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笠間稲荷に行く前に、せっかくなので笠間城址に行く事にしました。学生時代に、城マニアのI氏に連れられて行ったのが初めてでした。その頃は、城にそんなに興味がなくて、城本来の建物がないと(要は堀とか土塁しか残っていないと)ロマンを感じない性格でした。。。。って今でもですが(爆)<br /><br />そんなこんなで、「山頂に神社あっから!」という言葉だけでくっついていった私が、ここの石垣や堀の独特の重厚さやら凄みに圧倒され、城というものに対しての自分の浅はかな考えを一蹴してくれた記念すべき城跡なのです、笠間城。(&#39;-&#39;*)<br /><br />笠間市、日動美術館に入る道沿いに市営の駐車場があります。あ、笠間稲荷には東西50号線から入ってきた道沿いに市営駐車場があります。歩いても5分くらいなので、参道沿いのお金を取る民間駐車場に置くと損です(笑)。もし置いてしまったら一日中預けましょう(爆)<br /><br />で、前述の市営駐車場を道沿いに登るともう1つ武家屋敷跡の公園があります。そこにも駐車場があります。城跡に歩いて登るならここがお勧め。20分ほどのハイキングです。中腹までは車でも行けますが。。。<br /><br /><br /><br />当時佐白山には正福寺がありました。そこの僧兵と七会村にあった徳蔵寺の僧兵の争いに関して、正福寺側から宇都宮氏に援軍の要請があったそうです。宇都宮頼綱は(弟である塩谷時業の次男)塩谷時朝を笠間に派遣して徳蔵寺を破りました。この時、正福寺側は佐白山から巨石を落とす戦法で徳蔵寺側を撃退したと言われています。笠間城は天文年間(1532〜55)に宇都宮頼綱の甥にあたる持朝(頼綱の弟、塩谷朝業の次男)が築城し、笠間氏を称しました(以前の川崎城ブログにて)。そして、笠間から岩瀬一帯を支配した小大名として益子氏等との抗争を繰りひろげたそうです。<br /><br />天正十七年(1589)頃、城主・綱家に子が無かったために宇都宮本家が城代を置いています。その後、宇都宮氏の重臣・玉生高宗が城主となりました。十八代の笠間綱家は天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めで豊臣方に付かずに後北条氏に付いたために秀吉の命を受けた宇都宮国綱の軍勢によって攻められます。笠間城は陥落し、ここに380年間続いてきた笠間氏は滅亡することになりました。<br /><br />慶長三年(1598)10月に宇都宮氏が豊臣秀吉によって改易されると、玉生氏も所領を没収されます。宇都宮氏の旧領には浅野長政が監視目的で入ることになり、次いで慶長三年の三月からは蒲生秀行が正式に宇都宮城に配置されました。<br />関ヶ原合戦以後は松平康重が三万石を持って入封していましたが、慶長十三年(1608)丹波篠山へ移封となります。その後は小笠原・戸田・永井氏と言った諸大名に移り、元和8年(1622)に真壁より浅野長重が入城する事になりました。正保二年(1645)、浅野長直は播磨赤穂へ移封になります。この長直の孫が、忠臣蔵で有名な浅野内匠頭長矩(ながのり)なのです。<br />浅野氏の後・・・蒲生秀行が宇都宮に封じられた頃、笠間には家臣の蒲生郷成が入りました。この時に石垣が築かれたと言われています。蒲生氏郷に城主を命じられた蒲生郷成は城建築に「穴太衆」と呼ばれる石垣造りに優れた技術集団を近江国蒲生郡から連れてきて、近世城郭として笠間城を修改築しました。山から花崗岩を切り出して石垣を組むことで、土塁の平城が多い関東の地で屈指の近世山城となりました。天主、石垣の曲輪の基本的な技法は西国の織田・豊臣系城郭の技法を受け継いでいるようです。<br /><br />延享四年(1747)に京都所司代・日向延岡城主・牧野貞通が入城し八万石を領しました。以後、牧野氏が八代続いて明治を迎えることになります。明治時代に笠間城は廃城となり、取り壊されました。<br /><br />この城跡には平城とか違う、ちょっとした山城とも違う独特の雰囲気が漂います。曲がりの多い造りやわざと組んだであろう石段。今でも、敵を迎え撃とうとする圧が感じられる地です。いつ来てもゾクッとします。<br />

笠間市巡り、「笠間城へ」。

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2007/11/21 - 2007/11/21

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フロッガー

フロッガーさん

笠間稲荷に行く前に、せっかくなので笠間城址に行く事にしました。学生時代に、城マニアのI氏に連れられて行ったのが初めてでした。その頃は、城にそんなに興味がなくて、城本来の建物がないと(要は堀とか土塁しか残っていないと)ロマンを感じない性格でした。。。。って今でもですが(爆)

そんなこんなで、「山頂に神社あっから!」という言葉だけでくっついていった私が、ここの石垣や堀の独特の重厚さやら凄みに圧倒され、城というものに対しての自分の浅はかな考えを一蹴してくれた記念すべき城跡なのです、笠間城。('-'*)

笠間市、日動美術館に入る道沿いに市営の駐車場があります。あ、笠間稲荷には東西50号線から入ってきた道沿いに市営駐車場があります。歩いても5分くらいなので、参道沿いのお金を取る民間駐車場に置くと損です(笑)。もし置いてしまったら一日中預けましょう(爆)

で、前述の市営駐車場を道沿いに登るともう1つ武家屋敷跡の公園があります。そこにも駐車場があります。城跡に歩いて登るならここがお勧め。20分ほどのハイキングです。中腹までは車でも行けますが。。。



当時佐白山には正福寺がありました。そこの僧兵と七会村にあった徳蔵寺の僧兵の争いに関して、正福寺側から宇都宮氏に援軍の要請があったそうです。宇都宮頼綱は(弟である塩谷時業の次男)塩谷時朝を笠間に派遣して徳蔵寺を破りました。この時、正福寺側は佐白山から巨石を落とす戦法で徳蔵寺側を撃退したと言われています。笠間城は天文年間(1532〜55)に宇都宮頼綱の甥にあたる持朝(頼綱の弟、塩谷朝業の次男)が築城し、笠間氏を称しました(以前の川崎城ブログにて)。そして、笠間から岩瀬一帯を支配した小大名として益子氏等との抗争を繰りひろげたそうです。

天正十七年(1589)頃、城主・綱家に子が無かったために宇都宮本家が城代を置いています。その後、宇都宮氏の重臣・玉生高宗が城主となりました。十八代の笠間綱家は天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めで豊臣方に付かずに後北条氏に付いたために秀吉の命を受けた宇都宮国綱の軍勢によって攻められます。笠間城は陥落し、ここに380年間続いてきた笠間氏は滅亡することになりました。

慶長三年(1598)10月に宇都宮氏が豊臣秀吉によって改易されると、玉生氏も所領を没収されます。宇都宮氏の旧領には浅野長政が監視目的で入ることになり、次いで慶長三年の三月からは蒲生秀行が正式に宇都宮城に配置されました。
関ヶ原合戦以後は松平康重が三万石を持って入封していましたが、慶長十三年(1608)丹波篠山へ移封となります。その後は小笠原・戸田・永井氏と言った諸大名に移り、元和8年(1622)に真壁より浅野長重が入城する事になりました。正保二年(1645)、浅野長直は播磨赤穂へ移封になります。この長直の孫が、忠臣蔵で有名な浅野内匠頭長矩(ながのり)なのです。
浅野氏の後・・・蒲生秀行が宇都宮に封じられた頃、笠間には家臣の蒲生郷成が入りました。この時に石垣が築かれたと言われています。蒲生氏郷に城主を命じられた蒲生郷成は城建築に「穴太衆」と呼ばれる石垣造りに優れた技術集団を近江国蒲生郡から連れてきて、近世城郭として笠間城を修改築しました。山から花崗岩を切り出して石垣を組むことで、土塁の平城が多い関東の地で屈指の近世山城となりました。天主、石垣の曲輪の基本的な技法は西国の織田・豊臣系城郭の技法を受け継いでいるようです。

延享四年(1747)に京都所司代・日向延岡城主・牧野貞通が入城し八万石を領しました。以後、牧野氏が八代続いて明治を迎えることになります。明治時代に笠間城は廃城となり、取り壊されました。

この城跡には平城とか違う、ちょっとした山城とも違う独特の雰囲気が漂います。曲がりの多い造りやわざと組んだであろう石段。今でも、敵を迎え撃とうとする圧が感じられる地です。いつ来てもゾクッとします。

  • 公園ではど真ん中に大きなイチョウの木。さすがに実も落ち始めて異臭が。。。

    公園ではど真ん中に大きなイチョウの木。さすがに実も落ち始めて異臭が。。。

  • 公園内、大石内蔵助像。

    公園内、大石内蔵助像。

  • こちらも公園内に復元された時鐘楼。本物の鐘は麓の観世音寺にあります。

    こちらも公園内に復元された時鐘楼。本物の鐘は麓の観世音寺にあります。

  • 公園を佐白山の方へ。入口に治功神社があります。

    公園を佐白山の方へ。入口に治功神社があります。

  • それを越して奥に進み、登山道入口からは一気に登るしかありません。標高は200m弱ですのですがちょっと急勾配。

    それを越して奥に進み、登山道入口からは一気に登るしかありません。標高は200m弱ですのですがちょっと急勾配。

  • 三の丸あたりですが、堀などはっきりわかる形で残っています。

    三の丸あたりですが、堀などはっきりわかる形で残っています。

  • こんな木段ですが、一歩が大きく造ってあるので意外と息があがります(;´▽`A``

    こんな木段ですが、一歩が大きく造ってあるので意外と息があがります(;´▽`A``

  • そして、八幡平櫓の1番端のほうへたどり着きます。高い方を登ると櫓跡へ。

    そして、八幡平櫓の1番端のほうへたどり着きます。高い方を登ると櫓跡へ。

  • 左の平地を進むと本丸跡になっている場所に出ます。

    左の平地を進むと本丸跡になっている場所に出ます。

  • <br />そんな感じで、苦しみながら本丸跡の所まで到着し一旦休み。蒲生郷成の時代には櫓が2つ、屋敷が1つの形態で明治までその姿をとどめていました。


    そんな感じで、苦しみながら本丸跡の所まで到着し一旦休み。蒲生郷成の時代には櫓が2つ、屋敷が1つの形態で明治までその姿をとどめていました。

  • 本丸跡を八幡台櫓がある土塁のほうへまず行って見ます。櫓跡は本丸の北西にあたります。西側に高さ4mほどの土塁があり、北端に宍ケ崎櫓跡となります。

    本丸跡を八幡台櫓がある土塁のほうへまず行って見ます。櫓跡は本丸の北西にあたります。西側に高さ4mほどの土塁があり、北端に宍ケ崎櫓跡となります。

  • 八幡台櫓跡。

    八幡台櫓跡。

  • そして、奥に進んで天主跡へ。

    そして、奥に進んで天主跡へ。

  • 天主台。もうすぐ頂上です。

    天主台。もうすぐ頂上です。

  • 天主跡には、佐志能神社があります。

    天主跡には、佐志能神社があります。

  • 本殿回りは天主郭の瓦が使われた壁になっています。

    本殿回りは天主郭の瓦が使われた壁になっています。

  • 本丸にて。

    本丸にて。

  • 当時は二層の天守を備えていました。この神社の材料は旧天主郭の木材が使われていると言われています。本殿を囲っている壁の瓦も。

    当時は二層の天守を備えていました。この神社の材料は旧天主郭の木材が使われていると言われています。本殿を囲っている壁の瓦も。

  • 本殿側は崖に近くて大きな岩がゴロゴロ。急勾配でそうそう攻められないようになっています。<br />

    本殿側は崖に近くて大きな岩がゴロゴロ。急勾配でそうそう攻められないようになっています。

  • そして、日動美術館そばにある大平邸跡です。大石内蔵助の祖父、良欽の館跡です。

    そして、日動美術館そばにある大平邸跡です。大石内蔵助の祖父、良欽の館跡です。

  • 八幡台櫓土塁から。

    八幡台櫓土塁から。

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