エジプト旅行記(ブログ) 一覧に戻る
1.	概略<br />人類文明の歴史をたどるなら、どうしても訪ねてみたい地域がエジプトとメソポタミアだ。しかしながら、後者は、湾岸戦争以来激動が続き、観光などの目的では訪問もできなくなった。その昔に、当時の軍事強国だったマケドニアのアレクサンドロス大王がメソポタミアからペルシャそしてインドの手前までを征服はしたけれど、安定した統治はできなかった。現在の世界の超大国のアメリカは、爆撃等々で地域を混乱には巻き込んでいるが、征服も統治もできていない。おそらく、貴重な歴史遺産が日々失われたり破壊されたりしているのだろうと思うとなさけなくなる。<br />その点、エジプトも色々の経緯はあったものの、幸いに紀元前5000年くらいの大昔の建造物その他を楽しむことができる。そこで、エジプト観光のベストシーズンと教えられた12月~2月の間の12月にエジプトを初めて訪れることにした。最初は、完全な個人旅行(若いつもりだが、外国では乗り物の座席をゆずられることが多い夫婦2人だけの旅行)を想定し、色々調べたし、「フォートラベル」を通じてアドバイスをいただいたりした。カイロ市内はいいが、古都テーベ(現在のルクソール)から南の上エジプトを旅しようとすると、個人旅行では難しそうだとわかってきた。寝台列車の旅もしてみたかったし、アスワン以南でのコンボイ(convoy:護送船団・護送車両縦隊)も経験してみたかった。そこで、各社のツアーを探すことにした。パッケージツアーなどへの参加は、30年以上前にシベリアに行ったとき以来だ。しかし、カイロの考古学博物館はゆっくり見たかったので、ツアーでは不十分だった。カイロでの延泊を許すツアーをなんとか探し出した。さらに、一般のツアーは20名以上とかで出発だったので、これも「2名以上」のものにすると、選択肢はほとんどなかった。結局、関空→カタール航空(ドーハ乗り継ぎ)→ルクソール(泊)→アスワン(泊)→アプ・シンベル(泊)→アスワン→「ナイル・エクスプレス(寝台車)」(泊)→ギザ→カイロ(泊)と進んで、カイロで2泊延泊し、カタール航空によってドーハ経由で関空に戻ることになった。ルクソールから、カイロの最初のところまでは、日本語を話せる現地ガイドが付く。結果として、このツアー(大手旅行会社)の選択は悪くなかった。おそらく、現地事情に相当詳しくないと、完全な個人旅行で、上のような日程をこなすのは至難の業だと思う。また、カイロ市内をツアーと離れて個人旅行的に自由に歩き回ったので、エジプトの抱える問題点の一端でもつかめたかなという気もする。<br />今回のエジプト旅行で感じた最大の事項は、やはりエジプトの誇る古い文化遺産や、何千年もの昔の営みである。日本でもそうだが、欧米ではなにしろ、文明の発生はギリシャ文明のように言われていて、「古い文化遺産=ギリシャ・ローマの遺産」というのが定着している。しかし、たしかにエジプトの古い神殿の柱には、ギリシャの神殿の柱のように様式名が付けられていないが、より頑丈なものが作られている。最初に述べたアレクサンドロス大王がペルシャ征伐をしている有名なモザイク画がナポリの考古学博物館(もとは、ポンペイの遺跡から出てきた)にあるが、ほとんど同じような構図の絵が、エジプト古代の王が戦車に乗って、南のヌビア人(一時的に古代エジプトを支配していた民族で、現在でもエジプト内やスーダンに生活していて言語はあるものの文字を持たないらしい。サダト前大統領の母親はヌビア人だったという)や北のヒッタイト(やはり古代エジプトを一時的に支配していたヒクソクとともに、ユダヤ人の祖ともいわれている)を矢の先で倒している風景で描かれている。戦車の絵は、ラムセス2世関連のものが多いが、戦車そのものは、それ以前で、有名なツタンカーメン王の墓にも埋葬されていたので、このような風景は、アレクサンドロス大王よりも、1000年以上は古くエジプトでは絵にもなっていたことになる。なんだか、ギリシャ・ローマの文明は、エジプト文明の模倣のような気がした。もちろん、エジプトと同様の古さはメソポタミアにもあったであろうから、今の西欧文明の源泉は、このいずれかなのだろう。宗教でも、エジプトやメソポタミアの信仰とは違ったユダヤ教が現在の西欧文明の中心を担うことになるキリスト教の母体だが、ここで描かれる(旧約聖書の)洪水伝説はメソポタミアのギルガメッシュ神話によるとされているように、メソポタミアでの大氾濫がもとだろうと思われるが、ひょっとすると、ナイル川の度重なる大氾濫の影が見られると思っても不思議ではない。これも聖書で有名な「エデンの東」を流れていたという4つの大きな川のうちの2つはメソポタミア文明をもたらしたチグリス・ユーフラテスとされているが、他の2つの大河の一つをナイル川とする説があるのも当然だろう。さらに、古代のエジプト王国の王に後ろ手に縛られたり、槍の先で突かれている捕虜が、ヒッタイト人で、その末裔ともみなされているユダヤ人が、今はエジプト等のアラブ人を爆撃や砲火で追っているのも、異常な歴史を考えるには好都合だ。<br />エジプト旅行のガイドブックや案内では、よく「バクシーン」のことが掲載されている。チップに似ているが、富める人が貧乏な人に施しをするという意味だとある。イスラム独特の「喜捨」である。旅行記などでは、「バクシーン」をやたら悪者のように扱っている記事が多いが、私はそうは思わない。富者が貧者に喜捨すること自体は美しい風習だと思うからである。ツアーでは、ガイドが払っている場合もあるようだが、それでも気がつかないような面白いところを紹介してくれたりすると、いくらか「バクシーン」を…というのは人情だ。ただし、私たちはイスラムで言う富者とは程遠いので、本当は失礼なのかもしれない。「バクシーン」に関して、3件の強い印象があった。それらを列挙する。<br />①	ルクソール到着第1日にルクソール西岸観光で王家の谷へ行った。ツタンカーメンの墓は当然ながら、あとラムセス1世、3世、9世の墓に入った。ラムセス1世の墓で、汚らしい服装の人が近づいてきて、あれこれ話しかける。最初だったが、「これがガイドブックで読んだバクシーンだな」と思いながら話をする。王の印章に相当するカルトーシュのことなど細かく教えてくれるし、非常に面白かった。ポケットにあった1ポンド硬貨(日本円では17円くらい)を渡すと受け取らない。少なすぎるというのだろう。他に小額のものもなかったので、ここはそのままにした。これは悪かったなと思う。以後の感覚では、こういう場合に備えて、ポケットに1ドル紙幣(あるいは5ポンド紙幣)を入れておいて渡せるようにした。今でも、ラムセス1世の墓で、あの説明員に1ドル渡したいくらいに思っている。<br />②	カイロでツアーと別れて、オールドカイロを午前中散策し、午後にモスク、ナイロメータ、水道橋等と気楽に歩いた後に、「マニアル宮殿」に立ち寄った。人気がないと思ったら、現在は休館中とのこと。残念だなと思っていると、門の前に門番のようにして警官のような服装の男性が3人いる。その中の1人が寄ってきて、中を見たければ庭園だけだが、10分だけなら案内するという。悪くないので、案内してもらう。樹齢600年の大きなガジュマルなどがある。それで20分くらい案内してくれた。写真の撮影場所も教えてくれる。お前は日本人か、どこにとまっているか?等の質問。ここで、正直に宿泊先のホテル名を言ってしまう。もともとツアーでの宿泊ホテルを延泊しているので高価なホテルだ。彼も、そのホテルは立派で高価だという。ここで「バクシーン」になる。1ドルを渡そうと思うと、10ドルだという。おまけに、あとの2人にも10ドルくれという。あの2人はなにもしていないから関係ないといってもYESと言わない。結局は値切って5ドル。最初の1ドルは警官氏が握り締めたままだったので、結局は。ここで16ドルの喜捨をしたことになる。ホテル名を正直に言ったのが失敗だろう。もっとエコノミーなホテルだったら、最初の請求ももっと少なかったのかなと思う。これが「富者の貧者への喜捨」の本質のようだ。警官のような人まで「バクシーン」は聞いてはいたが、驚きではある。<br />③	「バクシーン」の「富者の貧者への喜捨」に関しては、最終日の午前中に、カイロタワーへ行ったときに感じたことがある。カイロ市内の中心部に、カイロタワーやオペラハウスあるいは高級ホテルなどがあるナイル川の中州であるゲジラ島がある。ホテルからは、この島へ歩いていく。カイロタワーは島の比較的南にある。島には緑が一杯で、砂漠色の他のカイロ市内とはまったく異なる。緑地帯の中には、ジョギングをする人、馬にまたがって悠然と進む人等々がちらりほらり見受けられる。しかし、この緑地帯は柵や壁で囲われていて中には入れない。1箇所開いた部分があったので、入れるかなと思ったら門番が数人いて、ここは会員制のスポーツクラブだから一般は入れないときた。会費はどうかはしらないが、カイロのど真ん中に広大な敷地を有する会員制スポーツクラブがあり、馬場やジョギング道路、陸上競技場、プール等々の施設が沢山並んでいる。それもごく限られた会員のためにだけである。こういう会員は、おそらく、とんでもない「富者」であって、彼らが「喜捨」するのは、なんの苦痛も感じないのだろう。「バクシーン」の本質はやはりこういう点にあるのだと痛感した。日本人でも、たしかにカイロの「富者」と変わらぬ、あるいはそれ以上の「富者」はいるだろう。ただし、通常のエジプト旅行の観光客は必ずしもそういう「富者」であるわけではないので、観光客に「バクシーン」をねだることもおかしいのかもしれない。しかし、観光旅行でのんびりエジプトを訪問する人は、「貧者」には分類されないので、「バクシーン」を支払う対象になっているとも言えなくもない。つくづく考えさせられるシステムだ。<br /><br />以上は、今回の旅行で強く印象付けられた点だが、以下に、順を追って本旅行記をまとめていこう。大筋は次のように構成されている。<br />・	ルクソールでのツアーとの出会いと古代エジプト王朝<br />・	アスワンからアプ・シンベルとコンヴォイ(convoy)<br />・	アスワンと寝台列車ナイルエキスプレス<br />・	ギザ到着と季節外れの砂嵐<br />・	考古学博物館とカイロの散策初日(ツアーを離れて)<br />・	カイロカイロ市内の散策、痛感する貧富の差<br />コンヴォイやナイルエキスプレスなど、最初に個人旅行を企画しても、十分にはガイドブックやインターネットで情報収集出来なかった点も詳しく記述する。<br /><br />2.	ルクソールでのツアーとの出会いと古代エジプト王朝<br /> 関空でツアーの窓口でチケットをもらう。参加者は我々二人だけだということで、これは個人旅行的だなと思ってカタール航空の機内へ。ドーハで乗り換えてルクソールへ。座席が3人がけだったが、横の席に、別の大手旅行会社のエジプト6日間というツアーの添乗員の女性が座られた。30人程度のツアーで、添乗員が忙しく動いておられた。「私は、こういう管理されたツアーは好きではないので」とことわるが、添乗員の方々の忙しさを十分に知ることができた。ルクソールの空港に着くと、私の属するツアーの旅行会社の旗を持ったエジプト人らしい男性がいる。ここで初めてわかったのは、今回は私たちを含めて、全員で6名のツアーとのことで、出発地が異なるので、旅行会社のツアーの番号が違う。そのため、関空では2名ツアーと間違われたようだ。ビザを購入して、現地通貨への両替をして入国審査までが、空港で旗を持っていた男性の役割。彼は英語で話していたが、空港を出たところに別のガイドの男性がいて、こちらは日本語と英語が話せる。このガイドが、カイロまで付き添ってくれるとのことだ。荷物も自分で運ぶ必要がなくて、移動に使う車に載せておくだけでいいので気楽なことだ。なお、両替のところで、いくつかの注意が必要なので、それらを列挙する。<br />・	ガイドブック等では、エジプトでは米ドルが使いやすいとあったので、最初は米ドルが基本だろうと思って、エジプトポンドへの両替はごく少しだけと思った。これは間違いで、後にホテルで何回か米ドルからエジプトポンドへの両替をした。<br />・	両替では100ドル単位でないとやってくれなかった。<br />・	両替所で、少額のエジプトポンド硬貨をもらわないと大変なことになる。これを知らずに、両替はエジプトポンドの紙幣が大半だった。空港内でトイレに立ち寄ろうとすると、上で述べた「バクシーン」である。1ポンドでいいのだが、どの紙幣が1ポンドかわからない。結局、10ポンド紙幣を渡すことになってしまった。<br /> 初日の午後は、ルクソールのナイル西岸観光で、王家の谷やハトシェプスト女王葬祭殿を見る。何度も色々のTV番組で見たことのある王家の谷に行く。沢山の王墓の中、著名度No.1のツタンカーメン王の墓と、あと3つの王墓に入れるチケットをもらう。そこで、ラムセス1世、3世、9世の墓に入り、また最初に記した「バクシーン」に出くわす。ツタンカーメンの墓は、他に比較するとずっと小規模で、現在はツタンカーメンのミイラがあることと埋葬室の壁の絵を見る程度だ。ここから出土した諸々の「財宝」は、カイロの考古学博物館の目玉になっている。ハトシェプスト女王葬祭殿は、紀元前1500年頃のものだが、立派な柱が林立している。そこにあった女王の像は、次の王の時代に多くが削られている。この柱(石柱)をみて、あとで、ナイル東岸のカルナック神殿やルクソール神殿の列柱室に残る石柱とともに思ったことは、これらに比較できるのは、おそらくギリシャのパルテノン神殿の柱くらいだろう。後者は、ドーリア式だとか各種の石柱の文化的意味が語られているが、エジプトのこれらの石柱が○○式ということもない。ただし、ギリシャに比較すると、はるかに古代のものである。そういう意味で、ツタンカーメン王墓から出土した「戦車」(考古学博物館)だとか、王家の谷の王墓の壁画のヒッタイトやヌビア人と敵対する古代のエジプト王の姿等からも、最初に述べたように、ギリシャ文明を崇拝してきた今の欧米中心の世界の文化の歴史に対する違和感を感じるには十分だった。ナイル東岸への戻りに、「メンノンの巨像」に立ち寄る。実際は、アメンホテプ3世と、その妻セティのもので、過去にはアメンホテプ3世の葬祭殿があったそうだ。しかし、この巨像から風によって、泣き声のような音が聞こえる。それが、トロイ戦争で敗れたメンノン王の母親の物悲しい泣き声を思わすので、メンノンの巨像と呼ぶようになったとガイドブックにはある。私たちのガイドのシェリフ君は、メンノンをこの地域に住んでいた若者として、彼が死亡して後の母親の悲しみに由来するといっていた。どちらが正しいのか不明だ。<br /> ホテルは、ナイル東岸で(西岸は「死者の町」だそうだ)、ルクソール神殿にも、新しいルクソール博物館にも近い。夕食後にツアーの計画には入っていない博物館に行こうかと思っていると、ガイドが、希望者はカルナック神殿の「音と光のショー」に行くことと、明日に博物館にも立ち寄るようにする、と言ってくれたので、「音と光のショー」の方を選択した。カルナック神殿で入り口に当たる第一塔門から映像と音声で古代エジプトの出来事が物語られる。ツタンカーメン王が非常に英雄視された構成だったが、実際はそうでもなかったらしいので、少しの違和感があった。我々が参加したのは、午後7時からのもので1時間半くらいで入り口へ戻ってくる。次のスタートのために多くの観光客がならんでいた。翌日は、王家の谷を気球に乗って見学するというオプショナルツアーがあったが、朝がとても早そうなので中止して、ホテルでのんびりしていた。丁度、部屋の窓から王家の谷が見渡せ、その上に気球が沢山浮いていた。<br /> ルクソール2日目の観光は、午前は、カルナック神殿、ルクソール神殿、ルクソール博物館である。両神殿は色々のガイドブック等でも詳細に記されているので大半は省略する。昔はナイル川がすぐ近く(今でも遠くはないが、岸辺に接してはいない)を流れていたので、石材等もナイル川から直接運ばれたとのことだ。特に、両神殿を結んでいたという道路が少しだけだが発掘されている。神殿間の距離は2~3キロとのことだが、この道路の両側にスフィンクスが沢山あったとのこと。現在見れるのは、両方の神殿近くの部分のみだが、こういう土木工事は、古代エジプトでも大変変進んでいたことを強く印象付ける。カルナック神殿の奥の方に、コプト教で使われていた場所が残っていて、きれいな壁画が一部だが見られる。ルクソール神殿の入り口に巨大なオベリスクが1本建っている。対になっていた片方は、現在はパリのコンコルド広場にある。パリでは何度もこのオベリスクを見たが、やはり、オベリスクはエジプトにあってこそだ。ちなみに、世界では30本強のオベリスクが残っているとのことだが、その中でエジプトにあるのは7本だという。イタリアには13本あるという。時の世界の強国が、うまくエジプト人をだまして自国に持ち帰ったのだろう。これは、オベリスクだけではないが…。ちなみに、フランスの場合は、1833年にルクソールからオベリスクがパリに到着したそうだが、その交換に、フランスがエジプトに提供したのは大型の時計だったとのこと。この時計は、今でもカイロ市内のイスラム寺院にあるが、もう壊れていて時を刻んではいない。数千年経ても観光客の視線にさらされ続けているオベリスクとは大きな違いだ。文明の利器は、実にはかないものだ。<br /> 次いで、ルクソール博物館に入る。こじんまりした博物館だが、展示は非常に洗練されている。ミイラもあれば、彫刻も、工芸品も、…とうまく陳列されている。後で述べるカイロの超目玉の考古学博物館とは大変違う。面白い展示も多かったので、出口にあったミュージアムショップをのぞいてみる。博物館の紹介パンフでも買おうかなと思っていると、若い担当者が出てきて、えらく立派な書類を薦める。そんな重いものはいらないというと、ミュージアムで作成した新しい本(英語版だけ)があるという、手ごろなので、あと1冊と計2冊を注文する。いくらかと尋ねると、電卓を持ち出して500ポンド(9千円くらい)だという。びっくりして、ドルではいくらかと聞くと、50ドルときた。なんの気なしに、こっちの方が現金ももっていたので支払ったが、よく考えると、これは4500円くらい。博物館のショップで値切り交渉とは思いつかなかったが、これなら、値切ればよかったと思ったのは後になってからだ。教訓として、エジプトでは値段を問うと、どんなに確かそうなところでも、高めに言ってくることだから、値切り交渉は必須になる。ついつい忘れるが。<br />昼食後、アスワンを目指して車で移動する。ナイル川や鉄道線路と平行しての道路を進む。途中で、有名な2つの神殿を訪問する。エドフのホルス神殿グレコローマン時代とコムオンボの神殿(アクロポリス)である。これらの神殿にも古いエジプトで伝えられていた話が書かれたりしていて面白いが、時代は、ずっと新しくなってグレコローマン時代。新しいといっても紀元前ではないというだけで、日本なら卑弥呼の国以前のものが多いが、それでもなんとなく「古い歴史のエジプト」という感じとは違ってくる。このグレコローマン時代のエジプトの支配者は、ギリシャ系のプトレマイオス王朝だ。アレクサンドロス大王の武将のプトレマイオスがまかされたのが今のエジプトの地域で、この王朝の最後が有名なクレオパトラだ。ところが、ガイドがいうには「バトラミューズ」で、「プトレマイオス」とは言わない。ギリシャ語では、Πτολεμα&#8150;οςと書くので、最初の「Π」の発音を英語(というか、そのもとのラテン語)的に「P」とするかどうかで変わってくるのだろう。こういう発音の違いは、外国ではよくおこるので、単にガイドの言うことを鵜呑みにするだけで下調べをしていないと、おかしなことを覚えるかもしれない。ルクソールからエドフやコムオンボへの道路には、ロバの姿が大変多い。また、小型の乗り合いバスのようなのが沢山走っているが、「乗客」は、車のドア等に片手で抱きつきながら気楽に走っている。アスワンのバスマホテル<br /><br />3.	アスワンからアプ・シンベルとコンヴォイ(convoy)<br /> 小舟に乗ってナイル川の島にあるイシス神殿。この神殿もアスワンハイダムの建設時に移設されたもの。ローマ皇帝のハドリアヌスが病気治療で来たとのこと。このハドリアヌスについても、「プトレマイオス」と同様の問題があった。ガイドは、「ローマ皇帝のタラジャンが病気治癒でアスワンにやってきて、それが完治したので…」と言っていた。誰だろうと思う。過去にローマ皇帝の名前で「タラジャン」なんて聞いたことがない。ガイドにその旨を伝えたが、絶対にタラジャンだという。こればかりはわからなかったが、ガイドブックには「ハドリアヌス」とあったので、あの有名な5賢帝の一人の14代ローマ皇帝であることには間違いない。帰国後に調べてみると、この皇帝の正式な名前は「プブリウス・アエリウス・トライヤヌス・ハドリアヌス」で、このうち、「プブリウス・アエリウス・ハドリアヌス」は父親も同じ(ハドリアヌスは家の名前)で、義父で13代皇帝のトライヤヌス帝の家の名前である「トライヤヌス(ラテン語でTrajanus)」が本人を特定することになる。「トライヤヌス」をエジプトでは「タラジャン」と発音していても、上のラテン語のスペルからおかしくはない。エジプトで、トライヤヌス帝をどういうのか聞きたかったが、これは日本からではどうにも仕方がない。このように、人名などの表現の違いは面白いし、かつ難しい話だ。このイシス神殿も色々面白いところがあって、彩色画のある小部屋に案内してくれる人がいて、恒例のバクシーンだったが価値はあった。また、ナイル川の水位をみるナイロメータもある。これはうろうろしていると、神殿の護衛兵のような2名が教えてくれた。親切である。「バクシーン」の必要があるのだが、残念ながら彼らが立っているところは、神殿の端の方でナイル川に突き出した場所で、こちらから行くのは危険なところで、彼らは持ち場を離れられないので、申し訳ないが「バクシーン」なしで楽しませてもらった。また小船でアスワンに戻る。<br />11時のコンヴォイに時間があるので、予定を変更して未完成のオベリスクを見る。ハトシェプスト女王の頃に切られたが、ひびが入って作業を進めなかったというもの。もし、これが完成していて、テーベ(今のルクソール)に建てられていたら、現在は、欧米諸国のどこかの大都市でしか姿を見れなかっただろう。<br /> 11時のコンヴォイで砂漠の中を進む。期待していたコンヴォイである。アスワンの出発地には20台以上の各種のバスや乗用車が集まってくる。それが順番に出発する。ガイドの話では、先頭と末尾に警察官が乗り込む特別な車両がいるか、または、先頭か末尾の大型バスに警察官が乗り込んでいて、出発地と到着地での車の台数を確認しているのだそうだ。アスワンを出ると、もう砂漠の中を道路が走っているだけ。2車線で、あまりよく手入れされた道路ではないので、車は道路の悪い部分をよけながら走る。もちろん、信号があるわけでもないので、えらい勢いでぶっ飛ばす。集団で行くのかと思ったが、前の車は見えないくらい遠方にいるし、同じコンヴォイに属する車が追い抜いていったりで、まるでカーチェイスである。途中で、逆方向(アプ・シンベルからアスワンへ)のコンヴォイに出会ったが、これも車間は大変に開いていた。砂漠の中には、ところどころに道の分岐があったり、集落や工場らしきところ分岐点がある。また、時々検問所があって、警察らしき人たちがチェックに出てくる。砂漠での面白い点は、暑い砂漠なので、最初は逃げ水のようなのが道路に見えていて、そのうちに左側や前方(東側と南側)に蜃気楼が見え出したことだ。まるで巨大な湖に木が生えていたり島があったりするように思えるが、そんなものはなくて、ただ熱砂の砂漠なのだ。この蜃気楼は珍しくて一軒の価値がある。また、道路の左右に黒く盛り上がった小さな丘が点在する箇所がある。これは、玄武岩による「黒砂漠」と呼ばれるもののようだ。こういう風景の中を3時間近く進む。スーダンの方向へ進む道との分岐点にくると、アプ・シンベルはもうすぐになる。ものすごく青い色の水が流れる運河のようなところがある。砂漠の砂の色と青い水の色の対比が、よけいにきれいに思わす。アプ・シンベルは小さな町で、神殿で有名なだけのところ。ラムセス2世によるこの神殿は、アスワンハイダム建設により、水没の危険から高所へ移設したことでも、とても有名でエジプトの観光名所のトップにもあがるところだ。外側は有名だが、内部も面白かった。ラムセス2世の時代の色々の出来事が壁画で書かれている。先にも述べたが、ヒッタイトやヌビア人の捕虜を戦車に乗ったラムセス2世が槍で刺している図などもふんだんに書かれている。ここでも「光と音のショー」を見る。観客は大半が日本人だった。ガイドの話では、朝日が昇る時間帯にも多くの観光客が神殿に来るが、それはほぼ全員といっていいほどが日本人で、夜はヨーロッパ人も多いと言っていた。北方のドイツ人などはエジプトの暖かさと太陽の光を求めてくるのだろう。このショーもにぎやかに映像と音楽と語り(日によって違うようだが、丁度日本語だった)で構成する。知っている話ばかりであまり感銘はしなかった。むしろ、街の明かりなど一切ない夜空にきらめく満天の星空をゆっくり眺めたかった。<br /><br />4.	アスワンと寝台列車ナイルエキスプレス<br /> 朝のアプ・シンベル神殿はいかずに、9時のコンヴォイでアスワンへ戻る。逆向きのコンヴォイも来るときと同じで、激しいカーチェイスだった。コンヴォイに入っている車では、詳しく車名など知らないが、トヨタの、ミニバンというのだろうか、10人弱が乗れるような車が多かった。来るときよりは時間帯も早くて砂漠が熱しきっていなかったのか、あまり規模は大きくはなかったが、また蜃気楼を楽しみながらアスワンへ。コンヴォイをおりて、アスワンハイダムを見学。巨大なダムだが、今では世界3位なのだそうだ。このダムの近くに、世界で最も細かい砂があるのだという。これは道端にあるので、金を払わずに持って帰ることが出来る。本当に細かくて気持ちのいい砂漠の砂だ。アスワンでは、舟でナイル川の中州でヌビア料理を食べる。このあと、ナイル川で有名な小さな帆船「ファルーカ」に乗ってヌビア人の村へ行く。護衛らしき数人がいて、軍用の大型の拳銃を肩からさげているのは、威圧感十分である。アスワンは、昔から香水で有名なところだとのことで、ツアーは香水の店に寄る。香水の香りだけ嗅ぐが、どれがどの香水かもわからない。アスワンの鉄道の駅には午後6時頃に到着する。あとは北行きだ。<br />6時45分発の「超豪華寝台列車」といわれる「ナイル・エクスプレス」の1等寝台車でギザへ向かう。どんなに素晴らしい列車かと思う。また、鉄道の旅はエジプトでは必須と教えられていたので楽しみにしていた。2段ベッドのあまり広くないコンパートメントが2人部屋。洗面用の台はあるが、少し狭い感じだ。夕食は…と思うと、これは飛行機の機内食を思わす弁当が出てきた。おいしいエジプト料理を予想していたので期待はずれ。飲み物はついていないので注文。ビール(中ビン)が40ポンド、ワインが100ポンドで、値段はまあこんなものかもしれない。ちなみに、カイロの5星ホテルでのビールは小ビンで45ポンド、市内のレストランでは中ビンで15ポンドだった。外は暮れて暗くなる。寝なければ、明日はギザで観光なので…と思う。ガイドの話で、明日の朝は、ギザ到着の1時間前くらいに、車掌というかウェイターが起こしに来てくれて、朝食を出してくれるということだ。ギザの到着時刻を尋ねるが教えてくれない。以前に、個人旅行を考えているとき調べた時刻表では、朝の6時半ころに到着するようになっていたので、朝は早く起こされることを覚悟する。寝ようと思っても、列車はよく揺れるし、なんだか実にのんびり進んでいる感じだ。どこか不明の駅に長々ととまっていたりする。おそらく中国人と思われる団体が途中の駅(おそらくルクソール)で乗り込んできて、大声で叫んでいる。コンパートメントだが、こういう声が通路側から聞こえてくる。あと、気になったのは、トイレがとても汚いことだ。経験のために、一度はこの「超豪華寝台列車」に乗るのはいいが、もう一度と言われると、お断りしたいと思った。<br /><br />5.	ギザ到着と季節外れの砂嵐<br /> 「これだけは絶対に!」と期待していた「超豪華寝台列車」の旅に少し失望。朝はもう日は昇っているが、まだ朝食で起こされもしない。到着予定と思っていた6時半を過ぎても、列車がノソノソ北上している。そのうちに、朝食が配られてきた。なんとパンが数個とジュース、それにジャムやバターとチーズが少しくらいだったかな?である。仕方なしに食べていると、車窓の西側に大きくはないがピラミッドらしきものも見える。そうこうしているとギザの駅に到着した。9時過ぎだったから、遅れはすくない方らしい。鉄道や路線バスでの移動は、どこの国でも日本ほど正確ではないが、エジプトのはすごい。そういえば、数年前にトルコでも似たようなめにあった。いずれにしてもギザだが、目の前に見えると思ったピラミッドが見えない。砂嵐なのだそうだ。砂嵐は通常は、3月以降とのことで、その時期のエジプト行きはやめた方がいいと、友人に教えられていたが、12月で砂嵐とは…。後に、有名な階段ピラミッドで、猛烈な砂嵐にあったときにガイドに聞くと、今の時期の砂嵐は、地球温暖化の影響だろうという。最初の予定では、3大ピラミッドやスフィンクスへまず行くようになっていたが、おそらく砂嵐の影響でだろうが、午前中は、古都メンフィス(古代の下エジプトの首都)でラムセス2世の巨像の見学からになった。メンフィスは、今は小さな公園とこの巨像(メンフィスのものは立ってはいなくて、横に倒れているのを眺めるもの。以前はカイロ市内にあったもう一つのラムセス2世の巨像は、そのうちにどこかの博物館で公開されるらしい。このあと、サッカーラへ行く。ここは、ピラミッドとして、最古のジュセル王の階段ピラミッドがある。上に述べたように、すごい砂嵐だ。新型インフルエンザ対策で日本から持ってきたマスクを、砂嵐対策ではじめて使う。本当は顔全部を覆いたいくらいで、数メートル先が見えないくらいである。耳の中にも細かい砂が容赦なく入り込む。ピラミッド近くに、その頃の大臣の墓があって、中に入る。いくつかの部屋があるので、砂嵐を避けられるだけでも墓の中は素晴らしいと感じた。もう一つ、ティティ王のピラミッドというのにも行ったが、これもただただ砂を浴びに行ったという感じだった。ここで昼食になる。ガイドは、3大ピラミッドなどは明日にして、今日の午後はカイロ市内と思ったようだが、ガイドの所属する国営の旅行会社からは、予定通りの指示が来たようだった。<br /> そのため、砂嵐の収まるのを期待しながら食事。これが見事で、クフ王の大ピラミッドに着いた頃には、驚くくらいに砂嵐はなかった。午前中が砂嵐のようだ。ギザのピラミッドの巨大さは非常に有名だし、内部の構造も色々のところで紹介されている。もちろん、すべてがわかっているわけでもなく、全体の数%がわかっているくらいだ。そも、建設目的すら完全に定まっているわけではない。ギリシャ時代にターレスが三角測量でピラミッドの高さを測定したらしいが、さて、どのあたりから測量したのかな?などと思ったりしながら歩き回る。3大ピラミッドのうち最大のクフ王のピラミッドの内部にも入るが、中の通路はかがんで歩く必要があったりで、歩きにくい。色々のしかけや通路らしきもの等があるようだが、そういうのは完全にわかるわけではない。あとは、いうなら観光コースで、他の2つのピラミッドとスフィンクスをまわる。スフィンクスのあたりでは、多くの子供たちが、写真やガイドブックその他を押し売りしようとしたり、金をせびったりしている。このあと、パピルスや宝石の土産物店をまわってカイロ市内のホテル(個人旅行では宿泊することはない5星のホテル)へ向かう。カイロ市内の道路は大変混雑していて、遅々として車は進まずという感じだった。今回のツアーのいいところは、ホテルにチェックインすると、あとは自由なこと。ツアーはこのホテルは1泊で帰国だが、私たちは、後2泊延泊する。日本からもホテルにメールして、部屋の移動をしなくて済むように同部屋確保を依頼していたが、フロントでも、もう一度あれこれ。まあ、延泊の方は、いつも外国旅行で使っている旅行業者へインターネット経由で申し込んだので、当然、ツアーのものとは扱いが違うのだろうが、ここはなんとか認めてもらって助かった。<br /><br />6.	考古学博物館とカイロの散策初日(ツアーを離れて)<br /> 朝は、ツアーの一行(2グループ4名の方々)は、部屋の前にバッグを出しておられたが、私たちは部屋はそのままで、チップだけを置いて出発。ホテルからはまず、イスラム地区のシタデルにあるムハンマドアリモスクに行く。これは高台にある大きなモスクで、中はなかなかきれいなステンドグラス等がある。このモスクに大きな、しかし、もう動かなくなった掛け時計がある。この時計が、すでに述べたが、フランスから送られたもので、ラムセス2世のオベリスクの見返りの時計だそうだ。エジプトは、イスラム教の国なので、カイロにも沢山の大きなモスクがある。それらを、ムハンマドアリモスクの外の庭から眺める。色々のものがある。ミナレットがあるのが一般だが、そういうのが見当たらないモスクもあるようだ。<br />このモスクに続いて、考古学博物館へ行く。有名なツタンカーメン王の黄金のマスク(相当前に日本にこのマスクがやってきて、どこかの博物館で見た覚えがあるので、“久しぶりの再開”だが)のある部屋その他で、ガイドの説明が40分ほどある。あとは、このツアーの特色で40分ほどの自由時間。このあとは、ツアーはバザールに寄ってから昼食をたべて空港に行くとのこと。そこで、ガイドに、考古学博物館はもっと見たいし、再入場するにはまた入場券代も必要だから、ここでお別れしたいという。残りの行事には参加しない旨の書類にサインして、楽しいガイドだったので、シェリフ君に少しだがチップを渡して別れる。なにかあったら、連絡してくれと携帯電話の番号を教えてくれた。もちろん、同行だった4名に方々にも挨拶をして、である。結局、考古学博物館は展示してあるものについては、十分に見て回った。軽い昼食も博物館に併設しているカフェでとる。この考古学博物館の展示品は、ツタンカーメンの王墓からの出土品(黄金のマスクは当然として、王墓でみたミイラ以外の石棺、戦車、埋葬されていた日用品等様々)のあるため、常に沢山の人が群がっている部屋が最も有名だが、その他も実に面白い。ただ、展示の方法がもう一つで、あまり見やすいとはいえない。もう少しすると、新しい大きな博物館に立て替えるのだそうで、そうなると展示もよくなるのかなと思う。結局、この日は終日考古学博物館にいたことになる。<br />ホテルに戻って夕食だが、ガイドブックに沢山のレストランが紹介してある。カイロに入ったときにガイドに聞くと、その中の一軒がいいと教えてくれた。地図ではホテルからもそう遠くない。そこには行ってみようと思っていた。ところが、このあとが大変である。ホテルを出るや否や、ものすごい交通量の車の流れの中に入る。歩道というのはあるにはあるが、えらく段差のある道で歩きにくいことこの上なし。スムーズには歩けない。しかも、道路を渡るときはもう一つすごくなる。横断歩道のマークはほとんどないし、あっても車は無視して走っている。そも、信号なんて普通は見当たらない。僅かな車の流れの合間を見つけて、手を上げて広い道の半分まで渡る。少し土が盛り上がっている(いうなら、「安全地帯」)。ここから、残りの半分をまた必死の思いで渡りきる。渡った先が、また段差ばかりの「歩道」だ。この歩道も歩きにくいので、結局は車道の端を歩くことになる。こういう状態は、先進国以外ではよく経験するが、大都市ではカイロのものは最も歩きにくい都市の一つだろう。やっとの思いで辿り着いたレストランは、地元に人らしい人や観光客も多くて賑わっていた。メニューにはビールもワインもあったので注文したが、今日はないという返事。これは残念だったが、料理はおいしく食べることが出来た。ビール等の問題は、翌日も同じレストランに行って解決した。イスラム教の特別の日が年に何日かあり、その前後数日がアルコール禁止になるので、その間は店では出さないとのこと。これにひっかかったということだ。<br /><br />7.	カイロ市内の散策、痛感する貧富の差<br /> ツアーと別れた次の日は、カイロ市内の散策で、オールドカイロに行った。カイロ市内の南の方にあり、市内から電車で行く。市内は地下鉄なので、地下鉄の駅までは遠くはないが、例の通り死に物狂いで歩かねばならない。日本出発前には、この日にアレクサンドリア往復しようかと思っていたが、やめて正解だった。日本で見ていた地図等では、ホテルと地下鉄のサダト駅はすぐ側だし、東京や大阪並みに地下鉄の本数も多いだろうし、エジプト国鉄のラムセス駅からはアレクサンドリア行きの列車が時刻表どおりに発車しているだろうし…と想定して、アレキサンドリア散策計画を立てていた。しかし、ホテルからサダト駅までもこんなに苦労するのだから、もしアレキサンドリア行きを実行していたらどうなったか怪しげなものだ。いずれにしても、今日も明日もカイロだ。地下鉄といっても、カイロの中心地を出ると地上に出る。数駅でオールドカイロの「マル・キルギス」駅に着く。<br />オールドカイロには、ユダヤ教のシナコーグ、キリスト教の教会(中でも、今のイスラエルから迫害を逃れて幼児時代のイエスを連れて一家が隠れ住んだというところ)、エジプトでの原始キリスト教の一派のコプト教関連の寺院や博物館、さらにイスラム教の寺院と多様な宗教が同居している。ものの本によれば、ユダヤ教やキリスト教(コプト教も含め)でいう唯一神のヤハウェ(ヤーヴェともエホバとも…発音するが)やエル(一般に神のことをいうヘブライ語とのこと)も、イスラム教で言う神のアラーも同一なのだそうだから、これらの宗教が同居していても不思議はない。現代では、キリスト教を信じる国々とイスラム教を信じる国々が激しい争いを展開している。もちろん、宗教的には近親憎悪的な側面があるように思える。一方、歴史的な民族間の争いも大きいように思う。古代の歴史では、アブラハム・イサク・ヤコブ以下のユダヤ人と、海から来たというペリシテ人(今日のパレスティナの人々の先祖)や北方のヒッタイト、あるいはエジプトをも征服していたヒクソス等の民族で代表される広い意味でのイスラム教を信じている民族との争いがあるように思える。こういうのと無関係な日本人まで色々な意味で、こういう争いに巻き込まれているのは不思議なことだ。コプト教の博物館は、観光客も少なかったが、非常に洗練されていて好感が持てたし、面白い展示品も多かった。幼児期のイエス一家(聖家族)が隠れたという聖セルギウス教会は、沢山の観光客や信者が集まっていた。この教会へ行く道がなんとも複雑で、表からは入り口が見つけにくい。ひょっと見ると、一段下の地下道的なところを人がぞろぞろ歩いている。この細い路地のような道に下りていくことになる。古いヨーロッパの街の通路を思わすようなところだが、土産物店などが並んでいる。そういうところを歩いていくと教会がある。道の曲がり角に護衛のような警官のようなのがいる。彼らが「ジャパニーズ?」とか「チャイニーズ?」とか聞いてくる。日本人だと知ると、すぐ言ってくるのが「ヤマモトヤマ」である。食べ物か相撲取りの名前かを聞くと、食べ物の方だと一様に答える。海苔のヤマモトヤマは、カイロでは宣伝費を払う必要はなさそうだ。さて、その聖セルギウス教会だが、イエス一家が隠れた洞窟というのは、この教会の奥の方の地下になっていて、そこまでは入れない。洞窟を上から見るだけである。こういうこともあって、オールドカイロには、キリスト教関連のものが多いが、特に、その一派のコプト教で見るべきものが多い。まあ、コプト教は、キリスト教の世界では異端ということで迫害されたのだろうが。<br />時間もあるので、ぶらぶらとカイロを散策することにした。オールドカイロから北上すると、エジプト最古のイスラム寺院という、ガーマ・アムルがある。建物は再建されて新しそうだが、ミナレットがない四角い寺院で、ぐるりとまわれる。どこからでも礼拝が出来るようになっている。靴をあずけて入る。途中で、礼拝の時間になったらしく、突然多数の人たちが拝みだした。このあたりの道は、カイロ市内よりは歩道的なところが、きっちりしていて、主に歩道を歩く。ただし、歩道が切れたところの段差が大きくて歩きにくいことは変わりない。地下鉄の駅を1つくらい歩くと、水道橋のあとがあるということなので、ぶらぶらと北上する。庶民の町という感じで、色々の店がある中を歩く。ツアーではこういう庶民の暮らしを見るような時間がないので、これが個人旅行のいいところだ。水道橋は大きなものが残っている。ローマ帝国が影響を及ぼした地域には、各所に水道橋があるが、よく考え、よく作ったものだ。今までなら、こういうので感激していたが、今回はエジプトでより古代の、しかも卓越した建築技術の一部を見たので、ローマ時代のものへの感慨が薄くなったことは事実だ。ここから、ナイル川の中洲であるローダ島へ行く。ここには、ナイロメータがあるという。地下鉄(このあたりでは地上を走っているが、便宜上こう書いておく)の駅近くの、橋は橋でも、あまり立派でない現代の跨線橋を越すと、実に賑やかだが狭い商店街に出る。肉や野菜、パンなどが所狭しとならんでいる。チェスのようなのに興じている人たちもいる。その中へ、荷物を積んだ小型の自動車が走ってくる等々だ。この喧騒の小道を通り抜け、通行量の多い道を例の調子で渡るとナイル川のほとりに出る。中州へは、橋がある。木橋の周囲を鉄で補強したような橋だ。この島には、エジプトを代表する音楽家だったかの関連の建物があって、そのためのオフィスらしきもの等がある。その先にナイロメータの建物もある。ここも、説明員がやってきて、鍵をあけてくれないと中には入れない。当然、チップかバクシーンである。ナイロメータは、この島の南の端近くにあるので、外に出て眺めたナイル川は、たしかに大河という感じだし、川のむこうの西の方に、ボヤとではあるがピラミッドらしき姿も薄っすらと見える。空がすっきりしていて砂嵐もなければきれいに見えるだろうにと思った。<br />この中州から、再び喧騒の商店街や跨線橋を超えて、北上する。ローダ島の少し北には、マニアル宮殿というのがあるということなので、そこを訪問することにする。行ってみると、入り口らしきところに警察官らしきのが3人いる。他にも入り口があるのかなと探したが見当たらない。そこで、この警官に尋ねると、宮殿は今は改修工事で、秋にならないと見れないという。これは残念と帰りかけると、彼が「庭だけなら、10分間に限って入ってもいい」という。それで、庭園だけでもと入る。一人の警官がついてきて、この木(熱帯特有のガジュマルのように思える)は600年の歴史があって、600本の幹に分れているのだとか説明してくれる。まあ、そうすごいことはないが、花なども各種あって面白かった。10分が20分くらい広い庭園を散策して、ぼつぼつ出口という時点で、警官氏が、どこのホテルに泊まっているのか?ここからは、1.のところで記した通りである。<br />あとは、ナイル川沿いの道を北上する。このあたりは、歩道も広くて、段差もなく実に歩きやすい。広い歩道の中には、それこそガジュマルのような木もあれば、休息用のベンチもある。周囲は、5星の高級ホテルがあったり、各国の大使館があったり、その他国際機関のオフィスがあったりする。カイロの中心地に近い一等地のようだ。ナイル川の各種のクルーズ船の乗り場もある。結局1日中カイロの南の方を歩き回っていたことになる。<br /> 今回のエジプト旅行の最終日は、午後にはカイロ空港に行かなくてはならない。通常なら1時間くらいらしいが、カイロ市内の交通混雑を考えると早めに行くことをガイドも進めていたし、ガイドブックにも書いてある。国内にいて出発前は、ホテル近くに空港へ行くバスの発着場があるので、そのバスを利用することを考えていたが、カイロに来ての道路の横断や段差のすごい歩道を考えて、こういう危なげな考えは止めにした。ホテルで、空港までのリムジンを予約する(リムジンといってもタクシーだ)。これは、午後なのと、ホテルでは、1時間で着くというので、午前中はホテルから遠くないカイロ市内を散策する。絶好の場所が、ホテルから近くのナイル川にあるゲジーラ島である。ここには、カイロタワーという観光名所もあれば、日本が建築に関与したというオペラハウスもある。今回も、このオペラハウスで、エジプトゆかりの「アイーダ」でもやっていれば、夜に楽しむつもりにしていたが、「ラ・ボエーム」が上演されているだけだったので、わざわざカイロで見なくてもと、オペラ観賞はやめにしたものだ。朝出発前に、ホテルの部屋の窓からピラミッドの方向を見ると、やはり砂嵐らしくて霞んでいてなんにも見えない。カイロタワーに登っても無理かな…と思いながら出発。カイロタワーを目指したが、このゲジーラ島というところも、イスラム陶器の博物館があったり、大使館や高級ホテルがある。これらは島の東側。西側は柵がしてあって入れない。中には、悠然と乗馬している人やジョギング中の人の姿も見れる。競技場のような大きな建物もある。門があって、また守衛にような人が数名いたので聞いてみると、この中は会員制なので、会員以外は入れないという。あとで、カイロタワーから見てみると、このゲジーラ島の大半が、カイロには珍しいくらいに緑に覆われていて、そこにサッカー等の球技が出来る競技場、陸上のトラックのある競技場、大きくて青い水をたたえたプール、その他色々の施設が緑の木々の間に見られる。これが、すべて会員のためにだけ提供されているのだ。こういう点では、日本にいては想像も出来ないような別扱いがあるようだ。これなら、富めるものが貧しいものに「バクシーン」するのが当然のように思えた。<br /> カイロタワーに登る(といっても、エレベータであがるだけ)と、展望フロアではカイロ市内がよく見える。ピラミッド方向は最初はよく見えなかった。下のフロアには喫茶店がある。ただし、30ポンド以上の注文をしないと入れないという看板が出ていた。ここで休憩して、もう一度展望フロアにあがると、予想通りにピラミッドが見え出した。砂嵐やガスで霞むのは朝のうちだけのようだ。っこで、カイロ市内を前景にピラミッドを眺めると(スフィンクスらしいのも見える)、「たしかにエジプトに来たな、カイロに来たな」という感じになる。その点では、眼下に見える、緑一杯の会員制クラブの広い敷地と、その側の道路を走る砂で汚れた車の対比も、バクシーンの意味を思わせ、エジプト的である。 <br />こうして、今回のエジプト旅行は、空港に行くだけとなる。途中の道路は、軍の施設も多く、新しい住宅地も広がる地域である。ナセルシティといって、古いカイロとは違って、ある意味では西欧的というかアメリカ的な感じである。リムジン(タクシー)は、ここを快適に走ってカイロ空港へたどり着く。空港は、大都市カイロのものとしては貧弱といえる。そう楽しむところもない。エジプト航空がスターアライアンスに加盟しているので、そのラウンジでもあるかと探したが見つからなかった。今回の便はカタール航空なので、そういうところとは別のターミナルなのかもしれない。<br /><br />8.	むすび<br />このようにして、今回のエジプト旅行は無事終了した。どこへ行っても感じることは、ガイドブックやTVの旅行番組と、実際の旅行では国や街の感じ方が大変違うことである。だから、旅行の楽しみもある。これは、旅行に限らず日常の事柄すべてに当てはまるのだろう。学校の教育でもそうで、あれこれと勉強したり学んだりすることが、世の中とかけ離れている場合が多くて、机の上では、とっても素晴らしいことが世の中では、常識だったら場合によったら数十年も昔の話だったりする。今回のカイロの街での歩道の段差や、命がけでしか渡れない道路のことなどは、どこにも書いていない。ゲジーラ島で広い面積を占める緑の地域である富者のためのスポーツクラブにしてもそうだ。これを体験すると、「バクシーン」のあり方もよくわかる。立派そうに言われている「ナイルエキスプレス号」の1等寝台車も、それほどではないことも体験できたし、コンボイというのが、集団警護の護送車両の一団であうことは確かだが、中身はまるでカーチェイスだということも体験できた。その途中で蜃気楼を見れたり。黒砂漠の一端を見ることも出来た。<br />ただ、帰国して友人たちに話したことの第一は「欧米文化に追いつけ、追い抜けでやっていた学術分野の第一線を退いて、定年後に行って良かった」ということである。ルクソールでもアプシンベルでもカイロの考古学博物館でも体験したから連想する。現在、私たちが接していて、いわゆる「世界の先進国」が享受している「先端文明」あるいは「文明社会」の基盤の代表は西欧文明あるいは欧米文明であるといっても良いだろう。その「文明」は、結局はギリシャ・ローマの文明を基礎にしていることは間違いない。極端にいうなら、現在の日本で「文明・文化」として感じるものは、明治維新での「文明開化」が強く残っていて、「西欧文明」を追い、第2次世界大戦での敗戦を契機に、これが「欧米文明」あるいは極論すると「米国文明」こそが、世界の先進文明であるとしてきたように思う。この種の文明の原点はなにかと考えると、ある意味ではキリスト教文明なんではなかろうか?私はクリスチャンでもなんでもない、いわゆる典型的な日本人の無宗教派だが、西暦紀元の年代表示が意味するよう、キリスト教が与えている影響は大変なものだ。そのキリスト教の生じたもとがユダヤ教で、イスラム教にしても、このあたりの流れは同一でマホメットの扱い以降が違っている。これらの宗教、特にキリスト教が迫害の後に公認され、世界宗教になったのがローマ帝国時代で、そのローマ帝国でギリシャ文明が尊敬されていたために、現在の世界の文明の源泉はギリシャ・ローマにあるように思っていたのだろう。この点が、今回のエジプトを見て、何回も述べるが「ギリシャ・ローマ文明は、古代エジプト文明の模倣にすぎない」と思えた。おそらく、メソポタミアを旅行しても同じように感じるのだろう。こういうエジプトやメソポタミアの文明(おそらく、そこには古代のインド文明や中国の文明も同じようなものだろうが)に蓋をしてきたのが、現在のキリスト教文明の世界なのではないかと思う。少なくとも、ギリシャ・ローマ文明は、より古いエジプトやメソポタミアの文明に強い影響を受けていることも間違いない。ギリシャ・ローマ文明以前の文明に蓋をしてきた「教室の知識」が、今までの私の活動も生活も支えてきていたのではなかろうか。その「影響の度合い」が、今回のエジプト行きで、想像を絶するものであったように思えてならない。例えば、エジプト行き以前には面白く読んだ、「世界の地名…」などという本も面白くなくなった。その種の書物に出てくるのは、地中海文明を始まりとして、せいぜい旧約聖書の記述と現在の地名とのつながりを書いているくらいだ。ジュゼルだ、クフだ、ハトシェプスト、トトメス、ラムセス、…等につながる地名はどこにも残っていない(ラムセスの名前くらいは、エジプト内の古い遺跡や、カイロ市内の地下鉄駅にはあるが)。ただ、こういう古代の王が支配した地域は非常に広かったのだ。こういうことを考えると、アクセク働く毎日の生活はなんなんだろうと思う。先端研究だ技術開発だという言葉がなになのかを考え直さなければならない。こういう疑問に「蓋をする」からこそ、毎日の生活が出来ているのかもしれない。エジプト学の研究者等は別だが、現役でバリバリ仕事をしている人が、たまの長期休暇の正月休みを利用して、エジプト旅行を考えられることは危険だと思った。毎日の仕事への情熱が失せてしまうかもしれない。ただ、それだけの意味を持つエジプト旅行は、一度は体験されることを薦める。欧米の旅行とは違った強烈な、なにかがある。ただし、足腰が強い間でなければ、あのカイロの道路を渡ったり、歩道を歩いたりは出来ない。<br />エジプト旅行を経験して、今後にエジプト旅行を考えられる方々の参考になりそうなことを、最後にまとめておく。

エジプトを訪ねて、今の文化を考える

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2009/12/11 - 2009/12/20

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PK_PKさん

1. 概略
人類文明の歴史をたどるなら、どうしても訪ねてみたい地域がエジプトとメソポタミアだ。しかしながら、後者は、湾岸戦争以来激動が続き、観光などの目的では訪問もできなくなった。その昔に、当時の軍事強国だったマケドニアのアレクサンドロス大王がメソポタミアからペルシャそしてインドの手前までを征服はしたけれど、安定した統治はできなかった。現在の世界の超大国のアメリカは、爆撃等々で地域を混乱には巻き込んでいるが、征服も統治もできていない。おそらく、貴重な歴史遺産が日々失われたり破壊されたりしているのだろうと思うとなさけなくなる。
その点、エジプトも色々の経緯はあったものの、幸いに紀元前5000年くらいの大昔の建造物その他を楽しむことができる。そこで、エジプト観光のベストシーズンと教えられた12月~2月の間の12月にエジプトを初めて訪れることにした。最初は、完全な個人旅行(若いつもりだが、外国では乗り物の座席をゆずられることが多い夫婦2人だけの旅行)を想定し、色々調べたし、「フォートラベル」を通じてアドバイスをいただいたりした。カイロ市内はいいが、古都テーベ(現在のルクソール)から南の上エジプトを旅しようとすると、個人旅行では難しそうだとわかってきた。寝台列車の旅もしてみたかったし、アスワン以南でのコンボイ(convoy:護送船団・護送車両縦隊)も経験してみたかった。そこで、各社のツアーを探すことにした。パッケージツアーなどへの参加は、30年以上前にシベリアに行ったとき以来だ。しかし、カイロの考古学博物館はゆっくり見たかったので、ツアーでは不十分だった。カイロでの延泊を許すツアーをなんとか探し出した。さらに、一般のツアーは20名以上とかで出発だったので、これも「2名以上」のものにすると、選択肢はほとんどなかった。結局、関空→カタール航空(ドーハ乗り継ぎ)→ルクソール(泊)→アスワン(泊)→アプ・シンベル(泊)→アスワン→「ナイル・エクスプレス(寝台車)」(泊)→ギザ→カイロ(泊)と進んで、カイロで2泊延泊し、カタール航空によってドーハ経由で関空に戻ることになった。ルクソールから、カイロの最初のところまでは、日本語を話せる現地ガイドが付く。結果として、このツアー(大手旅行会社)の選択は悪くなかった。おそらく、現地事情に相当詳しくないと、完全な個人旅行で、上のような日程をこなすのは至難の業だと思う。また、カイロ市内をツアーと離れて個人旅行的に自由に歩き回ったので、エジプトの抱える問題点の一端でもつかめたかなという気もする。
今回のエジプト旅行で感じた最大の事項は、やはりエジプトの誇る古い文化遺産や、何千年もの昔の営みである。日本でもそうだが、欧米ではなにしろ、文明の発生はギリシャ文明のように言われていて、「古い文化遺産=ギリシャ・ローマの遺産」というのが定着している。しかし、たしかにエジプトの古い神殿の柱には、ギリシャの神殿の柱のように様式名が付けられていないが、より頑丈なものが作られている。最初に述べたアレクサンドロス大王がペルシャ征伐をしている有名なモザイク画がナポリの考古学博物館(もとは、ポンペイの遺跡から出てきた)にあるが、ほとんど同じような構図の絵が、エジプト古代の王が戦車に乗って、南のヌビア人(一時的に古代エジプトを支配していた民族で、現在でもエジプト内やスーダンに生活していて言語はあるものの文字を持たないらしい。サダト前大統領の母親はヌビア人だったという)や北のヒッタイト(やはり古代エジプトを一時的に支配していたヒクソクとともに、ユダヤ人の祖ともいわれている)を矢の先で倒している風景で描かれている。戦車の絵は、ラムセス2世関連のものが多いが、戦車そのものは、それ以前で、有名なツタンカーメン王の墓にも埋葬されていたので、このような風景は、アレクサンドロス大王よりも、1000年以上は古くエジプトでは絵にもなっていたことになる。なんだか、ギリシャ・ローマの文明は、エジプト文明の模倣のような気がした。もちろん、エジプトと同様の古さはメソポタミアにもあったであろうから、今の西欧文明の源泉は、このいずれかなのだろう。宗教でも、エジプトやメソポタミアの信仰とは違ったユダヤ教が現在の西欧文明の中心を担うことになるキリスト教の母体だが、ここで描かれる(旧約聖書の)洪水伝説はメソポタミアのギルガメッシュ神話によるとされているように、メソポタミアでの大氾濫がもとだろうと思われるが、ひょっとすると、ナイル川の度重なる大氾濫の影が見られると思っても不思議ではない。これも聖書で有名な「エデンの東」を流れていたという4つの大きな川のうちの2つはメソポタミア文明をもたらしたチグリス・ユーフラテスとされているが、他の2つの大河の一つをナイル川とする説があるのも当然だろう。さらに、古代のエジプト王国の王に後ろ手に縛られたり、槍の先で突かれている捕虜が、ヒッタイト人で、その末裔ともみなされているユダヤ人が、今はエジプト等のアラブ人を爆撃や砲火で追っているのも、異常な歴史を考えるには好都合だ。
エジプト旅行のガイドブックや案内では、よく「バクシーン」のことが掲載されている。チップに似ているが、富める人が貧乏な人に施しをするという意味だとある。イスラム独特の「喜捨」である。旅行記などでは、「バクシーン」をやたら悪者のように扱っている記事が多いが、私はそうは思わない。富者が貧者に喜捨すること自体は美しい風習だと思うからである。ツアーでは、ガイドが払っている場合もあるようだが、それでも気がつかないような面白いところを紹介してくれたりすると、いくらか「バクシーン」を…というのは人情だ。ただし、私たちはイスラムで言う富者とは程遠いので、本当は失礼なのかもしれない。「バクシーン」に関して、3件の強い印象があった。それらを列挙する。
① ルクソール到着第1日にルクソール西岸観光で王家の谷へ行った。ツタンカーメンの墓は当然ながら、あとラムセス1世、3世、9世の墓に入った。ラムセス1世の墓で、汚らしい服装の人が近づいてきて、あれこれ話しかける。最初だったが、「これがガイドブックで読んだバクシーンだな」と思いながら話をする。王の印章に相当するカルトーシュのことなど細かく教えてくれるし、非常に面白かった。ポケットにあった1ポンド硬貨(日本円では17円くらい)を渡すと受け取らない。少なすぎるというのだろう。他に小額のものもなかったので、ここはそのままにした。これは悪かったなと思う。以後の感覚では、こういう場合に備えて、ポケットに1ドル紙幣(あるいは5ポンド紙幣)を入れておいて渡せるようにした。今でも、ラムセス1世の墓で、あの説明員に1ドル渡したいくらいに思っている。
② カイロでツアーと別れて、オールドカイロを午前中散策し、午後にモスク、ナイロメータ、水道橋等と気楽に歩いた後に、「マニアル宮殿」に立ち寄った。人気がないと思ったら、現在は休館中とのこと。残念だなと思っていると、門の前に門番のようにして警官のような服装の男性が3人いる。その中の1人が寄ってきて、中を見たければ庭園だけだが、10分だけなら案内するという。悪くないので、案内してもらう。樹齢600年の大きなガジュマルなどがある。それで20分くらい案内してくれた。写真の撮影場所も教えてくれる。お前は日本人か、どこにとまっているか?等の質問。ここで、正直に宿泊先のホテル名を言ってしまう。もともとツアーでの宿泊ホテルを延泊しているので高価なホテルだ。彼も、そのホテルは立派で高価だという。ここで「バクシーン」になる。1ドルを渡そうと思うと、10ドルだという。おまけに、あとの2人にも10ドルくれという。あの2人はなにもしていないから関係ないといってもYESと言わない。結局は値切って5ドル。最初の1ドルは警官氏が握り締めたままだったので、結局は。ここで16ドルの喜捨をしたことになる。ホテル名を正直に言ったのが失敗だろう。もっとエコノミーなホテルだったら、最初の請求ももっと少なかったのかなと思う。これが「富者の貧者への喜捨」の本質のようだ。警官のような人まで「バクシーン」は聞いてはいたが、驚きではある。
③ 「バクシーン」の「富者の貧者への喜捨」に関しては、最終日の午前中に、カイロタワーへ行ったときに感じたことがある。カイロ市内の中心部に、カイロタワーやオペラハウスあるいは高級ホテルなどがあるナイル川の中州であるゲジラ島がある。ホテルからは、この島へ歩いていく。カイロタワーは島の比較的南にある。島には緑が一杯で、砂漠色の他のカイロ市内とはまったく異なる。緑地帯の中には、ジョギングをする人、馬にまたがって悠然と進む人等々がちらりほらり見受けられる。しかし、この緑地帯は柵や壁で囲われていて中には入れない。1箇所開いた部分があったので、入れるかなと思ったら門番が数人いて、ここは会員制のスポーツクラブだから一般は入れないときた。会費はどうかはしらないが、カイロのど真ん中に広大な敷地を有する会員制スポーツクラブがあり、馬場やジョギング道路、陸上競技場、プール等々の施設が沢山並んでいる。それもごく限られた会員のためにだけである。こういう会員は、おそらく、とんでもない「富者」であって、彼らが「喜捨」するのは、なんの苦痛も感じないのだろう。「バクシーン」の本質はやはりこういう点にあるのだと痛感した。日本人でも、たしかにカイロの「富者」と変わらぬ、あるいはそれ以上の「富者」はいるだろう。ただし、通常のエジプト旅行の観光客は必ずしもそういう「富者」であるわけではないので、観光客に「バクシーン」をねだることもおかしいのかもしれない。しかし、観光旅行でのんびりエジプトを訪問する人は、「貧者」には分類されないので、「バクシーン」を支払う対象になっているとも言えなくもない。つくづく考えさせられるシステムだ。

以上は、今回の旅行で強く印象付けられた点だが、以下に、順を追って本旅行記をまとめていこう。大筋は次のように構成されている。
・ ルクソールでのツアーとの出会いと古代エジプト王朝
・ アスワンからアプ・シンベルとコンヴォイ(convoy)
・ アスワンと寝台列車ナイルエキスプレス
・ ギザ到着と季節外れの砂嵐
・ 考古学博物館とカイロの散策初日(ツアーを離れて)
・ カイロカイロ市内の散策、痛感する貧富の差
コンヴォイやナイルエキスプレスなど、最初に個人旅行を企画しても、十分にはガイドブックやインターネットで情報収集出来なかった点も詳しく記述する。

2. ルクソールでのツアーとの出会いと古代エジプト王朝
 関空でツアーの窓口でチケットをもらう。参加者は我々二人だけだということで、これは個人旅行的だなと思ってカタール航空の機内へ。ドーハで乗り換えてルクソールへ。座席が3人がけだったが、横の席に、別の大手旅行会社のエジプト6日間というツアーの添乗員の女性が座られた。30人程度のツアーで、添乗員が忙しく動いておられた。「私は、こういう管理されたツアーは好きではないので」とことわるが、添乗員の方々の忙しさを十分に知ることができた。ルクソールの空港に着くと、私の属するツアーの旅行会社の旗を持ったエジプト人らしい男性がいる。ここで初めてわかったのは、今回は私たちを含めて、全員で6名のツアーとのことで、出発地が異なるので、旅行会社のツアーの番号が違う。そのため、関空では2名ツアーと間違われたようだ。ビザを購入して、現地通貨への両替をして入国審査までが、空港で旗を持っていた男性の役割。彼は英語で話していたが、空港を出たところに別のガイドの男性がいて、こちらは日本語と英語が話せる。このガイドが、カイロまで付き添ってくれるとのことだ。荷物も自分で運ぶ必要がなくて、移動に使う車に載せておくだけでいいので気楽なことだ。なお、両替のところで、いくつかの注意が必要なので、それらを列挙する。
・ ガイドブック等では、エジプトでは米ドルが使いやすいとあったので、最初は米ドルが基本だろうと思って、エジプトポンドへの両替はごく少しだけと思った。これは間違いで、後にホテルで何回か米ドルからエジプトポンドへの両替をした。
・ 両替では100ドル単位でないとやってくれなかった。
・ 両替所で、少額のエジプトポンド硬貨をもらわないと大変なことになる。これを知らずに、両替はエジプトポンドの紙幣が大半だった。空港内でトイレに立ち寄ろうとすると、上で述べた「バクシーン」である。1ポンドでいいのだが、どの紙幣が1ポンドかわからない。結局、10ポンド紙幣を渡すことになってしまった。
 初日の午後は、ルクソールのナイル西岸観光で、王家の谷やハトシェプスト女王葬祭殿を見る。何度も色々のTV番組で見たことのある王家の谷に行く。沢山の王墓の中、著名度No.1のツタンカーメン王の墓と、あと3つの王墓に入れるチケットをもらう。そこで、ラムセス1世、3世、9世の墓に入り、また最初に記した「バクシーン」に出くわす。ツタンカーメンの墓は、他に比較するとずっと小規模で、現在はツタンカーメンのミイラがあることと埋葬室の壁の絵を見る程度だ。ここから出土した諸々の「財宝」は、カイロの考古学博物館の目玉になっている。ハトシェプスト女王葬祭殿は、紀元前1500年頃のものだが、立派な柱が林立している。そこにあった女王の像は、次の王の時代に多くが削られている。この柱(石柱)をみて、あとで、ナイル東岸のカルナック神殿やルクソール神殿の列柱室に残る石柱とともに思ったことは、これらに比較できるのは、おそらくギリシャのパルテノン神殿の柱くらいだろう。後者は、ドーリア式だとか各種の石柱の文化的意味が語られているが、エジプトのこれらの石柱が○○式ということもない。ただし、ギリシャに比較すると、はるかに古代のものである。そういう意味で、ツタンカーメン王墓から出土した「戦車」(考古学博物館)だとか、王家の谷の王墓の壁画のヒッタイトやヌビア人と敵対する古代のエジプト王の姿等からも、最初に述べたように、ギリシャ文明を崇拝してきた今の欧米中心の世界の文化の歴史に対する違和感を感じるには十分だった。ナイル東岸への戻りに、「メンノンの巨像」に立ち寄る。実際は、アメンホテプ3世と、その妻セティのもので、過去にはアメンホテプ3世の葬祭殿があったそうだ。しかし、この巨像から風によって、泣き声のような音が聞こえる。それが、トロイ戦争で敗れたメンノン王の母親の物悲しい泣き声を思わすので、メンノンの巨像と呼ぶようになったとガイドブックにはある。私たちのガイドのシェリフ君は、メンノンをこの地域に住んでいた若者として、彼が死亡して後の母親の悲しみに由来するといっていた。どちらが正しいのか不明だ。
 ホテルは、ナイル東岸で(西岸は「死者の町」だそうだ)、ルクソール神殿にも、新しいルクソール博物館にも近い。夕食後にツアーの計画には入っていない博物館に行こうかと思っていると、ガイドが、希望者はカルナック神殿の「音と光のショー」に行くことと、明日に博物館にも立ち寄るようにする、と言ってくれたので、「音と光のショー」の方を選択した。カルナック神殿で入り口に当たる第一塔門から映像と音声で古代エジプトの出来事が物語られる。ツタンカーメン王が非常に英雄視された構成だったが、実際はそうでもなかったらしいので、少しの違和感があった。我々が参加したのは、午後7時からのもので1時間半くらいで入り口へ戻ってくる。次のスタートのために多くの観光客がならんでいた。翌日は、王家の谷を気球に乗って見学するというオプショナルツアーがあったが、朝がとても早そうなので中止して、ホテルでのんびりしていた。丁度、部屋の窓から王家の谷が見渡せ、その上に気球が沢山浮いていた。
 ルクソール2日目の観光は、午前は、カルナック神殿、ルクソール神殿、ルクソール博物館である。両神殿は色々のガイドブック等でも詳細に記されているので大半は省略する。昔はナイル川がすぐ近く(今でも遠くはないが、岸辺に接してはいない)を流れていたので、石材等もナイル川から直接運ばれたとのことだ。特に、両神殿を結んでいたという道路が少しだけだが発掘されている。神殿間の距離は2~3キロとのことだが、この道路の両側にスフィンクスが沢山あったとのこと。現在見れるのは、両方の神殿近くの部分のみだが、こういう土木工事は、古代エジプトでも大変変進んでいたことを強く印象付ける。カルナック神殿の奥の方に、コプト教で使われていた場所が残っていて、きれいな壁画が一部だが見られる。ルクソール神殿の入り口に巨大なオベリスクが1本建っている。対になっていた片方は、現在はパリのコンコルド広場にある。パリでは何度もこのオベリスクを見たが、やはり、オベリスクはエジプトにあってこそだ。ちなみに、世界では30本強のオベリスクが残っているとのことだが、その中でエジプトにあるのは7本だという。イタリアには13本あるという。時の世界の強国が、うまくエジプト人をだまして自国に持ち帰ったのだろう。これは、オベリスクだけではないが…。ちなみに、フランスの場合は、1833年にルクソールからオベリスクがパリに到着したそうだが、その交換に、フランスがエジプトに提供したのは大型の時計だったとのこと。この時計は、今でもカイロ市内のイスラム寺院にあるが、もう壊れていて時を刻んではいない。数千年経ても観光客の視線にさらされ続けているオベリスクとは大きな違いだ。文明の利器は、実にはかないものだ。
 次いで、ルクソール博物館に入る。こじんまりした博物館だが、展示は非常に洗練されている。ミイラもあれば、彫刻も、工芸品も、…とうまく陳列されている。後で述べるカイロの超目玉の考古学博物館とは大変違う。面白い展示も多かったので、出口にあったミュージアムショップをのぞいてみる。博物館の紹介パンフでも買おうかなと思っていると、若い担当者が出てきて、えらく立派な書類を薦める。そんな重いものはいらないというと、ミュージアムで作成した新しい本(英語版だけ)があるという、手ごろなので、あと1冊と計2冊を注文する。いくらかと尋ねると、電卓を持ち出して500ポンド(9千円くらい)だという。びっくりして、ドルではいくらかと聞くと、50ドルときた。なんの気なしに、こっちの方が現金ももっていたので支払ったが、よく考えると、これは4500円くらい。博物館のショップで値切り交渉とは思いつかなかったが、これなら、値切ればよかったと思ったのは後になってからだ。教訓として、エジプトでは値段を問うと、どんなに確かそうなところでも、高めに言ってくることだから、値切り交渉は必須になる。ついつい忘れるが。
昼食後、アスワンを目指して車で移動する。ナイル川や鉄道線路と平行しての道路を進む。途中で、有名な2つの神殿を訪問する。エドフのホルス神殿グレコローマン時代とコムオンボの神殿(アクロポリス)である。これらの神殿にも古いエジプトで伝えられていた話が書かれたりしていて面白いが、時代は、ずっと新しくなってグレコローマン時代。新しいといっても紀元前ではないというだけで、日本なら卑弥呼の国以前のものが多いが、それでもなんとなく「古い歴史のエジプト」という感じとは違ってくる。このグレコローマン時代のエジプトの支配者は、ギリシャ系のプトレマイオス王朝だ。アレクサンドロス大王の武将のプトレマイオスがまかされたのが今のエジプトの地域で、この王朝の最後が有名なクレオパトラだ。ところが、ガイドがいうには「バトラミューズ」で、「プトレマイオス」とは言わない。ギリシャ語では、Πτολεμαῖοςと書くので、最初の「Π」の発音を英語(というか、そのもとのラテン語)的に「P」とするかどうかで変わってくるのだろう。こういう発音の違いは、外国ではよくおこるので、単にガイドの言うことを鵜呑みにするだけで下調べをしていないと、おかしなことを覚えるかもしれない。ルクソールからエドフやコムオンボへの道路には、ロバの姿が大変多い。また、小型の乗り合いバスのようなのが沢山走っているが、「乗客」は、車のドア等に片手で抱きつきながら気楽に走っている。アスワンのバスマホテル

3. アスワンからアプ・シンベルとコンヴォイ(convoy)
 小舟に乗ってナイル川の島にあるイシス神殿。この神殿もアスワンハイダムの建設時に移設されたもの。ローマ皇帝のハドリアヌスが病気治療で来たとのこと。このハドリアヌスについても、「プトレマイオス」と同様の問題があった。ガイドは、「ローマ皇帝のタラジャンが病気治癒でアスワンにやってきて、それが完治したので…」と言っていた。誰だろうと思う。過去にローマ皇帝の名前で「タラジャン」なんて聞いたことがない。ガイドにその旨を伝えたが、絶対にタラジャンだという。こればかりはわからなかったが、ガイドブックには「ハドリアヌス」とあったので、あの有名な5賢帝の一人の14代ローマ皇帝であることには間違いない。帰国後に調べてみると、この皇帝の正式な名前は「プブリウス・アエリウス・トライヤヌス・ハドリアヌス」で、このうち、「プブリウス・アエリウス・ハドリアヌス」は父親も同じ(ハドリアヌスは家の名前)で、義父で13代皇帝のトライヤヌス帝の家の名前である「トライヤヌス(ラテン語でTrajanus)」が本人を特定することになる。「トライヤヌス」をエジプトでは「タラジャン」と発音していても、上のラテン語のスペルからおかしくはない。エジプトで、トライヤヌス帝をどういうのか聞きたかったが、これは日本からではどうにも仕方がない。このように、人名などの表現の違いは面白いし、かつ難しい話だ。このイシス神殿も色々面白いところがあって、彩色画のある小部屋に案内してくれる人がいて、恒例のバクシーンだったが価値はあった。また、ナイル川の水位をみるナイロメータもある。これはうろうろしていると、神殿の護衛兵のような2名が教えてくれた。親切である。「バクシーン」の必要があるのだが、残念ながら彼らが立っているところは、神殿の端の方でナイル川に突き出した場所で、こちらから行くのは危険なところで、彼らは持ち場を離れられないので、申し訳ないが「バクシーン」なしで楽しませてもらった。また小船でアスワンに戻る。
11時のコンヴォイに時間があるので、予定を変更して未完成のオベリスクを見る。ハトシェプスト女王の頃に切られたが、ひびが入って作業を進めなかったというもの。もし、これが完成していて、テーベ(今のルクソール)に建てられていたら、現在は、欧米諸国のどこかの大都市でしか姿を見れなかっただろう。
 11時のコンヴォイで砂漠の中を進む。期待していたコンヴォイである。アスワンの出発地には20台以上の各種のバスや乗用車が集まってくる。それが順番に出発する。ガイドの話では、先頭と末尾に警察官が乗り込む特別な車両がいるか、または、先頭か末尾の大型バスに警察官が乗り込んでいて、出発地と到着地での車の台数を確認しているのだそうだ。アスワンを出ると、もう砂漠の中を道路が走っているだけ。2車線で、あまりよく手入れされた道路ではないので、車は道路の悪い部分をよけながら走る。もちろん、信号があるわけでもないので、えらい勢いでぶっ飛ばす。集団で行くのかと思ったが、前の車は見えないくらい遠方にいるし、同じコンヴォイに属する車が追い抜いていったりで、まるでカーチェイスである。途中で、逆方向(アプ・シンベルからアスワンへ)のコンヴォイに出会ったが、これも車間は大変に開いていた。砂漠の中には、ところどころに道の分岐があったり、集落や工場らしきところ分岐点がある。また、時々検問所があって、警察らしき人たちがチェックに出てくる。砂漠での面白い点は、暑い砂漠なので、最初は逃げ水のようなのが道路に見えていて、そのうちに左側や前方(東側と南側)に蜃気楼が見え出したことだ。まるで巨大な湖に木が生えていたり島があったりするように思えるが、そんなものはなくて、ただ熱砂の砂漠なのだ。この蜃気楼は珍しくて一軒の価値がある。また、道路の左右に黒く盛り上がった小さな丘が点在する箇所がある。これは、玄武岩による「黒砂漠」と呼ばれるもののようだ。こういう風景の中を3時間近く進む。スーダンの方向へ進む道との分岐点にくると、アプ・シンベルはもうすぐになる。ものすごく青い色の水が流れる運河のようなところがある。砂漠の砂の色と青い水の色の対比が、よけいにきれいに思わす。アプ・シンベルは小さな町で、神殿で有名なだけのところ。ラムセス2世によるこの神殿は、アスワンハイダム建設により、水没の危険から高所へ移設したことでも、とても有名でエジプトの観光名所のトップにもあがるところだ。外側は有名だが、内部も面白かった。ラムセス2世の時代の色々の出来事が壁画で書かれている。先にも述べたが、ヒッタイトやヌビア人の捕虜を戦車に乗ったラムセス2世が槍で刺している図などもふんだんに書かれている。ここでも「光と音のショー」を見る。観客は大半が日本人だった。ガイドの話では、朝日が昇る時間帯にも多くの観光客が神殿に来るが、それはほぼ全員といっていいほどが日本人で、夜はヨーロッパ人も多いと言っていた。北方のドイツ人などはエジプトの暖かさと太陽の光を求めてくるのだろう。このショーもにぎやかに映像と音楽と語り(日によって違うようだが、丁度日本語だった)で構成する。知っている話ばかりであまり感銘はしなかった。むしろ、街の明かりなど一切ない夜空にきらめく満天の星空をゆっくり眺めたかった。

4. アスワンと寝台列車ナイルエキスプレス
 朝のアプ・シンベル神殿はいかずに、9時のコンヴォイでアスワンへ戻る。逆向きのコンヴォイも来るときと同じで、激しいカーチェイスだった。コンヴォイに入っている車では、詳しく車名など知らないが、トヨタの、ミニバンというのだろうか、10人弱が乗れるような車が多かった。来るときよりは時間帯も早くて砂漠が熱しきっていなかったのか、あまり規模は大きくはなかったが、また蜃気楼を楽しみながらアスワンへ。コンヴォイをおりて、アスワンハイダムを見学。巨大なダムだが、今では世界3位なのだそうだ。このダムの近くに、世界で最も細かい砂があるのだという。これは道端にあるので、金を払わずに持って帰ることが出来る。本当に細かくて気持ちのいい砂漠の砂だ。アスワンでは、舟でナイル川の中州でヌビア料理を食べる。このあと、ナイル川で有名な小さな帆船「ファルーカ」に乗ってヌビア人の村へ行く。護衛らしき数人がいて、軍用の大型の拳銃を肩からさげているのは、威圧感十分である。アスワンは、昔から香水で有名なところだとのことで、ツアーは香水の店に寄る。香水の香りだけ嗅ぐが、どれがどの香水かもわからない。アスワンの鉄道の駅には午後6時頃に到着する。あとは北行きだ。
6時45分発の「超豪華寝台列車」といわれる「ナイル・エクスプレス」の1等寝台車でギザへ向かう。どんなに素晴らしい列車かと思う。また、鉄道の旅はエジプトでは必須と教えられていたので楽しみにしていた。2段ベッドのあまり広くないコンパートメントが2人部屋。洗面用の台はあるが、少し狭い感じだ。夕食は…と思うと、これは飛行機の機内食を思わす弁当が出てきた。おいしいエジプト料理を予想していたので期待はずれ。飲み物はついていないので注文。ビール(中ビン)が40ポンド、ワインが100ポンドで、値段はまあこんなものかもしれない。ちなみに、カイロの5星ホテルでのビールは小ビンで45ポンド、市内のレストランでは中ビンで15ポンドだった。外は暮れて暗くなる。寝なければ、明日はギザで観光なので…と思う。ガイドの話で、明日の朝は、ギザ到着の1時間前くらいに、車掌というかウェイターが起こしに来てくれて、朝食を出してくれるということだ。ギザの到着時刻を尋ねるが教えてくれない。以前に、個人旅行を考えているとき調べた時刻表では、朝の6時半ころに到着するようになっていたので、朝は早く起こされることを覚悟する。寝ようと思っても、列車はよく揺れるし、なんだか実にのんびり進んでいる感じだ。どこか不明の駅に長々ととまっていたりする。おそらく中国人と思われる団体が途中の駅(おそらくルクソール)で乗り込んできて、大声で叫んでいる。コンパートメントだが、こういう声が通路側から聞こえてくる。あと、気になったのは、トイレがとても汚いことだ。経験のために、一度はこの「超豪華寝台列車」に乗るのはいいが、もう一度と言われると、お断りしたいと思った。

5. ギザ到着と季節外れの砂嵐
 「これだけは絶対に!」と期待していた「超豪華寝台列車」の旅に少し失望。朝はもう日は昇っているが、まだ朝食で起こされもしない。到着予定と思っていた6時半を過ぎても、列車がノソノソ北上している。そのうちに、朝食が配られてきた。なんとパンが数個とジュース、それにジャムやバターとチーズが少しくらいだったかな?である。仕方なしに食べていると、車窓の西側に大きくはないがピラミッドらしきものも見える。そうこうしているとギザの駅に到着した。9時過ぎだったから、遅れはすくない方らしい。鉄道や路線バスでの移動は、どこの国でも日本ほど正確ではないが、エジプトのはすごい。そういえば、数年前にトルコでも似たようなめにあった。いずれにしてもギザだが、目の前に見えると思ったピラミッドが見えない。砂嵐なのだそうだ。砂嵐は通常は、3月以降とのことで、その時期のエジプト行きはやめた方がいいと、友人に教えられていたが、12月で砂嵐とは…。後に、有名な階段ピラミッドで、猛烈な砂嵐にあったときにガイドに聞くと、今の時期の砂嵐は、地球温暖化の影響だろうという。最初の予定では、3大ピラミッドやスフィンクスへまず行くようになっていたが、おそらく砂嵐の影響でだろうが、午前中は、古都メンフィス(古代の下エジプトの首都)でラムセス2世の巨像の見学からになった。メンフィスは、今は小さな公園とこの巨像(メンフィスのものは立ってはいなくて、横に倒れているのを眺めるもの。以前はカイロ市内にあったもう一つのラムセス2世の巨像は、そのうちにどこかの博物館で公開されるらしい。このあと、サッカーラへ行く。ここは、ピラミッドとして、最古のジュセル王の階段ピラミッドがある。上に述べたように、すごい砂嵐だ。新型インフルエンザ対策で日本から持ってきたマスクを、砂嵐対策ではじめて使う。本当は顔全部を覆いたいくらいで、数メートル先が見えないくらいである。耳の中にも細かい砂が容赦なく入り込む。ピラミッド近くに、その頃の大臣の墓があって、中に入る。いくつかの部屋があるので、砂嵐を避けられるだけでも墓の中は素晴らしいと感じた。もう一つ、ティティ王のピラミッドというのにも行ったが、これもただただ砂を浴びに行ったという感じだった。ここで昼食になる。ガイドは、3大ピラミッドなどは明日にして、今日の午後はカイロ市内と思ったようだが、ガイドの所属する国営の旅行会社からは、予定通りの指示が来たようだった。
 そのため、砂嵐の収まるのを期待しながら食事。これが見事で、クフ王の大ピラミッドに着いた頃には、驚くくらいに砂嵐はなかった。午前中が砂嵐のようだ。ギザのピラミッドの巨大さは非常に有名だし、内部の構造も色々のところで紹介されている。もちろん、すべてがわかっているわけでもなく、全体の数%がわかっているくらいだ。そも、建設目的すら完全に定まっているわけではない。ギリシャ時代にターレスが三角測量でピラミッドの高さを測定したらしいが、さて、どのあたりから測量したのかな?などと思ったりしながら歩き回る。3大ピラミッドのうち最大のクフ王のピラミッドの内部にも入るが、中の通路はかがんで歩く必要があったりで、歩きにくい。色々のしかけや通路らしきもの等があるようだが、そういうのは完全にわかるわけではない。あとは、いうなら観光コースで、他の2つのピラミッドとスフィンクスをまわる。スフィンクスのあたりでは、多くの子供たちが、写真やガイドブックその他を押し売りしようとしたり、金をせびったりしている。このあと、パピルスや宝石の土産物店をまわってカイロ市内のホテル(個人旅行では宿泊することはない5星のホテル)へ向かう。カイロ市内の道路は大変混雑していて、遅々として車は進まずという感じだった。今回のツアーのいいところは、ホテルにチェックインすると、あとは自由なこと。ツアーはこのホテルは1泊で帰国だが、私たちは、後2泊延泊する。日本からもホテルにメールして、部屋の移動をしなくて済むように同部屋確保を依頼していたが、フロントでも、もう一度あれこれ。まあ、延泊の方は、いつも外国旅行で使っている旅行業者へインターネット経由で申し込んだので、当然、ツアーのものとは扱いが違うのだろうが、ここはなんとか認めてもらって助かった。

6. 考古学博物館とカイロの散策初日(ツアーを離れて)
 朝は、ツアーの一行(2グループ4名の方々)は、部屋の前にバッグを出しておられたが、私たちは部屋はそのままで、チップだけを置いて出発。ホテルからはまず、イスラム地区のシタデルにあるムハンマドアリモスクに行く。これは高台にある大きなモスクで、中はなかなかきれいなステンドグラス等がある。このモスクに大きな、しかし、もう動かなくなった掛け時計がある。この時計が、すでに述べたが、フランスから送られたもので、ラムセス2世のオベリスクの見返りの時計だそうだ。エジプトは、イスラム教の国なので、カイロにも沢山の大きなモスクがある。それらを、ムハンマドアリモスクの外の庭から眺める。色々のものがある。ミナレットがあるのが一般だが、そういうのが見当たらないモスクもあるようだ。
このモスクに続いて、考古学博物館へ行く。有名なツタンカーメン王の黄金のマスク(相当前に日本にこのマスクがやってきて、どこかの博物館で見た覚えがあるので、“久しぶりの再開”だが)のある部屋その他で、ガイドの説明が40分ほどある。あとは、このツアーの特色で40分ほどの自由時間。このあとは、ツアーはバザールに寄ってから昼食をたべて空港に行くとのこと。そこで、ガイドに、考古学博物館はもっと見たいし、再入場するにはまた入場券代も必要だから、ここでお別れしたいという。残りの行事には参加しない旨の書類にサインして、楽しいガイドだったので、シェリフ君に少しだがチップを渡して別れる。なにかあったら、連絡してくれと携帯電話の番号を教えてくれた。もちろん、同行だった4名に方々にも挨拶をして、である。結局、考古学博物館は展示してあるものについては、十分に見て回った。軽い昼食も博物館に併設しているカフェでとる。この考古学博物館の展示品は、ツタンカーメンの王墓からの出土品(黄金のマスクは当然として、王墓でみたミイラ以外の石棺、戦車、埋葬されていた日用品等様々)のあるため、常に沢山の人が群がっている部屋が最も有名だが、その他も実に面白い。ただ、展示の方法がもう一つで、あまり見やすいとはいえない。もう少しすると、新しい大きな博物館に立て替えるのだそうで、そうなると展示もよくなるのかなと思う。結局、この日は終日考古学博物館にいたことになる。
ホテルに戻って夕食だが、ガイドブックに沢山のレストランが紹介してある。カイロに入ったときにガイドに聞くと、その中の一軒がいいと教えてくれた。地図ではホテルからもそう遠くない。そこには行ってみようと思っていた。ところが、このあとが大変である。ホテルを出るや否や、ものすごい交通量の車の流れの中に入る。歩道というのはあるにはあるが、えらく段差のある道で歩きにくいことこの上なし。スムーズには歩けない。しかも、道路を渡るときはもう一つすごくなる。横断歩道のマークはほとんどないし、あっても車は無視して走っている。そも、信号なんて普通は見当たらない。僅かな車の流れの合間を見つけて、手を上げて広い道の半分まで渡る。少し土が盛り上がっている(いうなら、「安全地帯」)。ここから、残りの半分をまた必死の思いで渡りきる。渡った先が、また段差ばかりの「歩道」だ。この歩道も歩きにくいので、結局は車道の端を歩くことになる。こういう状態は、先進国以外ではよく経験するが、大都市ではカイロのものは最も歩きにくい都市の一つだろう。やっとの思いで辿り着いたレストランは、地元に人らしい人や観光客も多くて賑わっていた。メニューにはビールもワインもあったので注文したが、今日はないという返事。これは残念だったが、料理はおいしく食べることが出来た。ビール等の問題は、翌日も同じレストランに行って解決した。イスラム教の特別の日が年に何日かあり、その前後数日がアルコール禁止になるので、その間は店では出さないとのこと。これにひっかかったということだ。

7. カイロ市内の散策、痛感する貧富の差
 ツアーと別れた次の日は、カイロ市内の散策で、オールドカイロに行った。カイロ市内の南の方にあり、市内から電車で行く。市内は地下鉄なので、地下鉄の駅までは遠くはないが、例の通り死に物狂いで歩かねばならない。日本出発前には、この日にアレクサンドリア往復しようかと思っていたが、やめて正解だった。日本で見ていた地図等では、ホテルと地下鉄のサダト駅はすぐ側だし、東京や大阪並みに地下鉄の本数も多いだろうし、エジプト国鉄のラムセス駅からはアレクサンドリア行きの列車が時刻表どおりに発車しているだろうし…と想定して、アレキサンドリア散策計画を立てていた。しかし、ホテルからサダト駅までもこんなに苦労するのだから、もしアレキサンドリア行きを実行していたらどうなったか怪しげなものだ。いずれにしても、今日も明日もカイロだ。地下鉄といっても、カイロの中心地を出ると地上に出る。数駅でオールドカイロの「マル・キルギス」駅に着く。
オールドカイロには、ユダヤ教のシナコーグ、キリスト教の教会(中でも、今のイスラエルから迫害を逃れて幼児時代のイエスを連れて一家が隠れ住んだというところ)、エジプトでの原始キリスト教の一派のコプト教関連の寺院や博物館、さらにイスラム教の寺院と多様な宗教が同居している。ものの本によれば、ユダヤ教やキリスト教(コプト教も含め)でいう唯一神のヤハウェ(ヤーヴェともエホバとも…発音するが)やエル(一般に神のことをいうヘブライ語とのこと)も、イスラム教で言う神のアラーも同一なのだそうだから、これらの宗教が同居していても不思議はない。現代では、キリスト教を信じる国々とイスラム教を信じる国々が激しい争いを展開している。もちろん、宗教的には近親憎悪的な側面があるように思える。一方、歴史的な民族間の争いも大きいように思う。古代の歴史では、アブラハム・イサク・ヤコブ以下のユダヤ人と、海から来たというペリシテ人(今日のパレスティナの人々の先祖)や北方のヒッタイト、あるいはエジプトをも征服していたヒクソス等の民族で代表される広い意味でのイスラム教を信じている民族との争いがあるように思える。こういうのと無関係な日本人まで色々な意味で、こういう争いに巻き込まれているのは不思議なことだ。コプト教の博物館は、観光客も少なかったが、非常に洗練されていて好感が持てたし、面白い展示品も多かった。幼児期のイエス一家(聖家族)が隠れたという聖セルギウス教会は、沢山の観光客や信者が集まっていた。この教会へ行く道がなんとも複雑で、表からは入り口が見つけにくい。ひょっと見ると、一段下の地下道的なところを人がぞろぞろ歩いている。この細い路地のような道に下りていくことになる。古いヨーロッパの街の通路を思わすようなところだが、土産物店などが並んでいる。そういうところを歩いていくと教会がある。道の曲がり角に護衛のような警官のようなのがいる。彼らが「ジャパニーズ?」とか「チャイニーズ?」とか聞いてくる。日本人だと知ると、すぐ言ってくるのが「ヤマモトヤマ」である。食べ物か相撲取りの名前かを聞くと、食べ物の方だと一様に答える。海苔のヤマモトヤマは、カイロでは宣伝費を払う必要はなさそうだ。さて、その聖セルギウス教会だが、イエス一家が隠れた洞窟というのは、この教会の奥の方の地下になっていて、そこまでは入れない。洞窟を上から見るだけである。こういうこともあって、オールドカイロには、キリスト教関連のものが多いが、特に、その一派のコプト教で見るべきものが多い。まあ、コプト教は、キリスト教の世界では異端ということで迫害されたのだろうが。
時間もあるので、ぶらぶらとカイロを散策することにした。オールドカイロから北上すると、エジプト最古のイスラム寺院という、ガーマ・アムルがある。建物は再建されて新しそうだが、ミナレットがない四角い寺院で、ぐるりとまわれる。どこからでも礼拝が出来るようになっている。靴をあずけて入る。途中で、礼拝の時間になったらしく、突然多数の人たちが拝みだした。このあたりの道は、カイロ市内よりは歩道的なところが、きっちりしていて、主に歩道を歩く。ただし、歩道が切れたところの段差が大きくて歩きにくいことは変わりない。地下鉄の駅を1つくらい歩くと、水道橋のあとがあるということなので、ぶらぶらと北上する。庶民の町という感じで、色々の店がある中を歩く。ツアーではこういう庶民の暮らしを見るような時間がないので、これが個人旅行のいいところだ。水道橋は大きなものが残っている。ローマ帝国が影響を及ぼした地域には、各所に水道橋があるが、よく考え、よく作ったものだ。今までなら、こういうので感激していたが、今回はエジプトでより古代の、しかも卓越した建築技術の一部を見たので、ローマ時代のものへの感慨が薄くなったことは事実だ。ここから、ナイル川の中洲であるローダ島へ行く。ここには、ナイロメータがあるという。地下鉄(このあたりでは地上を走っているが、便宜上こう書いておく)の駅近くの、橋は橋でも、あまり立派でない現代の跨線橋を越すと、実に賑やかだが狭い商店街に出る。肉や野菜、パンなどが所狭しとならんでいる。チェスのようなのに興じている人たちもいる。その中へ、荷物を積んだ小型の自動車が走ってくる等々だ。この喧騒の小道を通り抜け、通行量の多い道を例の調子で渡るとナイル川のほとりに出る。中州へは、橋がある。木橋の周囲を鉄で補強したような橋だ。この島には、エジプトを代表する音楽家だったかの関連の建物があって、そのためのオフィスらしきもの等がある。その先にナイロメータの建物もある。ここも、説明員がやってきて、鍵をあけてくれないと中には入れない。当然、チップかバクシーンである。ナイロメータは、この島の南の端近くにあるので、外に出て眺めたナイル川は、たしかに大河という感じだし、川のむこうの西の方に、ボヤとではあるがピラミッドらしき姿も薄っすらと見える。空がすっきりしていて砂嵐もなければきれいに見えるだろうにと思った。
この中州から、再び喧騒の商店街や跨線橋を超えて、北上する。ローダ島の少し北には、マニアル宮殿というのがあるということなので、そこを訪問することにする。行ってみると、入り口らしきところに警察官らしきのが3人いる。他にも入り口があるのかなと探したが見当たらない。そこで、この警官に尋ねると、宮殿は今は改修工事で、秋にならないと見れないという。これは残念と帰りかけると、彼が「庭だけなら、10分間に限って入ってもいい」という。それで、庭園だけでもと入る。一人の警官がついてきて、この木(熱帯特有のガジュマルのように思える)は600年の歴史があって、600本の幹に分れているのだとか説明してくれる。まあ、そうすごいことはないが、花なども各種あって面白かった。10分が20分くらい広い庭園を散策して、ぼつぼつ出口という時点で、警官氏が、どこのホテルに泊まっているのか?ここからは、1.のところで記した通りである。
あとは、ナイル川沿いの道を北上する。このあたりは、歩道も広くて、段差もなく実に歩きやすい。広い歩道の中には、それこそガジュマルのような木もあれば、休息用のベンチもある。周囲は、5星の高級ホテルがあったり、各国の大使館があったり、その他国際機関のオフィスがあったりする。カイロの中心地に近い一等地のようだ。ナイル川の各種のクルーズ船の乗り場もある。結局1日中カイロの南の方を歩き回っていたことになる。
 今回のエジプト旅行の最終日は、午後にはカイロ空港に行かなくてはならない。通常なら1時間くらいらしいが、カイロ市内の交通混雑を考えると早めに行くことをガイドも進めていたし、ガイドブックにも書いてある。国内にいて出発前は、ホテル近くに空港へ行くバスの発着場があるので、そのバスを利用することを考えていたが、カイロに来ての道路の横断や段差のすごい歩道を考えて、こういう危なげな考えは止めにした。ホテルで、空港までのリムジンを予約する(リムジンといってもタクシーだ)。これは、午後なのと、ホテルでは、1時間で着くというので、午前中はホテルから遠くないカイロ市内を散策する。絶好の場所が、ホテルから近くのナイル川にあるゲジーラ島である。ここには、カイロタワーという観光名所もあれば、日本が建築に関与したというオペラハウスもある。今回も、このオペラハウスで、エジプトゆかりの「アイーダ」でもやっていれば、夜に楽しむつもりにしていたが、「ラ・ボエーム」が上演されているだけだったので、わざわざカイロで見なくてもと、オペラ観賞はやめにしたものだ。朝出発前に、ホテルの部屋の窓からピラミッドの方向を見ると、やはり砂嵐らしくて霞んでいてなんにも見えない。カイロタワーに登っても無理かな…と思いながら出発。カイロタワーを目指したが、このゲジーラ島というところも、イスラム陶器の博物館があったり、大使館や高級ホテルがある。これらは島の東側。西側は柵がしてあって入れない。中には、悠然と乗馬している人やジョギング中の人の姿も見れる。競技場のような大きな建物もある。門があって、また守衛にような人が数名いたので聞いてみると、この中は会員制なので、会員以外は入れないという。あとで、カイロタワーから見てみると、このゲジーラ島の大半が、カイロには珍しいくらいに緑に覆われていて、そこにサッカー等の球技が出来る競技場、陸上のトラックのある競技場、大きくて青い水をたたえたプール、その他色々の施設が緑の木々の間に見られる。これが、すべて会員のためにだけ提供されているのだ。こういう点では、日本にいては想像も出来ないような別扱いがあるようだ。これなら、富めるものが貧しいものに「バクシーン」するのが当然のように思えた。
 カイロタワーに登る(といっても、エレベータであがるだけ)と、展望フロアではカイロ市内がよく見える。ピラミッド方向は最初はよく見えなかった。下のフロアには喫茶店がある。ただし、30ポンド以上の注文をしないと入れないという看板が出ていた。ここで休憩して、もう一度展望フロアにあがると、予想通りにピラミッドが見え出した。砂嵐やガスで霞むのは朝のうちだけのようだ。っこで、カイロ市内を前景にピラミッドを眺めると(スフィンクスらしいのも見える)、「たしかにエジプトに来たな、カイロに来たな」という感じになる。その点では、眼下に見える、緑一杯の会員制クラブの広い敷地と、その側の道路を走る砂で汚れた車の対比も、バクシーンの意味を思わせ、エジプト的である。 
こうして、今回のエジプト旅行は、空港に行くだけとなる。途中の道路は、軍の施設も多く、新しい住宅地も広がる地域である。ナセルシティといって、古いカイロとは違って、ある意味では西欧的というかアメリカ的な感じである。リムジン(タクシー)は、ここを快適に走ってカイロ空港へたどり着く。空港は、大都市カイロのものとしては貧弱といえる。そう楽しむところもない。エジプト航空がスターアライアンスに加盟しているので、そのラウンジでもあるかと探したが見つからなかった。今回の便はカタール航空なので、そういうところとは別のターミナルなのかもしれない。

8. むすび
このようにして、今回のエジプト旅行は無事終了した。どこへ行っても感じることは、ガイドブックやTVの旅行番組と、実際の旅行では国や街の感じ方が大変違うことである。だから、旅行の楽しみもある。これは、旅行に限らず日常の事柄すべてに当てはまるのだろう。学校の教育でもそうで、あれこれと勉強したり学んだりすることが、世の中とかけ離れている場合が多くて、机の上では、とっても素晴らしいことが世の中では、常識だったら場合によったら数十年も昔の話だったりする。今回のカイロの街での歩道の段差や、命がけでしか渡れない道路のことなどは、どこにも書いていない。ゲジーラ島で広い面積を占める緑の地域である富者のためのスポーツクラブにしてもそうだ。これを体験すると、「バクシーン」のあり方もよくわかる。立派そうに言われている「ナイルエキスプレス号」の1等寝台車も、それほどではないことも体験できたし、コンボイというのが、集団警護の護送車両の一団であうことは確かだが、中身はまるでカーチェイスだということも体験できた。その途中で蜃気楼を見れたり。黒砂漠の一端を見ることも出来た。
ただ、帰国して友人たちに話したことの第一は「欧米文化に追いつけ、追い抜けでやっていた学術分野の第一線を退いて、定年後に行って良かった」ということである。ルクソールでもアプシンベルでもカイロの考古学博物館でも体験したから連想する。現在、私たちが接していて、いわゆる「世界の先進国」が享受している「先端文明」あるいは「文明社会」の基盤の代表は西欧文明あるいは欧米文明であるといっても良いだろう。その「文明」は、結局はギリシャ・ローマの文明を基礎にしていることは間違いない。極端にいうなら、現在の日本で「文明・文化」として感じるものは、明治維新での「文明開化」が強く残っていて、「西欧文明」を追い、第2次世界大戦での敗戦を契機に、これが「欧米文明」あるいは極論すると「米国文明」こそが、世界の先進文明であるとしてきたように思う。この種の文明の原点はなにかと考えると、ある意味ではキリスト教文明なんではなかろうか?私はクリスチャンでもなんでもない、いわゆる典型的な日本人の無宗教派だが、西暦紀元の年代表示が意味するよう、キリスト教が与えている影響は大変なものだ。そのキリスト教の生じたもとがユダヤ教で、イスラム教にしても、このあたりの流れは同一でマホメットの扱い以降が違っている。これらの宗教、特にキリスト教が迫害の後に公認され、世界宗教になったのがローマ帝国時代で、そのローマ帝国でギリシャ文明が尊敬されていたために、現在の世界の文明の源泉はギリシャ・ローマにあるように思っていたのだろう。この点が、今回のエジプトを見て、何回も述べるが「ギリシャ・ローマ文明は、古代エジプト文明の模倣にすぎない」と思えた。おそらく、メソポタミアを旅行しても同じように感じるのだろう。こういうエジプトやメソポタミアの文明(おそらく、そこには古代のインド文明や中国の文明も同じようなものだろうが)に蓋をしてきたのが、現在のキリスト教文明の世界なのではないかと思う。少なくとも、ギリシャ・ローマ文明は、より古いエジプトやメソポタミアの文明に強い影響を受けていることも間違いない。ギリシャ・ローマ文明以前の文明に蓋をしてきた「教室の知識」が、今までの私の活動も生活も支えてきていたのではなかろうか。その「影響の度合い」が、今回のエジプト行きで、想像を絶するものであったように思えてならない。例えば、エジプト行き以前には面白く読んだ、「世界の地名…」などという本も面白くなくなった。その種の書物に出てくるのは、地中海文明を始まりとして、せいぜい旧約聖書の記述と現在の地名とのつながりを書いているくらいだ。ジュゼルだ、クフだ、ハトシェプスト、トトメス、ラムセス、…等につながる地名はどこにも残っていない(ラムセスの名前くらいは、エジプト内の古い遺跡や、カイロ市内の地下鉄駅にはあるが)。ただ、こういう古代の王が支配した地域は非常に広かったのだ。こういうことを考えると、アクセク働く毎日の生活はなんなんだろうと思う。先端研究だ技術開発だという言葉がなになのかを考え直さなければならない。こういう疑問に「蓋をする」からこそ、毎日の生活が出来ているのかもしれない。エジプト学の研究者等は別だが、現役でバリバリ仕事をしている人が、たまの長期休暇の正月休みを利用して、エジプト旅行を考えられることは危険だと思った。毎日の仕事への情熱が失せてしまうかもしれない。ただ、それだけの意味を持つエジプト旅行は、一度は体験されることを薦める。欧米の旅行とは違った強烈な、なにかがある。ただし、足腰が強い間でなければ、あのカイロの道路を渡ったり、歩道を歩いたりは出来ない。
エジプト旅行を経験して、今後にエジプト旅行を考えられる方々の参考になりそうなことを、最後にまとめておく。

同行者
カップル・夫婦
一人あたり費用
25万円 - 30万円
交通手段
鉄道 観光バス レンタカー タクシー
航空会社
カタール航空
旅行の手配内容
その他

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  • ルクソール神殿の沢山の柱。○○式とは言わない

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  • コンボイの途中で蜃気楼!

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  • 階段ピラミッドで季節外れの砂嵐に会う

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  • カイロタワーからゲラーダ島の緑一杯の富者向けのスポーツクラブ(一般人立ち入り禁止)をみる

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  • 警官らしき人に案内され、バクシーンを要求されたガジュマルの樹

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