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京都・墨染には大石内蔵助が遊興したと伝えられる廓跡がある。京街道と大津街道の分岐点に近く、古くから芝居小屋や土産物屋が軒を連ねたと言われる場所には左右に「橦木町廓(しゅもくちょうくるわ)入口」「志ゆもく町廓入口」と彫られ大正7年(1918年)に建てられた石柱が残っている。街並みには廓の面影は残っていないが大正7年(1918年)に建てられた「橦木町廓之碑」には豊臣秀吉が伏見城下町を築いた慶長元年(1596年)に伏見田町に遊郭を設け、伏見城落城後慶長九年(1604年)に撞(橦)木町に遊郭を移したこと、島原の流れを汲む由緒ある遊郭として江戸・元禄時代に全盛期を迎えたこと、京都の公家衆が多数訪れ、忠臣蔵で知られる赤穂浪士大石良雄(内蔵助)が訪れたことなどが記されている。敵を欺くために遊興し、策略を練った大石にあやかり、「撞木町での密謀は成就する」といわれるようになったことも記載されている。仮名手本忠臣蔵では、大石内蔵助が遊興したのは「祇園一力茶屋」になってるが、実際はこの伏見撞木町萬屋(ふしみしゅもくちょう よろずや)であったと言われている。現在は萬屋の跡を示す石碑が印刷会社の駐車場の片隅にひっそりと建っているだけだった。仮名手本忠臣蔵では吉良家や上杉家の目を欺くために遊興したとされているが、内蔵助は赤穂藩時代からかなりの遊び人で遊郭通いは敵を欺くためだけではなかったようだ。だが綿密な計画を立て、浪士をひとつにまとめあげ、主君の仇討ちを成就させ、日本を代表する義士のリーダーとして歴史に名を刻んだことは立派と言うほかない。<br />(写真は墨染の撞木町廓跡)<br />

日本の旅 関西を歩く 大石内蔵助ゆかりの京都・墨染、撞木町の廓跡

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2008/10/21 - 2008/10/21

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    京都・墨染には大石内蔵助が遊興したと伝えられる廓跡がある。京街道と大津街道の分岐点に近く、古くから芝居小屋や土産物屋が軒を連ねたと言われる場所には左右に「橦木町廓(しゅもくちょうくるわ)入口」「志ゆもく町廓入口」と彫られ大正7年(1918年)に建てられた石柱が残っている。街並みには廓の面影は残っていないが大正7年(1918年)に建てられた「橦木町廓之碑」には豊臣秀吉が伏見城下町を築いた慶長元年(1596年)に伏見田町に遊郭を設け、伏見城落城後慶長九年(1604年)に撞(橦)木町に遊郭を移したこと、島原の流れを汲む由緒ある遊郭として江戸・元禄時代に全盛期を迎えたこと、京都の公家衆が多数訪れ、忠臣蔵で知られる赤穂浪士大石良雄(内蔵助)が訪れたことなどが記されている。敵を欺くために遊興し、策略を練った大石にあやかり、「撞木町での密謀は成就する」といわれるようになったことも記載されている。仮名手本忠臣蔵では、大石内蔵助が遊興したのは「祇園一力茶屋」になってるが、実際はこの伏見撞木町萬屋(ふしみしゅもくちょう よろずや)であったと言われている。現在は萬屋の跡を示す石碑が印刷会社の駐車場の片隅にひっそりと建っているだけだった。仮名手本忠臣蔵では吉良家や上杉家の目を欺くために遊興したとされているが、内蔵助は赤穂藩時代からかなりの遊び人で遊郭通いは敵を欺くためだけではなかったようだ。だが綿密な計画を立て、浪士をひとつにまとめあげ、主君の仇討ちを成就させ、日本を代表する義士のリーダーとして歴史に名を刻んだことは立派と言うほかない。
    (写真は墨染の撞木町廓跡)

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