トリニダー旅行記(ブログ) 一覧に戻る
平成12年8月12日(土)<br /> 朝早く起き出して7時15分に出発した。トリニダーへ向かう途中カルディナスの町を通り抜けた。この町には馬車が沢山往来していて今時珍しい光景であった。アメリカに住んでいたキューバの少年の入国ビザの発給問題で新聞を賑わしたエリアン君は現在この町に住んでいる。この町では有機栽培の野菜を小さな畑で栽培しており近隣住民の需要を賄っている。砂糖黍畑の多い町でもある。道路沿いには建設部隊が建てたアパートが数棟立ち並んでいた。砂糖黍の原産地はインドであるが18世紀にキューバへもたらされ土地柄が合ってキューバの主要農産物になったのである。このあたり柑橘物の栽培もしている。<br /><br /> トリニダーへ向かう時走行した高速道路には車が走っておらず借り切り専用道路の感があった。これほど車の少ない国はいままでの旅行で見たことがない。<br /><br /> シエンフェゴスの町を通りすぎた。シエンゴ州の人口は35万人位で1819年にフランスからの移民により建設された町である。このあたりでは米の栽培をしており現実に水田も車窓より目撃した。キューバ人は米を食べるが自給するほどは取れないのでベトナムと中国から輸入している。またこの州では車海老やロブスターの養殖をしている。これらの海産物は値段が高いのでキューバ人の口には入らず輸出に廻される。<br /><br /> アグワダ・デ・ヘルスという場所の休憩所を出発して間もなく、交通規制にひっかかり暫くガソリンスタンドで待たされた。要人警護のための交通規制だというだけでどれだけの時間またされるのか皆目情報が開示されない。30分ほどで動きだした。<br /><br /> 走行中、道路端に二階建てのコンクリート製の四角い建物が建っていた。これがキューバ自慢のホームドクター制の前線基地である。ここにドクター一人と看護婦一人が配置されて50〜150世帯の健康管理、疾病治療管理に従事しており、このネットワークが全国に張りめぐらせられているのである。治療費は無料であるという。現在幼児死亡率は千人当たり6〜7人であるという。<br /><br /> やがてバスはトリニダーの町に到着した。この町は1514年に開設された町であり、スペインがメキシコ支配のためにこの町から1518年に出発した。18〜19世紀にかけては砂糖黍栽培と奴隷交易で栄え、石畳のある町並みは1988年にユネスコの世界遺産に登録された。ここでは「プラザ・マジョーラ」という店で昼食を摂った。食事を済ませて通りに出ると民芸品を並べた露天がでており観光客で賑わっていたが、買いたいと思うような品はなかった。<br /><br /> 市街地はサンティシマ広場を中心に形成され、1600年頃建てられた荘厳な教会が残っている。また18世紀の初め頃この地を支配したブルーネットファミリーの豪華な館が残されていて博物館になっている。町のシンボル的な建物はサンフランシスコ修道院の鐘楼で現在は革命博物館になっている。石畳の町を散策したがとても蒸し暑くて、汗みどろになり史跡をゆっくり鑑賞するよりも日陰でじっとしていたいというほどの気候条件であった。<br /><br /> ラ・カンチャンチャラというこの地方の名物酒の名前をとった店で、陶器いりのカンチャンチャラを賞味したがなかなかいける味であったが、味よりも蒸し暑さの印象の方がより強く残っている。バンド入りの演奏を聞きながら御馳走になった酒はラム酒に蜂蜜とレモンを混ぜ合わせたものである。客席は吹き流しの屋根の下に設えられていた。<br /><br /> カンテルパレスという建物は1830年に建てられた製糖工場のオーナーの館であったが市役所の機能も代行した。<br /> この町の印象はとても暑いということのみが強烈で古い町並みを歩いたなという感じである。この国では女性が15歳になると成人式を行う風習があり、着飾った少女が教会へ母親と一緒に出向く光景をいくつか目撃した。<br /> 僅かな時間滞在しただけでバスは再び同じ道を長駆ハバナへ向けて戻った。<br /><br /> 今宵の宿泊はメリア・ハバナ・ホテルで五つ星である。今回の旅行では一番よい大型のホテルであった。滞在客も多くていかにも外国へきているという感じであった。<br /><br /> 夕食は市内のトコロロというホテルでなかなか落ちついた感じのレストランでバンドの演奏を聞きながら作家の佐木隆三氏と同席になり、ワインのグラスを傾けながら歓談した。メインデイッシュは魚でシーバスと言っていた。トコロロとはキューバの国鳥でこの鳥の額縁入りの絵が壁に飾ってあった。<br /><br />平成12年8月13日(日)<br /> 夕べ気持ちよく飲んだので朝は8時頃まで熟睡した。出発は11時45分なので食事後海岸へ出てみた。浜は溶岩で出来ており砂は見当たらない。溶岩には穴がぼこぼこあいていて裸足で歩くと怪我をしそうな感じである。それでも泳いでいる人もいたが余程自信がないと足に怪我をする危険が一杯である。浜へ出たとき通り抜けた所は建設作業所であった。ホテルの周辺にはあまり見るべきものもないので時間までコスモス文学を読んで時間を潰した。<br /><br /> 出発となり最初にレストラン「ラセシリア」へ行った。ここではカクテル「トンコリンズ」を飲んだ。レモネードとラムのカクテルである。<br /><br /> 現在キューバに投資している外国資本はスペインのメリアグループでキューバ51%:メリア49%というケースが多い。<br /><br /> 最初訪れたのは革命記念館である。この建物は旧大統領府として使われていた。ここにはカストロがキューバ潜入に使ったヨット「グランマ」や戦車も陳列されていた<br /><br /> 続いて旧市街のサンフランシスコ広場またの名ライオンズ広場、メルカデレス通り(商人通り)、葉巻愛吸者だけしか泊まれないホステル・デル・ハバノ、アルマス広場、フェルサ要塞、ハバナカテドラル、ヘミングウエイの通ったレストラン「エル・フロリダ」を見学して後、ホテルで小休止してから空港へ向かった。キューバの発見者コロンブスはハバナのカテドラルへ埋葬されていた時期があるが、そのごドミニカへ移されさらにセビリアの教会へ移された。<br /><br /> 旧市街地散策中、足長ピエロのデモンストレーションのあった公園の近くで、同行者中最高令者の徳田さんが迷子になるというハプニングがあった。彼は今回で訪問回数144か国に登る81歳の老人である。耳の遠いところ、年齢などから岳父のことを思い出していた。夕食にサンドイッチとパンを支給されたが、量が多くて殆どを捨ててしまった。<br /><br />

ワープロで描いた俳画・・・サルサのリズム

2いいね!

2000/08/12 - 2000/08/12

90位(同エリア111件中)

0

1

早島 潮

早島 潮さん

平成12年8月12日(土)
 朝早く起き出して7時15分に出発した。トリニダーへ向かう途中カルディナスの町を通り抜けた。この町には馬車が沢山往来していて今時珍しい光景であった。アメリカに住んでいたキューバの少年の入国ビザの発給問題で新聞を賑わしたエリアン君は現在この町に住んでいる。この町では有機栽培の野菜を小さな畑で栽培しており近隣住民の需要を賄っている。砂糖黍畑の多い町でもある。道路沿いには建設部隊が建てたアパートが数棟立ち並んでいた。砂糖黍の原産地はインドであるが18世紀にキューバへもたらされ土地柄が合ってキューバの主要農産物になったのである。このあたり柑橘物の栽培もしている。

 トリニダーへ向かう時走行した高速道路には車が走っておらず借り切り専用道路の感があった。これほど車の少ない国はいままでの旅行で見たことがない。

 シエンフェゴスの町を通りすぎた。シエンゴ州の人口は35万人位で1819年にフランスからの移民により建設された町である。このあたりでは米の栽培をしており現実に水田も車窓より目撃した。キューバ人は米を食べるが自給するほどは取れないのでベトナムと中国から輸入している。またこの州では車海老やロブスターの養殖をしている。これらの海産物は値段が高いのでキューバ人の口には入らず輸出に廻される。

 アグワダ・デ・ヘルスという場所の休憩所を出発して間もなく、交通規制にひっかかり暫くガソリンスタンドで待たされた。要人警護のための交通規制だというだけでどれだけの時間またされるのか皆目情報が開示されない。30分ほどで動きだした。

 走行中、道路端に二階建てのコンクリート製の四角い建物が建っていた。これがキューバ自慢のホームドクター制の前線基地である。ここにドクター一人と看護婦一人が配置されて50〜150世帯の健康管理、疾病治療管理に従事しており、このネットワークが全国に張りめぐらせられているのである。治療費は無料であるという。現在幼児死亡率は千人当たり6〜7人であるという。

 やがてバスはトリニダーの町に到着した。この町は1514年に開設された町であり、スペインがメキシコ支配のためにこの町から1518年に出発した。18〜19世紀にかけては砂糖黍栽培と奴隷交易で栄え、石畳のある町並みは1988年にユネスコの世界遺産に登録された。ここでは「プラザ・マジョーラ」という店で昼食を摂った。食事を済ませて通りに出ると民芸品を並べた露天がでており観光客で賑わっていたが、買いたいと思うような品はなかった。

 市街地はサンティシマ広場を中心に形成され、1600年頃建てられた荘厳な教会が残っている。また18世紀の初め頃この地を支配したブルーネットファミリーの豪華な館が残されていて博物館になっている。町のシンボル的な建物はサンフランシスコ修道院の鐘楼で現在は革命博物館になっている。石畳の町を散策したがとても蒸し暑くて、汗みどろになり史跡をゆっくり鑑賞するよりも日陰でじっとしていたいというほどの気候条件であった。

 ラ・カンチャンチャラというこの地方の名物酒の名前をとった店で、陶器いりのカンチャンチャラを賞味したがなかなかいける味であったが、味よりも蒸し暑さの印象の方がより強く残っている。バンド入りの演奏を聞きながら御馳走になった酒はラム酒に蜂蜜とレモンを混ぜ合わせたものである。客席は吹き流しの屋根の下に設えられていた。

 カンテルパレスという建物は1830年に建てられた製糖工場のオーナーの館であったが市役所の機能も代行した。
 この町の印象はとても暑いということのみが強烈で古い町並みを歩いたなという感じである。この国では女性が15歳になると成人式を行う風習があり、着飾った少女が教会へ母親と一緒に出向く光景をいくつか目撃した。
 僅かな時間滞在しただけでバスは再び同じ道を長駆ハバナへ向けて戻った。

 今宵の宿泊はメリア・ハバナ・ホテルで五つ星である。今回の旅行では一番よい大型のホテルであった。滞在客も多くていかにも外国へきているという感じであった。

 夕食は市内のトコロロというホテルでなかなか落ちついた感じのレストランでバンドの演奏を聞きながら作家の佐木隆三氏と同席になり、ワインのグラスを傾けながら歓談した。メインデイッシュは魚でシーバスと言っていた。トコロロとはキューバの国鳥でこの鳥の額縁入りの絵が壁に飾ってあった。

平成12年8月13日(日)
 夕べ気持ちよく飲んだので朝は8時頃まで熟睡した。出発は11時45分なので食事後海岸へ出てみた。浜は溶岩で出来ており砂は見当たらない。溶岩には穴がぼこぼこあいていて裸足で歩くと怪我をしそうな感じである。それでも泳いでいる人もいたが余程自信がないと足に怪我をする危険が一杯である。浜へ出たとき通り抜けた所は建設作業所であった。ホテルの周辺にはあまり見るべきものもないので時間までコスモス文学を読んで時間を潰した。

 出発となり最初にレストラン「ラセシリア」へ行った。ここではカクテル「トンコリンズ」を飲んだ。レモネードとラムのカクテルである。

 現在キューバに投資している外国資本はスペインのメリアグループでキューバ51%:メリア49%というケースが多い。

 最初訪れたのは革命記念館である。この建物は旧大統領府として使われていた。ここにはカストロがキューバ潜入に使ったヨット「グランマ」や戦車も陳列されていた

 続いて旧市街のサンフランシスコ広場またの名ライオンズ広場、メルカデレス通り(商人通り)、葉巻愛吸者だけしか泊まれないホステル・デル・ハバノ、アルマス広場、フェルサ要塞、ハバナカテドラル、ヘミングウエイの通ったレストラン「エル・フロリダ」を見学して後、ホテルで小休止してから空港へ向かった。キューバの発見者コロンブスはハバナのカテドラルへ埋葬されていた時期があるが、そのごドミニカへ移されさらにセビリアの教会へ移された。

 旧市街地散策中、足長ピエロのデモンストレーションのあった公園の近くで、同行者中最高令者の徳田さんが迷子になるというハプニングがあった。彼は今回で訪問回数144か国に登る81歳の老人である。耳の遠いところ、年齢などから岳父のことを思い出していた。夕食にサンドイッチとパンを支給されたが、量が多くて殆どを捨ててしまった。

同行者
一人旅
交通手段
観光バス
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)

PR

この旅行記のタグ

2いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP