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 ローズガーデンを後にして、高遠城址公園に戻って来ました。春のさくらと秋の紅葉では非常に賑やかになります。<br />しかし、今は新緑以外なにも無くひっそりと、静まり返ってます。

高遠? 高遠城址と進徳館

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2009/06/17 - 2009/06/17

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しゅいぐー

しゅいぐーさん

 ローズガーデンを後にして、高遠城址公園に戻って来ました。春のさくらと秋の紅葉では非常に賑やかになります。
しかし、今は新緑以外なにも無くひっそりと、静まり返ってます。

  • 高遠城はこの地方の名族・諏訪氏の一族である高遠氏が居城としていたが、天文14年(1545)4月、武田信玄の大軍が杖突峠を越えて高遠城を取り囲み、高遠氏七代頼継は自ら城を開いて降伏した。<br /> 武田信玄は高遠城を伊那地方への進出の拠点とするため、天文16年(1547)、山本勘助、秋山信友に命じて信玄流城構えの技法を駆使した大規模な改築を行ない、秋山信友らを城主とした。<br /> 永禄5年(1562)には武田勝頼が城主となったが、元亀元年(1570)武田信玄は勝頼を自分の後継者として甲斐に戻らせ、信玄の弟信廉が城主となる。<br /> 次いで天正9年(1581)には勝頼の弟の仁科盛信が高遠城主となるが、翌天正10年(1582)年2月、織田信長は信玄亡き後の武田氏を一気加勢に攻め滅ぼすため、長男信忠に5万の大軍を与えて高遠城に迫らせた。高遠城に籠もる城兵の数は3千。織田信忠の降伏勧告を退けて、仁科盛信を先頭に奮戦するもむなしく、凄惨な戦いのすえ全員が玉砕して落城した。武田勝頼が天目山で自刃し、武田氏が滅びたのは、この合戦の9日後のことである。<br /> 織田氏の支配のもと、高遠城攻めに功のあった毛利秀頼が城主となるが、そのわずか3ヵ月後に本能寺の変が起こり、高遠城に突如木曽義昌が攻め込み、占領した。以後、徳川家康と木曽義昌の攻防の舞台となるが、結局、家康によって木曽義昌は高遠城を追われて深志城(松本城)に撤退した。<br /> 徳川の時代となると、京極氏・保科氏・鳥居氏と城主は交代したが、元禄4年(1691)内藤清枚(きよかず)が3万3千石で入封。以後、高遠城は内藤氏8代の居城として明治維新を迎える。

    高遠城はこの地方の名族・諏訪氏の一族である高遠氏が居城としていたが、天文14年(1545)4月、武田信玄の大軍が杖突峠を越えて高遠城を取り囲み、高遠氏七代頼継は自ら城を開いて降伏した。
     武田信玄は高遠城を伊那地方への進出の拠点とするため、天文16年(1547)、山本勘助、秋山信友に命じて信玄流城構えの技法を駆使した大規模な改築を行ない、秋山信友らを城主とした。
     永禄5年(1562)には武田勝頼が城主となったが、元亀元年(1570)武田信玄は勝頼を自分の後継者として甲斐に戻らせ、信玄の弟信廉が城主となる。
     次いで天正9年(1581)には勝頼の弟の仁科盛信が高遠城主となるが、翌天正10年(1582)年2月、織田信長は信玄亡き後の武田氏を一気加勢に攻め滅ぼすため、長男信忠に5万の大軍を与えて高遠城に迫らせた。高遠城に籠もる城兵の数は3千。織田信忠の降伏勧告を退けて、仁科盛信を先頭に奮戦するもむなしく、凄惨な戦いのすえ全員が玉砕して落城した。武田勝頼が天目山で自刃し、武田氏が滅びたのは、この合戦の9日後のことである。
     織田氏の支配のもと、高遠城攻めに功のあった毛利秀頼が城主となるが、そのわずか3ヵ月後に本能寺の変が起こり、高遠城に突如木曽義昌が攻め込み、占領した。以後、徳川家康と木曽義昌の攻防の舞台となるが、結局、家康によって木曽義昌は高遠城を追われて深志城(松本城)に撤退した。
     徳川の時代となると、京極氏・保科氏・鳥居氏と城主は交代したが、元禄4年(1691)内藤清枚(きよかず)が3万3千石で入封。以後、高遠城は内藤氏8代の居城として明治維新を迎える。

  • ここから入場です。

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  • 問屋門

    問屋門

  • 問屋門の説明

    問屋門の説明

  • 高遠城の戦いの説明

    高遠城の戦いの説明

  • 太鼓橋の説明

    太鼓橋の説明

  • 太鼓橋から見たお堀

    太鼓橋から見たお堀

  • 南曲輪の説明

    南曲輪の説明

  • 本丸址

    本丸址

  • 本丸址

    本丸址

  • 白兎橋の説明

    白兎橋の説明

  • 白兎橋

    白兎橋

  • 1860年(万延元)、最後の藩主・内藤頼直によって、高遠城内に開設された学問所。財政難で新たな建物の建設ができなかったため、城内三の丸にあった家老の空屋敷を改造して使用。藩士の子弟らは朱子学・漢学・医学・和学・算学・洋学などを学んだほか、馬術・剣術・柔術・砲術・西洋式教練なども行った。1871年(明治5)の廃止までに通算500人の生徒が学び、日本の近代化を担った多くの学者や政治家を輩出。

    1860年(万延元)、最後の藩主・内藤頼直によって、高遠城内に開設された学問所。財政難で新たな建物の建設ができなかったため、城内三の丸にあった家老の空屋敷を改造して使用。藩士の子弟らは朱子学・漢学・医学・和学・算学・洋学などを学んだほか、馬術・剣術・柔術・砲術・西洋式教練なども行った。1871年(明治5)の廃止までに通算500人の生徒が学び、日本の近代化を担った多くの学者や政治家を輩出。

  • ここから入場です。入場料無料でした。

    ここから入場です。入場料無料でした。

  • 静かな佇まい

    静かな佇まい

  • 落ち着いて勉強ができそうです。

    落ち着いて勉強ができそうです。

  • 進徳館の説明

    進徳館の説明

  • 間取りです。

    間取りです。

  • 風が通り抜け涼しく感じます。

    風が通り抜け涼しく感じます。

  • 聖廟には孔子ほか四聖人が祀られている。

    聖廟には孔子ほか四聖人が祀られている。

  • 良い感じです。

    良い感じです。

  • 外観

    外観

  • 孔子廟の説明

    孔子廟の説明

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