2009/05/28 - 2009/05/28
184位(同エリア230件中)
ムッシュさん
長久保宿を出発。和田峠に向って延々と上り坂です。
和田宿 第二十八宿(日本橋より195km)
慶長7年(1602)の中山道開設の際、散在していた人戸を集めて造られた。難所の和田峠を控えていたこともあり、多くの大名や庶民が行き交う活気溢れる宿場だった。また、江戸と京都の二つの文化が交わる接点としても、重要な位置を占めていた。現在も出格子や卯建のある家がところどころに残る。
な是より和田宿碑があります、和田宿に到着です!
和田宿は西に難所和田峠を控え大いに賑わいました。
文久元年(1861年)3月10日の大火で宿並のおよそ3分の2にあたる100数軒が焼失、折から同年11月の皇女和宮の通行を控え、本陣を始め宿並が急遽復興されました。
天保な是より和田宿碑があります、和田宿に到着です!
和田宿は西に難所和田峠を控え大いに賑わいました。
天保14年(1834年)の頃、和田宿の宿内家数は126軒、うち本陣1、脇本陣2、問屋2、旅籠28軒でした。
宿並は下町、中町、上町、橋場新田の四町で構成され、宿長は七町五十八間(約870m)でした。
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【和田八幡宮】
祭神は応神天皇で、かつて和田城主大井氏の鬼門除けに作られたと、伝承がある。
本殿は、一間流造で蟇股に巳紋を入っており、妻の大瓶束が軍配団扇形となっているのが特徴である。全体にすっきりした建築で、江戸時代中期の作と推定されている。 -
【和田八幡宮】
天徳3年、国守であった源(多田)満仲が京都の岩清水八幡宮を基準に造営。萱葺き屋根の本殿の前に土俵がある。
和田城の鬼門に当たる。
拝殿と覆屋を併合した入母屋造の建物も珍しい建築である。 -
追川橋を渡ると右手に【”旧旅籠かわちや”】があります、
大火後の再建で、和田宿の旅籠の内では規模が大きい方でした、江戸末期の建築様式を残しています、歴史の道資料館として公開されています。 -
【歴史の道資料館 かわち屋】
この木造建築様式は、出桁造り出格子の二階建て。
江戸末期の建築様式で建てられた旅籠「河内屋」を復元し、歴史の道資料館として公開。
「かわち屋」
文久元年(1861)3月10日の大火で焼失したがその年の11月本陣・脇本陣と同じく再建された建物。和田宿の旅籠では規模が大きく,出桁造りで格子戸のついた宿場建物の代表的遺構で,江戸末期の建築様式をよく伝えていると云う。昭和56年,歴史の道整備事業の一環として総工費3000万円で延べ床面積422㎡を復元し「歴史の道資料館」となった。 -
出桁造りの旧家は山木屋跡で、下の問屋を勤めました。
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【和田宿本陣の入口】
和田宿 第二十八宿(日本橋より195km)
慶長7年(1602)の中山道開設の際、散在していた人戸を集めて造られた。難所の和田峠を控えていたこともあり、多くの大名や庶民が行き交う活気溢れる宿場だった。また、江戸と京都の二つの文化が交わる接点としても、重要な位置を占めていた。現在も出格子や卯建のある家がところどころに残る。
和田宿本陣跡です、長井家が勤めました、文久元年(1868年)の大火で焼失しました。 -
これが、本陣。相当にでかいです。
11月の皇女和宮の宿泊の為に、幕府よりの拝借金を得て、急遽再建されました。
建物の規模は、間口十二間(約21.6m)、奥行九間(約16.2m)の切妻平入り板葺きの建物で、正面外観は中二階を幅一間(約1.8m)出桁によって持ち出した出桁造りで、中山道本陣としての特徴をよく示しています。
文久元年(1868年)11月6日(15日目)、皇女和宮は長井本陣に宿泊しました。 -
文久元年(1861)に和田城主大井信定の娘婿長井氏により建設された。
この年3月に宿場の大半が火災で焼失し本陣も灰燼に帰したが,11月の皇女和宮の宿の宿泊に当てられるため幕府からの拝借金を得て宿場の復興が急ピッチで行われその中心的建物として再建された。
本陣建物は大名などの宿泊に当てられる「座敷棟」と本陣所有者が生活する「主屋」に分かれているが,この建物は「主屋」に当たると云う。
建物の規模は間口12軒,奥行き9間の切妻,板葺の建物。
和宮の宿泊に使用された「座敷棟」と入り口にあった「御入門」は,明治年間に丸子町の龍願寺と向陽院にそれぞれ移築された。
明治維新まで本陣長井家が居住していた。その後,戸長役場,和田村役場となり昭和59年4月まで使用されていた。役場の移転に伴って解体の運命にあったが,和田宿の重要な遺構としての価値が認められ昭和61年より解体修理が行われ5年の歳月をもって往時の姿に復元されている。 -
宿場の中央辺りに、建つ高札場跡の説明板。
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【菅沼曲水句碑】
曲水(曲翠 きょくすい)は膳所藩の中老を勤め、近江蕉門の重鎮でした。 -
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【江戸より50里の碑】
日本橋より、丁度200kmの地点まで歩いて来ました。随分遠くまで来たもんだ。
まだまだ、京都への道のりの半分まで届いていません。
隣の石碑は道標「左 松澤歩道 右 諏訪街道」です。 -
石碑群
左1番目は道標「左 松澤歩道 右 諏訪街道」です。
2番目は国史跡歴史の道中山道碑です。
3番目は中山道碑です。
4番目(フォトなし)は青色道標「←中山道→」です。 -
依田川沿いの車道を歩いてますが、あまり車はいません。
川の音が聞こえてます。 -
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下諏訪まで26km地点。塩尻45km。
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ドライブイン黒曜です。
十割手打ち蕎麦屋さんです。美味でした。天婦羅もさくさくして美味しい。
長野県小県郡長和町和田3360-1
tel.0268-88-3166 -
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ここは、東餅屋まで5.3km、笠取峠より13.3kmの標識です。
ここからは、草深い旧道になります。
でも、雨上がりの緑がきれいです。 -
【唐沢の一里塚】
和田、下諏訪宿間に一里塚は六ヶ所あったが、これはその一つである。
この塚は、中山道の一部路線変更により山中にとり残されたもので、天保二年(1831)の絵図面ではすでに路線からはずれている。
現在樹木は残っていないが、塚は二基ともほぼ原型を留めている。 -
唐沢の一里塚
塚の左が(本当は、反対側にも一里塚があるので間)が歴史道です。 -
江戸日本橋より数えて51里目です、天保2年(1831年)以前の街道の付け替えにより一里塚は山中に取り残されました、塚の傍らには御嶽山座王大権現、山之神、不動明王、石祠等が祀られています。
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著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています
【木曽海道六拾九次之内 和田 広重画】
手前から奥に向かって2つの坂を上って行く4人の旅人と、反対方向から来る1人の旅人と雪景色。この雪は、3月末まで積雪がある和田峠(鳩ノ峰)を意識した構想。木曽路・御嶽山を目指す新たな旅が開始されるという含意もあるかも。とすれば、当作品中、街道延長線上の左の雪山は、御嶽山のイメージです。実景上は、左は木曽駒ケ岳、中央が御嶽山、右は乗鞍岳に相当。峠越えの旅姿に過度の難渋さを感じないのは、東から和田峠までは「東坂はやすらか也」というなだらかな坂道です。。 -
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【三十三体観音】
ここが和田峠の和田宿西口です、登り口には国史跡歴史の道中山道碑や中山道解説があります、江戸方面からはここから土の峠道になります、京方面からは正面の国道に合流します。
中山道最大の難所は和田峠でした、ことに厳冬期は難渋を極め、人馬の遭難が絶えませんでした。
登山道となるその入口付近にあるのがこの三十三体観音である難所の峠を越える人馬の無事を祈って祀ったものであろう -
何もない峠への長い道のりを上り続けます。
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【東餅屋】
五軒の茶屋があり、峠越えの人馬の休憩所となっていた。幕末には大名のための茶屋本陣も置かれていた。
現在は、ドライブイン一軒が営業してる。
国道の右手に茅葺屋根の永代人馬施行所が復元されています(国史跡)、江戸呉服町の豪商かせや与兵衛(有隣)が金千両を幕府に寄付し、その利子百両を二分し、文政11年(1828年)に碓氷峠と和田峠に施行所を設けました。
十一月から三月までの間、旅人に粥と焚火、牛馬には桶一杯の煮麦を接待しました。
その後、山抜け(山崩れ)で流失しましたが、嘉永5年(1852年)現在地に再建され、明治3年(1870年)まで続けられました。
有隣はこれより前の文政7年(1824年)に東海道の箱根峠に施行所を設置しています。 -
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今夜の宿泊所
次へ 中山道NO.18 ここまで来ました!東餅屋→下諏訪宿
https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/10347251/
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