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今回の旅行では、三十三間堂すぐ近くの「ハイアット・リージェンシー京都」に泊まることになっているので、この近辺を攻略することにしました。<br /><br />◎ 蓮華王院本堂(三十三間堂)<br /><br />三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)は京都市東山区にある仏堂。建物の正式名称は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)と言い、同じ京都市東山区にある天台宗妙法院の境外仏堂で、同院が所有・管理しています。<br />元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂で、本尊は千手観音です。<br />

1001体の千手観音像 「蓮華王院本堂(三十三間堂)」

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2009/12/22 - 2009/12/22

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みにくま

みにくまさん

今回の旅行では、三十三間堂すぐ近くの「ハイアット・リージェンシー京都」に泊まることになっているので、この近辺を攻略することにしました。

◎ 蓮華王院本堂(三十三間堂)

三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)は京都市東山区にある仏堂。建物の正式名称は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)と言い、同じ京都市東山区にある天台宗妙法院の境外仏堂で、同院が所有・管理しています。
元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂で、本尊は千手観音です。

  • 南大門 重要文化財<br /><br />南大門は三間一戸の八脚門で、豊臣秀吉が1595年(文禄4年)に造立した大仏殿方広寺(現・国立博物館一帯)の南門として築いたものを、秀頼が移築したと伝えられます。<br />

    南大門 重要文化財

    南大門は三間一戸の八脚門で、豊臣秀吉が1595年(文禄4年)に造立した大仏殿方広寺(現・国立博物館一帯)の南門として築いたものを、秀頼が移築したと伝えられます。

  • 南大門 重要文化財

    南大門 重要文化財

  • 太閤塀 重要文化財<br /><br />豊臣秀吉より寄進された桃山時代の遺構。<br />高さ5.3m、長さ92mの堂々たる建造物で、。方広寺大仏殿の外塀から移築されました。<br />瓦に太閤桐の文様を用いることから「太閤塀」と通称され、桃山気風にあふれた遺構です。<br />

    太閤塀 重要文化財

    豊臣秀吉より寄進された桃山時代の遺構。
    高さ5.3m、長さ92mの堂々たる建造物で、。方広寺大仏殿の外塀から移築されました。
    瓦に太閤桐の文様を用いることから「太閤塀」と通称され、桃山気風にあふれた遺構です。

  • 太閤塀 重要文化財<br /><br />太閤桐。<br />五七の桐でも、五三の桐でもない、五五の桐。<br />いろいろなところで桐紋を見ていますが、五五の桐は初めてです、かなりレアかも?<br />

    太閤塀 重要文化財

    太閤桐。
    五七の桐でも、五三の桐でもない、五五の桐。
    いろいろなところで桐紋を見ていますが、五五の桐は初めてです、かなりレアかも?

  • 太閤塀 重要文化財<br /><br />先ほどは外側から見たものですが、これは内側から見たものです(時系列的には逆転してしまいますが、先に紹介してしまいます)<br /><br />

    太閤塀 重要文化財

    先ほどは外側から見たものですが、これは内側から見たものです(時系列的には逆転してしまいますが、先に紹介してしまいます)

  • 太閤塀 重要文化財<br /><br />ぱっと見て、この土塀がただの塀ではないことが分かるくらいの迫力があります。

    太閤塀 重要文化財

    ぱっと見て、この土塀がただの塀ではないことが分かるくらいの迫力があります。

  • 太閤塀 重要文化財<br /><br />この部分だけ、塗装が剥げており、内部の構造が垣間見えるようになっていました。<br />

    太閤塀 重要文化財

    この部分だけ、塗装が剥げており、内部の構造が垣間見えるようになっていました。

  • 東大門<br /><br />左手の朱塗りの門は東大門です。<br />ここから右手に周り、拝観受付をしましょう。<br />

    東大門

    左手の朱塗りの門は東大門です。
    ここから右手に周り、拝観受付をしましょう。

  • 拝観受付<br /><br />開門時間   8:00〜17:00<br />11/16〜3/31 9:00〜16:00<br />拝観料 600円<br />定休日 なし<br />

    拝観受付

    開門時間   8:00〜17:00
    11/16〜3/31 9:00〜16:00
    拝観料 600円
    定休日 なし

  • 蓮華王院本堂(三十三間堂) 国宝<br /><br />この地には、もともと後白河上皇が離宮として建てた法住寺殿があった。その広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂、今に言う三十三間堂である。<br /><br />上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて旧暦の長寛2年12月17日(西暦1165年1月30日)に完成したという。<br />創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院であったが、建長元年(1249年)の火災で焼失した。<br /><br />現在の建物は、文永3年(1266年)に再建されたもので、「三十三間堂」と称される。<br />当時は朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られていたという。建築様式は和様に属する。<br /><br />

    蓮華王院本堂(三十三間堂) 国宝

    この地には、もともと後白河上皇が離宮として建てた法住寺殿があった。その広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂、今に言う三十三間堂である。

    上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて旧暦の長寛2年12月17日(西暦1165年1月30日)に完成したという。
    創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院であったが、建長元年(1249年)の火災で焼失した。

    現在の建物は、文永3年(1266年)に再建されたもので、「三十三間堂」と称される。
    当時は朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られていたという。建築様式は和様に属する。

  • 蓮華王院本堂(三十三間堂) 国宝<br /><br />◎ 三十三間の由来と構造<br /><br />三十三間堂の名称は、本堂が間面記法で「三十三間四面」となることに由来する。これは桁行三十三間の周囲四面に一間の庇を巡らせたという意味である。つまり柱間が33あるのは本堂の内陣(母屋)で、建物外部から見る柱間は35ある。<br /><br />ここで言う「間」(けん)は長さの単位ではなく、社寺建築の柱間の数を表す建築用語である。三十三間堂の柱間は一定ではなくその柱間も今日柱間として使われる京間・中京間・田舎間のどれにも該当しない。<br /><br />「三十三間堂の1間(柱間)は今日の2間(12尺)に相当する」として堂の全長は33×2×1.818で約120m、と説明されることがあるが、これは柱間長についても、柱間数についても誤りであるが、実際の外縁小口間の長さ約121mとほとんど一致する。<br />

    蓮華王院本堂(三十三間堂) 国宝

    ◎ 三十三間の由来と構造

    三十三間堂の名称は、本堂が間面記法で「三十三間四面」となることに由来する。これは桁行三十三間の周囲四面に一間の庇を巡らせたという意味である。つまり柱間が33あるのは本堂の内陣(母屋)で、建物外部から見る柱間は35ある。

    ここで言う「間」(けん)は長さの単位ではなく、社寺建築の柱間の数を表す建築用語である。三十三間堂の柱間は一定ではなくその柱間も今日柱間として使われる京間・中京間・田舎間のどれにも該当しない。

    「三十三間堂の1間(柱間)は今日の2間(12尺)に相当する」として堂の全長は33×2×1.818で約120m、と説明されることがあるが、これは柱間長についても、柱間数についても誤りであるが、実際の外縁小口間の長さ約121mとほとんど一致する。

  • 蓮華王院本堂(三十三間堂) 国宝<br /><br />北方向より、本堂の西面を撮影。<br /><br />地上16m、奥行き22m、南北121mの長大なお堂は、木造建築物としては、世界最大だと言われています。<br /><br />お堂の建てられた平安期、京の都には見上げるような大建築が数多くありましたが、そのほとんどは、地震や火災のために、短期間で姿を消してしまいました。<br />この反省から、工人たちは様々な工夫を凝らし、このお堂を建立したのです。<br /><br />以下、公式HPより↓<br /><br />◎ 三十三間堂の免震法<br /><br />まず、基礎地盤には、砂と粘土を層状に堆積して地震時の地下震動を吸収する〈版築・はんちく〉を用い、堂内の屋台骨は、柱間を2本の梁でつなぐ〈二重虹梁・にじゅうこうりょう〉とし、外屋の上部も内・外柱に二重の梁をかけて堅固さを増加しました。 加えて、構架材の柱や長押、梁は“揺れ”を予測した組み方とし、土壁面積を極力小さくした上で、溝を切った柱に板壁として横板を落し込む〈羽目板・はめいた〉とするなど、お堂は、波に揺れて浮ぶ筏のように“揺れ動く”建築としての免震工法が施こされたのです。<br />

    蓮華王院本堂(三十三間堂) 国宝

    北方向より、本堂の西面を撮影。

    地上16m、奥行き22m、南北121mの長大なお堂は、木造建築物としては、世界最大だと言われています。

    お堂の建てられた平安期、京の都には見上げるような大建築が数多くありましたが、そのほとんどは、地震や火災のために、短期間で姿を消してしまいました。
    この反省から、工人たちは様々な工夫を凝らし、このお堂を建立したのです。

    以下、公式HPより↓

    ◎ 三十三間堂の免震法

    まず、基礎地盤には、砂と粘土を層状に堆積して地震時の地下震動を吸収する〈版築・はんちく〉を用い、堂内の屋台骨は、柱間を2本の梁でつなぐ〈二重虹梁・にじゅうこうりょう〉とし、外屋の上部も内・外柱に二重の梁をかけて堅固さを増加しました。 加えて、構架材の柱や長押、梁は“揺れ”を予測した組み方とし、土壁面積を極力小さくした上で、溝を切った柱に板壁として横板を落し込む〈羽目板・はめいた〉とするなど、お堂は、波に揺れて浮ぶ筏のように“揺れ動く”建築としての免震工法が施こされたのです。

  • 蓮華王院本堂(三十三間堂) 国宝<br /><br />堂内は写真撮影禁止なので、主な諸仏の紹介だけしておきます。<br /><br /><br />◎ 木造千手観音坐像(附木造天蓋) 国宝<br /><br />堂内中央に安置する本尊像。像高335cm。湛慶晩年の建長6年(1254年)の作。<br /><br />◎ 木造風神・雷神像 国宝<br /><br />鎌倉復興期の作。堂内左右端に安置。風袋と太鼓をそれぞれ持った風神・雷神像の姿をユーモラスに表したこれらの像は、俵屋宗達の『風神雷神図屏風』のモデルになったともいわれる。<br /><br />◎ 木造二十八部衆立像 国宝<br /><br />『一代要記』には、建長元年(1249年)の火災では二十八部衆像は救い出されたことになっているが、現存の像は技法・様式から鎌倉復興期の作とみなされている。<br /><br />二十八部衆は、千手観音の眷属であり、千手観音を信仰する者を守護するとされている。28体の中には四天王、金剛力士(仁王)のようになじみ深いものと、金大王、満仙王のように由来のはっきりしないものとが混在する。『千手観音造次第法儀軌』という経典に基づく造像とされるが、三十三間堂の各像の名称は必ずしも経典と一致していない。また、図像的にみて、寺伝による像名が必ずしも本来の像名でない例もみられる。<br /><br />これらの像は本来は本尊像の両脇を取り囲む群像として安置されていたものであるが、近代になって堂の西裏の廊下に一列に安置されるようになり、20世紀末に現在のように千体仏の前面に配置されるようになった。<br />やせ衰えた老人の肉体をリアルに描写しつつ、崇高さを失わない婆藪仙人(ばすせんにん)像は28体の中でもよく知られている。

    蓮華王院本堂(三十三間堂) 国宝

    堂内は写真撮影禁止なので、主な諸仏の紹介だけしておきます。


    ◎ 木造千手観音坐像(附木造天蓋) 国宝

    堂内中央に安置する本尊像。像高335cm。湛慶晩年の建長6年(1254年)の作。

    ◎ 木造風神・雷神像 国宝

    鎌倉復興期の作。堂内左右端に安置。風袋と太鼓をそれぞれ持った風神・雷神像の姿をユーモラスに表したこれらの像は、俵屋宗達の『風神雷神図屏風』のモデルになったともいわれる。

    ◎ 木造二十八部衆立像 国宝

    『一代要記』には、建長元年(1249年)の火災では二十八部衆像は救い出されたことになっているが、現存の像は技法・様式から鎌倉復興期の作とみなされている。

    二十八部衆は、千手観音の眷属であり、千手観音を信仰する者を守護するとされている。28体の中には四天王、金剛力士(仁王)のようになじみ深いものと、金大王、満仙王のように由来のはっきりしないものとが混在する。『千手観音造次第法儀軌』という経典に基づく造像とされるが、三十三間堂の各像の名称は必ずしも経典と一致していない。また、図像的にみて、寺伝による像名が必ずしも本来の像名でない例もみられる。

    これらの像は本来は本尊像の両脇を取り囲む群像として安置されていたものであるが、近代になって堂の西裏の廊下に一列に安置されるようになり、20世紀末に現在のように千体仏の前面に配置されるようになった。
    やせ衰えた老人の肉体をリアルに描写しつつ、崇高さを失わない婆藪仙人(ばすせんにん)像は28体の中でもよく知られている。

  • 蓮華王院本堂(三十三間堂) 国宝<br /><br />◎ 木造千手観音立像(1001躯) 重要文化財<br /><br />像高は166〜167cm前後。<br />大部分は鎌倉復興期の作だが、建長元年(1249年)の火災の際、救い出された平安期の像も124躯含まれる(他に室町時代に追加された像が1躯だけある)。<br />平安時代の像は作者不明だが、鎌倉復興像は二百数十躯に作者銘があり、湛慶をはじめ慶派、院派、円派など、当時の主要な仏師たちが総出で造像にあたったことがわかる。<br /><br />1001躯のうちの5躯は東京・京都・奈良の国立博物館に寄託されている。 また兵庫県・朝光寺本尊である2躯の千手観音菩薩立像のうち1躯は三十三間堂の観音像と様式が一致し、当堂から移されたものと推定されている。

    蓮華王院本堂(三十三間堂) 国宝

    ◎ 木造千手観音立像(1001躯) 重要文化財

    像高は166〜167cm前後。
    大部分は鎌倉復興期の作だが、建長元年(1249年)の火災の際、救い出された平安期の像も124躯含まれる(他に室町時代に追加された像が1躯だけある)。
    平安時代の像は作者不明だが、鎌倉復興像は二百数十躯に作者銘があり、湛慶をはじめ慶派、院派、円派など、当時の主要な仏師たちが総出で造像にあたったことがわかる。

    1001躯のうちの5躯は東京・京都・奈良の国立博物館に寄託されている。 また兵庫県・朝光寺本尊である2躯の千手観音菩薩立像のうち1躯は三十三間堂の観音像と様式が一致し、当堂から移されたものと推定されている。

  • 蓮華王院本堂(三十三間堂) 国宝<br /><br />南西より撮影。<br /><br />この写真左側に「通し矢」射場があるのですが、写真が何故か残っていません。<br /><br />◎ 通し矢「天下一」<br /><br />江戸期、尾張・紀州両藩による通し矢「天下一」の争奪戦は民衆の評判となりました。<br />縁側の柱や軒に残る鉄板は、雨あられと飛び来る矢からお堂を守るために徳川第3代将軍家光が付加したものです。<br /><br />西縁の南端から北端へ、一昼夜24時間、矢を射続けるという「大矢数」は身命を賭けた凄絶な競技で、約800人がこれに挑み、時々の思いをのせて放たれた矢数も延べ100万本に達すると伝えられます。<br />毎年正月(15日に近い日う曜日・無料公開)には、この古儀に因む弓道大会が行われ、全国から約2000人が参加し、終日にぎわいをみます。<br />

    蓮華王院本堂(三十三間堂) 国宝

    南西より撮影。

    この写真左側に「通し矢」射場があるのですが、写真が何故か残っていません。

    ◎ 通し矢「天下一」

    江戸期、尾張・紀州両藩による通し矢「天下一」の争奪戦は民衆の評判となりました。
    縁側の柱や軒に残る鉄板は、雨あられと飛び来る矢からお堂を守るために徳川第3代将軍家光が付加したものです。

    西縁の南端から北端へ、一昼夜24時間、矢を射続けるという「大矢数」は身命を賭けた凄絶な競技で、約800人がこれに挑み、時々の思いをのせて放たれた矢数も延べ100万本に達すると伝えられます。
    毎年正月(15日に近い日う曜日・無料公開)には、この古儀に因む弓道大会が行われ、全国から約2000人が参加し、終日にぎわいをみます。

  • 蓮華王院本堂(三十三間堂) 国宝<br /><br />南側から撮影。<br /><br />

    蓮華王院本堂(三十三間堂) 国宝

    南側から撮影。

  • 蓮華王院本堂(三十三間堂) 国宝<br /><br />南東から撮影。<br />

    蓮華王院本堂(三十三間堂) 国宝

    南東から撮影。

  • 鐘楼<br /><br />鐘楼は清水寺にも見られる、「四方ころび」という建築技法で、四隅の柱が均等に中央に向って斜めになって強化させています。<br /><br />

    鐘楼

    鐘楼は清水寺にも見られる、「四方ころび」という建築技法で、四隅の柱が均等に中央に向って斜めになって強化させています。

  • 南池泉庭と東大門<br /><br />南北二つの池泉庭は、鎌倉時代の造園法によって再現されたものです。<br />

    南池泉庭と東大門

    南北二つの池泉庭は、鎌倉時代の造園法によって再現されたものです。

  • 蓮華王院本堂(三十三間堂) 国宝<br /><br />東側、こちらが正面になります。<br />

    蓮華王院本堂(三十三間堂) 国宝

    東側、こちらが正面になります。

  • 蓮華王院本堂(三十三間堂) 国宝

    蓮華王院本堂(三十三間堂) 国宝

  • 東大門<br /><br />1961年(昭和36)の建築物。<br />2006年に塗り替え工事が完成しました。<br />

    東大門

    1961年(昭和36)の建築物。
    2006年に塗り替え工事が完成しました。

  • 東大門<br /><br />◎ 京都三十三間堂の門にペンキ事件<br /><br />2007年9月23日<br /><br />23日午前8時ごろ、京都市東山区の三十三間堂(蓮華王院)で、市道に面した北門と東大門に灰色のペンキのような液体がかけられているのを寺院職員が見つけた。<br /><br />東山署は器物損壊事件として捜査。調べでは、北門には縦約1・5メートル、横約1メートル、東大門は三枚観音開扉に縦1・4メートル、横2〜3メートルにわたって、バケツでペンキをぶちまけたようになっていた。<br />北門は江戸時代の造営。東大門は1961年(昭和36)の建築物で、どちらも文化財指定はされていない。昨春、朱色に塗り直したばかりで、三十三間堂は「これだけひどいいたずらは記憶にない。極めて残念だ」としている。

    東大門

    ◎ 京都三十三間堂の門にペンキ事件

    2007年9月23日

    23日午前8時ごろ、京都市東山区の三十三間堂(蓮華王院)で、市道に面した北門と東大門に灰色のペンキのような液体がかけられているのを寺院職員が見つけた。

    東山署は器物損壊事件として捜査。調べでは、北門には縦約1・5メートル、横約1メートル、東大門は三枚観音開扉に縦1・4メートル、横2〜3メートルにわたって、バケツでペンキをぶちまけたようになっていた。
    北門は江戸時代の造営。東大門は1961年(昭和36)の建築物で、どちらも文化財指定はされていない。昨春、朱色に塗り直したばかりで、三十三間堂は「これだけひどいいたずらは記憶にない。極めて残念だ」としている。

  • 東大門

    東大門

  • 夜泣泉<br /><br />お堂創建の翌年(1165年)6月7日、一人の堂僧が夢のお告げにより発見したという霊泉で、「古今著聞集」には「いつも冷たく美味しくて飲んでもお腹を痛めることのない”極楽井”で、どんなに汲んでも尽きず、汲まない時も余ることのない不思議な泉だ」と記されています。<br /><br />夜のしじまに水の湧き出す音が人の”すすり泣き”に似ていることから”夜泣き”泉と言われるようになり、いつの頃からか傍らに地蔵尊が祀られて、特に幼児の「夜泣き封じ」に功徳があるとして地蔵さまの「前掛け」を持ち帰り、子供の枕に敷けば”夜泣き”が治るとされ、今もその御利益を求める参拝が続いています。<br />

    夜泣泉

    お堂創建の翌年(1165年)6月7日、一人の堂僧が夢のお告げにより発見したという霊泉で、「古今著聞集」には「いつも冷たく美味しくて飲んでもお腹を痛めることのない”極楽井”で、どんなに汲んでも尽きず、汲まない時も余ることのない不思議な泉だ」と記されています。

    夜のしじまに水の湧き出す音が人の”すすり泣き”に似ていることから”夜泣き”泉と言われるようになり、いつの頃からか傍らに地蔵尊が祀られて、特に幼児の「夜泣き封じ」に功徳があるとして地蔵さまの「前掛け」を持ち帰り、子供の枕に敷けば”夜泣き”が治るとされ、今もその御利益を求める参拝が続いています。

  • 北池泉庭と本堂<br /><br />

    北池泉庭と本堂

  • 蓮華王院本堂(三十三間堂) 国宝<br /><br />ぐるっと1周回ってきました。<br />とても大きな建物なので、ゆっくり1周するだけでも、30分くらいはかかりました。<br /><br />◎ おしまい<br />

    蓮華王院本堂(三十三間堂) 国宝

    ぐるっと1周回ってきました。
    とても大きな建物なので、ゆっくり1周するだけでも、30分くらいはかかりました。

    ◎ おしまい

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