2010/02/02 - 2010/02/06
2178位(同エリア3483件中)
明石DSさん
12:05:02
ハファダイ・ビーチ・ホテル
クリスタルタワー457号室から窓の外を写す
タガタワーの方がもっと眺めはいいだろうけど
私にはこれで十分でした。金さえあれば・・・。
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■ホテルに戻り、そして昼食
午前の部のジャングルツアーは終了した。ツアーの最後は各ホテルではなく、ガラパンのDFCギャラリアという名前のブランドショップで終了する。私の宿泊していたハファダイ・ビーチ・ホテルの前にある。このDFCの中に各旅行社の案内所もあり、私は何も知らずに一番便利なホテルを選択していた。
ホテルに戻り、すぐにフロントに確認に行った。私の一番の懸念であった免許証のコピーがFAXで送られて来ているか?ちょうど日本人の女性スタッフがフロントにいたので、すぐに状況を理解してくれて、「今はまだ届いていないが、他のスタッフにも申し送りをしておきます。」と、部屋番号と名前を聞かれた。
午後の出発は1時10分。ホテルの自分の部屋に一旦戻ったのは12時頃で、どこで昼食をと思ったが、このホテルの10階にレストランがあったので早速10階の展望レストランに行き、一人で席に案内してもらった。でも、周囲を見回せば様子がおかしい。席に坐ったまま料理がテーブルに置かれていない客が沢山いた。
それを見てこりゃあヤバイと、すぐに「時間が無いから・・・」とことわり退散した。そして一階に降りて、一応フロントにFAXのことを聞いたら無事に届いていた。長男に頼んでいたが、長男がネットで東京に日本事務所があるのを知って、そこにコピーを送り現地に転送してもらったとのこと。その時は、「よし、これで明日レンタカーが借りれるだろう」と思っていた。
そして向かいのDFCの二階のレストランも行ってみたが、ここも一杯。仕方なくうろついて飯屋を探したら、ひなびた中華料理屋があった。「まあいいか、ここで」と入ったら中国人客が二人だけで、ガランとした店内だった。
そこで今日のお勧めと言う海老料理のメニュー(¥6.5ドル)を頼んだ。小さな茶碗に山盛りの米を盛り付けて、お代わり自由であった。私はそれで十分だったが。
サイパンの中国人は日本語はたいていしゃべる。そして英語もある程度話すようだ。二人の若い中国人女性も中国語と英語で盛んに話しをしていた。店のママさんは北京出身だと言っていた。
昼食を食べ終わってもまだ集合時間まで時間が少しあったので、明日レンタカーを予約しているガラパンのハーツ・レンタカーに出向いた。コンテナハウスが事務所で、鍵が掛かっていてノックをしても出ないので誰もいなのか?と、思いながらもう一度ドアを思い切り叩いたら人の気配がして扉が開いた。
若い女性スタッフが一人だけのようだ、一応狭いコンテナの中に入り、日本から持って来ていた予約カードを見せて、事情を説明しようと思ったが相手は日本語が出来ない。手振り身振りと「コピーOK?」で意味は分かってくれたが、「コピー、NO!」だった。
無論、何度も「コピーOK?」を繰り返し、両手を合わせて頼んだが、頑として応じてはくれない。それでも何とか頼むと引き下がらなかったら、相手も仕方ないのか「明日もう一度来てくれ」と言われ、OKは出なかった。
ハファダイ・ビーチ・ホテルの中にもニッポン・レンタカーの受付があるので、集合時間に間に合うようにホテルに戻ったがあいにく昼休みで席を外しているのか受け付けには誰もいなかった。何とかレンタカーを借りて明日一日サイパン島をゆっくり周って、動画撮影をしたいのに、まだ諦めることは出来ない。
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12:21:00
ムーミン村の右隣へっこんだ店が中華料理店
空いていました。 -
12:25:30
ちょうど昼だったけど中はご覧のとおり
右のテーブルに中国人女性客2二人
そして私、一人の計三名
空いてて良かった・・けど -
12:33:56
これが今日のお勧めランチでした
海老料理です。味はまあまあ美味い
全部食いました -
12:44:40
中国名物料理「ダブルレストラン?」
ふ〜ん、ここで食ったのか、帰国後写真を見て
思い出したけど、ダブルレストランってどういう意味やねん?. -
12:51:34
ハーツレンタカー・ガラパン事務所
このコンテナハウスが事務所です
鍵が掛かっていて、ドアを叩いたら女性が一名いました
免許証のコピーでは貸せないとのこと
忘れた私が駄目でした(泣) -
13:15:04
砂糖公園の入口は鳥居でした。
この公園の奥に彩帆香取神社があります。
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■ヒストリカル・ツアーへ出発
もう集合時間の1時10分に近くなったので、ホテル玄関付近の椅子に坐っていたら、年配の女性が近づいてきて「安保さんですか?」と尋ねられた。「ハイそうです」と答えたら、この女性がガイドのSさんだった。もうお孫さんもいるようで当地に家族一同暮らしているらしい。それ以上の詳しい事は聞かなかったが。出身は東京。
迎えに来たマイクロバスにはすでに四人のツアー客が乗っていた。このツアーも前日まで参加者は私一人だったのに、急遽参加者が増えて一人分の料金になった。
四人のうち、二人は年配のご夫婦で、奥さんは東京大空襲を16歳で体験し、当時は従軍看護婦になりたいと願う軍国少女だったそうだ。そのことを語りながら、思い出しただけで胸が苦しく涙ぐむという感じだった。ご主人も同い年(80歳)で、志願して海兵団に所属し終戦を迎えたそうだ。
あとの二人は母娘二人連れで、最近、高齢で亡くなった父親がサイパンで戦い戦後に生き延びた方だった。父親は若い時は、ほとんどサイパンでのことは子供にも語らずだったそうで、今は50代だろう娘さんも詳しく知らないようだ。関東軍からの転出なのか?日本から直接赴任してきたのか?陸軍だったことは確かだ。
その父親が、高齢になってからサイパンへの思いが募り、娘さんが二度もサイパンツアーを企画し来る事になっていたそうだが、その都度体調が悪くなり断念せざるを得ず、ついに再びこの地を訪ねることなく亡くなったそうだ。その父親の思いを抱いて線香を持参の慰霊の旅だった。
時間通り1時10分には5人のツアーは出発し、最初の訪問地は砂糖公園だった。
砂糖公園とサイパン神社は同じ場所にある。砂糖公園の入口に神社の鳥居があった。
サイパンと砂糖、そして満洲の南満洲鉄道と並んで『海の満鉄』とも称される程の規模(従業員5万人弱)の南洋興発を日本の国策会社として創立し、マリアナ諸島・ミクロネシア地域を経済的に発展させたのが会津出身の松江春次、その人である。
http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/rekishi/jinbutsu/jin12.htm
ガイドのSさんの話では、存命中に銅像が出来たのは「野口英世」と「松江春次」の二人だけだと言っていた。アメリカのルイジアナ大学の砂糖科を卒業し、日本で始めて角砂糖を作ったのが松江春次だ。
昭和18年、松江春次は経営から退き日本に戻っている。成金趣味を持たず質素な生活をして育英事業に私財を投じた立派な人物のようだ。ガイドさんが「米軍がサイパン占領後、敵国人の銅像を倒そうとしたが、地元の人たちの要望で倒されずに残った」と説明を聞き、日本人としてこんなに嬉しい事はない。
今のサイパン・テニアンは産業があるのか無いのか?観光立国であることは分かるが、事業欲はないようだ。やたらに韓国・中国資本が流入している感じがした。 -
13:17:06
砂糖キビ運搬用蒸気機関車
これはドイツ製。日本製のもあったようだ。
この機関車が島中を走り、当時はさぞかし活気があったのだろう -
13:32:26
砂糖王:松江春次の像
昭和18年には経営から離れ日本に帰国
成金趣味を持たず、質素な生活だったそうです
敗戦で財産をほとんど失くし昭和29年:78歳で永眠 -
13:34:20
この石塔は天皇陛下行幸の時に修復されたそうだ。
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■彩帆香取神社へ参る
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
彩帆香取神社(さいぱんかとりじんじゃ)は、アメリカ合衆国北マリアナ諸島サイパン島・ガラパンにある神社である。大正時代に創建され、第二次大戦後に破壊されたが、1985年に再建された。
第一次世界大戦中の大正3年(1914年)10月14日、大日本帝国海軍の戦艦「香取」はドイツ領であったサイパンを占領した。
その際、ドイツ軍の望楼があった小山に小祠を建てて、軍艦香取内に祀られていた香取神宮の分霊(祭神 経津主神)を分祀して「香取神社」とし、その山を香取山と命名した。
大正5年、台風により小祠が破壊されたため、香取山中腹に社殿を造営し遷座した。
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サイパン神社の名残を残す石塔などは、2005年:平成15年の天皇皇后両陛下行幸の際に修復されて今に残っている。ガイドさんに教えてもらった昔の参道の階段らしきものが残っていた。
昭和60年(1985年)11月19日、日本の香取神社連合会などの手により神社は再建されている。昔の面影今いずこではあるが。
このサイパン神社を散策していたとき、80歳のご老人がつまづいてこけ手に怪我し出血もあった。幸い足は打撲と擦過傷だけで骨折などの大事に至らず良かった。
ガイドの連絡でツアー事務所から男性が消毒薬一式を持参し、しばらくここで時間を費やした。高齢での旅は要注意だと思う。どうしても周囲を見ながら歩くので足下から注意がそれやすい。
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第四十三師団のガラパン市内行進
「サイパン肉弾戦」平櫛孝(著)
私は東山丸で師団長や歩兵百三十五連隊長とともに昭和19年5月14日、護衛駆逐艦「千鳥」「皐月」に護られて館山沖を出港して五日間の航海後、5月19日第一次輸送船団で無事にサイパンに着いた。
部隊に下船を命じ、軍旗を中央最前列に二個の歩兵連隊(歩兵第百三十五、第百三十六連隊の混成)、約1万名が整列すると、われながらその威容さにうたれた。この上陸部隊がガラパンのメーンストリートを通って、サイパン神社に詣で、町内を一周して港へ帰って来た。
ザッザッと踏みしめる軍靴の音、澄んだ南の空の空気をつんざいてひびく行進ラッパの響きは、沿道の住民を驚かされたにちがいない。軍旗を捧持した軍隊の行進をみるのは、おそらくはじめてのことだろう。
歓呼の声が街にあふれた。祭日に軒先にかかげる日の丸の国旗を二階から降って万歳を叫ぶ者もいた。先頭に私と高級副官をしたがえて、師団長は沿道の歓呼にこたえていた。こんな輝かしい師団長の顔を見たのははじめてである。師団長もこの最良の日をジックリとかみしていたにちがいない。
サイパン神社の社頭で奉げ銃の礼を行う兵の剣尖に南洋桜が美しい。沿道の市民も「これでサイパンも安心」と思ったことだろう。東京でも東条英機首相が、「第四十三師団のサイパン到着で、もうサイパンも安心です」と公開の席で広言したとか。
しかし、この歩武堂々が最初で最後であろうとは、この部隊が一ヶ月もたたたないうちに玉砕し、幻の兵団になってしまうとは、神のみが知っていたのだろうか。
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13:40:06
香取神社連合会などによって再建されたサイパン神社 -
13:45:42
当時の石の階段が一部残っている -
14:08:46
刑務所に書き残された米軍兵士の落書き
june 15/44
1944/6/15,上陸当日の日付が刻まれている
確かに海岸から遠くないこの刑務所は、その日米軍の手に落ちた
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■再度・刑務所跡に
午前中のジャングルアドベンチャーツアーでも来たが、今回は日本人ガイドのSさんがこの刑務所跡の壁に沢山の米軍兵士の落書きが残っていることを教えてくれた。
名前と日付が書かれている。それを見れば、一瞬にタイムスリップし1944年:昭和19年6月15日の日付に愕然とする。上陸当日にここを米軍が占拠している。資料によって分かっているが、その刻みつけられた占領者の得意気な印字が悔しくもある。
戦艦の絵も刻み込まれていた。しかし彼らとて死を賭けた上陸であり戦友の多くを失い、或いは傷病兵になった場所でもある。 -
14:10:30
米軍艦艇なのか軍艦の絵が書かれている
はっきり読み取れない物も含めて
まだ沢山の落書きが残っていた -
14:13:22
刑務所の蚊を防ぐ為の網戸
金属製の防虫網が未だ残っていた -
14:15:54
刑務所の壁に開いた穴
一体これは艦砲なのか?それとも戦車砲なのか?
穴の開き具合からみて日本軍の攻撃によるものかも -
14:30:30
米軍上陸時に大打撃を与えた
独立山砲兵第三連隊野重大隊
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■黒木大隊玉砕の地へ行く
朝のジャングル・アドベンチャーの時、この前を車で通り抜けた。その時、何となくここがそうなのだろうと思っていたが、やはりその通りだった。道路沿いの一段高くなった所に、フェンスで囲まれ門に鍵が掛かっている。Sさんがその鍵を開けた。
黒木大隊もそのほとんどが戦死し、生き残ったのは観測所にいた兵士だけだったように言われているが、それでも幾多の部隊があるなか、サイパンの地に立派な慰霊碑が設けられ、各中隊ごとに石碑に名前が刻まれている。
そして、戦友会・遺族の絆が強いのか毎年のように黒木大隊の有志の方々の慰霊が当地で催されているとガイドのSさんは言っていた。それだけでも黒木弘影少佐の人望と黒木大隊長以下289名の大隊の絆の強さを感じる。
東寧から2月23日に出発し、3月19日にサイパン上陸。その後、三ヶ月余りで、十五榴弾砲を万全の態勢で準備し、米軍の第一次上陸部隊を撃破するなど痛烈なる打撃を与えたのは賞賛に値する。
関東軍精鋭たちの真骨頂ここにあり。 -
14:31:18
黒木大隊が使っていた四年式十五糎榴弾砲
この十五榴弾砲で米軍を撃破した
この十五榴弾砲も砲身が焼けてオレンジ色になっていたのだろう -
14:31:38
大隊本部黒木隊慰霊碑
他に各中隊も名前が銘記された慰霊碑があった
http://www.youtube.com/watch?v=fT4jgZkjP60&feature=player_embedded -
14:42:08
道路沿いの一段高い所に設けられている
周囲を囲み正面扉には鍵が掛かっている
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◎サイパン肉弾戦:平櫛孝(著)
百三頁に黒木大隊のことが書かれているので抜粋引用↓する。
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黒木山砲兵(十五榴)大隊の奮戦
「サイパン肉弾戦」平櫛孝(著)
103頁
黒木大隊の放列(火砲の陣地)は、第五中隊と第六中隊が師団戦闘司令所の眼下で、その奮戦振りは師団長も私も手にとるように見えたし、その指揮の中枢である大隊観測所は、師団の戦闘司令所の稜線続き、しかも黒木大隊長は、私と同兵科で私が陸軍科学学校の教官であったときの教え子であったこともあって、私の彼の大隊の戦闘に対する関心は強かった。
生還者・現地住民の話と私のこの目でみたものを総合すると、次のような戦闘状況である。
6月11日の爆撃を受けた時、全員「今日の空襲はいままでのものと何となくようすが違うな」と感じたが、果たしていままでの空襲より長時間で終日続いた。
ロレンツォ・ゲレロ(現地人)は、ちょうどその日が彼の結婚式の当日だった。彼はこの日の思い出を永遠に残すためと、いつかきっと日本人が大砲を探しにくることを信じ、戦後何度も屑鉄屋から売ってくれと言う要求をしりぞけて、十五榴一門をほぼ完全なかたちになるようにして、自分の屋敷内の土地に運んで残しておいた。(昭和53年4月、黒木大隊の慰霊碑が、その火砲の復元したものを祀って完成している)。
6月12日、13日、14日と空襲、艦砲射撃が続き、日本の飛行機は一機も飛ばない。アメリカ軍艦も当初は沖合いを遊弋しながら射撃をしていたが、日本軍の反撃なして見てか、停船して撃ち始めた。空襲と同じく無差別、無制限である。
この四日にわたる空襲と艦砲射撃に、黒木大隊の十五榴十二門は、一門も損傷を受けなかった。これが米軍の最初の誤算となった。しかしこれは決して幸運とか偶然とかいうものではなかった。黒木大隊の事前準備の完璧さを忘れてはならない。
先述したように、黒木大隊長と私は同じ砲兵科、しかも私も十五榴部隊の出身で、かっての教官だった私でさえ、満点をつけたいくらいの戦闘準備であった。すなわち射撃するときの砲座から数十メートル後方のジャングルの中に大砲を引っ込んで、アメリカ機も発見できないくらい完全にカムフラージュしてあって、いよいよ射撃開始というときは、輓馬十二頭か牽引車ではなくては移動させることのできない重砲を、カムフラージュしておいてある位置から射撃位置の砲座まで緩傾斜の道をつけ、数人の力により、容易に移動できる工夫が加えられていた。
6月15日、米軍上陸開始。観測所から見て、アメリカ軍艦のため水平線が全く見えなかった。大隊が射撃を始めると上空を乱舞していた米機は急降下して銃撃と爆撃の雨を降らせる。
第二大隊は、その射撃効果を最大限に発揮するため、じっと我慢し、敵状の観測を続けた。米上陸部隊は、陸地に深入りせず、いわゆる橋頭堡をつくり、武器弾薬などの揚陸を続けた。黒木大隊の通信手は切断された通信線の修復のため、アメリカ軍の撃ち出す銃砲撃の中を、身を挺してとびまわった。
16時ごろ、米機は母艦に引揚げた、好機至れり、と大隊長は、「射撃開始」を命令した。各砲一斉に火蓋を切った。装薬三号、距離三五〇〇〇ないし四〇〇〇、精度極めて良好。観測所からも師団の戦闘司令所からも命中する模様が手に取るように見える。
放列では、みな上半身裸で撃ちまくった。弾丸に信管をつけ、砲側に並べ、つるべ撃ちである。弾丸運びが間に合わず、その付近にいる手のあいてるものは全員手伝う。第四中隊第二分隊は、弾薬集積所に近かったせいもあり、中隊の中で一番多く射撃した(東寧から部隊が携行した弾丸は大隊全部で六二〇〇発である)。
夕刻になると、連続射撃のため、砲身は焼けてオレンジ色になっているが、まだ撃ち続けている。夜も更けて黒木大隊長が、部下の奮戦の士気を鼓舞するため、その大隊観測所の山から降りて放列に行く途中、師団の戦闘司令所へ立ち寄った。
「教官殿」(彼は私を「参謀殿」と呼ばず「教官殿」と呼んだ。私も「大隊長」「黒木少佐」と呼ばず「黒木」と呼び捨てにした)。
「黒木、実によくやったな」彼は、それに応えず、
「弾丸、特に信管が足りなくなりそうです。至急、補給して下さい」
と言いおいて、放列の方へ山を駆け降りていった。
これが黒木との最後になろうとは・・・。
彼は17日に壮烈な戦死を遂げた。
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15:03:50
陸軍の主力戦車:九七式中戦車
空冷ディーゼルエンジン:170馬力
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■アスリート飛行場周辺を探訪する
日本時代の酸素製造所跡・発電所跡・防空壕・弾薬庫などなどが廃墟になりながら残されている。その周辺には集められて来ているのか、九七式中戦車・一式機動四十七粍速射砲・九六式二十五粍高角機銃などの武器もそこここに置いてあった。
まず目につくのは九七式中戦車だ。タイヤの刻印が「ヨコハマ」「明治タイヤー」とはっきり今も読み取れる。タイヤではなくタイヤーと書かれているのが時代を感じる。
この戦車の搭乗員は一体誰であったのだろうか?やはり満洲で訓練を重ね技量抜群な戦車隊の一員として、このサイパンに来たのだろうが、あまりに違う環境と戦術、そして米軍相手の未だ対峙した経験も無い武器を相手に戦った彼らの心中を察する。
弾薬庫はほぼ完全な形で残っていた。激しかったはずの砲爆撃にも良くぞ耐え、そして戦後の65年もの風雪に耐え、今もすぐにも使用可能であるかのように残っていた。
周辺と内部は蜂の巣だらけでガイドのSさんから「近づくな、入るな」と言われたが、入りたかったので、門に近づくと「蜂に構わず、ゆっくり入れば大丈夫です」と言われて中に入った。
Sさん曰く「本当に今も堅固で立派な建造物として、建築関係の方はそのことで興味深く見たり、感心されます。」と言っていたが、さすがに今も内部は奇麗でひび割れもない。
天井に作られているレールもしっかりとし、とても65年前から放置されているものとは思えない。扉も二重の鉄扉で立派な造りだ。弾薬庫としてその機能を十二分に発揮した。
日本人の物づくりに対する真摯な情熱と文化を感じる。この飛行場周辺の道路も側溝が設けられ、それも日本時代の物であり、今のサイパンは道路も幹線以外は側溝の配慮もあまりなく水捌けが悪く、日本人のこだわりの素晴らしさを誇りに思う。
これは満洲の戦跡を訪ねても同じ感想を抱く。確かに廃墟として残っていてもその建物に美しさがある。丁寧・奇麗・かっちりしていると一見して違いを感じるのだ。 -
15:04:04
乗員4名
この戦車の装甲は25m、米軍のM4シャーマン戦車は89m
敵戦車は三倍強の厚みを持つ。
日本軍戦車の命中弾は空しく弾き返された
6月17日、南興神社からオレアイ米軍陣地に戦車第九連隊は攻撃を掛ける
戦車九連隊・第三中隊長:西舘法夫中尉
中隊車は擱座と同時に真っ赤な炎に包まれた
搭乗員5名、誰も脱出できず
西舘中尉(陸士55期)は22歳。渋谷曹長は25歳。
石飛曹長は23歳。神山軍曹は20歳。富岡兵長は18歳。 -
15:06:44
酸素製造工場跡 -
15:07:18
発電所跡
随分小さな発電所だけど -
15:09:20
少し離れた所にも、九七式中戦車があった
誰が搭乗していたのだろう
後ろに戦車の命、キャタピラが積まれていた。
ご冥福を祈る。 -
15:12:06
九七式中戦車のタイヤはヨコハマタイヤと明治タイヤーだ
大きいタイヤが横浜で
小さい車輪のが明治タイヤーだった -
15:19:56
九六式二十五粍高角機銃
海軍の対空機関砲
この機関砲は米軍機を何機落としたのだろうか。 -
15:24:06
破壊されずに残っている防空壕
テニアン島にも同じ物が並んでいた -
15:27:58
弾薬庫跡が無傷で残っている
今は蜂の巣と化しているが、内部も奇麗だ -
15:29:04
コンクリートのひび割れもなく
今すぐにでも使用可能な倉庫である
天井にも運搬用のレールがそのまま残り
日本人の仕事の素晴らしさをここでも証明している -
15:30:10
頑丈な鉄扉もそのままの状態で残っている
米軍が占領後、B29の爆弾を格納していたそうだ。 -
15:56:26
アギガン岬に残る海軍の監視哨跡
前部は破壊の跡が生々しいが
内部はある程度奇麗なまま残っている
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■アギガン岬へ行く
アギガン岬と言えば私が一番先に思い出すのは、アギガン岬の老大尉のことだ。昭和19年3月初めにサイパンに海軍の報道員として派遣された27歳の記者が、第五根拠地隊の第55警備隊の高島大佐と赴任早々に島を巡察した時にこの岬の砲台を訪ねている。
その砲台跡は確認できなかったが、海軍の頑丈な監視所が破壊の跡を晒しながら残っていた。今このアギガン岬に汚水処理場が稼動しており臭いが結構きつい。ちなみにゴミ処理場には困っているようで、ゴミの山を作り限界になれば、その上に土を被せ植物を植えて、場所は忘れたが遠目で見れば小高い山になっていた。その内、そんなゴミの山が幾つもサイパンに出来るのだろう。
アギガン岬から見ればテニアン島はすぐそこだ。サイパン陥落後、サイパン島の米軍からの砲撃が行われたのも当然だろう。そして逆に6月15日の米軍上陸をテニアンで見ていた日本軍の心境も複雑だったろう。
監視哨の中に入ったらまだ新しい鮮やかな千羽鶴が飾られていた。Sさんに聞くと最近、若い女性のグループがこのツアーに参加して、千羽鶴をどこに置けば良いのか?聞かれた時に、ここを勧めたそうだ。この中なら雨をしのげて長持ちするだろうから・・と。
このガイドのSさん、もうお孫さんもいる女性だが、私には聞くに堪えない解説が多かった。日本軍の惨めな敗戦、在留邦人の悲惨な自決を強調するかのような話し振りが嫌だった。
例えば
『万歳クリフから身を投げた邦人が、「天皇陛下万歳!」と叫んで投身したから「バンザイクリフ」と言われていますが、天皇陛下バンザイなどと叫んで身を投げた人はいません。みんなお母さんと叫んで身を投げたのです』
『サイパン港から1万人くらいの陸軍兵がサイパン神社まで行進した時、靴を履いていない兵隊も多く惨めな姿でした。裸足(はだし)の軍隊とも揶揄されました』
みんなが天皇陛下バンザイを叫んだと思っていないが、そう叫んで亡くなった兵士も邦人も皆無ではないはずだ。何故?こんな言い方をするのか、私には彼女の真意は分からないが、説明はことごとく聞いて面白くなかった。こんな女性にサイパン玉砕戦を語って欲しくない。 -
15:57:30
最近、若い女性のグループが千羽鶴を持参したそうだ
そして、この中に飾るようにガイドがアドバイスをし
ここに吊られている、左側奥のほう
そんな話しを聞くと心が暖まる
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アギーガン岬の老大尉
「サイパン特派員の見た玉砕島」高橋義樹(著)
高橋さんが27歳で特派員としてサイパンに派遣された。
高島大佐:「アギーガンとは、この島の西南端にある岬のことで、なかなか景色のよいところじゃ、そこに砲台があって沿岸砲が一門すえつけてある。それを見てもらいたいんじゃ」
アギーガン砲台を管轄する分遣隊の庁舎に着いたのは午前十時半ごろだった。あらかじめ連絡してあったのか、一階建ての瀟洒な庁舎の前には、年のころ60過ぎと見うけられる老大尉が待っていた。砲台長(分遣隊長)である。
「よく来られました」
老大尉(神谷威:大尉)は車を降りた高島に挨拶した。
「今日は珍客を連れてきた。この島に最近やってきた二人の報道班員じゃよ。何しろ、この人は日露戦争の生き残りネ、貴重な存在じゃよ」
「この島に余生を送るために来たようなものですよ」
老大尉が苦笑した。
しかし、この老大尉と同じ様に、後ほど見せてもらった沿岸砲も、日露戦争時代に使われたような古びたものだった。青錆の出た青銅製二十四サンチ砲が露座のまま、遮蔽物もなく、すえつけてあるのだ。
それは素人目にも、これでいいのか、と思わせるに十分であった。爆撃の目標をわざわざさらけ出しているようなものであった。私は何かしら不安を感じた。それまでサイパン島はあるていど要塞化されていると思い込んでいたのだが、これでは本格的な空襲を受けたらひとたまりもない、と思った。
事実この砲台は、後日、中部太平洋方面艦隊司令長官としてこの島に赴任してきた南雲忠一中将の目に触れた時、彼の激怒をかっていた。とはいうものの、老大尉にとって、この旧式沿岸砲は一種の愛玩物であるかも知れなかった。
砲座の周辺が塵一つなく掃き清められ、何か公園にでも飾られている戦利品のように大事にされていたのであった。
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15:59:24
監視哨から見える風景
海の向こうにテニアン島(左側)が見える
艦砲射撃を受けたら恐怖だろう -
16:00:04
アギガン岬の石の台座を、もしや、この辺りに
老大尉が青銅製の大砲が据えつけられていたのでは・・・と
ご冥福を祈る。 -
17:36:02
今は博物館になっている。
5時には閉館のようで閉まっていた
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■免許証のコピーでは無理だった。
午後の4時半ころツアーは終了し、ホテルに戻った。明日の予定であるレンタカーを、最後の頼みの綱とハファダイ・ビーチ・ホテルにあるニッポンレンタカーの受付に出向いた。昼間席を外していたのか、誰もいなかったのだが、その時は日本人の男性スタッフが居た。私が前に立ち事情を言うと、誰かに聞いていたのか、知っていた。
「免許証のコピーで明日車を借りれないか?」と頼んだが、返事は「無理です」とのこと。やはりサイパンは米国の自治領、法治国家なのか。もし万が一警察に免許証の提示を求められたら大変だからと、「コピーでは無理です。サイパンのどこのレンタカー屋さんでも同じだと思います」と何度頼んでも無理と念を押された。
そこまで言われたら諦めるしかない。それなら「レンタ・オートバイは?」と聞くと、「その向こうに店がありますが、このサイパンはサンゴ礁の島で道路もカーブはスリップしやすく危険ですよ」と、私の見た目の年恰好もあるのだろうが、勧めないと言われた。
そこで私はきっぱり諦めた。免許証を忘れたことで、自業自得で仕方がない。この際、無理せず親切な男性スタッフの忠告を聞いておこうと思った。そしてすぐにDFSの一階にあるPMT(ココ夏ッ通信)の窓口にツ明日のツアーを予約に行き、バンザイ・クリフを含むサイパン北部の午前の半日ツアー(25$)を申し込んだ。
このDFSギャラリアには、オプショナルツアーを引き受ける旅行社の事務所が並んでいて、ホント便利だ。要領が分からないまま日本で予定を立てなくても、その日にでも参加できるツアーが沢山ある。朝から夜まで至れりつくせり旅行者が飽きずに過ごせるメニューがあるように思う。
短いサイパン滞在の日程も、これで決定し、全くのフリーの時間は明日の午後からだけとなった。その時間を利用して動画映像を作ろう。フフフ。
■日本時代の病院跡へ行く
まだまだ外も明るいのですぐにまた出てゆく。行く先は、病院跡、今は博物館になっているようだが、ボチボチとビーチロードからミドルロードへと道を変え南に向って歩いた。博物館はすでに閉館になっていた。
もう、午後の5時40分頃になっていたので、帰りは浜の道を通りホテル方向に戻った。フィリピン海に沈み行く夕陽を眺めながら。そして、ホテル近くで日本料理の店に入った、と、思った、ら、韓国人の経営する店だった。確か表の看板は日本料理店の名前だったけど。
中に入ったら、中華風の店作りでメニューは日本食メニューだけど、焼肉がメーンのようでもありだった。日本語は話すが日本人ではなく韓国人のようだった。ハンバーグ定食を頼む。サービスでキムチも出してくれたし、味は美味しかった。
ガラパンでの夕陽
http://www.youtube.com/watch?v=8lY2X9vrd0c&feature=player_embedded -
20:53:30
ここは受付だけで、射撃場は別の場所だった
椅子に坐って10分ほど待たされた
やがて兄貴が運転する車が来て・・・。
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実弾射撃
ハファダイ・ビーチ・ホテルの傍に、マッサージの客引きカウンターが並んでいた。各店舗が出しているようで、客があれば迎えに来る体制のようだった。実弾射撃も同じで大きな看板と受付があったので、この場所でやってるのかと思ったら、ここは受付だけだった。
いろんなメニューを見せられたが、一番安いコースを選んだ。三種類の銃を撃つようで値段は55ドル。それを50ドルに値切って、チップを1ドル女性にあげた。
そしてしばらくそこのベンチで待てと言われて、その時、初めてこの辺りに並ぶマッサージの受付カウンターやこの実弾射撃のコーナーの意味が分かった。それぞれ店の前で客引きを行っているのではなく、ここは出張客引きカウンターが並んだ場所だったのだ。
10分近くベンチで坐って待っていたら、一人の兄貴が迎えに来た。私一人だけだし兄貴はチンピラ風で、5分もかからないと言われていたが、一体どこに連れて行かれて行かれるのやらと、少し不安だった。
着いた先はフェスタ・ホテル、ハイアット・ホテルの近くで、まずコンビニのような商店の中に入り、兄貴が鍵を受け取り店を出て、その店の向かいに射撃場があった。門扉に施錠がしてあり、射撃場の者が常時常駐ではなく客がある時に来るというような感じだった。
その時も客は私一人、中に入ったら二つのブースがあり、二人が並んで射撃が出来るだけの小さな射撃場だった。上海で長男の案内で二回実弾射撃をしたが、あれ以来10年ぶりくらいだった。上海では拳銃だったが、ここでは名前は全く分からないが普通のちゃっちい銃だった。
口径は小さい、。弾は20発ほど装填出来、撃鉄を一回一回引きながら撃った。最後の一発はショットガン(散弾銃)で、どの程度の音と衝撃なのか分からないまま一発撃ったのでやはり的を外れて上部に弾痕は散らばっていた。
的は顔だったが、その他は大体顔の中に納まっていた。結構中心部付近に集まってはいた。一応耳当てをして撃っていたのでショットガン以外は、音も衝撃もあまりなく迫力もない。それでも当たり所がよければ人は死ぬだろう。銃の恐さを十分感じる。
帰りは歩いて帰るからと言って店を出た。そして夜道を歩く。
ハファダイ・ビーチ・ホテルの傍に戻って来たら、ホテル付近にたむろする女性たちが声を掛けてくる。一応注意はされていたが、実際こんなに堂々とホテルの傍で客引きをしているとは思わなかった。通り掛かる男に、次々声を掛けてくる。
私は、この女性達は中国人だろうと思い、近寄って来た三、四人の女性軍団に中国語で「イ尓イ門都是中国人マ?あんたらみんな中国人か?」と聞いたら、やはり全員中国人だった。世界中に出稼ぎに出てきている。片言の日本語をすぐに身に付けて日本人に声を掛けているようだ。
中国人・韓国人も山ほど観光に来ているようだけど・・・。その辺は分からないが、中国語で客引きをしているのは見たことが無い。「中国の何処から来ているの?」と聞いたら「北京・上海・重慶・・・」などいろんな都市名を言っていた。売春婦だけではなく、ここで仕事をしている中国人は山ほどいる。
2月3日、長い一日が終わった。
今日の深夜に到着し、ほとんど寝ないまま朝のツアーに出発。そして午後も・・ -
21:00:12
的を取り付けて準備中
客は私一人、小さい射撃場で二人しか撃てない
写真はOK
壁に掛かっている二丁の銃を使った
それと最後に一発だけ、ショットガン -
21:09:14
この兄貴が迎えに来てくれた
日本語話さないし、迎えに来た時はムツッとしていた
ちょっとビビッタけど
最後にこの笑顔、写真も撮ってくれたし・・・。 -
21:09:28
射撃場の玄関は鉄格子で施錠している
ふ〜ん、まあ今の日本では考えられんけど
一昔前は武士の家には刀剣がいつも手元にあった
平和ボケ日本では、人間も弱体化するのは無理ない -
21:14:22
サイパンではあちこちでこんなリムジンを見る
誰が好んでこんな車に乗るのか?観光客用だろうけど
そうか中国人・韓国人が多いのかも -
21:18:30
射撃場からホテルに戻る途中
そういえばこの店前では毎日このダンスを見かけた
リゾート地ならではの光景なのだろう
http://www.youtube.com/watch?v=y0z7nGLgL3E&feature=player_embedded
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