2008/07/19 - 2008/07/21
846位(同エリア1468件中)
山菜迷人さん
(1)腹ごしらえ
旅の始まりは、まず腹ごしらえ。「腹が減っては戦ができない。」のだ。ということで、京都市中京区押小路小川西入古城町にある中華そばの『ちいふ』へ行った。京都の地名は実に面白い。東西の通りである押小路と南北の通りの小川通の交差するところにある古城町というような意味らしく、地名を聞くと地図が頭に入っている人ならば初めて行く場所でもだいたい近辺まではいけるようなっているらしい。ただ、らしいというだけで、確証はないのだけれどね。
で、ちいふのラーメンである。お盆の上にラーメン丼、その隣に卵の入った呑水(とんすい)が置かれる。店のおやじが
「卵を割って、すき焼き醤油をたらし、麺や叉焼をつけて食べてみてください。」
というので、
「ほほう。変わった趣向ですね。」
とこたえながら、言われるままに叉焼に卵を絡ませて食べてみる。
「ほとんど、すき焼きですね。なかなか変わった味わいですな。」
「でしょう。うちはこれが売りですねん。」
とおやじ。すき焼き風味のラーメンを食し、絡める卵がなくなったら、ラーメン単体を楽しむ。一杯で二度美味しいという感じですかね。すき焼きとして食べているときは気にならなかったけれど、ラーメンとして食べると叉焼の脂身が多く、肉のうま味が感じられず今一だね。ラーメンスープは濃い醤油の色が出ており、昔ながらの中華そばスープであり、僕の好きな味だ。麺も旨いので、叉焼がもう少しうまければ★★あげても良いかなとおもうけれど、残念ながら、一つしかあげられない。
(2)三井寺の歴史に触れる旅
京都まで同行したCとここでお別れして、一人三井寺を目指す。途中、道に迷いながら、右往左往しながらなんとか門前の駐車場に車を入れ(駐車場代500円)、ゆっくりと三井寺界隈を散策する。三井寺は、正式な名称を天台宗門宗総本山、長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)という。古くから日本四箇大寺の一つに数えられているが、その歴史は7世紀にまでさかのぼる。
7世紀初め、中国大陸に広大な統一国家を形成した唐は、朝鮮半島進出を企てた。朝鮮半島は長く高句麗、新羅、百済の三国に分かれていたが、新羅が唐と手を組んで、統一国家形成のために百済へ侵攻してきた。百済と日本は、かつてより同盟関係にあり、百済の要請で朝廷は援軍を派遣、白村江で大きな戦闘がおこったが、百済・日本連合は圧倒的な力の差を見せつけられて敗退した。
この戦闘により朝廷は新羅・唐連合軍の日本侵攻を恐れ、都を大津に移すことを決めた。そして、天智天皇の667年近江大津宮が成立する。ところが、671年天智天皇崩御後、皇位継承争いがおき、大友皇子(天智天皇の子)と大海人皇子(天智天皇の弟)の骨肉の争いである壬申の乱が起こる。勝利をおさめた大海人皇子は672年再び都を飛鳥に遷した。
大友皇子の子、大友与多王が父の霊を弔うため、「田園城邑」を寄進して寺を創建し、天武天皇から「園城」という勅願を賜った。そこからこの寺に園城寺という名前がつけられたのである。
天皇家の皇位継承争いはこれだけではなく、歴史をひも解くと数々の悲惨な事件が起こっているのだけれど、ここではそのことには触れない。それにしても、権力というものは、親族の命を奪ってまで手にしたいものなのか。そうした世界に縁のない僕には理解できないことではある。
さてその園城寺がなぜ俗に三井寺と呼ばれるのか。それは、天智・天武・持統と三代の天皇の産湯に用いられた霊泉があり、「御井(みい)の寺」と呼ばれていたものを、後に智証大師が、厳儀・三部潅頂の法水に用いたことに由来する。ちなみに潅頂(かんじょう)とは、大辞林によると「密教の儀式。伝法・授戒・結縁などのとき、香水(こうずい)を受者の頭に注ぐことをいう。」とある。
仁王門をくぐったところに受付があり、500円を支払う。境内は、時折すれ違う人がいるくらいで、静けさに包まれ、蝉時雨が降り注ぐ。木立に囲まれているとはいえ、風がなく、蒸し暑い。釈迦堂、光浄院(公開されていなかった)、金堂(改修工事中で、足組みとシートにおおわれていた)、弁慶の引きずり鐘、一切経蔵、三重塔、灌頂堂、唐院、村雲橋を渡り毘沙門堂、西国十四番札所観音堂、戻って、三井の晩鐘を見て、再び仁王門を出る。
貞観年間(859〜877)になって、智証大師円珍(ちしょうだいしえんちん)和尚が、園城寺を天台別院として中興し、東大寺・興福寺・延暦寺と共に「本朝四箇大寺(しかたいじ)」の一つに数えられ、南都北嶺の一翼を担ってきたが、円珍の死後、円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化し、正暦四年(993)、円珍門下は比叡山を下り一斉に三井寺に入る。 この時から延暦寺を山門、三井寺を寺門と称し天台宗は二分されたのだ。その後、両派の対立や源平の争乱、南北朝の争乱等による焼き討ちなど幾多の苦難に遭遇するが、 智証大師を信仰する人々によって支えられ、その教えは今に伝えられている。そんな大歴史絵巻を思い描きながらの三井寺散策となった。
(3)門前の蕎麦屋
小腹がすいたので、門前の駐車場の一角にある「和風れすとらん 風月」に入り、ざる蕎麦を注文する。これはいただけない。蕎麦汁は良く冷えているのだが、蕎麦のほうが微妙に生暖かい。注文して意外に早く出てきたなと思ったのだけれど、もしかして、作り置きしていたものか、あるいは又、キャンセルが出たのか、もしくは、茹でたあと、水の中に放置されていたのか、確かめるすべもないし、あえて確かめるまでもない。そばの風味がしないし、蕎麦自身がかなり柔らかい、茹ですぎというよりは茹でたあと、そのまま水の中に放置されていたのではないかと思われる。粉わさびを練った山葵、刻みネギ、蕎麦湯が一緒に出てきたので、厨房で打っているかどうかは別として、茹で麺を使ってはいないようだ。だとすれば、きちんと手順通りの仕事をすれば、もっとうまい蕎麦を客に出すことができるのに、残念だなぁと思う。
ということで、この店は評価できない。
(4)浮御堂から今津へ
気を取り直して、161号線を北上、右「浮御堂」の案内表示が目にとまり、足を延ばすことにした。近江八景「堅田の落雁」で名高い浮御堂は、寺名を海門山満月寺といい、平安時代、比叡山の恵心僧都が湖上安全と衆生済度を祈願し、自ら千体の阿弥陀仏を刻んで建立したという。現在の浮御堂は昭和12年に再建、昭和57年にも修繕され、現在に至り、往時の情緒をそのままに残している。
門をくぐると左手に受付があり、拝観料300円也を支払う。その奥左手に観音堂があり、そこに重要文化財である聖観音坐像が安置されている。観音堂の脇には樹齢数百年と見える老松の巨木がはえている。この松の言の葉を聞くことができたら、
「芭蕉はんが船でここに来て、十六夜の月見をし、17文字の短い言葉の中に『侘び』・『寂び』・『しをり』・『ほそみ』・『かろみ』などの言葉で表される蕉風の句を、お読みになりました。なんや、お弟子さんも二人ばかり連れておいででした。」
などと、昔の情景を語ってくれるのかもしれないが、残念ながら、僕は松の木と語る術をもたない。境内には、松尾芭蕉の
『鎖(じょう)あけて 月さし入れよ 浮御堂』
の句碑が建てられていた。
松の枝の下から、湖に浮かぶように佇んでいる浮御堂に向かって、橋が渡されており、靴を脱いで御堂の周りをぐるりと一回りする。御堂の中には件の1千体の阿弥陀仏像が納められている。
伝によれば、恵心僧都が比叡山横川から琵琶湖をながめると、毎夜びわ湖畔に光明が認められる。その光明の赫々たるを怪しみ、網でこれを掬いとらせると、1寸8分の黄金の阿弥陀仏像であった。そこで、魚類殺生供養のため、阿弥陀仏像1体を造り、その体内にこれをおさめ、1000体の阿弥陀仏像をも奉安し、浮御堂を創建したといわれている。
厳しい暑さの中ではあったが、湖の上に立つこの浮御堂の上は、琵琶湖を渡る風が肌に心地よい。
浮御堂を出て、魚屋の前を右に曲がる。小さな川の手前に小道があり、無花果が植えてある脇を抜けると湖畔に出る。右手に浮御堂が見える岸辺に、城山三郎の文学碑が建てられていた。パンフレットの浮御堂の写真は南側から撮ったものだが、北側からの写真も悪くない。水辺まで下りてきているので、やや見上げる形にはなるが、人工的な護岸よりも琵琶湖の上に建てられている感じが良くわかる。
(5)不老泉の古里〜大田の町
大田の上原酒造周辺を歩いてみようと、琵琶湖に沿って北上を続ける。途中、白髭神社の朱塗りの大鳥居を湖中に発見し、立ち寄ろうかと思ったが、時間的に厳しくなるので、横目で見ながら通過。位置的には、近江高島駅の南約2km、琵琶湖の湖中にその鳥居は立っている。そして、僕が走っている国道161号線をはさんで社殿が立つ。「白鬚さん」「明神さん」の名で、地元の人から広く親しまれ、また、「近江の厳島(いつくしま)」とも呼ばれている。たしかに、小型の厳島神社の大鳥居という感じに見えた。
社名のとおり、延命長寿・長生きの神様として知られ、また、縁結び・子授け・開運招福・学業成就・交通女全・航海安全など、人の営みごと、業ごとすべての導きの神という「何でも来い。」の神様らしい。祭神は猿田彦命。
安曇川を越え、最初の信号が小学校前で、そこを右折する。しばらく行くと大田神社を過ぎ、右手の奥に酒林を発見。そこが、上原酒造である。この時期酒の仕込みをしているわけではないので、蔵の周りを散策する。広い平野、水田が広がり、田圃のはるか向こうに少し広い道があるようで、等間隔で何かの木が植えられている様子が見える。用水が流れ、そこで、野菜を洗っているお袋のような年配の女性がいる。その向こうでも、用水路で冷やしておいたトマトに胡瓜を笊ごと引き上げようとしている。用水の水は清く、小魚が泳ぐ。用水沿いに民家が並ぶが、近代建築の建物は皆無といってよい。古い木造の家、新しい家も古い伝統を受け継ぐ、木造建築が並ぶ。
「あぁ、この町は、こうして水と暮らすことが日常なのだ。この豊かな水が、上原酒造の不老泉に代表される旨酒の源だ。」
不老泉の旨さの秘密を発見した気分になって、大田の街並みを見ながら今日の宿に向かったのだ。
(6)琵琶湖周航の歌と今津の町
ホテルにチェックインして、周辺を散策し、ここが琵琶湖周航の歌の誕生の地だということに気がついた。
【琵琶湖周航の歌】
作詞 小口 太郎
原曲 吉田 千秋
1 われは湖の子 さすらいの
旅にしあれば しみじみと
のぼる狭霧や さざなみの
志賀の都よ いざさらば
2 松は緑に 砂白き
雄松が里の 乙女子は
赤い椿の 森蔭に
はかない恋に 泣くとかや
3 浪のまにまに 漂えば
赤い泊火 なつかしみ
行方定めぬ 浪枕
今日は今津か 長浜か
4 瑠璃の花園 珊瑚の宮
古い伝えの 竹生島
仏の御手に いだかれて
ねむれ乙女子 やすらけく
5 矢の根は 深く埋もれて
夏草しげき 堀のあと
古城にひとり 佇めば
比良も伊吹も 夢のごと
6 西国十番 長命寺
汚れ(けがれ)の現世(うつしよ)遠く去りて
黄金の波に いざ漕がん
語れ我が友 熱き心
少し長くなったけれども、琵琶湖周航の歌の全文である。この歌ができたのは、大正6年、ここ今津町で生まれたのである。
大正6年6月、第三高等学校(現京都大学)二部クルーは学年末(当時7月卒業)の慣例によって琵琶湖周航に出る。小口太郎ら一行は大津の三保ケ崎を漕ぎ出て、1日目は雄松(志賀町近江舞子)に泊まり、2日目の6月28日は、今津の湖岸の宿で、疲れをとっていた。
その夜、クルーのひとりが「小口がこんな歌をつくった」と同行の漕友に披露し、彼らはその詞を、当時彼らの間で流行していた歌の節に乗せるとよく合ったので、喜んで合唱したということだ。これが、「琵琶湖周航の歌」誕生の瞬間である。また、当時彼らの間で「流行っていた歌」が、吉田千秋の「ひつじぐさ」であることが判明したのは平成に入ってからのことだと聞く。大正時代に生まれ、歌い継がれ、しかもその作者が平成に入ってから判明する。時代を超えた粘り強い努力のたまものとしか言いようがない。そんな歴史を改めて勉強させていただいた。
(7)今津の地酒は伝統的なしっかりとした日本酒だったのだ
ホテルから近江今津駅まで歩く。ホテルのフロントで、地元の酒が飲める店はないかと聞いたところ、今津駅の向こう側に何軒か居酒屋があるという。駅まで歩いて15分ほどだというので、まだ日もあるし、のんびり歩くことにしたのだった。
ホテルの隣が今津ショッピングセンター・リプル。ここは、いわゆる専門店がテナントとして入っているショッピングモールで、平和堂というスーパー、和食の花街道やレストランなどが入っている。ここで安直に晩飯を済ませる手もあるなと一瞬思ったが、
「いやいや、駅前の飲み屋街が俺を呼んでるぜ。」
と張り切って駅前飲み屋街をめざしたのだが、華々しい飲み屋街などなく、駅前の50メートルほどのアーケード街で夏まつりをしていたが、出店の関係者のほか、観客は数人という感じだし、一角でバンドが演奏していたが、演奏こそ様になっているとはいえ華がない。「これはまずいぞ。」
と思いながら、アーケードを抜ける。なんと、直ぐに畑や田んぼが見える。
「田舎なんだなぁ。」
とほのぼのした空気が流れるが、
「ちょっと待て、このままでは、今日の晩飯にありつけないぞ。」
と気持ちを入れ替えて今日の落ち着く先を探す。しばし歩くと『割烹 うな正』の看板が目に入る。割烹というからには、それなりに献立も充実しているに違いないとあたりをつけて、思い切って暖簾をくぐる。
今津サンブリッジホテルから歩いて15分ほどとはいえ、暑い盛りのことですっかり汗をかいた。こういうときの
「とりあえず、生ビール!!」
は旨いね。で、最初の一杯を一気に飲み干し、2杯目をチェーサー代りに頼んでおいて、
「地酒は何がありますか?」
と聞いたところ、地酒は女将さん担当らしく、僕よりも少しお姉さんという感じのふくよかな、若いころの美貌を想像させる、なかなか別嬪の女将さんが出てきて、
「池本酒造の蔵人の純米、それから、萩の露があります。お客さんの好きづきですけど・・・。」
「では、蔵人をいただけますか?肴は、そうですねぇ、琵琶湖の鮎なんかはないですか?」
お酒を頼み、いざ料理を頼む段になって虚を突かれた。息子さんと思しき若い衆が板場に入っており、
「うちは9割海の魚です。琵琶湖の魚は置いてないですね。」
という。非常にがっかりしたが、琵琶湖の湖魚はかえって高いんだね。こういう駅前の、仕事帰りのおやじが、
「けっ、今日の仕事も辛かったぜェ。課長の奴、若造のくせに偉そうに・・・。」
とまあ、コップ酒を固く握りしめるというようなシチューエーションの店では、そんなに高い料金設定するわけにはいかないからね。それでも、
「川鱒ならありますよ。」
というので、それを頼む。
蔵人は辛口の酒で、後で確認したところ、日本酒度は+5、淡麗辛口で有名な久保田が+4くらいだから、それよりも辛いのだが、久保田ほど軽くない。日本酒らしい味がしっかりした酒で、この店の料理とよく合った。
おかわりに萩の露を頼むが、こちらも辛口なのだが、蔵人と比べると香りが高く、その分、軽い感じがする。このあたりの酒蔵は、
「こういうしっかりした酒を造っているんだなぁ。」
と感心した。
料理の方は、川鱒の煮物(写真)、鰻の天麩羅をいただく。川鱒の煮物は濃いめの味付けで、付け合わせで牛蒡が一緒に炊いてあり、川魚の匂い消しか、醤油と生姜の味と香りがした。
鰻の天麩羅は、ギトギトになりそうな気がしたが、意外にもさっぱりしており、塩でいただいたのだけれど旨い。
地酒を飲ませる店としては、合格点を出していい店だと思ったのだった。
(8)千鳥足というほどでもないが・・・
うな正で生ビール2杯、蔵人1合、萩の露1合、本醸造酒2合・・・ほろ酔い加減で近江今津の南側を通り、琵琶湖の今津港に向かう。道中に、『琵琶湖周航の歌』の歌詞が鋼製のプレートに刻まれ石塔にはめ込まれている。大通りから今津港に向けて1番、2番とほぼ等間隔に並んでいる。一枚づつ写真を撮っていく。
今津港の手前に西福寺というお寺があり、鐘の音が聞こえる。今津港は最後の船が出た後であり、誰もいない。明日の出向を待つ船が泊まり、琵琶湖に向かい女子高生と思しき二人連れが談笑している。後ろからこっそり一枚撮らせてもらう。
琵琶湖岸に降りてみる。湖岸におしろい花が咲いている。暮色の迫る琵琶湖畔、カイツブリが小魚を追い、潜っては浮かびを繰り返えしている。ここは、かつての九里半街道の起点であり、室町時代の史料に「九里半階道路」、「若狭道九里半」などと記されている。今津と福井県小浜の距離が約38km(九里半)であることから名付けられたという。江戸時代には、近江側では「若狭海道」、若狭側では「今津海道」などと呼ばれ、小浜に陸揚げされた日本海諸国の海産物などがこの道を通って今津に運ばれ、ここから湖上輸送で京阪持ち込まれたのである。
旅籠、お茶屋、すし屋などが軒を並べ、往時の賑わいを想起させるが、今日の今津の町並みは静かである。歩いてホテルまで戻り熟睡。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
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今回の旅の友、愛車ラウム君である
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車をコインパーキングに止めて、ちいふへ向って歩く。
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ちいふの大将がラーメンを作る
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チーフの叉焼麺。丼の周囲ぐるりに叉焼が貼りつけてあるという感じですかね。叉焼は薄く切ってあり、脂身が多いです。中央にモヤシ、その上に葱と盛り上げており、良い感じです。
丼の左手に吞水、生卵を割り入れています。これに、すき焼き醤油をたらして混ぜ合わせ、麺や、具材をつけて食べます。まるですき焼きの味がします。 -
ちいふの『叉焼麺』
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中華そば ちいふの店先
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仁王門に向かって右手に、背丈ほどの石が置かれ、園城寺と彫ってある。
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重要文化財の園城寺大門(仁王門)を入口側から写す。
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仁王門をくぐり振り返って寺社内側から仁王門を撮影する。
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大津市教育委員会の仁王門の解説
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重要文化財の釈迦堂
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釈迦堂の木組み
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木立の中から釈迦堂を臨む
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釈迦堂の解説。室町初期の建築で中世寺院の食堂の様式をつたえている。本尊に清涼寺式釈迦如来を祀る。
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釈迦堂の前庭の隅にあるしゃしゃんぽの木。造形の妙を感じる。
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塀の向こう側に桃山時代に創建された国宝の光浄院客殿が見える。今は、未公開である。
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光浄院の門に向かう道。門は開かれているが、進入を拒むように柵が置かれている。中に入って客殿を見たい衝動に駆られたが、非公開とされているのに、無断で入るのはどうも気が引け、止めておいた。
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山門(延暦寺)と寺門(三井寺)の争いで、武蔵坊弁解が、三井寺を襲撃し、その怪力で一人で鐘を山門まで引きずりあげたという伝説が残っている。その時の鐘がこれだという。確かに、表面に傷が残っているのがわかる。
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弁慶引き摺り鐘の奥に置かれている弁慶の汁鍋
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寺の出入り業者の人がインド孔雀を飼っていたのが、増えすぎて困ってしまって、三井寺に飼ってもらえないかと頼んできて、
?子供ずれの参拝客もいるので、楽しんでもらうことができる。
?密教に縁のある孔雀明王に通じる。
というような理由で、1990年頃から飼っているようだ。 -
雉のご夫婦かな?雌が雄にキスしているように見える。
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高麗版一切経をおさめる回転式八角輪蔵。
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三重塔
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三重塔の解説を教育委員会が書いている。
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唐院の灌頂堂。寺流の密教を伝承する場。
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灌頂堂の入口軒先をアップで写す。
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唐院の門をくぐると参道に続く。
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ふと右手を見ると、木立の中とはいえ、炎天下で草取りの作業をしている一団が見える。こういう方々の努力の成果を、僕は享受しているわけだ。感謝!
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長日護摩堂に登る苔むした石段
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長日護摩堂から三重塔、灌頂堂の屋根が見える
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灌頂堂の鬼瓦
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智証大師聖訓 − 生死本源集
我等本心の実相を忘れ彼の善悪、彼の生死、彼の涅槃と思ひつくのみ。
心性の本源に於ては全くこれ無く、妄りに計するに因って執となる。
縄に迷て蛇と為し、心疑って暗鬼を生ずるが如し。 -
毘沙門堂の前に建てられた石碑
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重要文化財の毘沙門堂
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観音堂の鐘楼
この木組みに感動して一枚 -
観音堂の鐘楼 全景
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天台寺門宗の総本山である三井寺の境内にある、西国三十三所第14番札所の観音堂。本尊の如意輪観世音菩薩は秘仏で重文。琵琶湖が一望できる高台に立っている。
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観音堂の手水舎
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観音堂の内部
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観音堂の境内にある土産物売り場。宗教といえども、非課税団体といえども、広大な建物を維持管理するには資金が必要なのだ。「宗教が商売になり下がった。」などと、不謹慎なことを言ってはいけないのだ。
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観世音菩薩の御功徳
汝観音の業を聴け。善く応に諸の方所に応ず、弘誓の深きこと海の如し。劫を歴るとも、思議せじ、衆生因厄を被りて、無量の若身に逼らんに観音妙智の力、能く世間の苦を救う・・・・・・ -
観月舞台
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謡曲史保存会の解説
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観音堂への参道を駐車場方面に降りる
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観音堂からまっすぐ降りると水観寺
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行者堂の木鼻
木鼻とは、木の端の意で、虹梁(こうりょう)の端が柱から突き出した部分のことをいいいます。ひところ、この木鼻の写真をいろいろと撮影し、分析したことがありますが、時代により、宗派により少しづつ形が変化していきます。木鼻を見て建物の建築年代がおおよそわかるんですよ。 -
行者堂の虹梁に蝉の抜け殻を発見
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村雲橋の伝承
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村雲橋
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村雲橋の山側、アジサイの花が終わりつつある
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再び唐院の脇を通り参道を写す
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金堂の手前で今が盛りの紫陽花の花を発見
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三井の晩鐘
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三井の晩鐘
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如来は法を以て身と為し、比丘は慧を以て命と為す。法慧苟も伝はらば、何ぞ死有らむや
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三井の晩鐘に上がる階段の下にある手水舎
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仁王門間の駐車場の一角に土産売りと食事の店がある。その、和風れすとらん風月で蕎麦を喰う。その評価は口コミのほうに書いておいたが、客が多いので、どうしても仕事を流すという感じなるのは理解するとしても、食事である。美味しく食べていただこうという気持ちこそが最大のおもてなしだと僕は思う。再考を促したい。
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浮御堂のある満月寺の寺門
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寺門をくぐってすぐ右手にある小庭
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十一面観音像
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老松の根元に灯篭、そして、紫の花は桔梗だろうか・・・
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老松の巨木
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浮御堂
本文には書かなかったけれど、琵琶湖の最峡部に位置するがゆえに海門山満月寺と称する禅寺で京都紫野大徳寺に属する。 -
浮御堂に渡る橋のたものと老松の幹。この存在感が素晴らしい。
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浮御堂の中には源信(恵心)僧都が刻んだという千体の阿弥陀仏が・・・ではなく、昭和12年に再建されたときに「阿弥陀仏一千体」を安置したものようですね。
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浮御堂の扉の蝶番(?)の模様がおもしろかったので
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虹梁の彫刻
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満月寺の門前にある琵琶湖の魚を扱う『魚富商店』の看板。
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浮御堂から北の湖岸線
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浮御堂の北に城山三郎の文学碑がある
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城山三郎文学碑の近くから浮御堂を写す。
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今日の宿、今津サンブリッジホテル
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今津ショッピングセンターの向こう側にホテルが見えている。
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近江今津駅の北にある東町商店街
ホテルから今津駅に向けて通り抜けた。商店街というにはなんだか店の数が少なくて寂しいけれど、地方都市の抱えるこれが現実なのだ。 -
東町商店街を抜けたところにあったジーンズのお店。看板が派手なのでパチリ。
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うな正の川鱒の煮付け、ショウガの千切りが見える。煮つけた色が悪いが、味はまずまず。
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琵琶湖周航の歌 1
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琵琶湖周航の歌 2番
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琵琶湖周航の歌 3番
日没を迎えつつあり、碑の上部ににじむ赤は夕日の色やね。 -
琵琶湖周航の歌 4番
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琵琶湖周航の歌 5番
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琵琶湖周航の歌 6番
船着場の前から大通りに伸びる道の歩道に、こうして、琵琶湖周航の歌をはめ込んだ碑が等間隔で建てられている。 -
琵琶湖の夜を導く灯台
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西福寺の鐘
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法話
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旅館『丁子屋』
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割烹旅館
ステンレス製の煙突に暮色がにじむ -
今津港に腰をおろし談笑する
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船着場
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波打ち際
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おしろい花
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街道沿いの鮨屋
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お茶屋
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暮色に染まる
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琵琶湖側から見たホテル
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