2009/09/25 - 2009/09/25
740位(同エリア1389件中)
ムッシュさん
奈良井宿を後にして、いよいよ鳥居峠越えで、藪原宿、宮の越宿へと木曽路を南下します。
薮原宿 第三十五宿(日本橋より261.5km)
天保14年、人口1493人、旅籠10軒、
すぐ後ろに険しい鳥居峠が控え、また野麦峠を越える飛騨方面への追分の宿として栄えた。お六串櫛やねずこ細工の産地として知られてる。木祖村総合庁舎となっている場所が元の脇本陣跡。
【最近の話題】
*藪原駅近くの木曽路蕎麦屋の”おぎの屋”にランチでよりました。
*ここは、テレ東202010月放映 ”出川哲郎の充電させてもらえませんか?”で、旅人メンバーがランチに訪問したお店です
*お店の紹介フォトは、旅行記中間過ぎにあります。
宮ノ越宿 第三十六宿(日本橋より269.5km)
本陣1軒、脇本陣一軒、旅籠二十一軒が連なる伝馬の中継ぎの宿。
木曽義仲ゆかりの地。
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これより右は【中山道鳥居峠への標識】
木曽街道薮原宿と奈良井宿を結ぶ古道は、標高119mの鳥居峠超えに終始する山道。深い山を分け入って進む古道は、江戸の旅人にとって中山道屈指の難所であった。 -
鳥居峠への山道の入口。
鳥居峠の第一登り口です、この分岐点には自然石道標「右上 鳥居峠/左下 奈良井宿」や中北道標「↑鳥居峠2.3km/奈良井宿100m JR奈良井駅1.2km→」があります。 -
信濃路自然遊歩道道標「←奈良井宿0.66km/鳥居峠10.5km→」
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木曽路で最初に御嶽山が見える所。一番遠くに薄らと見えるのが、御嶽山(3063m)。あの噴火した山です。「木曽ノー御嶽山」です。
反対側に木曽の駒ケ岳(2958m)も見えるというが?
塩尻峠は標高1197m
信濃川(奈良井川)と木曽川を日本海側と太平洋側に分ける分水嶺である
ここから麓の35番目の宿場・薮原宿の北側が、木曽川の源流となっている
これからはこの木曽川に沿っての街道歩きとなる -
御嶽山遥拝所
一番高く、遠くに見えるのが、木曽の御嶽山です。
【木の国の分水嶺を訪ね、霊峰御嶽を仰ぎ見る路】
かつての鳥居峠は中山道の最大の難所でした。その地形の険しさは現在も雨水を太平洋と日本海に分かつ「分水嶺」となっていることからも伺えます。
この峠一帯では、美濃の国と信濃の国が境界を争っていたこともあります。元慶元年(879)に、美濃の国に属することでいったんは決着。そのときに両国の境になったのが、当時「県坂」と呼ばれていたこの峠でした。 -
著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています。
【木曾街道69次 奈良井宿 英泉」35
遠景には御嶽山(おんたけさん)を描いています、 この御嶽山とお六櫛は密接な関係にあります。
英泉は奈良井として藪原宿の名物お六櫛の看板を掲げた峰の茶屋を描いています。
茶店ではお六櫛の実演販売が行われています、そしてこれを買い求める旅人の姿が描かれています。
藪原宿に下りると、お六櫛の問屋さんなど多数ありました。 -
この付近は、栃の木の群生地域で、栃の実を求めてや
って来るのが、喧嘩しても勝てない、”熊さん”です。
熊だって、人に会わずに、静かに栃の実食べて食事したいので、出来れば人間に会いたくない。
だから、ここをウォークする際は、この鐘を鳴らしてね。
いわゆる、熊除けの鐘です。 -
この辺り、丸山公園。峠付近です
この鳥居は、戦国時代に木曽義元が戦勝を祈願して建てたもので,鳥居峠の名の起こり。
【菊池寛「恩讐の彼方に」鳥居峠】奈良井宿観光協会が記した全文。
「恩讐の彼方に」の鳥居峠(華表嶺)での場面は、静かな中に一瞬凄絶を極める。そして、ここから遠く青の洞門へと舞台は移ってゆく。この鳥居峠には、作品として最も重要な動機が設定されているのであるが、思えば、その動機の背景をこれほど見事にふさわしく偲ばせるところもないのである。鳥居峠の貫禄というものであろう。
鳥居峠、特に奈良井側からの峠の、あの山の背を這うようにしてゆく崖道は、険阻そのものであると同時に、中山道全街道を通じて最も深い趣をもつといっていい。兎も角、幾百年の歴史の道は、その風格とも併せて春秋ただ素晴らしいの一語につきる。 (奈良井宿観光協会) -
峠では、御嶽山(おんたけさん)(標高3063m)を望むことができる為,遥拝所が設けられ,信者達によって御嶽神社が建てられた。
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【摩利支天像】
阿修羅像と同じく三面六臂(顔が三つに手が六本)の姿だ。摩利支天(まりしてん)とはサンスクリット語の Marici(マーリーチー)に漢字を当てたもので、「陽炎(かげろう)」という意味だという。陽炎のように捉えどころがなく、猪に乗って素早く移動する神様だ。つまり傷つかない神様なので、戦場で危険にさらされる武士の間で古くから信仰されていた。この遙拝所は戦勝祈願が目的で建てられた施設だ。闘いの神である摩利支天が中央に置かれている。 -
御嶽座王大権現。
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木祖村史跡鳥居峠碑があります。 峠の標識です
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石碑が並んでいます、
手前右が芭蕉句碑「雲雀よ里 うへにやすらふ 嶺かな」です。
左は信濃名所鳥居峠碑です。
もう一つ、天保13年(1842年)建立の芭蕉句碑「木曽の栃 浮世の人の 土産かな」があります。 -
著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています。
【木曽街道 藪原 鳥居峠硯ノ清水 英泉画】
義仲硯水(すずりみず)があります、平家追討の旗揚げをした木曽義仲はこの水で墨をすり、戦勝祈願の願書をしたため、御嶽山に奉納したといいます。
英泉は藪原としてこの辺りの風景を描いています、画面左には副題にある木曽義仲硯ノ清水、その清水の上には芭蕉句碑「雲雀(ひばり)より うへにやすらふ 峠かな」、 そして遠景に御嶽山を描いています。
画面中央には一服する旅人と柴を背負った母娘を描いています。 -
丸山公園から、眼下に見える薮原宿の町です。
これから一気に下り道で、藪原宿に向かいます。 -
飛騨街道追分の分岐点の説明板
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源流の里をイメージしたマンホールの蓋。
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鳥居峠から下りて来ました。
JR中央線の薮原駅舎。
藪原宿は木曽十一宿で、最も賑わったと伝えられる宿場。中山道、野麦峠、飛騨への道を分かつ追分としてもさかえた。
皇女和宮が都から徳川家へ御降嫁される際も藪原宿にお泊りになった。そのお供の数は2万五千。この行列が通過するに4昼夜かかった。 -
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藪原駅近くの木曽路蕎麦屋の”おぎの屋”です。
手打ちそばのおぎのやがあります、築百二十年の古民家を再生したお店です。
【話題】
テレ東2020年?月放映 ”出川哲郎の充電させてもらえませんか?” でランチに訪問したお店です。
次のフォトで店内を紹介します
続いて、近所に
慶長13年(1608年)創業の旅籠こめや(米屋興左衛門)があります、現在十九代目です、今も旅館を営業しています。
建物は明治17年(1885年)の大火後に須原宿より移築したものです、奥は木曽ヒノキによる新築です、伊藤左千夫、堀辰雄、河井寛次郎などの文人が宿泊し、若き日の藤田嗣治(つぐはる)も泊まり、ほととぎすの掛軸を残しています。
向に慶安三年(1650)創業の湯川酒造店があります、銘酒木曽路の蔵元です。 -
店内、お飾りの”おじゃみ”です。
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蕎麦や”木曽のおぎのや”の店内です。日本風囲炉裏の周りで食べます。
http://www.kiso-oginoya.jp/
長野県木曽郡木祖村薮原1123
Tel.0264-36-2012
定休日 水曜日
なにしろ!”まいうーー” -
【薮原一里塚の碑】
後ろに機関車D51が展示されてた。 -
藪原宿の名物 【お六櫛の問屋】さんです
お六さんは、妻籠宿の旅籠の娘で、妻籠宿で旅人の土産用の櫛を売り出したところ
大好評で「お六櫛」は妻籠宿の名物となった。
しかし、材料の粘りのある硬い木が不足して、薮原より調達していた
薮原では、材料だけの提供では利が少ないため、ここで作るようになり、いつか妻籠のお株を奪ってしまったようだ。弘化8年(1695年)には、薮原宿の2/3が
櫛関係の仕事に携わっていたとのこと。
藪原宿は、遠く江戸や京にもその名を知られる存在であった。
藪原宿は、本陣1、脇本陣2、旅籠10軒の宿場であった
また、旧東海道の土山宿でも”お六櫛”が有名です。藪原宿の櫛職人が、京からの帰り道、土山宿で、患った折、手厚い看病を受け、そのお礼に”お六櫛”の技術を伝授し、土山でも発展したとの事。 -
ご参考に
【薮原宿 お六櫛】(パンフより)
細かく精密な歯を持っている手造りの梳き櫛。名前の由来は、近在に住む美しい娘の名前から。 -
藪原宿【こめや旅館】
江戸時代からのつづている旅籠、「米屋(こめや)旅館」であるここの御主人は何と19代目とのこと。
創業は室町時代というからすごい。中山道の宿8選に選ばれている宿であった -
木曽村民センター前にある、D51SLです。
左下に写っているのは、一里塚碑。碑には「江戸より66里 京へ70里」と刻まれています。 -
木曽路、国道沿いを歩きます。
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【巴淵】
展望台の並びに巴淵森川許六句碑「山吹も 巴もいでて 田植えかな」があります、山吹、巴の二人は共に義仲の愛妾でした、許六は芭蕉の弟子で、師匠と同様に義仲を敬愛していました。
【木曽三川三十六景の一 伝説の残る巴が渕】
歴史が漂うこの渕は、巴状にうずまき、巴が渕と名づけられた。
伝説には、この渕に龍神が住み、化身して権の守中原兼遠の娘として生まれ、名を巴御前と云った。義仲と戦場にはせた麗将巴御前の武勇は、痛ましくも切切と燃えた愛の証しでもあった。巴御前の尊霊は再びこの渕に帰住したと云う。法号を龍神院殿と称えられ、義仲の菩提所徳音寺に墓が苔むして並ぶ。
絶世の美女巴は、ここで水浴をし、また泳いては武技を錬ったと云う。そのつややかな黒髪のしたたりと、乙女の白い肌元には、義仲への恋慕の情がひたに燃えていた。岩をかみ蒼くうずまく巴が渕、四季の風情が魅する巴が渕。木曽川の悠久の流れ共に、この巴が渕の余情はみつみつとして、今も世の人の胸にひびき伝わる。
蒼蒼と巴が渕は岩をかみ 黒髪愛しほととぎす啼く(日義村 日義村観光協会)
【日義八景巴ケ渕の春風】
美人何地去 千載水悠々
中有盤渦処 猶作巴字流
木曽の代官山村良由公の詩にあるように、この渕に水流が巴を作ってうずまいていた。義仲公の養父権之守、仲原兼遠の娘である巴御前は美人であり、女傑であったことは、あまりにも有名であるが、この渕に住んだ龍神が化身して公の義勇を助けたという伝説の中に、天下の風雲児義仲公に対する私達の祖先が、いかに味方したかが偲ばれて面白い。清水のこんこんと湧く泉があり、木曽殿が産土南宮神社を拝するときの手洗水としたと云われ、今も石舟が残されている。これより西に通づる道は、中仙道である。大名行列がとおり、馬や篭が片端(徳音寺区)をへて宮越宿にゆるゆると進んだ面影があり懐かしい。春の梅花の期、特に美しい。 (日義村観光協会) -
巴淵(ともえふち)
小さな滝からしたたり落ちています。
巴状に渦巻いていたので巴ヶ淵と名づけられた。
また、木曽義仲の妾で、木曽の豪族中原兼藤お娘巴御前巴御前は良くここで水浴をしていたとのこと
「山吹も 巴もいでて 田植えかな」の句碑がある。芭蕉の弟子、森川許六の句だ
旧中山道は、この橋を渡り進んでいくことになる -
【南宮神社 手洗水】
木曽川を巴橋で渡ると、正面に南宮神社手洗水があります。
木曽義仲がここで身を清めてから南宮神社に参拝したといいます。
往昔木曽義仲公鎮守南宮神社手洗水也 唱來發年歴事歎今新石船造立仕者也 (願主 村中) -
木曽義仲館(よしなかやかた)
木曽義仲公は800年の昔、日義の地において旗揚げして平家討伐を果たした。 -
【宮ノ越宿の入口にある義仲館】徳音寺の近くに義仲館がある。
木曽義仲と巴御前の像
街道を進み右手の義仲橋で木曽川を渡ると、右手に義仲館(よしなかやかた)があります、敷地内の正面には木曽義仲・巴御前像があります。
義仲館は木曽義仲31年の壮絶な生涯が歴史資料、絵画、人形等で再現されています。
木曽義仲は久寿元年(1154年)源義賢(よしかた)と小枝(さえ)御前の二男として武蔵國大蔵館で生まれ、同二年(1155年)伯父源義朝の長子義平に父が攻め滅ぼされると、二歳の駒王丸(義仲)は信濃國木曽に逃れ、中原兼遠に匿われ養育を受けました。
治承4年(1180年)後白河法皇第二皇子以仁王(もちひとおう)の平家討伐の令旨を奉じ旗揚げをしました。
寿永2年(1183年)北陸に進撃し、倶利伽羅峠で牛の角に松明をつけて平家の大軍を撃滅しました、この年入京した義仲は征夷大将軍に任ぜられたが、翌元歴元年(1184年)後白河法皇の策略によって源頼朝に敗れ、近江の粟津ケ原で討死となりました、31歳の短い生涯でした -
徳音寺の前に義仲館が建てられているふるさと創生事業の一環として平成4年に建てられたもの。
正面義仲館の正面にある、義仲・巴御前の鎧姿像である -
著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています。
【歌川広重「木曽街道六十九次・宮ノ越」】
木曽川を葵(あおい)橋で渡ります。
広重は宮ノ越として満月の中、らっぽしょ祭帰りの親子が渡る葵橋を描いています。
往時、宮ノ越宿では祭りをだっぽうと呼びましたが、今ではらっぽしょと呼ばれ、受け継がれています
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