2009/12/19 - 2009/12/21
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倫清堂さん
年の瀬の旅も悪いものではありません。
今回は京都から大阪難波に向けての道程で歴史的名所をたどることにしました。
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伊丹空港から車で京都に向かい、まずは伏見稲荷大社に参拝に行きました。
インフルエンザの猛威は終息に向かっているとはいえ、飛行機内や観光地など人の密集する場所に進んで出向く旅行は、感染のリスクがどうしても高くなってしまいます。
年末は大事な仕事が控えているため、インフルエンザで寝込んでいる場合ではありません。
マスクをつけるのは当然として、こまめに手の消毒をできるよう携帯用消毒液まで所持しての、ちょっと滑稽な旅が始まりました。 -
日本の津々浦々に何十万というお社がありますが、稲荷神社はその中で最も数の多い神社だと言われています。
伏見稲荷大社は全国の稲荷神社の総本宮にあたる神社です。
日本三大稲荷の選定にはいろいろな説がありますが、どの説にも必ず含まれるのが伏見稲荷大社です。
今から約1300年前の和同4年、元明天皇の勅により秦伊呂具が稲荷山に三柱の神を祀ったのが始まりで、その年は五穀がおおいに実り、民の生活が豊かになったことから、篤く信仰されて現在に至っているとのことです。
本殿下社にお祀りされる宇迦之御魂大神が、いわゆる稲荷神で、穀物をつかさどる神とされます。
お稲荷さんというと狐を連想しますが、宇迦之御魂大神のお使いで、稲を食い荒らすネズミなどを退治してくれることから尊ばれたと言われています。伏見稲荷大社 寺・神社・教会
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伏見稲荷大社といえば、朱の鳥居がトンネルのように続く千本鳥居。
稲荷山に鎮座する奥社に向かう道の途中にあります。
やはりここが一番絵になる風景であるためか、カメラで撮影する人の姿も一番多く見られます(もちろん自分もその一人でした)。 -
伏見稲荷の正式な参拝は、稲荷山のお山めぐりをすることにあるとも言われています。
山全体に約十万基の鳥居があり、それらをくぐりながら山を一周するのだそうです。
約2時間の山登りは、また時間のある時に実現したいと思います。
今回は奥社奉拝所での参拝。 -
境内には、同じ朱色の鳥居で伏見稲荷の一部に見えますが、実際は独立した東丸神社が鎮座しています。
御祭神は荷田春満。
荷田春満は寛文9年に伏見稲荷大社の神官の家に生まれ、契沖と並んで国学の祖と言われています。
赤穂藩の家老であった大石内蔵助とは友人で、江戸滞在中には、赤穂浪士に吉良上野介が必ず在宅する茶会の日を教えるという形で、討ち入りに協力しました。
古典・国史を研究して復古神道を唱え、弟子に賀茂真淵などがいます。
東丸神社は明治16年の御創建で、勉学の神として崇敬されており、神社に隣接するかたちで旧宅が残されています。東丸神社 寺・神社・教会
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伏見で昼食をとり、次に向かったのは石清水八幡宮。
以前に一度だけ、近くの駅で下車したことがありましたが、境内に入るのは初めてのこと。
山の手の住宅地の細い道を右に左に折れながら、ようやく駐車場にたどり着くことができました。
清和天皇の貞観元年、奈良大安寺の僧行基に宇佐八幡大神の託宣が下り、男山に御神霊を奉安したのがその御創建です。 -
伊勢神宮に次ぐ天下第二の宗廟とされ、皇室の篤い崇敬を受けて来ました。
元寇の折の亀山上皇による「敵国降伏」祈願、幕末動乱期の孝明天皇天皇による「文久の石清水行幸」など、国難に際しては天皇御自身が行幸されており、平成の御代、今上陛下も御親拝されました。
また、源義家公が八幡太郎を名乗ったのは、この石清水八幡宮で元服を行ったからで、それ以来、源氏の氏神として信仰されています。
南北朝時代、後醍醐天皇の崩御の後には、後村上天皇が行宮とされ、正平7年には楠木正儀らによる京都奪還を成功させた拠点ともなります。
しかしその後、幕府軍の反撃に遭い、やむなく賀名生へと遷られることとなったのでした。石清水八幡宮 寺・神社・教会
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石清水八幡宮には、明治の神仏離合令によって廃止になった宿坊跡など、見るべき所は多いですが、この日のスケジュールを考えると諦めざるを得ません。
スケジュールを詰め込みすぎたかと反省しました。
駐車場に戻る途中、立派な記念碑を見かけたので確認してみると、なんとエジソンの顕彰碑でした。
石清水八幡宮とエジソン。
不思議な組み合わせですが、実はエジソンの研究にとって欠かせないある物が、この石清水八幡宮の境内から採集されていたのです。
それは、白熱電球のフィラメント。
木綿糸を高熱処理したフィラメントで白熱電球を40時間点灯させたエジソンは、更に長時間の点灯に耐えられる素材を求め、数千種の材料を使って実験を続けていました。
成果を得られないまま、たまたま机の上にあった団扇に使われていた竹で試したところ、思わぬ結果が出たため、世界各地に良質の竹を求めて調査員を送り出しました。
その一人、探検家のムーアは、シナから日本に入り、神戸で売られていた扇子を手掛かりに、ついに「八幡竹」にたどり着いたのでした。
「八幡竹」は、武神八幡神の鎮座地である石清水に叢生することから、刀剣の目釘にも用いられている良質な竹で、ムーアは早速これをエジソンに送りました。
エジソンが「八幡竹」をフィラメントとして白熱電球を点灯したところ、なんと1000時間も継続して輝き続けたのでした。
現在八幡市は、エジソンの故郷であるオハイオ州マイラン村と友好都市として交流を続けています。エジソン記念碑 名所・史跡
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次に向かったのは四条畷神社。
主祭神の楠木正行公は大楠公楠木正成公の嫡男で、小楠公とも呼ばれています。
神社の御創建は意外にも新しく、明治23年のことです。
明治政府によって父が神格化されると、その意思を継いだ嫡男正行公の祭祀を、この殉死の地の神社の神主が強く願い、明治22年に勅許が下ったのでした。
正行公は、神社を含む飯盛山一帯を拠点に、足利氏の執事である高師直と戦い、死に場所を求めるように足利の大軍に突撃をかけて敗れてしまいます。
その最期は、父と同じように兄弟で刺し違えての自刃でした。
神社から少し離れた所には小楠公御墓所と、ともに戦った従兄で勇将の誉れ高い和田賢秀殉節地があります。四條畷神社 寺・神社・教会
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また、境内には父大楠公との桜井の別れの像があります。
敗れると知って湊川に赴く父が、嫡男を次の戦いのために故郷へ引き返さた時の親子の対面です。
青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
木の下蔭に駒とめて 世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧の袖の上に 散るは涙かはた露か…
親子揃って討ち死に出来ないことへの苦しみを想うと、自然に目頭が熱くなります。
足利軍に敗れた父の御首級が送られたのを見て、その場で腹を召されようとした時、小楠公は若干11歳。
南朝はいよいよ衰微し、かつて南朝を支えた三木一草も全員今は鬼籍の人。
そんな時代の逆風の中で、故郷に寄ってじわじわと力を蓄えた小楠公は、足利軍にとって無視できない勢力となっていました。
住吉浜で足利方を打ち破った際には、敗走して橋から落ちた敵の兵士を救い出し、手厚く看護して送り返すという美談を残しています。
吉野攻略に動き出した高師直の軍を迎え撃つに際し、後醍醐天皇の御廟に参拝した後、如意輪寺の壁に一族43名の名前と、辞世ともとれる
かへらじとかねて思へば梓弓
なき数に入る名をぞとどむる
の歌を書き残して、四条畷に赴いたのでした。 -
この日最後に参拝したのは、河内国一之宮の枚岡神社。
諸国一之宮の巡礼を続けていますが、畿内はこれで全てを参拝したことになります。
御祭神は天児屋根命、比売御神、齋主命、武甕槌命。
天児屋根命は中臣氏の祖先神で、記紀神話でも天岩戸開きの段などで重要な役割を担っています。
まず見えたのは、鳥居のように建てられた天の沼矛でした。 -
狛犬のかわりに鹿が置かれているのは、春日大社と同じでした。
歴史的には春日大社よりもこちらの方が古く、神武天皇が即位する3年前に侍臣の天種子命が(即位前の)神武天皇の命によって神津岳の頂に祖神の天児屋根神を祀ったのが始まりと伝えられています。
その後、奈良に春日大社を創建するに際して分祀したことから、元春日とも呼ばれています。 -
天皇の祭祀は中臣氏と忌部氏が司っていましたが、忌部氏は次第に権力を失い、大化の改新で中臣(藤原)鎌足が中大兄皇子と一心同体の活躍をすることで、その地位は不動のものとなりました。
その後、平家の隆盛まで藤原氏の権勢は続くのですが、どんなに強い権力を握って栄華を誇っても、君臣が逆転するような不忠を働くことのなかったのが藤原氏です。
それは、神話から続く分限をしっかり守ろうという日本人の良心が残っていたからにほかなりません。
なお、神社と駅とを結ぶ参道には「皇孫輔弼」と彫られた石碑が建てられており、中臣氏の志操を今に伝えています。枚岡神社 寺・神社・教会
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大阪難波に一泊。
2日目はまず阿部野神社に向かいました。
若くして散った南朝の武将と言えば、楠木正行公と北畠顕家公。
阿部野神社は、その顕家公が父の親房公とともに祀られる神社です。
建武新政の年に従三位陸奥守の叙任された顕家公は、翌年、義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて陸奥国の多賀城に下向しました。
新政を各地に浸透させるのが目的で、顕家公はよく東北を経営しました。
足利氏が謀反した際には、楠木・新田両勢と協力し、京都奪回に成功するのでした。
しかし多賀城は足利方に攻略され、霊山を陸奥国府と定めます。
足利氏が九州で再起し、京に向けてその勢力を進めた結果、大楠公は湊川で討ち死に。
新田勢は冬場の北陸行で著しく兵力を失ってしまうという状況で、南朝にとって顕家公の勢力は足利を再び追い落とすための心強い援軍でした。
東北の兵は強く、京に向けて快進撃を続けますが、援軍による連携が間に合わず、ここ阿倍野の地で討ち死にされるのでした。
この周囲一帯の地名は北畠。
顕家公の墓所は、地元の人たちによって大切に手入れされています。阿部野神社 寺・神社・教会
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顕家公は討ち死にする直前、後醍醐天皇に建武新政の失敗を諫める上奏文を奉っています。
公卿とは思えないほどの熱情が込められた上奏文には、地方特別官衙の在り方や朝廷の倹約などが説かれています。
顕家公について更に知りたいと思い、神職の方に尋ねたところ、一冊の本を譲ってくださいました。
神社御鎮座100周年を記念して刊行された本で、「花将軍北畠顕家」とのタイトルです。
自宅でパソコンだけで調べては見えてこない顕家公の実像に迫ることができるかもしれないと、楽しみに読んでいるところです。 -
次に、奈良に近い所まで車を走らせました。
前回の旅の最後に多田神社で教えられた、源氏三神社の一つです。
多田満仲公の四男、源頼信公がこの地に居を構え、長氏頼義公が河内源氏の第2代となりました。
その子、八幡太郎義家公もこの地で生まれています。
康平7年、前九年の役から凱旋した頼義公は、戦勝祈願した石清水八幡宮から氏神の八幡神を勧請したのが、この神社の始まりです。
周辺は、もとは香炉峰という地名でした。
前九年の役で、旱魃によって飲料水が尽きた際、頼義公が八幡神に祈って矢を岩壁に突き刺したところ、清水が湧きだして渇きが癒されました。
凱旋の際にこの水を壺に入れて持ち帰り、城域内に井戸を掘って、その底に壷を埋めたことから、壷井と改められました。
壷井水の井戸は現在でも完全に保存され、飲料水が湧きだしています。壺井八幡宮 寺・神社・教会
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最終日はいつものごとく時間があまりないので、空港への途中に立ち寄れる神社を1社だけ選びました。
今回は廣田神社。
西宮に鎮座し、天照大御神荒御霊をお祀りしています。
西宮戎神社からも近く、戎神社はもとは廣田神社の摂社で、後に独立したものです。
西宮駅から徒歩では無理なので、バスに乗りました。
帰りの便の時間が決まっているので、バスに乗る時はいつも緊張します。
今回も、時刻表をしっかり下調べし、帰りのバスも確認するまで念を入れました。
御社殿は、伊勢神宮の第58回式年遷宮によって御用材の譲渡を受けたもので、見る者を圧倒する荘厳な造りです。 -
仲哀天皇2年に、神功皇后が豊浦の津で海中から剣珠を得られました。
その水晶の中には剣の形が現れているという不思議な玉で、御懐妊の最中の三韓征伐を成功させたのも剣珠の霊力によるとして尊ばれました。
大勝利を得て凱旋し、天照大御神荒御霊のお告げによって御創建されたのが始まりで、剣珠は神宝として納められました。
盗難や隠蔽の害に遭うこともありましたが、その度に不思議な霊力によって発見され、神社に返還されたのだそうです。廣田神社 寺・神社・教会
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