2000/01/11 - 2001/01/19
1810位(同エリア1894件中)
早島 潮さん
ピュルサの丘はカルタゴ発祥の地とされている。伝説によればフェニキャの王女エリッサが紀元前814年にこの丘に植民都市を建設しようとした時現地人から牛革(ピュルサ)一枚で覆える範囲の土地しか譲れないと言われたので、彼女は牛革を切り裂き細長い紐を作り、その紐で土地を囲って広い領土を獲得したと伝えられている。カルタゴが繁栄した頃は数階建ての建物がこの丘に集まっていと考えられており、丘の斜面にはポエニ戦役時代の住居跡が発掘されて遺跡として残っている。この丘の上からは現在のカルタゴ市街を見下ろすことが出来、ラッキーなことに折から対岸に虹がたつのを目撃することができた。
三回目のポエニ戦争で完敗したカルタゴはローマ人によって徹底的に破壊され廃墟跡には塩を撒いて人も住めず作物もとれないようにされたと伝えられているから、ここにはポエニ時代の遺跡としては住居跡だけしか残されていないのもうなづける。
現在、遺跡の点在するカルタゴの地はチュニス郊外の高級住宅地に変貌しており、大統領官邸や外国大使公邸なども集まっている。この一帯の住宅は概ね白壁でブルーの窓枠の建物が多く地中海の海の色とよく調和している。
トフェの墓はポエニ時代にはバール・ハモン神(フェニキヤ古代の神)とタニト神(カルタゴの守護神)を祀る聖域であったところである。当時カルタゴには幼児を殺して神へ捧げるという生贄の習慣があったらしく、小さな墓が沢山並んでおり幼児の骨の入った骨壺も沢山発見されている。現状は単なる墓地にしか見えないし、近くにはフェニキヤ人の墓も残っている。それにしても戦勝祈願と都市の繁栄のためとはいえ幼児の首を切って燃え盛る火の中へ投げ入れたというカルタゴ人の宗教観や死生観には、我々現代人はついていけないおぞましいものがあると思った。
本日最後に訪れたローマ人の浴場跡は比較的保存状態もよく当時の娯楽センターの面影を留めている。これは五賢帝の一人であるアントニヌスによって二世紀に建設されたものでカラカラ帝の浴場に次いで二番目に大きい浴場であったといわれている。海を背景にして建設されたこの浴場は娯楽場としては絶好のロケーションであり、現在の大統領官邸はここに隣接して建てられており物々しい警護がなされていた。
昨夜はチュニスから東南約60kmに位置するハマメットのホテルで泊まった。ハマメットの海岸線にはホテルが目白押しに建っており、ハマメットだけでホテルが90以上あるという。そして今なお建設中のホテルを沢山目撃することができた。ホテルの近くの海岸には大規模なマリーナを建設中であり、これが完成すればリゾート地として更に大きな発展が予測されることを見越しての先行投資と思われる。因みに最近のチュニジアの観光収入はGNPの52%に匹敵するというからなるほどとうなづける。
ここはフランスの植民地であった1920年代からリゾート地として開発が進められ、数多くの著名な作家や芸術家に愛されてきた所でもある。我々が宿泊したマルコポーロホテルはスペイン人が経営するチェーン店の一つでオープン後、まだ日の浅いホテルであった。
今日は朝市が開催される日だということで、最初に見学に訪れた。道路端に商品が並べられる原始的な青空市場である。野菜、果物、衣類、各種食品日用雑貨類、民芸品が所狭しと並べられて威勢のいい売り子の掛け声が飛び交って、沢山の現地人や観光客に売り込みをしていた。どこの市場でも見られるお馴染みの光景であるが、強烈な印象を受けたのは最近の日本では見られなくなった古着屋と古靴屋が繁盛していることであった。山積みされた古着をバーゲンセールのデパートの如く、身なりのいい老若男女が群れをなして物色しているのである。我が家の箪笥に死蔵されている衣類をここへ持ってくれば有効に処分できるのではないかとふと思った。
特に買いたい物も無かったが世界各地の梟の小さな置物を集めているのでチュニジア記念にと物色したら気にいったのが一つ見つかった。アラビア商法は先ず買い手が値段を聞き、売り手の言い値に対して買い手の希望金額を提示するというやりとりを何回か繰り返して、最後は互いに歩み寄って値段が決まるという過程を辿る。最初の言い値の半値八掛け二割引き(約三分の一)であれば買ってもいいと腹を決めて先ず値段を聞いてみた。するとボールペンを貸せというので渡すと紙切れに35ディナールと書いて提示した。高いというと幾らか希望の値段を提示しろというから七分の一の5ディナールだと言い張っていると10ディナールまで下がった。これ以上下がらないというので六にするなら買ってもいいと譲歩すると9にするという。それではいらないと立ち去ろうとした。すると追いかけてきて6ディナールにするという。そこで交渉成立、金と商品を交換した。最後にボールペンを返せというとちゃっかりポケットに仕舞い込んでこれは子供へのプレゼントだといって返そうとしない。さすがにアラブ商人はしたたかである。
次はハマメット市内のメディナを見学した。メディナとは城郭内に形成された古い市街地のことである。古い建物の間を通る迷路のような狭い路地には土産物屋が店を開いていて、どの店も似たような商品を並べている。このメディナの一角にはカスバと称される要塞が残っている。スペイン砦とも呼ばれていて城門をくぐって中庭に入ると数台の大砲などが置いてあるだけでがらんとしている。1977年から2年ほどかけて大修復がなされたとの説明書きが建っていた。城壁に上がるとハマメットの旧市街や新市街が一望できランドマークであるグランモスクのミナレットも見えている。また折からの好天に恵まれて濃紺の地中海やボートを横たえている砂浜を見下ろすことができる。砂浜には椰子の葉で葺いた茸様の日除けが並んでいて面白い景観をつくり出している。
スース市内のメディナにはリバトと呼ばれる8世紀に建てられた要塞があり、これは異教徒や他民族を侵攻するための前線基地としてまた町を外敵から守るための要塞として機能していた。またスースには9世紀のアグラブ朝時代に建てられたグラン・モスクがあるが、外見はモスクというよりも要塞に近い景観である。ミナレットさえ外敵を監視する物見の塔と見えなくもない。スース市内のショッピング・センターを見学してから本日の宿泊地モナスティールへ向かった。
モナスティールはチュニジア建国の父と言われるブルギバ初代大統領の出身地であり、同大統領がリゾート地化して発展させようと大いに力を入れたところである。モナスティールにはブルギバ元大統領の華麗にして壮大な霊廟が威容を誇って建てられていて、観光名所の一つになっているが、御本人は九七歳で未だ健在である。同大統領はパリ大学に留学しフランスからの独立運動に従事した。何度も投獄されたが、1955年に独立を獲得し、チュニジア王国首相になりついで王政を廃止してから共和政体になると初代大統領に選出された。内政上は新憲法の制定、政教分離、一夫多妻制の廃止、女性参政権の承認、男女共学の推進などの改革を行い独裁政治でチュニジア国の近代化に貢献した。1975年には終身大統領になったが、老害が多くなり1987年ベン・アリ首相に解任された。
チュニジア各地を巡り歩いていて印象に残るものに学校の校舎がある。どんな辺鄙な片田舎であっても校舎だけは立派な建物で目立っている。これは就学率を高め文盲をなくそうとする政府の政策の現れでまず学校を居心地のよい魅力あるものにすると共に子供を就学させない親に対しては罰金を課する強い姿勢で臨んでいるという。こうした奨学政策もブルギバ初代大統領の精神を引き継いだものである。それでもまだ学校の数が不足していて少ない施設を有効に利用するため、就学の時間帯に時差を設けた二部制が取られているという。
モナスティールを朝まだ暗いうちに出発してジェルバ島へ向かった。途中エルジェムでローマ時代の円形闘技場を見学した。この円形闘技場は保存状態がよくナポリ、リヨンのものに次いで世界第三位の大きさであるという。石作りの闘技場は四階建ての楕円形のアリーナになっており広場中央には迫り出し用の幅広の溝が掘ってある。溝の両脇には猛獣達を待機させる部屋が設けられている。観客席の一部は完全な復元がなされていて当時の姿を実見することができる。この闘技場では奴隷である剣闘士が中央の溝から迫り出してくる猛獣達と死闘を繰り広げるのであるが、現代人の感覚からすればなんとも野蛮な競技である。しかし、当時は人気のある競技であった。
本日の旅程は長丁場のバス移動で、エルジェムを後にすると窓外にはオリーブ畑が延々と続いている。オリーブ畑が次第に切れてくるとバグアという雑草しか生えていない砂漠が現れこれがまた延々と続いている。とても単調な景色の連続であるが、やがてナツメ椰子の林が見えてきた。
ここが初めて見るオアシスの町ガベスであった。昼食をとるためオアシスホテルまで市中をドライブしたが、道路の両脇にはナツメ椰子の畑が拡がっており椰子の木の下には青々と野菜や牧草などが豊かに繁っている。畑の中には灌漑用の小川も流れている。椰子畑のない通りには民家や学校、商店、公共施設等の建物が立ち並び大きな市街地を形成している。この町では油田も発見されて石油の採掘もなされているというからとても大きなオアシスなのである。この町へ来るまでに私がオアシスに対して抱いていたイメージとは全く異なっていた。せいぜい椰子の木が20〜30本程も生えていて緑地が僅かばかりあり沸き水の流れる小川または小さな池がある小さな集落というのが今までオアシスに対して抱いていたイメージであったので認識を一新させられた。
ガベスの町のナツメ椰子の木の数だけでも何十万本にもなるのだそうである。町はずれの小高い丘に登って市街を展望すると砂漠の中に緑の椰子畑と市街地が塊となっている町全体の姿が一望できたので、なるほどオアシスであると実感した。新鮮な発見に驚きながらオアシスを後にして、ドライブを続けるうちに再びオリーブ畑が現れだしたと思う間もなく船着き場へ到着した。ここでフェリーボートに乗ると15分程でジェルバ島へ渡ることができた。
ジェルバ島は514km2の面積を持ち島の海岸線の長さが120kmにも及びチュニジア最大のリゾート地である。島には国際空港もあり、欧州各地からシーズンともなれば数多くのリゾート客を運んでくる人気絶大の島である。島の住民は殆どが北アフリカの先住民であるベルベル人で女性が麦藁製のカンカン帽をかぶるという特異な習俗を持っている。この島はギリシャ時代からその戦略的な意味で重要な島であるため多くの侵略者達に荒されるという難儀に耐えてきた。
ジェルバ島から翌朝ローマ時代に作られた橋(天の橋立のような道路)を通って本土へ戻ると、暫くオリーブ畑が続き次第に砂漠に変わって、ナツメ椰子の木が見えてきたと思う間もなくメドニンというオアシスの町へ到着した。ここはベルベル人達がキャラバンを組み砂漠を行商して歩く基地となった所でゴルファと呼ばれる商品の保管倉庫が広場を囲んで幾つも並んで建っていた。次第に定住する人が増えるにつれてゴルファは住居に転用されるようになってきたのである。
ゴルファは、石と日干し煉瓦で造った二階建て又は三階建ての土蔵を意味し、外観は土製の巨大な円筒を二段〜三段に積んで横に並べたようなものである。今はこの住居でベルベル人達が革細工や陶器、金属細工等の民芸品を観光客相手に売って暮らしている。一見えも言われぬ物珍しい景観である。
メドニンを後にすると窓外の景色は再び砂漠に変わり、バスの高度が上がるにつれ荒涼とした小高い山々が見られるようになって、やがて小さな集落のある山中の町マトマタへ到着した。
この町周辺の禿山のクレーターには北アフリカの先住民達が故郷を追われてきて隠れ住んだ横穴式の洞窟が幾つもあって、いまだに多くのベルベル人が穴居生活をしている。この地で老人夫婦と若夫婦に子供三人の家族が生活している横穴式住居を見学できたが、冬は温かく夏は涼しくてなかなか住心地はよいものらしい。この地方にはこのような横穴式住居が沢山あって二万人以上が生活しているという。バスで通過中も山裾に幾つかの横穴式住居を目撃することができた。またこの地には横穴を使ったホテルもあり、ホテルシティ・ドレスは映画スター・ウォーズのバーの一シーンとして撮影されたことで有名になった。マトマタの町を後にして暫く荒涼とした山並みの続く山中をドライブしてハメズメットという小さな集落を通り過ぎ、更に走行して平地に出ると再びナツメ椰子の生い茂るオアシスが出現しドゥーズの町へ到着した。
ドゥーズの町はサハラ砂漠への入り口となるオアシスの町である。天幕生活をしながらオアシスを求めて砂漠を駱駝と共に遊牧するアラブの遊牧民ベドゥインとオアシスに定住するベルベルの人々が出会い交流する町として昔から知られていた。サフランという駱駝の基地には駱駝が60〜70頭もいたであろうか。これほど纏まった数の駱駝を見たのは初めてである。ここで駱駝に乗ってサハラ砂漠を四十分程遊覧した。我々一行34人がめいめい一頭ずつ駱駝をあてがわれてこれに打ち乗って、轡取りに誘導されながらではあるが群れとなって行進する姿は壮観であった。群れの中には白地に黒の縦縞のついた貸し民族衣装を纏って、ターバンを頭に巻き付けている人も多勢いるのでキャラバンの大移動と紛うばかりであった。駱駝は乗り降りするとき脚を屈伸するので乗客に与える衝撃が強くうっかりすると振り落とされてしまう。しかし一旦、立ち上がって砂漠を歩みだすと乗り心地はとても良く乗馬と同じような感覚である。幸いにも好天で無風状態であったため砂漠の風紋を観察することもできたし多少冒険じみた貴重な体験をすることができた。
この夜はドゥーズのホテルに宿泊したが朝晩の冷え込みは非常に厳しく、大陸性気候の何たるかを肌で実感することができた。
朝八時にドズールへ向けて出発。とても寒いので用意していた厚手のベストと首巻きを膝から下へ巻き付けて脚の冷え込みを防ぐ。途中 通り抜けたジェリド湖は塩水湖で殆ど水がなく、湖底が干上がって塩で白く光輝いていた。予め説明を聞いていなければ雪が積もっていると思ったかも知れない。砂漠の地下に塩源があって雨が降ると窪地に水が溜まり地下の塩分を溶解し塩水の湖ができるらしい。そのうち日照のために水分が蒸発して塩だけが地表に残り白く輝いているという仕掛けである。いわば効率100%の天然の塩田が砂漠に出現すると考えた方が分かりやすいかもしれない。砂漠の砂の中から塩が採れるとは知らなかった。この湖は大きな湖であるが水を湛えたところでも水深は浅く、過半の部分が干上がって、塩を湖底の砂地に結出している。道中この塩を採取している工場も目撃することができた。
ドズールの町で見学したウルド・エル・ハデフ地区はこの町で一番古い地区で14世紀に作られたという。砂と粘土を混ぜ合わせて作った日干し煉瓦の町並は煉瓦色一色で一種独特の風格をもった景観をつくり出していた。この町は条例で煉瓦一色の町並にすることが決められているという。壁には幾何学的な文様が彫刻されていてとても美しい。
午後からは四輪駆動のワゴン車に5〜6人宛分乗して、山や渓谷を探訪して歩いた。探訪した先はシビカ、タメルザ、ミデス等の山中のオアシス村である。映画イングリッシュページェントはこの辺りの砂漠と山々が舞台として使われたそうである。険しく切り立った崖や山が大きく割れた谷と遙か下を流れている川があるかと思えば、椰子の木が数本かたまって生えている僅かな平地など変化に富んだ景色を堪能した。タメルザのグランドキャニオンではほんの目と鼻の先にアルジェリアの禿山を望見することもできた。またこれらの渓谷を巡り歩いていると、一つの部落がそっくり廃墟になっている所が何箇所かあった。これは数年前に大雨があって大洪水となり全村破壊された跡だということである。この時の水流の速度は秒速百mにも及んだというからいかにすざましい洪水であったかということが判る。
ケロアンへ向かう途中ガフサという人口15万人の町を通り抜けた。この町は燐鉱石が出るので鉱業の町として賑わっている。燐鉱石は年間に800万t産出しその大きな輸出先の一つが日本であるという。ガフサの町には紀元前8000年頃の遺跡があるというから古くから開けた町で、その後ローマの植民地にもなっていた。キャラバンが集まる地でもあった。走行中キャサリンという町を通過したが、ここにはシャンビー山という海抜1544mのチュニジアで一番高い山があるし、キャサリン峠は第二次世界大戦で戦場になった所としても有名である。またこの地にはフェニキヤ人の墓も発見されている。
途中のスベイトラの町に入ってくると街道沿いに住居跡らしいローマ人の遺跡が続いている。かなり大きな遺跡が保存状態もよく残っていた。神殿の建物やフォーラムもそれと判る形で残っているし凱旋門も残っている。ローマ人の都市作りの輪郭がはっきり判る形で遺跡として残っていた。往時ここには2万5千人のローマ人が住んでいたというからかなり大きな都市であったことが判る。その後異民族のヴァンダル族が侵入しこの地を支配していたがビザンチン帝国のユスチニアヌスに533年に滅ぼされてしまう。ビザンチン時代に入ってからはローマから派遣された総督により統治されることになったが、グレゴアールが総督の時、この地へ侵攻してきたウクバの率いるイスラム教徒の激しい攻撃を受け六四五年に敗退してしまった。従ってチュニジアのイスラム化はこの地から始まったのである。
イスラムの聖人ウクバはこの地を平定すると、669年に前線基地をケロアンへ移し、モスクを建てるなどして以後ケロアンがイスラムの四大聖地として栄えることになるのである。
我々のバスもスベイトラを後にしてやがてケロアンへ到着した。
ケロアンではグレートモスク、サハブ霊廟、貯水場跡を見学した。グレートモスクは聖地のモスクとしては予想していたよりこじんまりとしていた。黄土色のモスクの中庭を長方形に囲んで建っている数多くの柱はそのアーチ型の梁とともに美しい建築美を表現していた。サハブ霊廟はモハメットの若い頃の友人にして聖者であるアブ・ザマエル・ベラヴィが眠る霊廟である。このモスクのミナレットの壁に施されたセラミック製の装飾は素晴らしいと思った。
ケロアンはチュニスの南165kmに位置し周囲をオリーブ畑に囲まれた内陸部の町である。この町は7世紀にウマイヤ朝から派遣された総督スティ・ウクバによって建設されたマグレブ地方(チュニジア、アルジェリア、モロッコの総称)の聖地である。以後アグラブ朝(九世紀)、ファティマ朝(10世紀)、ズィリー朝(一一世紀)の首都して栄えることになった。1057年にベドウィン人の侵略を受け町は破壊されてしまい首都はチュニジアへ移されたが、イスラムの聖地としての役割は連綿として現在に続いている。イスラムの四大聖地の格付けはメッカ、メジナ、エルサレム、ケロアンの順とされており、ケロアンへの巡礼七回はメッカへの巡礼一回に相当すると言われている。
ナブールで陶器工場を見学してからバスはケリビア、ボーン岬を経由してチュニスへ向かった。昨日までの砂漠はなくなり窓外には緑豊かな畑が続いてアーモンドの花が白く咲き誇っていた。オリーブ畑やサボテン畑もなお多い。
チュニス市にあるバルドー博物館の建物はオスマントルコのベイ王朝の統治者の宮殿であった。これが、1882年に博物館として衣替えされたものである。この博物館で有名なものはその世界一の収蔵量を誇るモザイクである。ローマ時代のキリスト教徒の墓石を飾っていたものが多い。ギリシャ神話、ローマ神話等を題材として物語を絵解きしているものとか当時の動物や戦闘の模様を描いているものもある。当時の社会の風俗や動物の種類、狩りの方法等をしるための有力な資料を提供している。神話や伝説を勉強して再度訪問してみたい魅力に満ちた博物館である。
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カルタゴ。ローマ人の浴場の跡
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ポート・エル・カンタウィのマリーナ
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モナスティール。ブルギバ元大統領の霊廟
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スース。メディナのリバト
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エルジェム。ローマ遺跡、円形闘技場
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エルジェム。ローマ時代の円形闘技場
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ガベス。オアシスを小高い岡から展望
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メドニン。ベルベル人達のゴルファと呼ばれる倉庫を転用した住居
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ゴルファ
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マトマタ。穴蔵式住居
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マトマタ。穴居生活をする人の農作業
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トゥーズの市街
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ドゥーズ。サハラ沙漠
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ドゥーズ。駱駝
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ドウーズ。駱駝で沙漠の散歩
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ジェリド湖。塩水湖である。
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シビカの荒蕪地とオアシス
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大洪水による廃墟
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ケロアン。グラン・モスク
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チュニス。バルドー博物館
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チュニス。バルドー博物館
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シディ・ブ・サイド
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