2009/07/05 - 2009/07/07
669位(同エリア1217件中)
ミモザさん
夜中に雨音が聞こえ、朝には止むかな〜と期待していましたが、もっとひどい土砂降りに。
天気予報では曇りだったのに・・・そんなわけで楽しみにしていた馬籠からの峠越えも断念^^;
雨のなか馬籠宿の観光をして、早々に次の目的地木曽福島に向かいました。ハイキングはお天気次第、仕方ないですね。
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私達の泊まった部屋、隣にお布団を敷いてくれました。
簡素でいいのですが、このときは二組しか宿泊者がいなかったので、あまり問題はなかったのですが、混んでるときは、隣とふすま一枚、障子なので声が筒抜けでプライバ−シ−が妨げられるので、気にする人は不向きですね。
昔の旅籠の雰囲気を味わいたいひとはいいかな?もう一組の泊り客は外人さんでした。 -
朝食、素朴でいいのですが、ちょっと男性には物足りないかな?
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勝新太郎さんの映画「座頭市」のロケに使われたようで、写真が飾られていました。
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上丁子屋
弥次喜多珍道中の「木曽街道・続膝栗毛」に登場する黒股屋のモデルになったのが、枡形が残る旧街道脇に立つ上丁子屋だそうです。
時折ひどい土砂降りになり、写真でもわかるかと。 -
枡形跡
妻籠の枡形は、観光案内所から下嵯峨屋までの70mの間にあり、当時の形がくっきりとわかる姿で保存されている。江戸幕府の統治の一端が垣間見える、興味深い場所です。 -
枡形とは、宿場の出入り口に必ず設けられた直角に折れる道。外敵の侵入を防いだ。
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妻籠の町に溶け込む木造建築の、風情ある妻籠郵便局
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明治のポスト、その時はまだ生まれてないから知らないな〜
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郵便局の内部には郵便資料館が併設されている。明治4年から現在までのポストの模型が並べられていました。
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観光客をもてなす心使いが感じられます。
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何気なく飾られた素朴な花も回りにマッチしています。
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ついついこういうところに目がいき、カメラに収めたくなります。
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花飾りに、いいな〜と思い、私も買おうとしましたが、雨の中荷物になるのはやめました。
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そこに住む人たちの生活観がうかがわれます。
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マンデビラ ローズジャイアント
夏の代表的な花だそうです -
大きな朝顔みたい
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朝一で来ていた観光客も、この雨で喫茶店に入って休んでいた人がほとんどでした。
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サンシモン(クロホウシ)
サボテンの一種かと、多肉観葉植物、珍しいので撮ってみました。 -
アップで、初めてではないかもしれないけど、そんなに良く見る植物ではないですね。
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水車小屋と高札場
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もうこのあたりに来ると、私の靴も濡れて靴下もびしょびしょ^^;
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鯉岩
中山道三名石の一つでしたが、明治24年、濃尾大地震で鯉の頭の部分が落ちて形が変わってしまったので、よく分かりませんね。 -
鯉岩の前にあった熊谷家住宅
19世紀の初頭に建てられた長屋の一部。 -
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雨に濡れていっそう色鮮やかな花たち
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小野の滝
葛飾北斎や安藤広重の浮世絵にも描かれた滝。「小野の瀑布」で知られ木曽八景の一つにも数えられる。
今は鉄橋がかかり昔とは変わったようで。 -
寝覚の床美術公園
浦島太郎の伝説にちなんで、「時」をテ−マ−として作られた花崗岩のモニュメントやオブジェを鑑賞しながら寝覚の床に。(日時計のモニュメント) -
寝覚の床
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花崗岩が木曽川の水流によって侵食されてできた自然地形である。それぞれの奇岩は、形になぞらえ屏風岩、烏帽子岩、象岩、獅子岩などと呼ばれている。
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浦島伝説
寝覚の床には、浦島太郎が竜宮城から帰ってきた後の伝説が残っている。
浦島太郎は竜宮城から地上へ帰るが、まわりの風景は変わっており、知人もおらず、旅に出ることにした。旅の途中、木曽川の風景の美しい里にたどり着き、竜宮の美しさを思い出し、乙姫にもらった玉手箱をあけた。玉手箱からは白煙が出て、白髪の翁になってしまう。浦島太郎には、今までの出来事がまるで「夢」であったかのように思われ、目が覚めたかのように思われた。このことから、この里を「寝覚め」、岩が床のようであったことから「床」、すなわち「寝覚の床」と呼ぶようになったという。
(なんか嘘のようなホントの話) -
越前屋
寛永元年(1624年)に創業。現在分かっている限りで日本で3番目に古い蕎麦屋と言われております。
当時からさまざまな旅人が宿場に立寄り、立場茶屋として栄えてきました。
北川歌麿、十返舎一九、岡本一平氏、前田青邨氏などの書や画も残されており、島崎藤村の小説「夜明け前」にも登場 -
浦島太郎の長寿にちなんで「寿命そば」と名付けられていて、白いおそばをいただきました。(1200円)
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大正元年造 旧旅館(越前屋)
今のお店の横の坂を少し登ると見られます。 -
木曽の桟
険しい崖に丸太や板を藤づるで結わいて造られた通路で、難所として知られ歌枕ともなっていた。正保4年(647)通行人のたいまつで焼失、尾張藩は翌年中央部を木橋とした100メートルに及ぶ石垣道を築造した。現在も国道一九号線の下に石垣部分はそのまま残されて県指定の史跡となっている。
どうも反対側だったようで、これは橋の下の岩でした。
m(_ _)mスマン
次は木曽福島に入ります。
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