る
歓会門の正面約160m先には右掖門がありますが、こちら側からは行けなくなっていました。
右掖門は後ほど、帰り道で通ることになります。 -
歓会門から瑞泉門への上り階段
写真中央左、城壁の切れたところに奥へ行く道があり、覗いてみたところ・・↓ -
龍樋(りゅうひ)
龍の口から湧水が湧き出していることからそのように名付けられた。この水は王宮の飲料水として使われていた。
また、中国皇帝の使者・冊封使(さっぽうし)が琉球を訪れたとき、那覇港近くにあった「天使館(てんしかん)」という宿舎まで、毎日ここから水をはこんだといわれている。
龍の彫刻は1523年に中国からもたらされたもので、約500年前のものである。 -
歓会門から瑞泉門への上り階段
階段の数は少ないのですが、この道自体が写真の通り傾斜を持っているので、非常に上りづらくキツイです。
この道の周囲には墓石のようなものが並んでいましたが、これが何なのかは分かりません。 -
漏刻門(ろうこくもん)
「漏刻(ろうこく)」とは中国語で「水時計」という意味である。ここは第三の門で、別名「かご居せ御門(うじょう)」ともいう。
当時、身分の高い役人は駕籠(かご)にのって首里城へ登城したが、高官でも国王に敬意を表し、この場所で駕籠から下りたということからそのように呼ばれている。
創建は15世紀頃である。 -
漏刻門(ろうこくもん)
門の上の櫓(やぐら)に水槽を設置し、水が漏れる量で時間を計ったといわれている。時刻を測定すると係の役人がここで太鼓を叩き、それを聞いた別の役人が東(あがり)のアザナと西(いり)のアザナおよび右掖門(うえきもん)で同時に大鐘(おおがね)を打ち鳴らし、城内および城外に時刻を知らせた。
この「漏刻」の制度については、1456年の朝鮮の記録に「(琉球のそれは)我が国のものと何らかわりない」と記されている。 -
漏刻門(ろうこくもん)
ここにもシーサーが。 -
漏刻門(ろうこくもん)
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広福門前広場
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広福門前広場
城壁の上で記念撮影。 -
広福門前広場
今通ってきた道の方を振り返ってみました。
遠くに見える門が歓会門、近くの門は久慶門です。 -
日影台(にちえいだい)
「漏刻門(ろうこくもん)」の正面に置かれているのが「日影台(にちえいだい)」という日時計である。往時もこの場所におかれ、水時計の補助的な道具として使われた。
1739年、従来の漏刻は不完全であるとして、はじめて日影器(にちえいき)を製作し設置したと伝えられる。以後、この時間制度は1879年(明治12)廃藩置県(はいはんちけん)まで続いた。 -
万国津梁の鐘(ばんこくしんりょうのかね)
この鐘は歴史資料では1458年に首里城正殿に掛けられていたと記録されているが、具体的な設置場所が不明であるため、当面ここに設置している。
この建物は供屋という施設ですが、往時の具体的な使われ方は分かっていない。 -
万国津梁の鐘(ばんこくしんりょうのかね) レプリカ
この鐘はレプリカで、本物は沖縄県立博物館に収蔵されている。 -
万国津梁の鐘(ばんこくしんりょうのかね) レプリカ
鐘には「琉球国は南海の美しい国であり、朝鮮、中国、日本との間にあって、船を万国の架け橋とし、貿易によって栄える国である。」という主旨の銘文が刻まれており、往時の海洋王国としての誇らしい心意気が示されている。 -
広福門(こうふくもん)
「広福(こうふく)」とは、「福を行き渡らせる」という意味である。「広福門(こうふくもん)」は別名「長御門(ながうじょう)」といい、第四の門である。建物そのものが門の機能をもっており、この形式も首里城の城門の特徴である。
門前は城内でも眺めの良いところで、眼前にハンタン山の緑を映す龍潭(りゅうたん)の池や、沖縄県立芸術大学、沖縄県立博物館が見える。東には弁財天堂(べざいてんどう)の屋根や円覚寺の総門が続き、遠くに虎瀬山(とらずやま)や弁ヶ嶽(べんがだけ)の丘の緑が遠望できる。 -
広福門(こうふくもん)
創建年は不明である。明治末期頃に撤去され、1992年(平成4)に復元された。
王府時代、この建物には神社仏閣を管理する「寺社座(じしゃざ)」と、士族の財産をめぐる争いを調停する「大与座(おおくみざ)」という役所が置かれていた。現在は、券売所等に利用されている。 -
首里森御嶽(すいむいうたき)
城壁の手前にある礼拝所を「首里森御嶽(すいむいうたき)」という。「琉球開闢(かいびゃく)神話」によれば、神が造られた聖地であるとされている。また、城内にはここを含めて「十嶽(とたけ)」と呼ばれる10ヶ所の礼拝所があったといわれる。
琉球最古の歌謡集『おもろさうし』にも「首里森御嶽」に関する詩歌が多数登場する。
1997年(平成9)12月に復元された。 -
首里森御嶽(すいむいうたき)
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奉神門(ほうしんもん)
「神をうやまう門」という意味で、首里城正殿のある「御庭(うなー)」へ入る最後の門である。
1562年には石造欄干(せきぞうらんかん)が完成したという記録があることから創建はそれ以前である。その後1754年に中国の制に倣い改修した。建物は明治末期頃に撤去されたが、1992年(平成4)に外観が復元された。
現在は公園管理のための施設として利用されている。 -
奉神門(ほうしんもん)
別名「君誇御門(きみほこりうじょう)」ともいう。
向かって左側(北側)は「納殿(なでん)」で薬類・茶・煙草等の出納を取り扱う部屋、右側(南側)は「君誇(きみほこり)」で城内の儀式のとき等に使われた。 -
奉神門(ほうしんもん)
3つの門のうち中央は国王や中国からの冊封使(さっぽうし)等限られた身分の高い人だけが通れる門である。それ以外の役人は両側の門から入城した。 -
御庭(うなー)
「御庭(うなー)」は首里城の中心部である。正面が「正殿」、向かって右(南側)が「南殿・番所(なんでん・ばんどころ)」、左(北側)が「北殿(ほくでん)」で、これらに囲まれた中庭広場の空間を「御庭」という。
年間を通じて様々な儀式が行われた広場である。御庭には磚(せん)というタイル状のものが敷かれているが、この色違いの列は、儀式のさいに諸官が位の順に立ち並ぶ目印の役割をもっていた。
中央の道を「浮道(うきみち)」といい、国王や中国皇帝の使者、冊封使(さっぽうし)等限られた人だけが通ることを許された。 -
正殿(せいでん)
正殿は琉球王国最大の木造建造物で国殿または百浦添御殿(ももうらそえうどぅん)とよばれ、文字通り全国百の浦々を支配する象徴として最も重要な建物でした。
正殿を二層三階建てとすることや装飾化した龍柱は日中にも類例がなく、琉球独自の形式といってよいでしょう。
首里城正殿の壁等の彩色塗装には、桐油が塗られています。なお、下地の一部は漆です。 -
正殿(せいでん)
正面唐破風の装飾 -
正殿(せいでん)
正面唐破風の装飾
ところどころに龍の彫刻がされていますが、いずれもその爪は4本。
5本の爪は中国の皇帝だけに許されたものなので、中国皇帝から王に任命されている琉球王家では、建物などに装飾される全ての龍の爪の数を、4本にしているはずです。 -
正殿(せいでん)
正面唐破風上、龍の装飾 -
正殿(せいでん)
屋根の左端に置かれた龍頭棟飾。 -
正殿(せいでん)
大龍柱
正面石階段の両脇にある大きな龍の彫刻を「大龍柱」といいます。
その奥にはもう一対の小さな「小龍柱」がある他、いたるところに龍の装飾が施されています。 -
正殿(せいでん)
小龍柱 -
正殿(せいでん)
龍の装飾 -
正殿(せいでん)
大龍柱 -
正殿(せいでん)
大龍柱・小龍柱の他、柱にはシーサーが彫刻されています。 -
北殿(ほくでん)
北殿はかつては北の御殿(にしのうどぅん)、議政殿(ぎせいでん)とも呼ばれていました。
創建は1506〜1521年頃とされ、記録によると1709年の首里城の大火で他の建物とともに焼失し、1712年頃再建されました。
通常は王府の行政施設として機能し、表15人衆(大臣)や筆者、里之子(さとぅぬし)と呼ばれる役人等が働いていました。 -
南殿・番所(なんでん・ばんどころ)
庭から向かって右側が「番所(ばんどころ)」、左側が「南殿(なんでん)」である。「番所」は、通常は首里城へ登城してきた人々の取次を行った所であり、「南殿」は日本風の儀式が行われた所である -
南殿・番所(なんでん・ばんどころ)
「南殿(なんでん)」は別名「南風御殿(はえのうどぅん)」とも呼ばれていた。
創建は1621〜1627年といわれているが、発掘調査ではそれ以前の基壇(きだん)らしきものも発見されている。
建物は二階建で、地形を利用して裏側にある「書院・鎖之間(さすのま)」等に通じていた。「書院」は国王が日常の政務を司る場であり、「鎖之間(さすのま)」は王子等が薩摩の賓客や友人たちを応接した部屋である。 -
書院・鎖之間(さすのま)
南殿・番所内はいずれも資料展示スペースとして利用されています。
展示品は基本的に撮影禁止なのですが、建物は撮影可能でした。 -
書院・鎖之間(さすのま)
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書院・鎖之間(さすのま)
庭園は石をたくさん使って山が作ってあるなど、中国文化の影響が濃いようです。 -
書院・鎖之間(さすのま)
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正殿 一階 下庫裏
国王自ら政治や儀式を執り行う場所です。
創建年は、復元に先立って実施された発掘調査から14世紀末頃とみられている。その後ほぼ同位置で数度の焼失・再建が繰り返されてきた。現在の建物は18世紀初めに再建され、沖縄戦で焼失するまで残っていた正殿をモデルに1992年(平成4)に復元したものである。 -
正殿 一階 下庫裏(しちゃぐい)
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正殿 一階 下庫裏(しちゃぐい)
中央の華麗な部分が「御差床(うさすか)」と呼ばれ、政治や儀式の際に国王が出御(しゅつぎょ)する玉座である。左右には国王の子や孫が着座した「平御差床(ひらうさすか)」がある。
裏側には二階に通じる階段があり、国王はこの階段を降りて御差床(うさすか)についた。 -
正殿 一階 下庫裏(しちゃぐい)
御差床の両脇の朱柱(しゅばしら)には金の龍と五色の雲が描かれ、天井は丸く上部に折上げて格式をもたせている。
また、記録によると両脇の床には、麒麟(きりん)、鳳凰(ほうおう)の絵が掛けられていた。 -
正殿 一階 下庫裏(しちゃぐい)
上御茶の間御飾
正殿1階での正月儀式の際、国王や王子たちにお茶を振る舞うために使われた茶道具一式。
古絵図を参考に再現した。 -
正殿 一階 下庫裏(しちゃぐい)
首里城正殿の遺構
首里城正殿は創建以来、戦火・失火により4度の焼失と再建を繰り返しています。
下に見える石積みは、焼失・再建を繰り返した首里城正殿の遺構です。
現在の首里城正殿は、本来の遺構を保護するため、約70センチほどかさ上げして建築されています。 -
正殿 一階 下庫裏(しちゃぐい)
漆の塗り直し作業の様子。 -
正殿 二階 大庫理(うふぐい)
正殿二階は日常的には王妃や身分の高い女官たちが使用した空間であり「大庫理(うふぐい)」と呼ばれていた。
御差床」は国王の玉座として様々な儀式や祝宴が行われたところである。なお、儀式の際には床の間には香炉(こうろ)、龍の蝋燭台(ろうそくだい)、金花、雪松等が置かれ、壁には孔子像の絵が掛けられていた。部屋の上部にはかつて中国皇帝から贈られた御書(ぎょしょ)の扁額(へんがく)が幾つも掲げられていた。「中山世土(ちゅうざんせいど)」の扁額(へんがく)は古い記録をもとに再現したものである。 -
正殿 二階 大庫理(うふぐい)
壇の形式は寺院の須弥壇(しゅみだん)に似ており、側面の羽目板には葡萄(ぶどう)と栗鼠(りす)の文様が彫刻されている。高欄には正面に一対の金龍柱(きんりゅうちゅう)が立ち、他の部材には黒漆(くろうるし)に沈金(ちんきん)が施されている -
正殿 二階 大庫理(うふぐい)
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正殿 二階 大庫理(うふぐい)
「御差床」の正面にある部屋は「唐玻豊(からはふ)」と呼ばれ、正月の儀式や中国皇帝への親書を送る時などに、国王が椅子に座り御庭に並ぶ諸官とともに儀式を執り行った重要な場所である。
唐玻風造(からはふうづくり)の屋根や龍の飾りに囲まれた格式ある空間になっている。 -
正殿 二階 大庫理(うふぐい)
金龍柱と玉座 -
正殿 二階 大庫理(うふぐい)
国王の玉冠(複製品)
皮弁冠または玉御冠ともいいます。
国王が儀式のときにかぶるものです。
原資料は絹製で、玉(金・銀・水晶・珊瑚・碧玉・ガラス)などで飾られています。
この展示されている複製品は、原資料の約1.2倍の大きさで復元され、布地は化学繊維です。 -
正殿 二階 大庫理(うふぐい)
17世紀に与えられた琉球王印(複製品)
縦9.7cmX横10cmX高さ10cm 重さ4.5kg
中国の明朝(1368〜1644)が滅びた後、清朝(1644〜1912)の皇帝から尚質王に与えられた国王印。
この前に琉球は、明朝から与えられた国王印を返してこの印をもらっている。 -
正殿 二階 大庫理(うふぐい)
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北殿(ほくでん)展示室
朝拝御規式模型 1/25
この模型は、首里王府が正月元旦に行った正月儀式「朝拝御規式」の様子を再現したものです。 -
北殿(ほくでん)展示室
朝拝御規式模型 1/25 -
北殿(ほくでん)展示室
冊封儀式模型 1/25
中国皇帝が琉球国王を任命する儀式の様子。
正殿の前にケツ庭、南殿の前に宣読台が設けられています。
中国工程の使者(正使・副使)はケツ庭に座っています。
宣読官が代わって「汝を琉球国王に封ず」と、皇帝の言葉を中国語で読み上げます。 -
北殿(ほくでん)展示室
冊封儀式模型 1/25 -
淑順門(しゅくじゅんもん)付近
正殿及び北殿・南殿の拝観を終え、正殿の裏手方向にある出口にやってきました。
こちらの出口からまだ見ていない門を通って帰ってもいいし、もと来た道を引き返してもいいみたいです。 -
淑順門(しゅくじゅんもん)付近
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淑順門(しゅくじゅんもん)
「淑順門(しゅくじゅんもん)」は国王やその家族が暮らす御内原(おうちばら)と呼ばれる場所への表門で、琉球語の古称は「みもの御門」「うなか御門」である。
建物の創建年は不明とされており、2010年(平成22年)に復元された。
門の造りは櫓門形式・入母屋造・本瓦葺となっている。 -
淑順門(しゅくじゅんもん)
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淑順門(しゅくじゅんもん)付近
城壁の上で記念撮影。 -
右掖門(うえきもん)
「右掖門(うえきもん)」は眼下に見える歓会門(かんかいもん)、久慶門(きゅうけいもん)から淑順門(しゅくじゅんもん)へ直接通じている門で、往時は淑順門から御内原(おうちばら)へ入った。この門は歓会門から東にあり、ほぼ直線で約160メートルの石畳道が続いている。 -
右掖門(うえきもん)
別名「寄内御門(よすふぃちうじょう)」ともいい、創建は15世紀頃と伝えられる。沖縄戦で焼失したが、1992年(平成4)に櫓から下の城壁部が復元され、2000年(平成12)に櫓(やぐら)が復元された。 -
右掖門(うえきもん)から歓会門までの石畳道
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石積
この石積は2000年に復元されたものですが、よく見ると色が途中で違っているのが分かります。これは元々残っていた遺構の上に、新たに石を積んで復元したためです。 -
石積
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寒水川樋川(すんがーひーじゃー)
瑞泉門前の龍樋とならんで首里城内の重要な水源でした。生活用水のほかに防火用水としても利用されたといわれています。
溢れ出た水は地中の溝を通り、久慶門の外側の左右から再び地中に入り、門の向かい側にある円鑑池に抜けました。
円鑑池が満水になるとさらに龍潭に注ぎました。
このことから首里城の排水処理の一端を知ることができます。 -
久慶門(きゅうけいもん)
「久慶門(きゅうけいもん)」は別名「ほこり御門(うじょう)」ともいう。歓会門(かんかいもん)が正門であるのに対し、ここは通用門で主に女性が利用したといわれている。国王が寺院を参詣(さんけい)したり、浦添から以北の地方へ行幸(ぎょこう)するとき等に使用した門であった。 -
久慶門(きゅうけいもん)
創建は年尚真王(しょうしんおう 在位:1477〜1526年)代といわれ、1988年(昭和58)に復元された。
順路の関係から現在は出口専用になっているが、往時は日常的に人々が出入していた門である。 -
久慶門(きゅうけいもん)
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久慶門(きゅうけいもん)
これで、首里城にある門は一通り回ったのですが、実はもう一つだけ残された門があります。 -
木曳門(こびきもん)
この門は、首里城の修復工事のときにのみ、資材の搬入口として使用された門である。普段は石積によって封鎖され、数年に1度といった頻度で行われる工事のときだけそれを撤去して使用した。
現在は車椅子等の侵入通路として開放されているので、ぐるっと戻るような形になりますが見に来ました。 -
首里城公園
記念撮影。
さて、この後は首里城の綺麗な撮影スポットに行ってこようと思います。 -
首里城と龍潭(りゅうたん)
龍潭は1427年、琉球をはじめて統一した尚巴志(しょうはし)王が造らせたといわれる池。
かつてはこの池に船を浮かべ、水面に映る美しい首里城の姿をながめながら、中国皇帝の使者(冊封使)一行を歓待したといわれています。 -
首里城と龍潭(りゅうたん)
★ トップ写真 ★
池に首里城は映りませんでしたが、まぁまぁ予想した通りの写真が撮れました。
夜のライトアップされた姿も撮りに来てみたかったですが、今回は無理でした。
◎ おしまい
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