2005/10/02 - 2005/10/02
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一歩人さん
芝の東照宮は、その昔、増上寺境内に勧請され、天正18年(1590年)
家康公の江戸入府の折、源誉存応が公の帰依を得て徳川家の菩提寺に定められた。
当時は日比谷にあったが、慶長3年(1598年)江戸城拡張工事に伴い、
現在地に移転した。以後、幕府の保護の下、関東浄土宗寺院の総本山となり、
実質的に同宗第一の実力を持った。
が、芝の東照宮は、明治の神仏分離によって、
増上寺から切り離され、東照宮となりました。
以前は、増上寺の安国殿と呼ばれていたそうです。
(撮影2005年10月2日、以下同じ、但し一部差し替えあり))
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- JRローカル
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01 入り口
増上寺の隣にあり、お参りした当時は、数組の参拝者がありました。 -
02 鳥居
すぐ奥に、朱塗りの東照宮が見えます。 -
03 イチョウの木
ひときわ、目を引きました。
神社の前に三代将軍家光が植えたもの伝えられる都指定天然記念物の
イチョウだそうです。新発見!
う〜ん、しばし腕組、マイブームにする?
高さ21.5m、幹囲6.5m、根元周囲約8.3m。と。 -
04 社殿正面
お賽銭箱に輝く葵のご紋。感激! -
05 「東照宮」
まさしく、東照宮社殿の証。 -
06 祭神の文字
ありました、ご神体が鎮座するという、証。
残念ながら、見ることはできません。
上野国立博物館の『大徳川展』で実物を拝見しました。
お顔が想像していたよりとても柔和でした。 -
07 ご神体(複製)
徳川家康公のご神体(複製)です。
でも、江戸東京博物館6Fにはいつも鎮座おわします。
そう、開館以来。守り神となっていると思います。
眼光するどく、にらみを効かせているようですよね。
さあ、何秒直視できますか?
(撮影2004年10月31日 江戸東京博物館6F)
慶長6年(1601年)造。
芝の東照宮蔵の複製です。
『還暦を迎える家康の長寿を願ってつくられた寿像。
生前の家康の風貌を伝える資料として貴重。
天明5年(1785年)頃に描かれた「御由緒抜
書」によれば、家康の死後、遺命により増上寺安国殿
に移されたと記されている』と。
家康公像は、慶長6年(1601年)正月、60歳を
迎えた家康公が自ら命じて彫刻させた等身大の寿像で
す。
冠をいただき、束帯姿となっています。生前、駿府城
で、自らこの像の祭儀を行っていました。
神なった家康公が、この「東照大権現」の称号です。
昭和20年(1945年)東京大空襲の際には、
戦火の中、宮司自らご神体を奉持して、近くの井戸に
入れたという逸話が伝えられる。と。
(参考:国立博物館「大徳川展」2007年) -
08 人の一生
人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくが如し。と。
さて、その訳は? -
09 長男信康の切腹
服部半蔵が開山した新宿の西念寺に岡崎三郎信康の
五輪塔形の供養塔が今も半蔵のお墓の後ろで、
ひっそり、建立されております。
建立は、文禄2年(1593年)で高さ269cm。
信康は、永禄2年(1559年)に生まれ、幼少時は
今川氏の人質として駿府で過ごし、永禄10年
(1567年)岡崎に帰り、信長の娘をめとり、
元亀元年(1570年)岡崎城主となりました。
(撮影2005年7月18日 新宿区若葉2−9
西念寺。以下、同じ) -
10 服部半蔵の墓
天正7年(1579年)武田勝頼と内通したとの嫌疑により、家康から
切腹を命じられた信康を半蔵は、介錯を果たせず、後に、信康の供養のため、
出家したとあります。ここで、涙、涙、あふれ出ました。
ああ、こうして、旅行記を打ちながらも、涙、涙、半蔵、家康のご心中
いかがなりしか。
とっても、自己満足しながら、おしまい。
申し訳ありませんでした。お見苦しい段、平にお許しを。
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