2010/03/25 - 2010/03/25
276位(同エリア417件中)
ムッシュさん
【大井宿 第46宿(日本橋より349km)】
「中山道大井宿は、江戸から87里(344Km)46番目の宿場で、京へは47里(188Km)のところにある。中山道と名古屋・伊勢に向かう下街道の分岐点である槙ケ根追分に近く、中山道の旅人のほか、伊勢参り・善光寺参りや尾張商人、尾張に向かう木曽の牛馬の荷などが通り、美濃16宿中随一の繁栄を誇っていた。
宿は東から横町・本町・竪町・茶屋町・橋場という5町に分れ、東の高札場から西の大井橋まで6丁(710m)であった。それぞれの町は、街道が直角に曲がるいわゆる桝形によって区切られていた。大井宿ではこの桝形が6か所もあった、中山道随一の整然とした町割りを形成していた。
宿内には本陣や脇本陣・問屋のほか・旅籠屋・茶屋・商売屋など天保14年(1843)の記録では家数110軒(466人)が軒を並べていた。本陣、脇本陣は大名や公家の姫君が宿泊するため門構えと玄関を備え、書院付き上段の間のある豪壮な建物であった。旅籠屋は41軒あり、寺社などの参詣費用を積み立てる講の指定宿である講宿や近江商人の定宿も多くあった。旅籠屋の中には門構えや式台、特別な客室のある大型の旅籠屋もあって一般の旅人ばかりでなく武士も利用したと思われる。草鞋や蓑、砂糖もち、果物などを売る茶屋は8軒あった。宿場は旅人が宿泊するだけの場所でなく、街道を往来する諸荷物の集積、中継という重要な役割をになっていた。この役割を果たすのが問屋で、大井宿には本町に上下二つの問屋があり、半月交代で宿役人が詰め、仕事の指図をしていた。
大井宿の西側を流れる阿木川にかかる大井橋は長さ23間(41m)、幅2間(3.6m)の欄干付きの木橋であった。この橋ができる天保年間以後は阿木川の真ん中に石の小島を作り、そこの両側から橋をかけて川を渡っていたので中島橋ともいった。
恵那市・恵那市教育委員会】
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この読み方”せんだんばやし”村との事です。
千旦林村の高札場跡(石柱)があります、千旦林村は立場でした。 -
三ツ家の一里塚跡(石柱)があります、遺構は残されていません、
江戸日本橋より数えて86里目です。 -
碑の読み方は、”なすびがわ”村の高札場跡
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【茄子川小休所 篠原家】
皇女和宮、明治天皇の御小休所に充てられ、表門など当時のまま。
栗きんとんの名店美濃屋の並びに茄子川御小休所篠原家があります、篠原家は加賀前田家の重臣篠原一孝の子弥右衛門が十七世紀の初め頃、当地に移り住んだことに由来します。
篠原家の当主は代々長八郎を名乗り、茄子川村の村方役人、尾張藩の庄屋、戸長等を歴代にわたり勤めました。
茄子川村は間の宿で、当家は茶屋本陣を勤めました。 -
【篠原家】
「篠原家は、加賀前田家の重臣篠原一孝の子、弥右衛門が、17世紀の初め頃当地に移り住んだことに由来します。
篠原家の当主は代々「長八郎」と名乗り、茄子川村の村方役人、尾張藩の庄屋、戸長等を歴代にわたり務めていました。
ここから中津川宿へは一里23町(約6.4Km)、大井宿までは一里(約4Km)の距離にあり、家の脇には中山道から遠州秋葉道への分岐点を示す大燈籠が置かれています。
篠原家は中山道通行時の休泊施設として本陣や脇本陣と同様な役割をにない、様々な文人、墨客の足跡も残されています。
和宮、明治天皇が御小休した建物が現存し、休憩した部屋、厠、表門等は当時のままに保存されています。」 -
【茶屋本陣の篠原家】
加賀前田家重臣 篠原一孝の子・弥右衛門が17世紀初めに移り住んだという由来を持ち、皇女和宮や明治天皇が小休止した部屋や厠がそのまま残るという。 -
角の石柱には【明治天皇茄子川御小休所附御膳水】と彫られている
建物前に明治天皇茄子川御小休所附御膳水碑があります、皇女和宮、明治天皇が休息した部屋、厠(かわや)、表門等は当時のままに保存されています。 -
ちょっと電柱が邪魔ですが、我慢してください。
追分の両側には【秋葉大権現常夜燈】があります、手前(左)の常夜燈は享和三年(1803年)、向い(右)の常夜燈は安永五年(1776年)の建立で是よりあきはみちと刻まれています。
秋葉大権現はいわずと知れた火伏火防の守護神です。 -
先に進むと左手の畑の前に歴史の道中山道茄子川解説があります。
江戸時代初期の茄子川村は御三家筆頭の尾張徳川家給人の山村氏(木曽方)、千村氏(久々利方)、それに旗本馬場氏ら八名の入相支配地であり、村高1368石余はこの付近では大きな村の一つでした。 -
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下り坂が平らになると左手に坂本地区文化遺産説明板設置案内図があります。
スグ先の左手に大きな中山道碑があります「是より大井」と刻まれています、中津川市茄子川から恵那市大井町に入ります。 -
歌川広重の大井宿浮世絵と同じ絵柄です。
恵那市には中山道広重美術館もあります。 -
岡瀬澤碑があります、ここが岡瀬澤村の東口です
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道標。こんなお宅の前ですが。
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「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。一筋の街道は・・・」(夜明け前)
中山道も木曽路を過ぎて馬籠宿から中津川宿・大井宿に来ると、小高い丘をいくつも横切って進む道となり、起伏は多いが空が広く展望の良い道となり、恵那山や御嶽山を見続けて歩くことのできる道となる。そのため昔の旅人はこの道を「尾根の道・眺めよし」といっている。
ところがこの甚平坂は距離は短いが急な坂道で、長い間旅人には嫌われていたが、明治になってようやく少しなだらかな坂道となった。
明治十三年六月、明治天皇が伊勢方面視察のために中山道をお通りになることになった。そこでこの地の人たちは総出でこの坂の頂上を二メートルほど掘り下げて坂の傾斜を少しなだらかにした。それによって天皇のアラビア馬二頭だての馬車も無事に坂を越すことができた。
甚平坂は根津甚平是行(禰津次郎惟之)に由来する名称である。
根津甚平は鎌倉時代頼朝の家臣で信濃根津の郷の城主であった。その頃大井に長興寺という寺があり、一体の観音仏をまつっていた。この観音様は昔聖徳太子が百済の香木に彫ったものといい、太子は法隆寺の夢殿に安置してまつっていたが、ある日突然空に舞い上がり東方に飛び、大井の里へ来た。里人は是を寺に移したが、「総ての願いに御利益があるが特に子供に恵まれない人が祈るとすぐに子宝が授かる」と評判になり、ひとびとはこの観音を「妊観音」といった。
根津甚平は数々の忠功があったが四〇歳になっても子供がなかった。ある日この話を聞いた甚平はさっそく妻と共に大井の長興寺へやって来て妊観音に七夜の祈りを続けた、そして観音の霊光を得て長子根津小次郎惟清を授かることができた。
喜んだ甚平は長興寺の和尚と相談して「昔行基が創建したという長谷教寺を再興する」こととし、寺の名を稲荷山長国寺とした。そして甚平の守り本尊の運慶作の地蔵菩薩と夫人の聖観音等を寄進したという。
今長国寺には根津甚平の「長国寺殿根津是行居士」の位牌と乗馬に使用した馬の鞍と鎧が残っている。(長国寺縁起による)。
岐阜県 -
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著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用です。
【木曽海道六拾九次之内 大井 (広重)】
広重は大井として、雪の甚平坂を描いています、右の山は恵那山、左奥の白い頂きは御嶽山です。
甚平坂は短いが急坂で旅人に嫌われていました。 -
【歌川広重の浮世絵”大井宿”を石画に彫りこんだ記念碑】です
広重はここから見た光景を浮世絵にしている
左手遠くに御嶽山、右に恵那山、そして坂を上る2組の馬子と旅人を描いている
見通しの良いところだ
甚平坂の甚平とは頼朝の家臣で信濃の国根津に住む甚平是清の名前からきている
信濃の桔梗ヶ原に住む化け鳥「八重羽のきじ」の退治を幕府に命じられた甚平が、ここまで追って来て力尽き死亡したという.
その時死んだ、馬と犬を埋葬したのが,馬塚と犬塚で、その石碑が建っている
根津神社の境内には、妻が建てたという甚平の供養塔がある -
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【甚平坂】
この坂には鎌倉時代の武将根津甚平と「八重羽の怪鳥」伝説があり、それに纏わる馬塚、犬塚が有ります。坂上は史跡公園になっており、近くには根津甚平を祀った根津神社があります。 -
【中山道関戸一里塚跡碑】があります。
碑には「江戸日本橋より八十七里」と刻まれています、北塚は榎、南塚は松でしたが、大正の頃に取り壊されました。 -
正善寺跡です。
境内跡には、【”大井鬼子母尊神碑”や”明治天皇行在所” ”御舊址是より三丁碑”】等があります。 -
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菅原神社が鎮座しています、慶長年間(1596~1615年)の創建で、いわずと知れた学問の神菅原道真を祀っています。
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長国寺にちなむ寺坂(階段)を下ります、目の前には大井宿が一望です!
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五妙坂を下ると右手に3/4に縮小された高札場が復元されています、大井宿に到着です!
大井宿は西に難所十三峠を控え、岩村街道、秋葉道、下街道と交差し、善光寺、伊勢神宮、熱田神宮への参拝客、そして尾張へ向かう商人や牛馬荷物の往来で賑わい、美濃十六宿中で最も繁栄しました。
宿並は横町、本町、竪町、茶屋町、橋場で構成されました。 -
【高札場】
宿場東の高台、寺坂に続く五妙坂の枡形に造られた大型のもの。
右手に高札場跡がある。大井宿の入口です
高札場の先100m先は、左に直角に道が曲がっている。宿場特有の桝形で、大井宿には6箇所もの桝形がある。
「高札場は村のうち人通りの多い目につきやすい場所に建て、幕府の権威を誇るように石垣や土盛りを築き、ときには矢来で囲むこともあった。そして管理の責任を藩に命じ、村人にきまりを厳しく守らせ、付近の掃除や手入れもさせた。
高札の書き換えは、きまりの改正や老中の交替、年号の変わるたびに行われたが、あまり頻繁であったため、8代将軍吉宗以後は書き換えず、正徳元年(1711)5月付の高札が幕末まで維持された。そして慶応4年(1868)明治新政府は新しい高札に掛け替えたが、明治3年に高札制度を廃止した。
大井宿の高札場はこの坂の上にあり、高さ2間(3.6m)巾2間半(4.5m)の大型のものであった。(この高札場は原寸を3/4に縮小したものである。)
恵那市・恵那市教育委員会」 -
【大井宿本陣跡】
この表門と背後の老松が、当時の姿を今に残す。本家は、火事で昭和22年消失。
丁度、道路工事に遭遇。
二つ目の枡形です、枡形手前の左手が林本陣跡です、間口42間(約76m、奥行22間(約40m)の敷地に建坪150坪の屋敷でしたが昭和二十二年(1947)の火災で焼失してしまいましたが、安土桃山様式を伝える本陣門を残しています。
皇女和宮は林本陣にて昼食を摂りました、門脇の黒松はその際、記念に植樹されたものといいます。
「大井宿は中山道46番目の宿場で、整然とした6箇所の桝形のある独特の町並みをしていました。最盛期には45軒余の旅篭があったといわれています。
本陣とは大名や公家、幕府の公用役人などが休泊するところで門構えや玄関、式台があり他の旅篭屋とは大きく違っていました。本陣は各街道の宿場に1軒あるところや2軒あるところなどがありました。本陣が満員の時は本陣に準じた施設である脇本陣に休泊しました。大井宿本陣は、残念ながら昭和22年に母屋部分は火災で焼失してしまいましたが、幸いにも本陣の表門周辺は焼け残り、安土桃山様式を伝えるこの門を今に見ることができます。表門は他の本陣に比べるとやや小ぶりですが、屋根は反りをもたせた瓦葺で破風板や小屋組みの細工や彫刻も丁寧に仕上げられています。門の傍らに立つ松は樹齢300年を越すと思われる老松で幾多の大名や公家の姫君達がこの門をくぐったのを見ていた事でしょう。」
平成4年12月 恵那市教育委員会 -
宿並には六ケ所の枡形が配されていました。
天保14年(1843年)の頃、大井宿の宿内家数は110軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠41軒で、宿内人口は466人でした。 -
稲荷社の下に【和宮泉(せん)】があります、本陣林家の常用井戸でした。
この井戸水は皇女和宮が当家にて昼食を摂った際に供されました。
同好の水見役の山城守はこの井戸水を検水し「良水これに勝る水なし」と絶賛し、汲み上げた井戸水を和宮が宿泊する中津川宿まで運びました。 -
【大井村庄屋古山家】
大井宿の豪商ひし屋古山家。酒造業、庄屋を務め、明治以降は郵便・銀行業務や俳諧など文化面にも積極的に活動しました。明治初年に改築された建物が資料館として開放されております。(入館料大人200円)
「古谷家は江戸時代に屋号を「菱屋」といい、酒造と商売をしていました。そして享保年間から幕末まで約150年間、大井村の庄屋を勤めた旧家である。
屋敷は間口一〇間半(約19m)・奥行三五間(約63m)の敷地の中に、一四畳・一〇畳・八畳の部屋など合計八室、それに土蔵をもち広大な建物であった。
今の建物は明治初年に上宿より移築したもので、前面に太い格子をはめ、はねあげ式の大戸が付き、奥座敷には床の間・違い棚・書院・入側廊下のある一〇畳二間が続き、江戸時代の雰囲気を色濃く残している。
恵那市・恵那市教育委員会」 -
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【宿場役人の家】
林家は本陣家より分家して以来明治に至るまで代々大井宿役人問屋役を務めた。
また、格式ある旅館であった。
宿役人は問屋(最高責任者)、年寄(問屋の補助役)、その下役人に人足指(人足の指図をする役)、馬指(馬の指図をする役)、書役などがあり、幕府道中奉行の命をうけ道中の荷物や人の輸送、飛脚などの継立事務を行う、宿場の最も重要な役人でした。
「林家は文化二年(1805)に本陣家より分家して以来、明治に至るまでの六〇余年間、代々大井宿役人の問屋役を務め、名字帯刀を許された家柄である。
当家は間口七間半奥行二五間あり、一一・10・8・6・4畳などの部屋が14室もある大型旅籠屋であった。
そのうち東側二間は土壁で境をして、土間に続いて式台付の八畳の部屋三室が特別室となっていた。
尚宿役人は問屋(最高責任者)・年寄(問屋の補助役)、その下役人に人足指(人足の指図をする役)・馬指(馬の指図をする役)・書役などがあり、幕府道中奉行の命をうけ道中の荷物や人の輸送・飛脚などの継立事務を行う、宿場の最も重要な役人であった。
恵那市・恵那市教育委員会」 -
阿木川に突き当たります、ここが大井宿の京(西)口です。
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JR恵那駅が正面に見えてます。
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国道19号線の陸橋から恵那駅方向(東方)を見た町並みです。
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西行塚公園のお花畑
らっぱ水仙がきれいに咲いてました。 -
西行塚公園から街方向をみおろしてる。あいにくの雨で眺望はガスってます。
右に見える車道は、国道19号線。 -
【槙ケ根一里塚】 岐阜県史跡(昭和34年11月16日指定)
一里塚は、一里(約四キロ)ごとに街道の両側に土を盛り、その上に榎を植えて旅人たちに里程を知らせた塚である。戦国時代の末(16世紀後半)には、山陽道の備中の河辺から北九州肥前名護屋のあいだに築かれていたといわれるが、一般的には、慶長九年(1604)、徳川幕府が江戸日本橋を起点として、東海道や中山道などの主要な街道に設けさせ制度化したものをいっている。しかし、百八・九十年後の天明年間(1780年代)のころには、姿を消したものがかなりあったという記録が残っている。
県内の中山道には、全部で三十三か所あったが、現在はそのほとんどがとりこわされ、現存しているのは、当市内のこの槙ケ根一里塚と紅坂一里塚のほかに瑞浪市内の権現山一里塚など五カ所の合わせて七カ所にすぎない。また、全国的にも現存する数はきわめてすくなく、一里塚は江戸時代の街道の面影を今に残す貴重な文化財である。
この槙ケ根一里塚は、北の塚が高さ約3.5m、幅は9.9m、南塚は北塚より少し大きく高さは3.9m、幅は10.1mある。塚の頂上に植えられていたといわれる榎は両塚とも残っていない。
近年の土地開発が進む中で、この附近の中山道は開発から免れており、この槙ケ根一里塚のほかに西行塚や西行坂なども原形をとどめ往時の中山道を偲ぶことができる。
恵那市教育委員会 恵那ライオンズクラブ」 -
槇ヶ根公園にて。
ここより西方面は、人里離れた十三峠の山道に入ります。 -
中山道広重美術館
http://museum.city.ena.gifu.jp/top.html
恵那市在住の収集家田中春雄氏から寄贈された歌川広重の浮世絵版画などを展示。
平成13年にオープン。浮世絵の制作過程や作品を多数見学できる。料金500円
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