2009/09/24 - 2009/09/25
585位(同エリア1393件中)
ムッシュさん
宿場町奈良井宿に14時頃到着したので、町通りや、周辺をゆっくり、じっくり散策できた。
いろんなお店巡りも出来て楽しいひと時を過ごせた。
皆さんも一度おいでやす!!
第34次 奈良井宿
天保14年 人口2155人、旅籠5軒、本陣1軒、脇本陣1軒
次の薮原宿まで5.3km。
木曽11宿中でも特に賑わった宿場です。昔と変わらない風情があり、家並みが美しい。
表紙フォトは、一晩宿泊した伊勢屋さんの表。
「奈良井は、戦国時代に武田氏の定めた宿駅となっており、集落の成立はさらに古いと考えられる。慶長七年(1602)江戸幕府によって伝馬制度が設けられてから中山道六十七宿が定められ、奈良井宿もその宿場の一つとなった。奈良井宿は木曽11宿中北から2番目の宿場町で木曽路のなかでもっとも標高の高い位置(約940m)にあり、木曽谷中の最大の難所鳥居峠(標高1197m)をひかえて「奈良井千軒」といわれるほど賑わいをみせていた。
中山道沿いに南北約1Km、東西約200mの範囲で南北両端に神社があり、町並みの背後の山裾に五つの寺院が配され、街道に沿って南側から上町、中町、下町の三町に分かれ中町に本陣、脇本陣、問屋などが置かれていた。」
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奈良井宿案内図
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八幡宮への参道
二百地蔵の横に立つ神社。
奈良井下町の氏神様で,奈良井宿の丑寅の方向にあたり鬼門除けの守護神として崇敬された。本殿は一間社流造で拝殿に取り込んでいる,建立年代は江戸時代と推定されている。 -
八幡神社、二百地蔵への短い参道です
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奈良井宿の入口に近い山の手に、”二百地蔵”をお参りに立ち寄りました。
後方の屋代が、八幡神社です
【二百地蔵】
右手奥の地蔵堂の前には、聖観音をはじめ千手観音・如意輪観音などの観音像が二百体近く合わせまつられている。明治期の国道開削・鉄道敷設の折に奈良井宿周辺から集められたという。 -
【二百地蔵】
八幡神社前の杉並木を抜けた左手の斜面に、静かに佇む石仏群があります。
和めるよーー!
地蔵堂の前に,聖観音をはじめ千手観音・如意輪観音などの観音像が194体祀られている。
木曽五木先の右手をヘアピン状に上ります、ここが古中仙道口です、それでは踏み込んでみましょう。
左手の石段上に八幡宮が鎮座しています、祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)を祀っています、奈良井宿下町の氏神です、奈良井宿の丑寅の方角にあたるところから、鬼門除けの守護神として崇敬されました。
木が橋戸の一里塚から続いていた古中仙道の痕跡です、古杉を十七本を残しています。 -
【八幡神社】
奈良井宿下町の氏神で、祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)。奈良井宿の丑寅の方角にあたり、鬼門除けの守護神として崇敬されたともいわれる。 -
奈良井川に架かる太鼓型「木曽の大橋」
樹齢300年以上の木曽桧で造られている日本一幅の広い木橋。
奈良井宿は木曽路最大の難所、鳥居峠(標高1197m)を控え、又、桧物細工、漆器、塗櫛等の木工業が盛んで、”奈良井千軒”といわれ「木曽の奈良井か薮原か、麦もとらずに飯をたく」といわれ大いに賑わいました。
木曽路の中かで最も標高(940m)が高く、宿長は八町五間(約882m)で上町、中町、下町で構成され、宿機能は中町にありました。
宿並は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、往時の面影を色濃く残しています。
天保?年(1843年)の頃、奈良井宿の宿内家数は409軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠5軒で、宿内人口は2,155人でした。 -
【奈良井川を跨ぐ木曽大橋】
水辺のふるさとふれあい広場の東側、奈良井川に掛けられている太鼓型の橋。
樹齢300年以上の天然木を使った総檜造りです。
橋脚を用いない木橋では幅員が日本一という奈良井の新名所の一つ。 -
それでは、宿内を歩きます。
石置き屋根の下町水場があります、下町水場組合が管理しています。
山の湧水がひかれた水場は、冷たい水で溢れてます。
かつての中山道を行き交う旅人ののどを潤したかも。 -
出梁造りの大屋根や千本格子を特徴とする古風な町並みが1kmに亘って続く。
この約1kmの間、本陣1、脇本陣1、問屋2、旅籠5、茶屋などの他に木地屋、漆器屋、櫛屋などの家並みが延々と続いている
かつては奈良井千軒と言われ木曽路で最も賑やかな宿場であった
かつての旅籠や旧家で、今でも民宿として営業を続けているところが多い
全部で、11軒(奈良井宿観光協会)営業しているという
なお、奈良井宿は旧中山道六十九次の丁度真ん中の34番目の宿場としても知られたところである
【出梁(だしばり)造】解説より
奈良井の町並みの多くは江戸時代から明治時代にかけて建てられたもので、比較的低い建物が古いものである。建物は、二階が一階よりも1尺5寸(45cm)ほど前にせり出した「出梁(だしばり)造」という形式で、一階と二階の境に取り付けられた小さな屋根(猿頭・鎧庇)は中山道でも奈良井宿にだけみられるものである。
鎧庇(よろいびさし)は猿頭(さるがしら)と呼ばれる木と、鎖で吊っただけの庇で、泥棒がよじ登ると庇ごと落ちるという仕掛がされている。 -
花野屋さん
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透かし彫りの幸せを呼ぶフクロウ
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[どこに宿泊したの?]
ハイ「御宿 伊勢屋です」。
http://www.oyado-iseya.jp
文政元年(1818年)創業の旧旅籠伊勢屋は、奈良井宿を代表する建造物の一つで当時は下問屋を努めていた。脇本陣を勤め下問屋を兼ねました、現業の旅館です。
翌朝、出発する際の記念フォトを宿diaryに載せてるようです。
http://www.oyado-iseya.jp/diarypro/diary.cgi?no=616 -
本日の御宿 【伊勢屋】です
江戸時代は下問屋も勤めていた。現在も往時の建物をそのまま保っており、奈良井宿建築の代表的なものになっている。料理は木曽山中で採れる山菜をはじめ、川魚料理など豊富な山の幸を出している。 -
御宿 伊勢屋さんの内部
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御宿 伊勢屋さんの内部
こちらで夕食を頂いた和室ですが、奥に長い造りです。 -
宿泊した伊勢屋さんの玄関ホール内。
入口幅より奥行きの深い宿です -
御宿 伊勢屋さんの内部
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この伊勢屋さんは、古くは下問屋であったと説明されてます。
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【鍵の手】
枡形と同じで、こちらは鍵の手と呼ばれている敵の侵入を妨げるため、わざと道を曲げてあるところだ
その鍵の手を曲がっても、未だ昔の家並みが続いている
街道が屈曲し水場と道祖神がある。
奈良井宿には今も六箇所に水場を保存してる。 -
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【国重要文化財 手塚家住宅】(国指定重要文化財)
上問屋跡です、手塚家が天保時代慶長7年(1602年)より明治維新まで勤め、庄屋を兼ねました、現在は上問屋資料館になっています。
家の前、通り沿いには【明治天皇御駐輦碑】、【史跡明治天皇奈良井行在所碑】があります、上段の間を残しています。
街道に面した格子戸が美し主屋、奥には別棟座敷、土蔵が配されている。
「この家は慶長七年(1602)から明治維新に宿場制度が廃止されるまで凡そ二百七十年間継続して奈良井宿の問屋をつとめてきました。天保年間からは庄屋も兼務して明治維新に至りました。
現在の建物は天保十一年の建築でその当時の記録が残されています。
明治十三年六月十六日明治天皇が御巡幸の際御在所となったそのお部屋は一番奥の上段の間であった。今もその当時のまゝ保存されております。
古くからこの家に伝えられた古文書、家具等を陳列したのがこの史料館です。
昔宿駅には幕府の役人や諸大名その他の旅行者用として、幕府の定めた一定数の伝馬(宿駅用の馬)と歩行役(人足)を定備しておいて、旅行者の需に応じた のであった。木曽11宿には1宿について25人の歩行役と25疋の伝馬を用意していたのである。この伝馬と歩行役を管理運用していたのが問屋である。問屋の下に数人の年寄役があってこれを補佐した のである。(パンフレットより)」 -
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【旅館「越後屋」】
「続膝栗毛」にそば二膳の失敗談有り。今も旅館を営む貴重な存在。
寛政年間より木曽路を旅する人々に愛されてきた旅籠。
玄関口に置いてある「旅籠行燈(はたごあんどん)は、江戸の昔から暖かい光を投げ掛けてきた。旅人達、文豪の島崎藤村・正岡子規、野麦峠を越えて来た飛騨の工女たちもこの灯りを見て心をなごませた。 -
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越後屋さん
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越後屋は当時のままで現在も旅館を続けてる。
一日2組で、6人までしか宿泊できません。 -
創業寛政年間(1789~1801年)の旅籠越後屋、今日も旅館を営んでいます。
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【松屋茶房】の入口
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【蔵元 杉の森酒造】さん
杉の森酒造があります、創業寛政五年(1793年)銘酒杉の森の蔵元です。
大吟醸「杉の森」で知られた杉野酒造店である原料米は美山錦とのこと
やや辛口のすっきりした呑口である -
珈琲処 つちや
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横水水場背後の赤松の根方に万延元年(1860年)建立の庚申塔、金毘羅大権現碑、小さな社等があります。
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ここは、松坂屋さんの店内です。
この方は、実は重い病を患っておられるのですが、こうして店内で、色紙や長半紙に、いろいろな言葉を筆墨で書いておられます。
体を揺すりながら一筆づつゆっくりと書かれます。見ていると感動的です。
訪れる客に、ご本人の気に入った書をプレゼントされてました。 -
松阪屋さんの店内で見つけた、昔の奈良井宿の写真。
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松坂屋さんの正面店先
松坂屋は朱塗りの大櫛看板を掲げています、奈良井宿の名産であった塗櫛を現在も取り扱う、ただ一軒の店です。 -
著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています。
【岐阻街道69次 奈良井宿 名産店之圖 (英泉)】
鳥居峠へ登り切る手前に数軒の茶屋があって、英泉はこの茶屋の一軒を奈良井の名産「お六櫛」を売る店に仕立て、また、峠から見えた御嵩山も近くに引き寄せて一緒に描いた。 -
早朝の奈良井宿の町並み
まだ人通りは殆ど有りません。 -
早朝に出発ですので、通りの人は我らが軍団だけです。
これから鳥居峠に向います。 -
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【高札場】
水場の隣に絵図に基づいて復元された。
「高札場は江戸時代幕府が定めた法律などを人々に周知徹底される目的で、掟、条目、禁制などを板に書き掲げていた場所である。宿場町の高札場には、とくに宿継ぎの駄賃を定めた高札なども掲げられ、また、宿場間の距離を測る起点ともなっていた。
奈良井宿の高札場は、京方の入り口にあたるこの場所におかれ、明治のはじめごろまで使われていたが、その後街道の廃止にともない撤廃された。この高札場は、当時の絵図にもとづいて昭和四十八年に復元されたものである。」 -
神社に隣接の【水場】
宮の沢水場があります、水場の背後には庚申塔、馬頭観音、廿三夜塔等の石仏石塔が集められています。
奈良井宿の町並みを特徴づけている水場は生活に欠かせない生活用水の確保や、火災が発生した場合に連なる家々への延焼を防ぐために、山からの豊富な沢水や湧き水を利用して設けられた。また、中山道を歩く多くの旅人が難所鳥居峠を越えるために水場で喉を潤した。現在奈良井は六箇所の水場が整備され、それぞれに水場組合を作り、維持・管理を行っている。 -
【鎮(しずめ)神社】
その昔、疫病に苦しむ奈良井の人々が、下総香取神社よりご神体を迎えて病を鎮めたことが名の起こり。
神社由緒書によると、
「鎌倉時代の初期、鳥居峠に建立されたものを天正年間(1573~92年)に、奈良井氏により、ここに移されたとのこともともとは疫病流行を鎮めるために建立されたようだ」
奈良井の南端、鳥居峠の登り口にある。 -
【鎮(しずめ)神社】が鎮座しています。
元和4年(1618年)疫病が流行た際に、これを鎮めるために上総國香取神社を勧請したところから鎮(しずめ)神社と呼ばれました、奈良井の氏神です。本殿は寛文四年(1664年)築で塩尻市指定有形文化財です。
奈良井・川入の氏神で、祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)。寿永から文治(12世紀後期)のころ中原兼遠が鳥居峠に建立、天正年間(1573~92)にいたり、奈良井氏が現在地に移したとつたえる。また、元和四年(1618)に、疫病流行を鎮めるため、上総国香取神社を勧請したことから鎮神社と呼ばれるという。本殿、寛文四年(1664)建築で、村指定有形文化財。社業は、村指定天然記念物。
これから鳥居峠に上ります。次の宿場は藪原宿方面です。
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