2008/07/12 - 2008/07/12
75位(同エリア95件中)
まみさん
ドリャノヴォ僧院は、現地旅行会社の担当者と旅程を相談しているときに候補に挙がってきた僧院です。
ブルガリアのハイライトともいえるヴェリコ・タルノヴォ近郊のバルカン山中にあり、担当者が日程に組み込んだバルカンの村々から近い、観光客に人気の僧院だそうです。
今回のブルガリア旅行では、前半、ガイドと車を個人チャーターした利点を生かし、ブルガリアの山村の1人旅ではアクセスしづらい僧院めぐりも期待していました。だから、新たな候補は好都合でした。
ただし、よく知らない僧院だったので、立案中に見つけたブルガリアの修道院を紹介するサイトでチェックしてました。
そこに載っているくらいなら、見学する価値がありそうだ、というアバウトな判断基準にしていたサイトです。
ブルガリア修道院のサイト
http://www.bulgarianmonastery.com
ドリャノウォ僧院は、ブルガリア史では一番有名ともいえる革命家ヴァシル・レフスキーが拠点にした僧院のひとつであり、ここで対オスマントルコの戦いがあったことでも重要な史跡といえるそうです。
しかしミーハーな観光客にとってのこの僧院の魅力は、まずはそのロケーションでしょう。
地震の国ニッポンでは考えられない、見事な絶壁断崖のすぐそば。
建物の美しさはもちろん、リラ僧院を含め今まで訪れた山村の僧院の中でも、とりわけ周辺の景観に魅了された僧院でした。
教会内は、10.00レヴァ払えば内部撮影可能でした。
ただ、このときは、今回のブルガリア旅行で、今まで教会内部ではほとんど写真が撮れなかったのに、ここだけ頑張っても仕方がない、という気がしてしまい、断りました。
そうでなくても、個人ガイド&車をチャーターした田舎めぐりのため、今回の旅行では今まで以上にたくさんの写真をすでにゲットしているので、教会内部の写真はいいや、という気になってしまったのです。
それに、ブルガリアの物価から考えると、10.00レヴァの撮影代はかなり割高でした。
貴重な文化遺産の保護のため寄付と思えば安いかもしれませんが。
(ちなみに、2008年7月現在、1レヴァ=約0.5ユーロ、1ユーロ=約170円で換算しています。)
でも案の定、帰国後時間がたつと記憶も薄れ、10.00レヴァでも写真を撮っておけば良かったと残念になりました。
他の正教会の例にもれず、内壁は、フレスコ画のすばらしいキャンバスとなっていましたから。
実際、翌日訪れたソコロヴォ僧院では、10.00レヴァ払って写真を撮りました。
バチョ・キロ洞窟は嬉しいオマケでした。
ドリャノヴォ僧院のそばにそのような見どころがあるとは知りませんでした(あとでLonely Planetをひっくり返してみたら、きちんと紹介されていました。辛口なひとこと批評つきで)。
本日の予定が思ったより早く終わり、宿に引き上げるにはまだ早かったので、ガイドが提案してくれたのです。
洞窟見学は好きです。
ただし、観光客向けにインフラが整っている、ハードルの高くない洞窟に限ります@
バチョ・キロ洞窟は、バチョ・キロという革命家が隠れ家にしたためたそのように命名されたようですが、先史時代から人が住んでいた痕跡も発見されており、巨大なホラアナグマの骨が発見されたことでも世界的に有名になったことがあるそうです。
まあ、そういう発見物は得てして見つけた洞窟で公開されていることはなく、博物館などで大事に保存されているものですけどね。
ホラアナグマの骨も、それを発掘した外国の探検団の自国に持ち去られてしまったようです。
また、3層にわたる一番広いホールは音響効果がすばらしいため、コンサートが行われたり、ラジオ放送用の録音が行われたこともあるそうです。
というわけで、あまり大きな期待をせずに出かけたバチョ・キロ洞窟ですが、そういうウンチクより、洞窟までの緑豊かな山沿いの散策道や、美しい鍾乳洞はとても満足できるものでした。
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ドリャノヴォのおしゃれな門構え
「ドリャノヴォ僧院は、ドリャノヴォの町から5キロ離れた中央ブルガリアのアンダカ(Andaka)川渓谷に位置するブルガリア正教会の僧院で、現在も教会として機能しています。第二次ブルガリア帝国時代の12世紀に創設され、大天使ミカエルに捧げられています。僧院はオスマントルコのブルガリア支配時代に2度焼失し、略奪を受け、1845年に現在の場所に再建されました。僧院は1876年4月蜂起中に何回か戦闘があった場所です。」
(ウィキペディアフリー百科事典英語版「Dryanovo Monastery」より私訳) -
ドリャノヴォ僧院と、僧院を見下ろす白い崖
「ドリャノヴォは絵のように美しい町で、ブルガリア民族復興期からの建築上の素晴らしい記念建築物を保存しています。それは、コリュー・フィチェト(Kolyu Ficheto)親方によって建築された聖ニコラス教会とドリャノフスカ(Dryanovska)川の橋と、ラフチエフ・ハウス(Lafchief house)です。町の近郊には、ドリャノヴォ僧院とバチョ・キロ(Bacho Kiro)洞窟があります。」
(ブルガリアで買ったパンフレット「BULGARIA guide」(ART TOMORROW出版(www.arttomorrow.com))より私訳) -
崖に注目@
ロッククライミングする崖とのこと、ひぇ〜。
黄色と黒のコウモリのマークは、ロッククライミング協会のシンボルだそうです。 -
ドリャノヴォ僧院の門
いよいよ僧院に入ります。
「ドリャノヴォ町からたった5.5km、石灰岩の崖の下という興味深いところに建っているのは、チャーミングなドリャノヴォ僧院です。当初12世紀に建てられましたが、続く500年の間、トルコ人による破壊とブルガリア人による再建が繰り返されました。大天使ミカエル教会が僧院に増設されたのは1861年です。ここの僧侶は格別フレンドリーで、観光客とおしゃべりしたがります。
他のいくつかの僧院と同様、この僧院も革命の指導者ヴァシル・レフスキーと反乱グループに避難場所を提供しました。後に、露土戦争(1877-78年)中、100人以上の地元の人々が僧院の中に隠れ、9日間にわたってトルコ人と戦いました。結局、トルコ人に侵入され、目につくもの全てが焼き払われてしまったため、現在僧院に残っているもののほとんどは、それ以降に再建されたものです。僧院の敷地内にある霊廟は、この勇気ある行為を追悼するために建てられたものです。(後略)」
(Lonely Planet(2nd edition 2005年刊)より私訳) -
門をくぐる
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入ってすぐ左手にあった、風情ある木造と石造の建物
ちょっとオンボロですけどね@ -
崖を背景に、昔の石瓦
ガイドに、ブルガリアの家ってみんなオレンジ屋根なんですね、と聞いてみたら、昔は石の瓦が使われていたと教えてくれました。
その例がちょうどドリャノヴォ僧院にありました。
なるほど、昔はこういう瓦だったのですね。 -
崖を背景に、慰霊塔(霊廟)
「ドリャノヴォの歴史的な聖ミカエル修道院は、ドリャノヴォの町から4km離れた美しいドリャノヴォ渓谷にあります。この僧院は第二次ブルガリア帝国中の12世紀に建設されました。トルコ支配時代、僧院は2度は破壊されましたが、その後、ブルガリア精神の堅固な要塞として復活しました。僧院は1845年に現在の位置に建てられました。
ブルガリア史上の輝かしい出来事のほとんどはこの僧院で起こりました。僧院をしばしば訪問していたマシュー・プレオブラジェンスキ・ミトカロト牧師(Mathew Preobrajenski - Mitkaloto)は、1871年、ヴァシル・レフスキーを伴ってやってきました。4月蜂起中、ハリトン・ヴォイヴォデ司祭(Hariton Voivode)とペーター・パルマコフ(Peter Parmakov)に率いられた200人に及ぶブルガリア人の志願兵の軍団が僧院に到着しました。軍団はトルコ兵に包囲され、熾烈な戦いの後、僧院は焼き払われました。
ブルガリア独立後、イタリア人ジョヴァンニ・ムスティ(Djovani Musiti)によって設計された霊廟が、焼失した僧院があったまさにその場所に建てられました。その構造は8面ピラミッドで、屋根の先端は球体と十字架です。礼拝堂はこの地方の白い石で建てられました。ローマのルカ・アルジーニ(Luca Argini)の手による大理石の反乱軍兵士の像が建っています。
僧院の図書館には膨大な写本や教会図書が保存されています。
ドリャノヴォ僧院は、ブルガリアでも最も訪問されている観光地の1つです。」
((HP「visit.BG」より私訳(http://www.visitbg.net/index.php?topic=sehenswuerdigkeiten&ortinfo=drjanovokl) -
モニュメント的な慰霊塔の中を見学する
墓石とたくさんの花輪がありました。
厳かな気分になったので、写真は撮れませんでした。 -
教会と崖が風光明媚
「最初の僧院は現在の位置より2キロ北の「小さな聖ミカエル」と呼ばれる場所に建てられたと信じられています。創健者は、当時タルノヴォに首都を築いた(すなわち第二次ブルガリア帝国の)2人の独立君主、アッセンとペーター兄弟です。14世紀、この聖なる場所は、ヘシュカズム(Hesychasm、静寂主義)の主な中心地の1つとなり、たくさんの僧侶をかくまいました。15世紀初頭、僧院はオスマン軍の侵略によって破壊されました。その後、「大きな聖ミカエル」と呼ばれる隣接の地で再建されましたが、この僧院の運命は前の僧院の運命よりも幸運ということはありませんでした。ドリャノヴォ僧院は17世紀末にもう一度再建され、このときに現在の場所に建てられました。当時のメイン教会は、一廊式で、半分地面の中に埋まっていました。この教会は現在の教会の非常に近いところに建てられ、そのそばに第二の礼拝堂もありました。
僧院の改築は、1940年代、ラファエル司祭の時代に開始されました。川端からそびえている現在の居住用の建物はこの当時に建てられ、新しい教会は1845年に完了しました。改築されたドリャノヴォ僧院は、次第に、宗教的・文化的中心地、そしてタルノヴォ地方の最も規模が大きく保存の良い修道院となりました。(続く)」
(ブルガリア修道院のサイト(http://www.bulgarianmonastery.com)より私訳) -
教会の向かって右隣のシンプルだけど風情のある僧房の建物
「(続き)ドリャノヴォの僧侶は、オスマントルコ支配に抵抗するブルガリアの蜂起と謀略に積極的に参加しました。タルノヴォにおけるブルガリア中央革命委員会の主要本部の1つは、まさにこの僧院であり、ヴァシル・レフスキー(Vassil Levski)やゲオルギ・イスミルリエフ(Georgi Izmirliev)のような有名な革命のリーダーたちはしばしばここに滞在しました。食糧と武器の秘密倉庫があったことが、反乱リーダーであるハリトン司祭(Priest Hariton)とバチョ・キロ(Bacho Kiro)が僧院を4月蜂起のときに僧院を拠点として利用した理由です。トルコ軍との戦いで生き延びたブルガリアの反乱兵はごくわずかでした。そして僧院は、再び放火されましたが、教会だけは唯一比較的無傷で残りました。僧院の建物全体が一番最近再建されたのは、独立後まもなくです。新しい居住区と博物館が、現存する建物に増築されました。鐘楼は1925年に建てられました。」
(ブルガリア修道院のサイト(http://www.bulgarianmonastery.com)より私訳) -
教会への入口
中では僧侶でなくふつうの格好をした青年が説明してくれました。
ブルガリア語だったので、ガイドに通訳してもらいました。 -
ドリャノヴォ僧院で買ったパンフレットより
表紙の俯瞰写真と、内部のイコノスタシス、そして教会の写真。
内部の写真を撮らなくてもいいや、と思ったのは、このパンフレットがあったせいもあります。
もちろん、自分で写真を撮れたら、もっとたくさん、自由に好きなアングルで撮れたのは確かですけどね。
ブルガリアの主な観光地で買ったリーフレット勢揃い写真
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/14421141/
ドリャノヴォ僧院のパンフレットは真ん中の一番上にあります。
関連の旅行記
「2008年ブルガリア・ハイライトその14(完):ブルガリアでゲットしたもの」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10267157/ -
教会の壁に残る、1876年の戦いの銃弾跡
※1876年4月蜂起とは
オスマントルコからの独立を謀った反乱。全国主な場所で一斉に蜂起する計画だったのが、手違いで予定よりも早く起きてしまい、結果は無残に失敗となりました。
オスマントルコ側にしてみたら一部では優遇措置をとっていたブルガリアの反抗に、見せしめの意味もあり報復は徹底して行われました。
皮肉にもその残酷さがゆえに、ブルガリアにヨーロッパ中の注目が集まり、独立の布石となった事件の1つです。 -
ワイン樽のある、僧房の石造り部分
「ヴァシル・レフスキー(Vasil Levski)
近代ブルガリア史上最も崇拝されている人物は、おそらくヴァシル・レフスキーでしょう。彼の名前は数多くの通りや広場に使われており、国中にいくつもある銅像や博物館によって永遠となっています。
ヴァシル・イヴァノフ・クンチェフ(Vasil Ivanov Kunchev)は1837年7月6日にカルロヴォで生まれ、仲間から「レフスキー」(ブルガリア語でライオンの意味)というあだ名を与えられました。彼はスタラ・ザゴラで僧侶として学び、勤めましたが、1862年、ゲオルゲ・ラコフスキー(George Rakovski)率いる対オスマントルコ反乱に加わるためにベオグラードに移りました。後にレフスキーはルーマニアに行き、そこで独立民主国ブルガリア建国のための構想を練りました。それから彼はブルガリアに戻り、しばしば人里離れた修道院を拠点にあちこち旅して革命グループを創設しました。1872年初期、彼は仲間に裏切られ、ロヴェチでオスマントルコに捕らえられました。レフスキーは翌年の2月にソフィアで絞首刑となりました。」
(Lonely Planet(2nd edition 2005年刊)より私訳)
関連の写真
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/14362641/
関連の旅行記
「2008年ブルガリア・ハイライトその11:ソフィアの街角の彫刻」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10264435/ -
僧院の裏の吊り橋
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橋からドリャノヴォ川と僧房の壁面
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昔のトイレ!
川に垂れ流し〜@
でも当時は洗濯も川でしていたのではないかしら。 -
橋を渡り終えたアングルもなかなか@
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崖にコウモリマークに注目。
BFCとはロッククライミングのスポーツ協会の略だそうです。 -
もう1つの橋を渡る
まだ時間があるというので、ガイドがこの近くの洞窟見学を提案してくれました。 -
バチョ・キロ洞窟に向かう散策道
エコ・ルートと書かれてありました。
山道ですがほとんど平らで、気持ちのよい散歩ができます。
バチョ・キロというのは革命家の名前です。
洞窟は彼が隠れ家にしたためにそう呼ばれることになりましたが、内部から裏切り者が出て、オスマントルコ兵に捕まってしまったそうです。 -
バチョ・キロ洞窟に向かう散策未知
めざす洞窟のある崖に近付いてきました。 -
洞窟に向かう散策道から洞窟のある崖を見上げて
-
洞窟に向かう途中の橋から見下ろして
向こうの橋は使われていないそうです。
そりゃー納得、とうなずきたくなります。 -
洞窟入口は厳重に閉鎖@
「ホモ・サピエンスの頭蓋骨の化石の破片/旧石器時代末期/“バチョ・キロ”洞窟
“バチョ・キロ”はユニークな史跡です。ブルガリアに100ヶ所ある国立観光地の1つであり、考古学的にも文化的にも重要な記念物です。
洞窟の美しい通路と広間は、地下河川の水によって何百年もかけて形成されました。地下河川が巨岩を移動させたとき、あとにはいろんな形をした洞窟、そしてすばらしい石筍や鍾乳石が残されました。
洞窟の考古学的研究が最初に行われたのは1890年にさかのぼります。20世紀にブルガリア人や外国の探検隊によって考古学採掘が何度も行われました。洞窟では、紀元前100から4万年時代、旧石器時代の中ごろから終わりにかけての最も古い人類が生活した跡が発見されています。氷河期、洞窟には、いわゆるネアンデルタール人が住んでいました。彼らは洞窟を住み家として利用し、ホラアナグマやホラアナハイエナのような野生動物と常に戦っていました。バルカン半島でも最も大きな化石の1つ、巨大なホラアナグナの骨が、洞窟の広間の1つ、「クマの芝生」と名づけられたところから発見されました。新石器時代の人類の生活の跡も、洞窟の上層部で発見されています。人類は古代から、この美しくて絵画的な地域に住み着いていたといってよいでしょう。」
(チケット売り場の窓に掲示されていた説明書より私訳) -
バチョ・キロ洞窟のエントランス
ここで係員からひととおり洞窟の説明がありました。もちろんブルガリア語なので私にはさっぱりわかりません。
ガイドが通訳してくれましたが、係員はまだ若いガイドを、自分が言ったことを記憶して説明しなければならないから大変だね、とからかったようです@
係員の説明のあとは、めいめい自由に見学しました。
こういうところ、日本のような手取り足取りの丁寧な案内(過保護ともいう)とは無縁ですよね、ヨーロッパの観光地って。あまり危険な洞窟ではないからでしょうね。
そうはいっても、奥は湿っていて、すべって転びそうなところはたくさんありました。
だから、すべて自己責任@ -
細く裂けているところ
「バチョ・キロ洞窟はドリャノヴォ僧院の近くにあります。ドリャノヴォ洞窟としても知られ、1890年から公開されています。1964年以来、洞窟に電気が敷かれました。1200mもあるおとぎ話の地下世界が見学者の目の前に現れます。「バチョ・キロの王座」「小人」「眠れる美女」「王座の間」「レセプション・ホール」「ハイドゥティ(バルカンの義賊)の集会場」「泉」「生贄の祭壇」と次々続く累層に、見学者は感激するでしょう。洞窟では旧石器時代に暮らした人々の跡が発見されました。」
(HP「Pictures of Bulgaria」より私訳(http://www.picturesofbulgaria.com/article/bacho_kiro_cave.html)) -
真ん中の黒いところは、3層目
「バチョ・キロ洞窟はドリャノヴォ僧院の近く、アンダカ(Anduka)川とドリャノヴォ川の両方から出来た峡谷にあります。ヴェリコ・タルノヴォから30km、ドリャノヴォから4kmのところにあります。
洞窟は1962年に自然遺産として宣言されました。最近の修復は2002年に行われました。
洞窟は3,600mの長さと複雑な通路や分かれ道のある迷路が特徴的です。順路は2つあり、観光客のために特別に明るくされています。洞窟の中の最初のホールは、プレドヴェリエト(Predverieto=ポーチ)と呼ばれています。ホールの内側の小部屋の中に、天井はすぐ上にありアルカタ(Arkata)と呼ばれる短いトンネルが形成されています。トンネルの南側は、通路がゴシック寺院のような形をしています。その部分は、たくさんの雨垂れのような鍾乳洞があるために、「雨模様のホール」と呼ばれています。白い屋根には、たくさんの石筍があります。地下道で最初に見られる累層は「メデューサ」と呼ばれています。その後に、「クマの滑り台」が見えます。中央通路は、天井から下がってきている鍾乳石が僧侶の形をしているため、「ハリトン司祭」と呼ばれています。次の小さなホールでは、直径35cmもある「一人ぼっちのツララ(Lone Stalactones)」が見られます。次のホールは「湖の広間」と呼ばれ、地面には水のない2mの鍾乳石の湖があります。このホールの狭い部分は「煉獄」と呼ばれています。次のホールは「王座」と呼ばれ、滝の形をした白い岩があります。その次からのホールは「会議の間」、「鷲」、「泉」、「針」、「石の森」、「継母の舌」、「銭」、と名づけられています。
洞窟にはツーリスト・ガイドがおり、一年中公開されています。」
((HP「visit.BG」より私訳(http://www.visitbg.net/index.php?topic=sehenswuerdigkeiten&ortinfo=bachokiro)) -
白い岩肌が美しい@
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鍾乳石かな
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3層目へ
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成長している鍾乳石
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気持ち悪さと紙一重の美しさ@
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洞窟を出て
しばらく目がチカチカしてました@
予定にない思わぬ観光場所としては、結構楽しめました。
でも帰国後、Lonely Planetをひっくりかえしてみたら、なかなか辛口。
きっとブルガリアには他にもっと面白い洞窟があるということでしょう。
「(ドリャノヴォ僧院の)駐車場近くの橋から小さな森の中に続く400mの小路を進むと、旧石器時代に人類が住み着いていた、長さ1,200mのバチョ・キロ洞窟にたどり着きます。まあまあよくできていますが、ブルガリアにある他の洞窟ほど興奮はしないです。」
(Lonely Planet(2nd edition 2005年刊)より私訳) -
帰り道に再び、今は使われていない橋の写真を撮る
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川に架かる橋
実際に通った橋はこちら。
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