ウィーン旅行記(ブログ) 一覧に戻る
スロバキアへ行った後、オーストリアのウィーンを目指した。ウィーンに着いたらまずはジョゼフとエリザベートが居たルシェンブルク宮殿を目指さした。俺はマリア=テレジアを尊敬していたからどうしてもここには来たかった!!市民にもすごい好かれていたしね!!しかも、K・Kと言う字を好む。ちなみに俺のイニシャルもK・Kです。また、ヨーロッパを支配していたハプスブルク家にも興味があったし、ここにくれば自分の中の西ヨーロッパと東ヨーロッパが繋がるからだ。オーストリア=ハンガリー帝国時代においても重要な拠点である。<br />宮殿では日本語ガイダンスも借りれ、以前よりもハプスブルク家について詳しくなって嬉しかった☆マリー=テレジアやアントワネットの部屋や肖像画も見ることができたし、大満足。フランツ=ヨーゼフがいかに政務に勤め、勤勉かかを感じ取ることもできた。しかし中国人に気分を害された。宮殿には購入したチケットの値段によって入れる場所が限られている。明らかに、説明や、このチケットじゃ入れませんと注意書きとか、ガイダンスでも流れるのに、中国人たちは知らない振りして入っていこうとし、警備員に怒られている。うちらはちゃんと券をもっているのに、中国人のせいで、細かくチェックされた。せっかく気持ち良く拝観していたのに、凄く気分を害された。<br />市街地にも行った。市街地はモーツアルトだらけです。さすが音楽の都、ウィーン!!時間があれば生のオペラも見たかったな~。街にはパフォーマーも多いけど、日本人や韓国人のおばちゃんもたくさんいた。夜は南駅に戻り、ひろみちゃんと別れ、寝台車で念願のイタリアを目指した。<br /><br />マリア・テレジアについて紹介します<br />マリア・テレジア<br />1717年、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール6世と皇后エリーザベト・クリスティーネの長女として誕生した。カール6世の最初の女子であり、両親は遥かヨルダン川の水で洗礼を受けさせたり、マリアツェル教会に黄金の子供像を奉納したりと歓迎した。「小さなレースル」は母親譲りの輝く美貌を持ち、市民からの人気も高かった。<br />政治家としてはオーストリアを強国にすべく、封建制度に縛られず様々な改革を行った。<br />・小学校の新設 <br />他国に先駆け、全土に均一の小学校を新設。義務教育を確立させた。全国で同内容の教科書が配布され、各地域それぞれの言語で教育が行われた。その結果国民の知的水準が大きく上昇した。 <br />・徴兵制度の改新 <br />軍事行政委員が設置され、軍税徴収に関する等族の介入が排除された。1762年には軍事機構が宮廷軍事庁の下に統括され、宮廷軍事庁が最高決定機関となった。また、一般徴兵制が採用された。この徴兵制は全国民の無差別の兵役義務を承認しており(実際は身分差別あり)、農民出身であっても給料を得られるようになったことで、兵士達が安定した生活を保証され、オーストリアの軍事力は格段に上がった。 七年戦争後もマリア・テレジアによる改革は進められた。しかし、この頃になると啓蒙主義的な官僚の勢いが強くなり、改革も次第に啓蒙主義的な色彩を帯びるようになる。衣装の自由化(1766年)やイエズス会の禁止(1773年)などが代表的だが、彼女自身は次第に保守化した。1765年に死去した夫フランツに代わって帝位についた息子ヨーゼフ2世の急進的な改革姿勢とはしばしば意見が対立し、宰相カウニッツも彼女への不満を書き残している。<br />1780年、死去。遺体は最愛の夫フランツと共に、ハプスブルク家の墓所であるカプチーナ礼拝堂に埋葬されている。<br /><br /><br />ハプスブルク家について<br />ハプスブルク家はスイス北東部のライン川上流域を発祥地とする。この地にはハビヒツブルク(Habichtsburg:「鷹の城」)古城が現存するが、この「ハビヒツブルク」が訛って「ハプスブルク」になったと考えられている。1273年にハプスブルク伯ルドルフがドイツ王(皇帝に戴冠していない神聖ローマ帝国の君主)に選出されて世に出た。ルドルフ1世は、1278年にボヘミア王オタカル2世をマルヒフェルトの戦いで破り、1282年にオタカル2世の所領であったオーストリア公国を息子に与え、帝国南東部に勢力を広げる。これ以降、ハプスブルク家はスイスでは徐々に領地を失ったこともあって、もっぱら軸足をオーストリア地方に移す。1308年にルドルフの子アルブレヒト1世が暗殺された後、その子フリードリヒ美王は共同君主の地位を得たのを最後に帝国の君主位からは遠ざかり、勢力は一時衰える。しかし一族はオーストリア公として着実に勢力を広げ、やがてルドルフ4世が大公を自称した。<br />1438年にアルブレヒト2世が、次いで1440年フリードリヒ3世がドイツ王になってからは王位をほぼ世襲化することに成功し、1508年にマクシミリアン1世がローマ教皇から戴冠を受けずに皇帝を名乗り始める。その後、婚姻関係からハプスブルク家はブルゴーニュ公領ネーデルラント、ブルゴーニュ自由伯領(フランシュ=コンテ)、スペイン王国、ナポリ王国、シチリア王国などを継承し、皇帝カール5世の下でヨーロッパの一大帝国を現出させた。当時のスペインは中南米を植民地として支配していたため、カール5世の領土は「日の沈まぬ」大帝国であった。さらにカール5世の弟フェルディナント1世がハンガリー王、ボヘミア王に選出されたため、ハプスブルク家は東欧における版図を飛躍的に拡大した。<br />カトリックの擁護者としてプロテスタントと戦ったカールは、1521年に祖父マクシミリアン1世の所領を弟フェルディナントと分割した。また、父フィリップ美公や母フアナ女王を通じて相続した所領は1556年に息子フェリペ2世に継がせた。こうしてハプスブルク家はスペイン系ハプスブルク家とオーストリア系ハプスブルク家に分かれた。1549年に取り交わされた協定で弟フェルディナント1世の子孫が神聖ローマ皇帝位を世襲することになった。<br />¥結婚政策¥ <br />「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」 <br />の言葉が示すとおり、ハプスブルク家は婚姻によって所領を増やしていった。<br />現在も、最後の皇帝カール1世の子供達は婚姻によりスペイン、ベルギー、ルクセンブルクの君主位継承権を保持しており、それによって将来一族が君主に返り咲く可能性はある。<br />・血族結婚 <br />一方で婚姻による所領の流失にも敏感であった。そのため、叔父と姪やいとこ同士(二重いとこの場合もあった)という血族結婚を数多く重ね、一族外に所領が継承される事態を防ごうとした。その結果、17世紀頃には誕生した子供の多くが障害を持っていたり、幼くして夭折するという事態が起こった[1]。特にスペイン・ハプスブルク家ではカルロス2世のような虚弱体質・知的障害を併せ持った王位継承者を誕生させ、スペイン王位をブルボン家に渡すこととなった。そのブルボン家も血族結婚を古くから重ねており、ブルボン家とハプスブルク家の間で頻繁に婚姻が行われるようになると、双方で夭折したり、成人に達しても身体に障害を持った人物が続出した。<br />・幸福な結婚、多産の伝統 <br />ほとんどは他の王侯がそうであるように政略結婚であった。しかしその割には夫婦仲が円満で子宝に恵まれたケースが多く、多産は伝統とも言える。そのため現代でもハプスブルク家に関して、陰謀などの血生臭いイメージはあまり無い。<br /><br /><br /><br />ウィーン<br />概要<br />ウィーン (Wien) は、オーストリアの都市名および州名であり、同国の首都でもある。人口は169万3570人(2009年6月30日)。都市単独で一つの連邦州である。位置は、北緯48度12分5秒、東経16度22分38秒。クラシック音楽が盛んで「音楽の都」・「楽都」とも呼ばれる欧州有数の世界都市である。ローマ帝国の宿営地ウィンドボナ (Vindobona) をその起源とし、かつてヨーロッパの数カ国を支配したハプスブルク家のオーストリア帝国の首都であった。マリア・テレジア女帝時代に栄えた市街は、フランツ・ヨーゼフ1世の治下で整備された。リンクと呼ばれる環状道路は、ウィーンの近代化を実現するために、19世紀の後半にかつて旧市街を囲んでいた堀を埋め立てて造られたものである。シュテファン寺院をや旧市街をふくむ歴史地区は、「ウィーン歴史地区」の名称で2001年にユネスコの世界遺産に登録された。ここには旧王宮(ホーフブルク、現在は大統領官邸や博物館、国立図書館などとして使用)・ウィーン国立歌劇場・ブルク劇場・自然史博物館・美術史博物館、南駅に近いベルヴェデーレ宮殿などが含まれる。<br />ウィーンは、そもそもの成り立ちが2つの道が交差するところに生まれた町であった。ドナウ川に沿ってヨーロッパを東西に横切る道と、バルト海とイタリアを結ぶ南北の道(「琥珀街道」)である。そこはゲルマン系、スラヴ系、マジャール系、ラテン系のそれぞれの居住域の接点にあたり、歴史的にみても、上述のように、紀元前5世紀以降ケルト人の居住する小村であったところにローマ帝国の北の拠点が建設されたのが起源であった。オスマン帝国の隆盛時にはヨーロッパからみてアジアへの入り口にもあたっており、伝統的にも多彩な民族性を集約する都市として栄えた。<br />その地理上の位置は、かつて共産圏に属した東ドイツのベルリンや東欧スラヴ民族の国家チェコのプラハよりも東であり、第二次世界大戦後の冷戦時代にあっても、国際政治上微妙な位置にあった。<br />また、都心から南南西方面に離れた場所には、かつてウィーン会議の舞台となったことで有名な世界遺産のシェーンブルン宮殿がある。これは、レオポルト1世が狩猟用の別荘として建てたものを、マリア・テレジアが離宮として完成させたものである。<br />現在のウィーンは、国際機関の本部の集積地ともなっており、日本政府も在ウィーン国際機関日本政府代表部を置いている。ウィーンに本部を置いている機関は次の通り。<br /><br /><br /><br />歴史<br /> ローマ時代 <br />ローマ時代、ウィーンはちょうど帝国の北の境界にあたる位置にあり、恐らくケルト語源でウィンドボナ(bonaはケルト語で集落・町)と呼ばれる宿営地が置かれた。これがウィーンの地名の起源と言われている。<br />18世紀のウィーン <br />シェーンブルン宮殿中世にもドナウ河沿いの交易地として発展したウィーンが本格的な発展期を迎えたのは、オーストリアを治めていたバーベンベルク家が1155年にクロスターノイブルクからウィーンに都を移したことに起因する。1221年、ウィーンは都市特権を獲得した。バーベンベルク家は13世紀半ばに断絶し、1278年よりオーストリア公となったハプスブルク家の支配下におかれた。14世紀、建設公と称されたルドルフ4世のもとで、ウィーンは大きな発展を遂げた。この時代にシュテファン寺院(シュテファン大聖堂)やウィーン大学が建てられている。やがてハプスブルク家は婚姻政策の成功により16世紀に入るとボヘミアやハンガリーを初めとする多くの王国を相続し、ドイツの神聖ローマ帝国の帝位を独占。16世紀前半にはカール5世のもとヨーロッパ最大のドイツ系の帝国を築くに至る。一時はオスマン帝国による第一次ウィーン包囲(1529年)など、ヨーロッパ全体を震撼させる事件もあったが、ハプスブルク家のもとで帝都ウィーンでは華やかな貴族文化が栄えていた。1683年にもオスマン帝国による第二次ウィーン包囲を受けたが撃退、17世紀末からは旧市街の王宮ホーフブルクに加え、離宮シェーンブルン宮殿が郊外(現在は市内)に造営された。これが18世紀末から現在に至る「音楽の都ウィーン」の礎となった。18世紀末にはヨーゼフ2世によりウィーン総合病院が開設され、プラーター公園が一般市民に開放されるなど都市環境が改善されていった。<br />19世紀半ばに産業革命を迎えたウィーンは農村からの人口流入により急激な人口増加を経験した。1869年に63万人であった人口は、1910年には203万を数え、当時のヨーロッパではウィーンは、ロンドン、パリ、ベルリンと並ぶ都会であった。1873年にはウィーン万国博覧会も開催されている。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は自ら立案して大規模な都市改造を行い、市壁を撤去し環状の道路(リンク)と置き換え、路面電車を導入するとともに、歴史主義的建造物やモニュメントを街路に面して配した。現在のウィーン旧市街の外観はこの改造によっている。<br />オーストリア=ハンガリー帝国は多民族国家であり、支配民族であったドイツ人は帝国の人口5千万の25%あまりを占めるにすぎなかった。帝国各地からの人口流入により、ウィーンの街ではドイツ語・ハンガリー語・チェコ語・ポーランド語・イディッシュ語・ルーマニア語はもちろんのこと、ロマ語・イタリア語までヨーロッパのあらゆる言語を耳にすることができたと言われる。<br />帝国各地からあらゆる民族出身の才能が集まり、ウィーン文化はその絶頂期を迎えた。<br /> 第一次大戦と帝国の崩壊 <br />1914年に始まった第一次世界大戦は1918年にドイツ帝国・オーストリア帝国の敗北をもって終了。ハプスブルク家のオーストリア帝国は解体し、チェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラビア、ポーランドなどが次々と独立、ウィーンは経済的困窮に追い込まれる。新しい共和国の首都となったウィーンでは社会主義系の市政が発足し、保守的な地方の農村部からは「赤いウィーン」と呼ばれて、両派の政治的確執は国政全体の不安定へとつながった。このような時代をウィーンで過ごしたアドルフ・ヒトラーはやがてドイツで独裁者となり、ヒトラーは母国オーストリアをドイツに併合し(アンシュルス)、ウィーンは約700年ぶりに首都でなくなった。<br /> 永世中立国の首都として <br />ウィーン国際センター(国連諸機関の入るオフィスビル)1945年、第二次世界大戦はまたしてもドイツの敗北に終わり、ウィーンは米英仏ソ四ヶ国の共同占領下に置かれた。映画『第三の男』はこの時代のウィーンの雰囲気をよく伝えている。1955年にオーストリアは主権国家として独立を回復。旧ハプスブルク帝国の継承国家の殆どが共産圏に組み込まれる中で、オーストリアでは共産党は国民の支持を得られず、経済的には西側との関係を保ったまま永世中立国として歩むことになった。オーストリア人のクルト・ヴァルトハイムは国連事務総長としてウィーンをニューヨーク、ジュネーヴにつぐ第三の国連都市にすることに成功した。ウィーンは数々の国際機関の所在地となった。しかし、鉄のカーテンにより、かつての後背地であった東欧を失ったウィーンの人口はゆるやかに減少を続けた。人口100万人以上の大都市のうち、20世紀を通して人口が減少したのはウィーンだけである。<br /> 現代のウィーン <br />1989年のベルリンの壁崩壊は、中欧におけるウィーンのもつ価値を蘇らせた。150万人を切っていた人口は外国人の流入により再び増加傾向にあり、2050年ごろには再び200万人の大台を回復すると予想されている。これは2004年に中東欧8ヶ国がヨーロッパ連合に加盟したのに加えて、2007年にはルーマニアとブルガリアが加盟、その後もクロアチアをはじめとするバルカン諸国の加盟が見込まれるからである。<br />ウィーンには中東欧の経済的中枢として多くの多国籍企業が進出するようになったが、旧共産圏諸国のインフラが整うにつれて、企業の拠点としてはプラハやブダペストなどとの競合も厳しくなっている。このため2005年には税制改革により法人税などが引き下げられた。<br />ウィーン市は現在バイオテクノロジー産業の育成に注力しており、Vienna Biocenterなどを積極的に整備している。他方、観光も相変わらずウィーンの重要産業である。国際会議の開催件数では06年はパリを上回り世界1位であった。

待ってろ、マリア~ オーストリア ウィーン

4いいね!

2009/10/17 - 2009/10/17

4595位(同エリア6444件中)

0

84

kawabekentarou

kawabekentarouさん

スロバキアへ行った後、オーストリアのウィーンを目指した。ウィーンに着いたらまずはジョゼフとエリザベートが居たルシェンブルク宮殿を目指さした。俺はマリア=テレジアを尊敬していたからどうしてもここには来たかった!!市民にもすごい好かれていたしね!!しかも、K・Kと言う字を好む。ちなみに俺のイニシャルもK・Kです。また、ヨーロッパを支配していたハプスブルク家にも興味があったし、ここにくれば自分の中の西ヨーロッパと東ヨーロッパが繋がるからだ。オーストリア=ハンガリー帝国時代においても重要な拠点である。
宮殿では日本語ガイダンスも借りれ、以前よりもハプスブルク家について詳しくなって嬉しかった☆マリー=テレジアやアントワネットの部屋や肖像画も見ることができたし、大満足。フランツ=ヨーゼフがいかに政務に勤め、勤勉かかを感じ取ることもできた。しかし中国人に気分を害された。宮殿には購入したチケットの値段によって入れる場所が限られている。明らかに、説明や、このチケットじゃ入れませんと注意書きとか、ガイダンスでも流れるのに、中国人たちは知らない振りして入っていこうとし、警備員に怒られている。うちらはちゃんと券をもっているのに、中国人のせいで、細かくチェックされた。せっかく気持ち良く拝観していたのに、凄く気分を害された。
市街地にも行った。市街地はモーツアルトだらけです。さすが音楽の都、ウィーン!!時間があれば生のオペラも見たかったな~。街にはパフォーマーも多いけど、日本人や韓国人のおばちゃんもたくさんいた。夜は南駅に戻り、ひろみちゃんと別れ、寝台車で念願のイタリアを目指した。

マリア・テレジアについて紹介します
マリア・テレジア
1717年、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール6世と皇后エリーザベト・クリスティーネの長女として誕生した。カール6世の最初の女子であり、両親は遥かヨルダン川の水で洗礼を受けさせたり、マリアツェル教会に黄金の子供像を奉納したりと歓迎した。「小さなレースル」は母親譲りの輝く美貌を持ち、市民からの人気も高かった。
政治家としてはオーストリアを強国にすべく、封建制度に縛られず様々な改革を行った。
・小学校の新設
他国に先駆け、全土に均一の小学校を新設。義務教育を確立させた。全国で同内容の教科書が配布され、各地域それぞれの言語で教育が行われた。その結果国民の知的水準が大きく上昇した。
・徴兵制度の改新
軍事行政委員が設置され、軍税徴収に関する等族の介入が排除された。1762年には軍事機構が宮廷軍事庁の下に統括され、宮廷軍事庁が最高決定機関となった。また、一般徴兵制が採用された。この徴兵制は全国民の無差別の兵役義務を承認しており(実際は身分差別あり)、農民出身であっても給料を得られるようになったことで、兵士達が安定した生活を保証され、オーストリアの軍事力は格段に上がった。 七年戦争後もマリア・テレジアによる改革は進められた。しかし、この頃になると啓蒙主義的な官僚の勢いが強くなり、改革も次第に啓蒙主義的な色彩を帯びるようになる。衣装の自由化(1766年)やイエズス会の禁止(1773年)などが代表的だが、彼女自身は次第に保守化した。1765年に死去した夫フランツに代わって帝位についた息子ヨーゼフ2世の急進的な改革姿勢とはしばしば意見が対立し、宰相カウニッツも彼女への不満を書き残している。
1780年、死去。遺体は最愛の夫フランツと共に、ハプスブルク家の墓所であるカプチーナ礼拝堂に埋葬されている。


ハプスブルク家について
ハプスブルク家はスイス北東部のライン川上流域を発祥地とする。この地にはハビヒツブルク(Habichtsburg:「鷹の城」)古城が現存するが、この「ハビヒツブルク」が訛って「ハプスブルク」になったと考えられている。1273年にハプスブルク伯ルドルフがドイツ王(皇帝に戴冠していない神聖ローマ帝国の君主)に選出されて世に出た。ルドルフ1世は、1278年にボヘミア王オタカル2世をマルヒフェルトの戦いで破り、1282年にオタカル2世の所領であったオーストリア公国を息子に与え、帝国南東部に勢力を広げる。これ以降、ハプスブルク家はスイスでは徐々に領地を失ったこともあって、もっぱら軸足をオーストリア地方に移す。1308年にルドルフの子アルブレヒト1世が暗殺された後、その子フリードリヒ美王は共同君主の地位を得たのを最後に帝国の君主位からは遠ざかり、勢力は一時衰える。しかし一族はオーストリア公として着実に勢力を広げ、やがてルドルフ4世が大公を自称した。
1438年にアルブレヒト2世が、次いで1440年フリードリヒ3世がドイツ王になってからは王位をほぼ世襲化することに成功し、1508年にマクシミリアン1世がローマ教皇から戴冠を受けずに皇帝を名乗り始める。その後、婚姻関係からハプスブルク家はブルゴーニュ公領ネーデルラント、ブルゴーニュ自由伯領(フランシュ=コンテ)、スペイン王国、ナポリ王国、シチリア王国などを継承し、皇帝カール5世の下でヨーロッパの一大帝国を現出させた。当時のスペインは中南米を植民地として支配していたため、カール5世の領土は「日の沈まぬ」大帝国であった。さらにカール5世の弟フェルディナント1世がハンガリー王、ボヘミア王に選出されたため、ハプスブルク家は東欧における版図を飛躍的に拡大した。
カトリックの擁護者としてプロテスタントと戦ったカールは、1521年に祖父マクシミリアン1世の所領を弟フェルディナントと分割した。また、父フィリップ美公や母フアナ女王を通じて相続した所領は1556年に息子フェリペ2世に継がせた。こうしてハプスブルク家はスペイン系ハプスブルク家とオーストリア系ハプスブルク家に分かれた。1549年に取り交わされた協定で弟フェルディナント1世の子孫が神聖ローマ皇帝位を世襲することになった。
¥結婚政策¥
「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」
の言葉が示すとおり、ハプスブルク家は婚姻によって所領を増やしていった。
現在も、最後の皇帝カール1世の子供達は婚姻によりスペイン、ベルギー、ルクセンブルクの君主位継承権を保持しており、それによって将来一族が君主に返り咲く可能性はある。
・血族結婚
一方で婚姻による所領の流失にも敏感であった。そのため、叔父と姪やいとこ同士(二重いとこの場合もあった)という血族結婚を数多く重ね、一族外に所領が継承される事態を防ごうとした。その結果、17世紀頃には誕生した子供の多くが障害を持っていたり、幼くして夭折するという事態が起こった[1]。特にスペイン・ハプスブルク家ではカルロス2世のような虚弱体質・知的障害を併せ持った王位継承者を誕生させ、スペイン王位をブルボン家に渡すこととなった。そのブルボン家も血族結婚を古くから重ねており、ブルボン家とハプスブルク家の間で頻繁に婚姻が行われるようになると、双方で夭折したり、成人に達しても身体に障害を持った人物が続出した。
・幸福な結婚、多産の伝統
ほとんどは他の王侯がそうであるように政略結婚であった。しかしその割には夫婦仲が円満で子宝に恵まれたケースが多く、多産は伝統とも言える。そのため現代でもハプスブルク家に関して、陰謀などの血生臭いイメージはあまり無い。



ウィーン
概要
ウィーン (Wien) は、オーストリアの都市名および州名であり、同国の首都でもある。人口は169万3570人(2009年6月30日)。都市単独で一つの連邦州である。位置は、北緯48度12分5秒、東経16度22分38秒。クラシック音楽が盛んで「音楽の都」・「楽都」とも呼ばれる欧州有数の世界都市である。ローマ帝国の宿営地ウィンドボナ (Vindobona) をその起源とし、かつてヨーロッパの数カ国を支配したハプスブルク家のオーストリア帝国の首都であった。マリア・テレジア女帝時代に栄えた市街は、フランツ・ヨーゼフ1世の治下で整備された。リンクと呼ばれる環状道路は、ウィーンの近代化を実現するために、19世紀の後半にかつて旧市街を囲んでいた堀を埋め立てて造られたものである。シュテファン寺院をや旧市街をふくむ歴史地区は、「ウィーン歴史地区」の名称で2001年にユネスコの世界遺産に登録された。ここには旧王宮(ホーフブルク、現在は大統領官邸や博物館、国立図書館などとして使用)・ウィーン国立歌劇場・ブルク劇場・自然史博物館・美術史博物館、南駅に近いベルヴェデーレ宮殿などが含まれる。
ウィーンは、そもそもの成り立ちが2つの道が交差するところに生まれた町であった。ドナウ川に沿ってヨーロッパを東西に横切る道と、バルト海とイタリアを結ぶ南北の道(「琥珀街道」)である。そこはゲルマン系、スラヴ系、マジャール系、ラテン系のそれぞれの居住域の接点にあたり、歴史的にみても、上述のように、紀元前5世紀以降ケルト人の居住する小村であったところにローマ帝国の北の拠点が建設されたのが起源であった。オスマン帝国の隆盛時にはヨーロッパからみてアジアへの入り口にもあたっており、伝統的にも多彩な民族性を集約する都市として栄えた。
その地理上の位置は、かつて共産圏に属した東ドイツのベルリンや東欧スラヴ民族の国家チェコのプラハよりも東であり、第二次世界大戦後の冷戦時代にあっても、国際政治上微妙な位置にあった。
また、都心から南南西方面に離れた場所には、かつてウィーン会議の舞台となったことで有名な世界遺産のシェーンブルン宮殿がある。これは、レオポルト1世が狩猟用の別荘として建てたものを、マリア・テレジアが離宮として完成させたものである。
現在のウィーンは、国際機関の本部の集積地ともなっており、日本政府も在ウィーン国際機関日本政府代表部を置いている。ウィーンに本部を置いている機関は次の通り。



歴史
ローマ時代
ローマ時代、ウィーンはちょうど帝国の北の境界にあたる位置にあり、恐らくケルト語源でウィンドボナ(bonaはケルト語で集落・町)と呼ばれる宿営地が置かれた。これがウィーンの地名の起源と言われている。
18世紀のウィーン
シェーンブルン宮殿中世にもドナウ河沿いの交易地として発展したウィーンが本格的な発展期を迎えたのは、オーストリアを治めていたバーベンベルク家が1155年にクロスターノイブルクからウィーンに都を移したことに起因する。1221年、ウィーンは都市特権を獲得した。バーベンベルク家は13世紀半ばに断絶し、1278年よりオーストリア公となったハプスブルク家の支配下におかれた。14世紀、建設公と称されたルドルフ4世のもとで、ウィーンは大きな発展を遂げた。この時代にシュテファン寺院(シュテファン大聖堂)やウィーン大学が建てられている。やがてハプスブルク家は婚姻政策の成功により16世紀に入るとボヘミアやハンガリーを初めとする多くの王国を相続し、ドイツの神聖ローマ帝国の帝位を独占。16世紀前半にはカール5世のもとヨーロッパ最大のドイツ系の帝国を築くに至る。一時はオスマン帝国による第一次ウィーン包囲(1529年)など、ヨーロッパ全体を震撼させる事件もあったが、ハプスブルク家のもとで帝都ウィーンでは華やかな貴族文化が栄えていた。1683年にもオスマン帝国による第二次ウィーン包囲を受けたが撃退、17世紀末からは旧市街の王宮ホーフブルクに加え、離宮シェーンブルン宮殿が郊外(現在は市内)に造営された。これが18世紀末から現在に至る「音楽の都ウィーン」の礎となった。18世紀末にはヨーゼフ2世によりウィーン総合病院が開設され、プラーター公園が一般市民に開放されるなど都市環境が改善されていった。
19世紀半ばに産業革命を迎えたウィーンは農村からの人口流入により急激な人口増加を経験した。1869年に63万人であった人口は、1910年には203万を数え、当時のヨーロッパではウィーンは、ロンドン、パリ、ベルリンと並ぶ都会であった。1873年にはウィーン万国博覧会も開催されている。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は自ら立案して大規模な都市改造を行い、市壁を撤去し環状の道路(リンク)と置き換え、路面電車を導入するとともに、歴史主義的建造物やモニュメントを街路に面して配した。現在のウィーン旧市街の外観はこの改造によっている。
オーストリア=ハンガリー帝国は多民族国家であり、支配民族であったドイツ人は帝国の人口5千万の25%あまりを占めるにすぎなかった。帝国各地からの人口流入により、ウィーンの街ではドイツ語・ハンガリー語・チェコ語・ポーランド語・イディッシュ語・ルーマニア語はもちろんのこと、ロマ語・イタリア語までヨーロッパのあらゆる言語を耳にすることができたと言われる。
帝国各地からあらゆる民族出身の才能が集まり、ウィーン文化はその絶頂期を迎えた。
第一次大戦と帝国の崩壊
1914年に始まった第一次世界大戦は1918年にドイツ帝国・オーストリア帝国の敗北をもって終了。ハプスブルク家のオーストリア帝国は解体し、チェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラビア、ポーランドなどが次々と独立、ウィーンは経済的困窮に追い込まれる。新しい共和国の首都となったウィーンでは社会主義系の市政が発足し、保守的な地方の農村部からは「赤いウィーン」と呼ばれて、両派の政治的確執は国政全体の不安定へとつながった。このような時代をウィーンで過ごしたアドルフ・ヒトラーはやがてドイツで独裁者となり、ヒトラーは母国オーストリアをドイツに併合し(アンシュルス)、ウィーンは約700年ぶりに首都でなくなった。
永世中立国の首都として
ウィーン国際センター(国連諸機関の入るオフィスビル)1945年、第二次世界大戦はまたしてもドイツの敗北に終わり、ウィーンは米英仏ソ四ヶ国の共同占領下に置かれた。映画『第三の男』はこの時代のウィーンの雰囲気をよく伝えている。1955年にオーストリアは主権国家として独立を回復。旧ハプスブルク帝国の継承国家の殆どが共産圏に組み込まれる中で、オーストリアでは共産党は国民の支持を得られず、経済的には西側との関係を保ったまま永世中立国として歩むことになった。オーストリア人のクルト・ヴァルトハイムは国連事務総長としてウィーンをニューヨーク、ジュネーヴにつぐ第三の国連都市にすることに成功した。ウィーンは数々の国際機関の所在地となった。しかし、鉄のカーテンにより、かつての後背地であった東欧を失ったウィーンの人口はゆるやかに減少を続けた。人口100万人以上の大都市のうち、20世紀を通して人口が減少したのはウィーンだけである。
現代のウィーン
1989年のベルリンの壁崩壊は、中欧におけるウィーンのもつ価値を蘇らせた。150万人を切っていた人口は外国人の流入により再び増加傾向にあり、2050年ごろには再び200万人の大台を回復すると予想されている。これは2004年に中東欧8ヶ国がヨーロッパ連合に加盟したのに加えて、2007年にはルーマニアとブルガリアが加盟、その後もクロアチアをはじめとするバルカン諸国の加盟が見込まれるからである。
ウィーンには中東欧の経済的中枢として多くの多国籍企業が進出するようになったが、旧共産圏諸国のインフラが整うにつれて、企業の拠点としてはプラハやブダペストなどとの競合も厳しくなっている。このため2005年には税制改革により法人税などが引き下げられた。
ウィーン市は現在バイオテクノロジー産業の育成に注力しており、Vienna Biocenterなどを積極的に整備している。他方、観光も相変わらずウィーンの重要産業である。国際会議の開催件数では06年はパリを上回り世界1位であった。

  • 地下深くまで続く地下鉄エスカレーター

    地下深くまで続く地下鉄エスカレーター

  • シェーンブルン宮殿<br />オーストリアの首都ウィーンにある宮殿。ハプスブルク王朝の歴代君主が主に離宮として使用した。<br /><br />現在、同宮殿と庭園群は世界遺産に登録されている。<br />

    シェーンブルン宮殿
    オーストリアの首都ウィーンにある宮殿。ハプスブルク王朝の歴代君主が主に離宮として使用した。

    現在、同宮殿と庭園群は世界遺産に登録されている。

  • 見学 <br />見学できる場所は居室1,200室のうち40室である <br />4月1日 から 6月30日 8:30-17:00 <br />7月1日 から 8月31日 8:30-18:00 <br />9月1日 から 10月31日 8:30-17:00 <br />11月1日 から 3月31日 8:30-16:30 <br />庭園のツアーは時間があればロング・ツアー、なければショート・ツアーを勧めている。<br /> 建物の見学料金 <br />インペリアル・ツアーは22室 音声ガイド付き 9.5ユーロ <br />グランド・ツアー は40室 音声ガイド付き 12.9ユーロ <br />尚、音声ガイドはトランシーバー型の端末で日本語でのガイダンスも聞ける。<br /> 賃貸住宅になった宮殿<br />シェーンブルン宮殿は観光客に公開されている2階部分を除いた居室が、文化財管理公社によって賃貸住宅として一般に貸し出されており、住民がいる。これは1960年代にウィーンの住宅問題を解決するために考え出されたものである。居住者は建物の性質を変えない程度のリフォームは許されている。現在では居住に不便な部分も多数あるといわれ、ウイーン市民にとっての住宅物件としての人気は低い。官舎であるため、公務員であることが入居の条件である。2LDKで100m&amp;sup2;、家賃は日本円で4万7千円。

    見学
    見学できる場所は居室1,200室のうち40室である
    4月1日 から 6月30日 8:30-17:00
    7月1日 から 8月31日 8:30-18:00
    9月1日 から 10月31日 8:30-17:00
    11月1日 から 3月31日 8:30-16:30
    庭園のツアーは時間があればロング・ツアー、なければショート・ツアーを勧めている。
    建物の見学料金
    インペリアル・ツアーは22室 音声ガイド付き 9.5ユーロ
    グランド・ツアー は40室 音声ガイド付き 12.9ユーロ
    尚、音声ガイドはトランシーバー型の端末で日本語でのガイダンスも聞ける。
    賃貸住宅になった宮殿
    シェーンブルン宮殿は観光客に公開されている2階部分を除いた居室が、文化財管理公社によって賃貸住宅として一般に貸し出されており、住民がいる。これは1960年代にウィーンの住宅問題を解決するために考え出されたものである。居住者は建物の性質を変えない程度のリフォームは許されている。現在では居住に不便な部分も多数あるといわれ、ウイーン市民にとっての住宅物件としての人気は低い。官舎であるため、公務員であることが入居の条件である。2LDKで100m&sup2;、家賃は日本円で4万7千円。

  • 位置と概要 <br />シェーンブルン宮殿は、ウィーンの中心部シュテファン大聖堂から西に直線で約5kmの位置にある。市内からは地下鉄U4号線に乗りシェーンブルン駅下車。庭園は東西約1.2km、南北約1kmの規模で、1779年頃から公開されている。<br />建物は、あらゆる部屋を合計すると1,441室あり、両翼の端から端まで180mあり、正面右側翼には宮廷劇場がある。また、広いフランス式庭園を挟んで宮殿に向かい合う丘の上にはグロリエッテという見晴台のような建物があり、ここからは周囲が一望できる(写真はこの丘からの眺望)。オーストリアで一番重要な観光資源で、年間入場数150万人。更に公園と動物園や行事での集客数520万人を合計すると年間には670万人が訪れる。外壁は金を塗ろうとしたところ、マリア・テレジアが財政の状況を考慮し、黄金に近い黄色にした、これをテレジア・イエローと云うが、彼女が好んでいた色というわけではない<br />

    位置と概要
    シェーンブルン宮殿は、ウィーンの中心部シュテファン大聖堂から西に直線で約5kmの位置にある。市内からは地下鉄U4号線に乗りシェーンブルン駅下車。庭園は東西約1.2km、南北約1kmの規模で、1779年頃から公開されている。
    建物は、あらゆる部屋を合計すると1,441室あり、両翼の端から端まで180mあり、正面右側翼には宮廷劇場がある。また、広いフランス式庭園を挟んで宮殿に向かい合う丘の上にはグロリエッテという見晴台のような建物があり、ここからは周囲が一望できる(写真はこの丘からの眺望)。オーストリアで一番重要な観光資源で、年間入場数150万人。更に公園と動物園や行事での集客数520万人を合計すると年間には670万人が訪れる。外壁は金を塗ろうとしたところ、マリア・テレジアが財政の状況を考慮し、黄金に近い黄色にした、これをテレジア・イエローと云うが、彼女が好んでいた色というわけではない

  • ヨーゼフさんと<br />ハプスブルク家は、現在のスイス領内に発祥したドイツ系の貴族の家系。古代ラテン人の有力貴族であるユリウス一門(カエサル家)の末裔を自称し、中世の血縁制度を利用した政略結婚により広大な領土を獲得、南ドイツを代表する大貴族に成長した。中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝を代々出した。また、後半は形骸化していたとはいえ、ほぼドイツ全域を統べる神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)の皇帝位をを中世以来保持し、その解体後もオーストリアがドイツ連邦議長を独占したため、ビスマルクによる統一ドイツ帝国から除外されるまで形式的には全ドイツ人の君主であった。ヨーロッパ随一の名門王家と言われている。

    ヨーゼフさんと
    ハプスブルク家は、現在のスイス領内に発祥したドイツ系の貴族の家系。古代ラテン人の有力貴族であるユリウス一門(カエサル家)の末裔を自称し、中世の血縁制度を利用した政略結婚により広大な領土を獲得、南ドイツを代表する大貴族に成長した。中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝を代々出した。また、後半は形骸化していたとはいえ、ほぼドイツ全域を統べる神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)の皇帝位をを中世以来保持し、その解体後もオーストリアがドイツ連邦議長を独占したため、ビスマルクによる統一ドイツ帝国から除外されるまで形式的には全ドイツ人の君主であった。ヨーロッパ随一の名門王家と言われている。

  • オペラ座

    オペラ座

  • モーツァルトの銅像

    モーツァルトの銅像

  • ホーフブルク宮殿<br />最初に作られたのは13世紀頃と言われている。 その後ハプスブルク家の王宮となり、神聖ローマ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国の皇帝の宮殿として使用。<br /><br />

    ホーフブルク宮殿
    最初に作られたのは13世紀頃と言われている。 その後ハプスブルク家の王宮となり、神聖ローマ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国の皇帝の宮殿として使用。

  • おもいよ〜

    おもいよ〜

  • シュテファン大聖堂<br />オーストリア、ウィーンにあるゴシック様式の大聖堂。ウィーン大司教区の司教座聖堂である。シュテファン寺院とも呼ばれる。<br />ウィーンのシンボル、観光名所のひとつでこの聖堂を含むリンク(Ring)と呼ばれるウィーン歴史地区は2001年にユネスコの世界遺産に登録された。オーストリアの音楽家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトとその妻ウェーバー・コンスタンツェの結婚式と葬儀が行われた聖堂としても知られている。<br />オーストリア公ルドルフ4世の命によって建造されたこの聖堂は、1359年に65年がかりで南塔が完成。107メートルの高さを持ち教会の塔としては世界で3番目の高さがある。

    シュテファン大聖堂
    オーストリア、ウィーンにあるゴシック様式の大聖堂。ウィーン大司教区の司教座聖堂である。シュテファン寺院とも呼ばれる。
    ウィーンのシンボル、観光名所のひとつでこの聖堂を含むリンク(Ring)と呼ばれるウィーン歴史地区は2001年にユネスコの世界遺産に登録された。オーストリアの音楽家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトとその妻ウェーバー・コンスタンツェの結婚式と葬儀が行われた聖堂としても知られている。
    オーストリア公ルドルフ4世の命によって建造されたこの聖堂は、1359年に65年がかりで南塔が完成。107メートルの高さを持ち教会の塔としては世界で3番目の高さがある。

  • 建築様式 <br />外観はゴシック様式で、内部の祭壇はバロック様式である。12世紀から建造が始まったこの聖堂で最古のものは13世紀の後期ロマネスク正面入口の門である。第二次世界大戦では直接の爆撃は受けることはなかったが、延焼により南塔にあったプムメリンという大きな鐘が落下するなど大きなダメージを受け、戦後寄付などにより再建修復が行われている。<br /> プムメリン <br />建造当時、南塔にあった大きな鐘。1683年にトルコ軍が敗退した際に残していった大砲などの武器を溶かし鋳造した。北塔のエレベータで上がると見ることが出来る。<br /> カタコンベ <br />地下室。1679年にペストがヨーロッパ中に蔓延した際、ウィーンでは約15万人の死者がでた。この地下室にはペストで死んだ人々約2,000体の遺骨と、ウイーンの司教、ハプスブルク家の心臓以外の内臓が保管されている。カタコンベの見学者のためのガイドツアーが一日数回行われている。<br />

    建築様式
    外観はゴシック様式で、内部の祭壇はバロック様式である。12世紀から建造が始まったこの聖堂で最古のものは13世紀の後期ロマネスク正面入口の門である。第二次世界大戦では直接の爆撃は受けることはなかったが、延焼により南塔にあったプムメリンという大きな鐘が落下するなど大きなダメージを受け、戦後寄付などにより再建修復が行われている。
    プムメリン
    建造当時、南塔にあった大きな鐘。1683年にトルコ軍が敗退した際に残していった大砲などの武器を溶かし鋳造した。北塔のエレベータで上がると見ることが出来る。
    カタコンベ
    地下室。1679年にペストがヨーロッパ中に蔓延した際、ウィーンでは約15万人の死者がでた。この地下室にはペストで死んだ人々約2,000体の遺骨と、ウイーンの司教、ハプスブルク家の心臓以外の内臓が保管されている。カタコンベの見学者のためのガイドツアーが一日数回行われている。

  • ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト<br />有名なクラシック音楽の作曲家の一人である。ハイドン、ベートーヴェンらとともに古典派と呼ばれる。<br />オーストリアの都市であるザルツブルクに生まれ、ウィーンで没した。称号は神聖ローマ帝国皇室宮廷室内作曲家、神聖ローマ帝国皇室クラヴィーア教師、ヴェローナのアカデミア・フィラルモニカ名誉楽長など。<br />また、彼をたたえ、水星には「モーツァルト」という名のクレーターが存在する。

    ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
    有名なクラシック音楽の作曲家の一人である。ハイドン、ベートーヴェンらとともに古典派と呼ばれる。
    オーストリアの都市であるザルツブルクに生まれ、ウィーンで没した。称号は神聖ローマ帝国皇室宮廷室内作曲家、神聖ローマ帝国皇室クラヴィーア教師、ヴェローナのアカデミア・フィラルモニカ名誉楽長など。
    また、彼をたたえ、水星には「モーツァルト」という名のクレーターが存在する。

  • モーツァルトの家と呼ばれていた場所

    モーツァルトの家と呼ばれていた場所

  • マックは俺を裏切らない

    マックは俺を裏切らない

  • ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン<br />1770年12月16日ごろ(洗礼を受けたのが12月17日であることしかわかっていない) - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。ボン生まれ。<br />楽聖と呼ばれ、クラシック音楽史上最も偉大な作曲家の一人とされる。その作品は古典派音楽の集大成とされている。<br />

    ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
    1770年12月16日ごろ(洗礼を受けたのが12月17日であることしかわかっていない) - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。ボン生まれ。
    楽聖と呼ばれ、クラシック音楽史上最も偉大な作曲家の一人とされる。その作品は古典派音楽の集大成とされている。

  • お決まりのビール

    お決まりのビール

この旅行記のタグ

4いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

オーストリアで使うWi-Fiはレンタルしましたか?

フォートラベル GLOBAL WiFiなら
オーストリア最安 478円/日~

  • 空港で受取・返却可能
  • お得なポイントがたまる

オーストリアの料金プランを見る

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP