1988/06 - 1988/06
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みどりのくつしたさん
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1988年のこの時期、「1ケニアシリングは8円」と考えていいです。
1泊250シリングで豪華食べ放題朝食つきの「Hotel Solace」のあと、1泊160シリングで朝食つき(ただし果物はバナナ1本)の「Hill Crest Hotel」と移動した。
そしてついに、念願の「イクバルホテル(Iqbal Hotel)」へとチェックインする。
この時期、イクバルホテルは、とにかく賑わっていた。
だから、昼過ぎに来ると、ほとんど部屋はもらえなかったよ。
チェックインの時間が決まっていて、その時間には宿泊希望者の長い列が続いたものだ。
僕は、何日かイクバル一階のレストランに通って、身体と精神を慣らしてから、泊まることに決めた。
1988年のイクバルホテルというのは、ホテル自体も有名だった。
しかしその一階のレストランが、世界中のバックパッカーが集合するところだったんだ。
常に人で混んでいて、面白そうな人間がいた。
また、チャーイ一杯でいくら粘っても良かったので、だらだら暇つぶしするのに最適だった。
この時代のナイロビというのは、話のネタになる、冒険旅行の起点だった。
つまり、ナイロビに来て、サファリに出て終わりなどという旅はしてなかった。
僕もただアテネからカイロへ飛ぶ切符を捜していたら、ついでにナイロビに来てしまっただけ。
しかしナイロビまで来たら、かなり大胆な計画を立てていたよ。
一番単純な旅でも、陸路でウガンダ、ルワンダ、ブルンジと移動して、タンザニアから戻ってくるルート。
もっといって、ザイール(コンゴ)へ入って、ザイール川をリバーボートで下って、アフリカ横断するのも珍しい話ではない。
僕は陸路で南アまで下ろうか、それとも西アフリカへ行こうかと迷ったりした。
考えているうちに、とにかくビザだけでも取ろうというので、次々にめぼしいビザを取りまくったんだ。
この時代だと、まだ南アではアパルトヘイトがあって、南アのスタンプがあると、ブラックアフリカへは入国できないとかいろんな話があったころだ。
タンザニアとザンビアを結ぶタンザン鉄道も、とにかくひどいという話だった(1996年にタンザニアへ行った時は、豪華国際列車として紹介してあったが…)。
とにかく、イクバルホテルの2階のツィンルームを1人で借りきった。
そのころ1泊が90シリング、つまり720円だ。
これは本当に正直な話をすると、自慢出来る事ではない。
バックパッカーはベッドを借りていて、それが45シリング。
つまり、ほとんどの旅行者は360円払って、ドミに寝ていた。
ただ僕は、このときかなりのお金を持っていたし、安全を第一に考えていたので、個室に泊まっていた。
だからイクバルでは2人分の金を払って、ツインの一室を自分ひとりで使っていた。
イクバルホテルでは、黒人の使用人が部屋も廊下もホウキで掃除をしていた。
でも僕は常に部屋に鍵をかけていたので、一度も掃除されることはなかったよ(笑)。
イクバルホテルで泊まれなかったバックパッカー諸君は、他のホテルにも泊まっていた。
それが、イクバルの近くの「ニューケニアロッジ」だった。
僕も、イクバルのレストランで出会った日本人の宿探しで、ニューケニアロッジに行ったことがある。
また、「アルマンスーラホテル」には、特に日本人旅行者が固まっているという噂があった。
実は僕がイクバルに入る以前に、イクバルに泊まっていた日本人旅行者連中とイクバルのスタッフの間でトラブルがあったらしいんだ。
それで、長期滞在の日本人諸君は、アルマンスーラに移動したという話だった。
僕は興味を持って訪ねていったが、それほど人が多いわけではなかった。
アルマンスーラの場所もそんなによくなかったしね。
しかしこの時代、実は本物の本格的日本人アフリカ旅行者は、一箇所に固まっていた。
それがリバーロードにある伝説の日本人宿「リバーハウス」だったのね。
リバーハウスだと、この時期1泊20シリングで泊まれた。
しかし、リバーハウスは普通のアパートを日本人が4室ぐらい借りて、共同生活しているところで、本当のホテルという訳ではない。
リバーハウスでは部屋の2段ベッドや床でざこ寝をしたりする。
プライバシーを最も大切と考える僕としては(まだ、資金的にも余裕があったので)ここに転がり込む事はなかった。
しかし、世界中の全ての日本人宿の常識として、日本語の本のライブラリーがある。
特にこのリバーハウスでは日本風料理を自炊していた。
食事の用意を手伝ったり、顔なじみになると一食20シリングで食べられた。
なまぬるいタスカービールも1本10シリングで飲めたので、しょっちゅう顔を出していた。
こういう世界各地の日本人宿には、旅行を始めたばかりのくせに「旅行通」を気取る中途半端な日本人がよくやって来る。
リバーハウスにも「ケニアにやって来たのにインドの話ばかりする」(これは世界中のどこにでもいるインドかぶれだ)とか「エジプト経由で来たことを示そうと、エジプト音楽のテープを流す」とかいう中途半端な連中がいたね。
あと、日本からのツアーなんかがよく利用していたのが「680ホテル」だった。
これは値段は手ごろで、シティホテルとしての設備もちゃんとしていた。
格式も高くないので使いやすかった。
というのは、ナイロビなんかになると欧米人専用の格式高いホテルがある。
そういうところだと、日本人はやはり居心地が悪いものなんだよ。
例えば、待ち合わせの場所としてちょっと高級だったのが「ニュースタンレーホテル」だった。
この1階に「Thorn Tree Cafe」という有名なカフェがあって、伝言の紙切れがたくさん貼ってあった。
ここも、日本人はちょっと行きづらい雰囲気があったね(僕は行ったけどね)。
680ホテルには、日本料理店の「赤坂」が入っていた。
赤坂の昼飯はご飯のお変わり自由だったので、よく通ったものだ。
それから、ちょっと離れていたが、ユースホステルがあったね。
ユースに泊まっていて、確か改装工事のために追い出されて、イクバルへ来た日本人旅行者もいたよ。
これが、1988年のナイロビのホテル状況だったわけだ。
http://homepage3.nifty.com/worldtraveller/africa/iqbal_room.htm
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