2008/10/02 - 2008/10/02
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フロッガーさん
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関宿(せきやど)城博物館は、茨城県と千葉県の県境にあります。千葉県になりますが道の駅・境から境大橋を渡って野田市に入りすぐの場所です。江戸川と利根川の分岐点の場所にあたり、水上交通の要所として水関所等も置かれるほどでした。
関宿城博物館は関宿の地と関宿城、そして近郊の河川改修工事や利根運河の概要を模型や文書などで展示しています。
今ある復元天守閣は1995年に建てられました。江戸城の富士見櫓を模して造られた御三階櫓を史実に基づき忠実に再現したものとされていますが、史実自体がほとんどなく実際に存在した場所も今立っている場所から500mほど離れた場所でした。元の天守閣が存在した場所は、この博物館から100m弱下流に位置する所だったそうですが河川改修によって形態が変わってしまっています。
関宿城は長禄元年(1457)に、古河公方・足利成氏の側近であった簗田成助によって築城されたと伝えられています。簗田氏は古河公方の縁戚関係を結ぶことで勢力を強め足利家の家老格になっていきます。そして6代にわたってこの地を支配しました。戦国時代末期、天正二年(1574)、関宿城は勢いを増していた北条氏政に攻められます。足利氏が北条氏に屈することになり、簗田氏は下野宇都宮の佐竹義重のもとに逃げ、それ以後は北条氏の持ち城となりました。
天正十八年(1590)の小田原攻めによって北条氏が滅ぶと、徳川家康が関東の地へ入ります。家康は江戸の北の砦として、そして利根川の水運を重視してこの地に藩を置き、弟の松平康元を関宿城に入封させました。利根川・江戸川2つの川は濠の役割を担い、常陸国の佐竹氏の侵攻を防ぐ役割を持っていたと言われています。松平氏の後も歴代城主は頻繁に入れ替わりましたが、歴代の藩主は幕府要職についていたことで出世城とも言われました。
明治二年(1869)に藩籍奉還されます。関宿城は明治政府の管轄に移り、明治五年には陸軍省へ管轄が移され廃城と決定されました。
江戸時代には本丸・二の丸・三の丸部分だけでも6000坪の敷地があったそうですが、後の河川改修工事等で面影や遺構はほとんどなくなってしまいました。関宿城の城門は逆井城へ移築、本丸御殿の一部は近くの実相寺へ。埋門(うずめ)は明治八年の城郭破却と同時に城下の小林家に移築されています。また、城門の長屋門は転売の後に栃木県の下野市旧石橋町にあるとんかつ屋さん(国道4号線沿い)に移築されました。
博物館内は撮影禁止です。ということで外側と中庭庭園。
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