2009/05/28 - 2009/05/28
936位(同エリア1159件中)
ムッシュさん
東餅屋から、最高地点の和田峠を越えて、一気に諏訪湖の町、下諏訪まで下ります。
下諏訪宿 第二十九宿 (日本橋より219km)
下諏訪は69宿の中で唯一温泉の湧く宿場。
甲州街道の終点でもあり、北には中山道最大の難所和田峠を控え、多くの旅人で賑わった。
諏訪大社の総本山が鎮座する門前町であった。旅籠、茶屋などが保存公開されている。
- 旅行の満足度
- 5.0
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著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています
【木曽海道六拾九次之内 和田 広重画
木曽名所図会には「西坂険し、東坂やすらかなり、三月の末まで雪あり寒し」と著されています。 -
和田峠の表示
頂上には御岳山権現碑、馬頭観音碑、賽の河原地蔵が建つ。
和田峠の頂上に到着です、 峠の標高は1531m、厳冬期の峠越は想像を絶するものがあったといいます。
信州を南北に分ける分水嶺で,水は峠を境にかたや日本海,かたや太平洋へと流れていく。 -
和田峠は険しい山中にあり、江戸方の和田宿と京方の下諏訪宿の間は五里十八町(実測22.6km)と長く、冬季は降雪も多く、中山道最大の難所でした。
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和田峠0.9k、諏訪大社秋宮11.1kの標識。
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【西餅屋茶屋跡】の説明板
土道を下ると開けた草地が現れます、西餅屋村跡です。
「西餅屋」は立場茶屋。
力餅を食べさせる茶屋が四軒(小口家茶屋本陣・武居家・犬飼家・小松家)建っていた。寛永頃より一軒につき一人扶持が幕府から給された。幕末には大名のための茶屋本陣も置かれ小松家が務めた。
幕末元治元年(1864)水戸天狗党と松本藩・高島藩との戦いで焼失したが,すぐに再建された。現在は道の「曲之手」(直角な曲り)と茶屋跡の平地が残っているのみ。藩界にあるので「穀留番所」(天保4年(1833)全国的な冷害による凶作のため米価高騰や飢饉が発生し,世情不安となった。信濃高遠藩や高島藩では国境に穀留番所を設置して他領への米穀の流出を防止した)も置かれたと云う。 -
和田峠1.5k、諏訪大社秋宮10.5kの標識。
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和田峠4.9k、諏訪大社秋宮7.1kの標識。
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【水戸浪人塚の説明板】
上洛する天狗党と阻止する松本・高島藩の間で戦闘があった。
元治元年(1846年)11月20日、高島藩580名と西餅屋から合流した松本藩兵350名、計930名が樋橋に布陣した、連合軍は大木の橋頭堡を築き、大砲四門を据え臨戦態勢を整えた。
一方武田耕雲斎率いる水戸天狗勢は騎馬200騎、小荷駄50疋、大砲15門、歩兵数100人合わせて千余名でした。
未の刻(午後三時)に戦端が開かれたが、狭い峠道を下る天狗勢は圧倒的に不利でした。
陽が傾いた頃、この状況を打破すべく、天狗勢の軍師山国兵部は香炉岩辺りから密かに200名の軍勢を砥川の谷伝いに迂回させ、両藩の後方を突かせました、これを機に全面も一気に押出すと、連合軍は総崩れとなりました。
この戦いによって高島藩は4名、松本藩は4名、水戸天狗勢は?余名の戦死者を出した。
和田嶺砥澤合戦跡。
主要武器はきわめて初歩の大砲十門くらいづつと猟銃少しだけで、あとは弓、槍刀が主要武器として使われた。半日戦に浪士軍十余、松本勢に四、諏訪勢に六柱の戦死者があり、浪士たちは、戦没者をここに生めっていったが、高島藩は塚を作って祀った。碑には、当時水戸に照会して得た六柱だけ刻まれている。明治維新を前にして尊い人柱であった。 -
浪人塚の石塔郡
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「樋橋(とよはし)古戦場跡」碑
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御柱祭で有名な木落とし坂まで200mの標識。
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御柱祭は数えで七年(満六年)毎の寅年と申年に行われる諏訪大社下社の大祭です、諏訪大社下社の春宮と秋宮に立てる御柱(樅の大木)八本を奥山から切り出し、曳行の途中、この坂から御柱を落とす神事が下社山出し祭最高の見せ場木落しと呼ばれる奇祭です。
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下社に立てる樅の大木に氏子が乗り、急斜面を滑り落とす。
【諏訪大社 御柱木落し坂】
諏訪大社の御柱祭は、七年毎申・寅年に行います。規模の大きさ、勇壮・豪快なことは比類なく、天下の大祭として知られています。
樅の巨木を奥山から切り出し、社の四角に建てるのですが、山から切り出す「山出し祭」が御柱年の四月、町内を曳行し建立する「里引き祭」を五月に行います。
曳行途中、木落し坂と呼ぶこの急坂で、御柱を引き落とすのが下社山出し祭最高の見せ場「木落し」です。男意気に駆られる若者たちが、群がりうちまたがった御柱を、100m余り・傾斜度45度近い崖のようなこの木落し坂頂上から、一気に引き落とします。落下の反動で、若者たちの大半は放り出され御柱とともに転がり落ちる、一帯を埋めつくす大観衆は一瞬息をのみ、驚声と大喚声が沸き上り、その豪壮さは筆舌に尽くせません。
「男見るなら七年一度 諏訪の木落し坂落し」
と唄われてきました。この木落し坂での木落しは、下社春宮・秋宮の御柱八本を三日にわたって行います。 -
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【芭蕉句碑】
元禄3年(1690年)49歳時の句です。
「ゆき散るや 屋のすすきの 刈残し」 -
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【諏訪大社春宮】
諏訪大社は4社あり、上社は本宮と前社、下社は春宮と秋宮。秋宮の立川流に対抗して、大隈流宮大工が造営。
諏訪大社は、信濃國一之宮で全国各地にある諏訪神社の総本社です。
諏訪大社には本殿はなく春宮は杉の木を御神木としています、諏訪明神は古くは風、水の守護神で五穀豊穣を祈る神で、また武勇の神としても広く信仰された。
境内を進むと正面に神楽殿(かぐらでん)があり、神前に神薬を奉納する為の建物で、天和年間(1681~84)頃の創建です。
神楽殿を回り込むと幣拝殿(へいはいでん)があります、御幣(ごへい)を奉ずる幣殿と拝殿が一体となったものです、二重楼門造りで安永9
年(1780年)の創建です(国重文) -
諏訪大社春宮
下社最初の鎮座地と考えられ,農耕開拓神の様式を伝える1月15日の筒粥の神事が伝わっている。拝殿は大隅流の村田長左衛門矩重の作。秋宮の立川流と競って作ったものと言われ,清楚な美しさが特徴となっており,国重要文化財である。
諏訪大社は「お諏訪さま」として全国に知られる。諏訪湖をはさんで南側の守屋山麓に上社,北側に下社がある。上社は本宮(諏訪市神宮寺)と前宮(茅野市安国字寺),下社は秋宮(下諏訪町上久保),春宮(同町大門)に分かれている。「官幣大社諏訪神社」が終戦後の昭和23年(1948)に諏訪大社と改称された。
古くは狩猟農耕の神,武士の時代には軍神として,そして現在は産業・交通安全・縁結びの神として崇められている。 -
【万治の石仏】
万治三年の刻銘。彫刻が施された自然石の上に仏頭が乗る石仏。その容貌から謎の石仏とされた。
万治の石仏は万治3年(1660年)の建立。春宮の石の大鳥居を造る際、石工がこの石にノミを打つと、血が流れ出たといいます、そこで石工はこの石に阿弥陀如来を刻んで霊を鎮めたといいます。
明暦3年(1657年)、諏訪高島三代目藩主忠晴が、諏訪大社下社春宮に大鳥居を奉納しようとした時のこと。石工がこの地にあった大きな石を使おうとノミを打ち入れたところ、血が流れ出た。驚き恐れた石工は大鳥居の造作を止め、あらためてこの不思議な石に阿弥陀様を刻み、霊を納めながら建立したのがこの石仏だと伝えられています。建立した願主が、万治3年(西暦1660年)と刻まれていることから、万治の石仏と称されることになりました。 -
この万治の石仏(マンジノセキブツ)は大きいよ
高さ2m60?、横3m80?、奥行き3m70?もあるって。
自然石で安山岩で出来てるよ。
偶々、御柱祭を見学にきて、この石仏に対面した岡本太郎や新田次郎が感歎されたことが話題になり、全国に知られることとなった。
春宮の境内から朱塗りの浮島橋をわたり、歩くこと3分。稲穂のさざめく田んぼに囲まれ、どんっと鎮座しているのが万治の石仏です。巨大な自然石の胴体に対してアンバランスな頭がちょこんと乗るユーモラスな風貌に加え、胸部に描かれた逆卍(ぎゃくまんじ)や雷、月や太陽などの記号がミステリアスで、1974年に下諏訪を訪れた芸術家、岡本太郎氏(1911-1996)がカメラを持つ手をふるわせながら「世界中歩いているが、こんなに面白いものは見たことがない」と絶賛し、講演又は雑誌等で全国に紹介されたことから有名になりました。
建立は万治3年(1660年)と刻まれてる。 -
万治の石仏に感銘した岡本太郎の石碑も残る。
田んぼの真ん中に異様な石像。袈裟衣と仏の手印が線刻された大きな岩に三角形の鼻の大きい小さな石の頭部がちょこんとのる、見る者を思わずほほえませてしまうようなユニークな姿に,画家岡本太郎や作家新田次郎が「こんな面白いものは見たことない」とその素朴さに感嘆して一躍話題を呼び世に知られるようになった。
「万治」は,この石仏を建立した願主が万治3年(1660)と刻まれていることによる。正面に一礼。「よろずおさまりますように」と念じ、願いごとを心で唱えながら石仏の周りを時計回りに3周し、正面で「よろずおさめました」と唱え、一礼すると好いそうだ。
一説によると,明暦3年(1657),諏訪高島三代藩主忠晴が,諏訪大社下社春宮に遺石の大鳥居を奉納しようとした時のこと。命を受けた石工がこの地にあった石を用いようとノミを打ちいれた折,はからずも傷口から血が流れ出た。驚き怖れた石工は,作業を中断。その夜、石工の夢枕に上原山(長野県茅野市に良い石材があると告げられ探したところ、良材が見つかり無事に大鳥居が完成した。そこで石工たちは、 この不思議な意思に阿弥陀様を刻んで供養したと伝えられている。唐沢山阿弥陀寺を開山した江戸初期の高僧・弾誓(たんぜい)上人の入寂50回忌に建てられた供養墓との説もある。
高さ2m60cmの半球状の自然石(安山岩)に頭部が乗っかっているユニークな石仏である。 -
「右手黒板張りの土蔵前に一里塚跡碑」
下諏訪の一里塚跡です、下之原の一里塚跡ともいいます、江戸日本橋より数えて55里目、220kmです。 -
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【岩波家本陣】
格式高い門構えの岩波家は、本陣問屋役を元禄元年から明治維新まで務めた家柄。諏訪大社下社秋宮の境内を借景とした中山道随一の名園とともに敷地1865坪,建坪277坪の豪壮な建物として知られている。現在は半分が旅館(分家),残る半分(本家)が有料で公開されている。和宮が泊まったと云う上段の間は,分家「かめや」にある。 -
下諏訪ー本陣
【〔史跡 本陣遺構〕】 下諏訪文化財(昭和47年2月指定)
江戸時代中山道の大きな宿場として殷盛をうたわれた下諏訪宿の問屋兼本陣の大半がそのままここに残っている。維新前は公卿や大名たちの休泊所になり、文久元年(1861)11月には関東へ御降嫁の和宮さまのお泊所になり明治13年6月24日明治天皇ご巡幸のときにはお休所になった。 -
先の左手に【岩波本陣跡(下諏訪町文化財)】が現存。
岩波家は元禄元年(1688年)から明治維新まで本陣を勤め、問屋を兼ねました。
敷地1,865坪、建坪277坪と広大で、諏訪大社下社秋宮の社叢を借景とした名園は中山道随一といわれました。
文久元年(1861年)11月5日、皇女和宮は岩波本陣にて14日目の夜を過ごしました、上段の間は分家の聴泉閣かめやに移設されています。
和田嶺合戦に勝利した水戸天狗勢は闇夜の中を進軍し、無人の下諏訪宿に入り、幹部は岩波本陣と来迎寺に分宿し、隊士は旅籠や民家に宿泊しました。 -
木曽名所図絵 下諏訪宿
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【塩羊羹屋 新鶴本店】
明治6年創業。
諏訪大社秋宮脇にあり、名物の塩羊羹が有名。
元祖塩羊羹の老舗で支店は出していないのでここでしか買えない。
旅人たちの間で広まり評判になった。現在も創業時と変わらぬ味で多くの人に親しまれてる。 -
【本陣先の左手に甲州道中中山道合流之地碑】
ここが甲州道中の終点であり、中山道との追分です。 -
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著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています
【木曽海道六拾九次之内 下諏訪 広重画】
本陣(岩波家)の庭から上段の間を見た様子。 -
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巨大な御柱のモニュメントがあります、
ご神木を引く際の男綱(おづな)と女綱(めづな)がより合わさっています。 -
【春宮の石灯籠】
諏訪大社春宮矢木先大門の是の石灯籠は、文政十二年巨匠山田金衛門の名作にして其の由緒上又雄渾なる形状からも當地方稀有の存在にして當大社の文化財の一なり。
近時市街地の發展と交通事情の激化に伴い危殆に瀕するを憂い地元融資相倚り相議り浄財を捧げこれが保護の萬全を期し約一米現地に移動し併せて周囲を美化し以って大社の尊厳を永遠に護持せられたり。茲にその工事の完成に際し經緯を述べ併せて各位の篤志を後昆に傳えむとす。 -
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【平福寺】
真言宗智山派彌林山平福寺があります、境内の日限地蔵尊は日を限って一心に願掛けすると願いが叶うといわれます。 -
【東堀一里塚跡】
江戸日本橋より数えて五十六里目です -
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明治天皇今井御膳水碑
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【今井番所跡】
冠木門脇に今井番所跡碑があります、高島藩(諏訪藩)が設けた口留番所(穀留番所)です。
今井地区は、地勢上住吉より道の存在が想定されるが、史実の上に出てくるのが、鎌倉時代の街道であり、戦国時代武将兵が往来した道であり、江戸時代の中山道である。
徳川幕府は、関ヶ原戦勝後、全国統治のため街道を制定し、慶長六年に東海道を開削して、慶長七年(1602)本州中部を横断する中山道を開削した。中山道は当初此処から東方の東掘から川岸を経て木曽へ通じる道であったが、諸事情により12年後の慶長19年に塩尻峠越えの道を開削した。この碑の前の道がその中山道である。道幅は二間二尺(約4.24m)であったが、昭和に入り交通事情にて拡張されている。
今井番所は高島藩の口留番所。口留番所は,旅人の通行や荷物の取り調べを行った所。ここを通過するには高島藩の通行手形が必要だった。 -
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【明治天皇今井御小休所】
番所の向いに旧御小休本陣跡があります、木曽義仲の四天王今井四朗兼平を祖とする今井家が茶屋本陣を勤めました、主屋等十一棟が国文化財です。
皇女和宮が休息し、門脇には明治天皇今井御休所跡碑があります。
旧今井家は、中山道塩尻峠の東の登り口にあって、古交通上の要衝で、江戸時代には、こゝに御小休本陣が設けられ、今にその旧観を残して居る。
中山道は、江戸と京都を結ぶ裏街道として、江戸時代には、幕府の要人、尾張徳川家をはじめ、参勤交代の西国諸大名の人馬の往来も激しく、多くはこの家に御小休になった。
文久元年11月5日、皇女和宮が徳川将軍家に御降嫁の時、明治13年6月24日、明治天皇が山梨、三重、京都方面巡幸の時御小休になられた。
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旧今井村は,塩尻峠の東の登り口にあたり,ここに小休憩所が置かれた。
建物は昔の面影をよく残している。当初は街道沿いに四軒屋があったので,四つ屋と呼ばれた。主屋ほか11件が国有形文化財に指定。文久元年11月5日に皇女和宮が,明治13年2月4日に明治天皇がここで休息を取っている。 -
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中山道道標
「右しもすは 左しほじり峠」と刻まれています、近世のものです。 -
塩尻峠より諏訪湖方面を望む
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著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています
【木曽街道 塩尻嶺(とうげ) 諏訪ノ湖眺望 英泉画】
次へ 中仙道NO19 塩尻宿から洗馬宿へ
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