2010/03/26 - 2010/03/26
107位(同エリア126件中)
ムッシュさん
細久手宿
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【二つ岩】
自然石の中山道二つ岩碑があります。
太田南畝(おおたなんぽ)の壬戌紀行(じんじゅつきこう)の一節「道の左に立てる大きなる石二つあり 一つを烏帽子石という 高さ二丈(約6m)ばかり巾は三丈(約9m)に余れり また母衣石というは高さはひとしけれど巾は是に倍せり いずれもその名の形に似て 石のひましまに松その外の草木生いたり まことに目を驚かす見ものなり」が刻まれています。
並びに烏帽子(えぼし)岩があります、男岩(陽石)です。
この二つ岩は弁慶岩とも呼ばれます、弁慶が旅の途中、鬼岩から取ってきてお手玉にしながら歩き、ここに置き忘れたという伝説があります。 -
著作権フリー作品「木曽街道六十九次」の画像を使用
【木曽海道六拾九次之内 大久手 (広重)】
広重は二つ岩の内、母衣岩を大久手(大湫)として描いたといわれています。
しかしどう見ても画中の岩に母衣岩の丸みが感じられません。
街道沿いに露出している奇岩の方にリアリティーがあるように思えます。
ちなみに母衣とは竹籠を布で覆って、武士がこれを背負い、敵の矢を防いだものです。
琵琶峠は目の前です! -
琵琶峠登り口
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【琵琶峠登り口の碑】 石畳が往時のまま残っています。
文化?年(1814年)建立の馬頭観音像と自然石の中山道琵琶峠東上り口碑があります。
碑面には太田南畝の壬戌紀行の一節「これより坂を下ること十町ばかり 山には大きなる石幾つとなく 長櫃(ながびつ)の如きもの 俵の如きもの数を知らず」が刻まれています。
琵琶峠の石畳は昭和四十五年に500m以上にわたる石畳が確認され、その後、石畳や一里塚などが整備され、江戸時代当時の琵琶峠に復元されました。 -
標高557mの琵琶峠に続く730mの石畳が往時の面影をとどめてる。
〔中山道 琵琶峠 東上り口〕
これより坂を下ること十町ばかり山には大きなる石幾つとなく 長櫃の如きもの 俵の如きもの数を知らず 太田南畝 壬戌紀行より
【琵琶峠の石畳み」
この琵琶峠を中心とする約1kmは、八瀬沢一里塚や馬頭観音などが現存し、当時の面影を残しています。昭和45年には500m以上にわたる石畳も確認され、峠を開削した時のノミの跡を持つ岩や土留め・側溝なども残されています。
歴史の道整備活用推進事業の一環として、平成9年度から平成12年度にかけて石畳や一里塚などの整備を行い、江戸時代当時の琵琶峠に復元しました。
岐阜県教育委員会 瑞浪市教育委員会 -
【八瀬沢の一里塚】
八瀬沢の一里塚があります、両塚共現存しています、残念ながら塚木はありません、琵琶峠の一里塚とも呼ばれました(岐阜県瑞浪市指定史跡)。
(北)塚は日吉町地内に属しています、江戸日本橋より数えて91里目、京へ43里です。 -
細久手までは県道を行く
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【弁天池】
緩い下り坂をグングン進むと右手に弁財天の池があります、享和2年(1802年)に太田南畝(蜀山人)が著した壬戌紀行に「左の方に小さき池あり。杜若(かきつばた)生ひ茂れり。池の中に弁財天の宮あり」と著されています。
この池は常に水をたたえカキツバタやジュンサイの自生地になっています。
中之島には天保7年(1386年)建立の石祠に、天文5年(1740年)建立の弁財天(八臂の天女立像)が祀られています。(フォトの中央奥地に見える)
八瀬沢の弁財天池である
あの十辺舎一九の「続・膝栗毛 木曾街道」でも記されているところだ
「八瀬沢の弁財天を拝し、琵琶峠にさしかかりて やせ沢に 弁財天のある故か 霞ひくなる びわの山坂・・・」八瀬沢の弁財天池である
【弁財天の池】 (判読が困難になってきた古い案内板)
山丘上でありながらいつも水をたたえているこの池は古くから旅人に愛されてきました。蜀山人も「左の方に小さき池あり、杜若生ひ茂れり、池の中に弁財天の宮あり」とその旅日記に書いています。
【弁財天の池】 (新しい案内板)
享和二年(1802)に太田南畝(蜀山人)が著した『壬戌紀行』に「左の方に小さき池あり。杜若生ひ茂れり。池の中に弁財天の宮あり」との記述があります。常に水をたたえカキツバタやジュンサイの自生地になっています。弁財天は通常は琵琶を持った天女姿ですが、ここでは八臂の立像が祀られています。
瑞浪市 -
【奥之田の一里塚】
緩い下り坂を進むと奥之田の一里塚の両塚が現存しています。
高さ約3m、直径約10m程の大きさで、自然の地形をうまく利用して築かれています、江戸日本橋より数えて江戸へ92里(368km)、京へ42里(168km)の道標。 -
著作権フリー作品「木曽街道六十九次」の画像を使用
【木曽海道六十九次之内 細久手 広重画】
広重は三国見晴し台辺りから眺めた細久手宿を描いています -
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【庚申堂】
1802年に再建されたもの。300年の年月を経た石造物がある。
細久手宿のこうしんさまとして親しまれてる。
先に進むと右手の庚申堂の参道口に細久手宿高札場跡(標柱)があります、ここが細久手宿の江戸(東)口です、細久手宿に到着です!
入口右手にある庚申堂は、当初寛政10年(1798年)に建てられたが、宿場の大火で焼け、享和2年(1802年)に再建されたものである
大湫宿から御嶽宿までは四里三十町(約19km)と長く、その間には琵琶峠、物見峠が控え人馬共に難渋を極めました、そこで大湫宿より更に遅く慶長15年(1610)に細久手宿が新設されました。
宿並は寛政十年(1798年)、文化十年(1813年)、安政五年(1858年)に大火に見舞われ、今の町並みは安政の大火以後のものです。
天保14年(1843年)の頃、細久手宿の宿内家数は65軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠24軒で、宿内人口は256人でした。 -
【大黒屋さんの正面】
次いで右手に卯建をあげた旅館大黒屋(国登録有形文化財)があります、慶長年間(1596~1615)の創業で、代々酒井吉右衛門が問屋を勤め、尾張藩の定本陣を兼ねました。
細久手宿の本陣、脇本陣が手狭になリ、他領主との合宿を嫌った領主尾洲家が、問屋宅を尾州家本陣と定めました。
大黒屋は安政六年(1859年)の建築で、卯建、玄関門、式台、上段の間が当時のままに残されています(宿泊可、0572-69-2518)。 -
ここは、老舗で有名な旅籠”大黒屋”さん
尾州徳川家の定本陣で今も140年前と変わらぬ姿で営業を続けている。
昔の造りは、二階の高さが一階の半分です。
尾州藩の定本陣であった大黒屋である
この建物は安政5年(1858年)に建てられたもの
恵那から次の御嵩宿の間の旅館は山間(標高400m)の此処しかない
大黒屋HPより
【尾州家定本陣大黒屋】
細久手宿の本陣・脇本陣が手狭になリ、他領主との合宿を嫌った領主尾洲家が、問屋役酒井吉右衛門宅を「尾州家本陣」として定めたのが、『尾州家定本陣大黒屋』のはじまりである。
『大黒屋』の特徴は、軒廂付切妻造の2階建で、両端に本卯建を上げ、2階が1階に比して目立って低いことは、家の古さを示し、宿場時代の遺構とみられていたが、近年奥座敷前の緑東に「安政6年(1859)12月6日清七 米9合」の墨書銘が発見され、安政5年(1858)の大火類焼直後に再建された家であることが確証された。
旅籠屋で年代の判明した唯一の例として貴重であるとのこと。
意匠的にもすぐれ、とくに2階奥座敷の床・棚・書院の構えある室では床柱に太目の丸柱を用い、半丸の長押を用いるなど、この辺で見かけぬ数寄屋造であるうえに、次之間とともに障子腰板に松、秋草を描き、次之間の床壁にも杉らしい樹木を描き、剥落がはなはだしいが、品雅な筆致であるなど、江戸後期には見難い意匠である点、注目すべきことである。
また一階奥座敷には数寄屋がないが、2間の付書院の上方は雲形板となり、床は7尺5寸の大床であり、棚構えでは斜めに向いた地袋上に棚を置くなど創意に富み、天井高がとくに高いことは武士や高貴な客を泊めた特殊な工夫とみられる。
かくてこの部屋は、すべて大らかな雅味を感ずる。
HPから転載させて頂きました。 -
大黒屋さんでは、お雛人形の展示がありました。
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大黒屋さんの2階から一階を見下ろした景色です
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