2008/05/13 - 2008/05/24
35708位(同エリア47229件中)
明石DSさん
午前4時52分:撮影
時刻表で見れば
免渡河の町だと思うけど
4日目:満洲里:5月16日(金)晴れ
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2008.平成20年5月16日(金)
■満洲里へと列車は走る
3時頃から車外は明るかった。昨日の夜は乗って直ぐから2時間ぐらい一挙に話が続き、車中での良い思い出も出来た。
明るくなってから私は時々室外に出て廊下で満洲平野の車窓の景色を眺めていた。16日最初の写真は午前4時47分に写している。牙克石(Ya ke shi)站到着は5時17分。そこから6番目の站が終点満洲里站だ。荒野や畑が広がり、平屋の貧しそうな家並みの村落が時々現れる。
6時47分:海拉爾着、あと四つ。左右に大草原が広がっている。
-
5時5分:撮影
もうすぐ牙克石に着く頃だ
内蒙古自治区か
遥か遠くに来たもんだ
天気良しとは言えないけど、それなりに -
この厳寒の地でどんな暮らしをしてるのやら
毎日の楽しみは?関心は? -
6時39分:撮影
もうあと20分で海拉爾に着く
この町は何と言う町なのか? -
8時36分:撮影
扎賜諾爾西(ジャライノア西)駅まであと数分
もうすぐ終点満洲里か -
やってきました満洲里
この“おっちゃん”がUHさんで〜す
行くぞ!ノモンハンへ
めっちゃ寒むかったです
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■9時23分:満洲里到着
とうとう着いた。自宅で地図で見ていた満洲里は遥か遠い辺境の地だったはずだが、当地に着けばそんな感覚はない。そして、降りる前にUHさんと23日哈爾濱で会う約束をした。電話番号を教えてもらい電話することを約束して別れた。
ホームに降りた時、「9時23分、今満洲里に着いたけどめっちゃ寒い。風強いし・・・」と録音機に入れたのが満洲里の第一声だ。哈爾濱も明石で天気予報を見ている限り、もっと寒いのかと思っていたが、明石と変わらぬ暖かさというより初夏に近い時もあった。半袖姿も普通だったし、しかし満洲里に来て驚いた。セーターとウィンドブレーカーを持って来ていて良かったである。
駅の外に出たけど方向も磁石で見ればホテルは、やはり線路の向こう側のようだったのでタクシーに乗ることにした。列車の便数も少ないから列車が着く時にはタクシーが駅前に集まってくる。一応そこらを一回りして、駅方向に近づいたら女性運転手のタクシーがあったので声を掛けた。
「包一天車、イ尓要多少銭?=一日貸し切り幾ら?」と聞いたら「何処に行きたいのか?」と聞いてきた。ワンバで天気予報を見たら明日から天気は下り坂だったし今日の予定もなく先に呼倫湖(Hu lun hu)に行っておこうと思って、彼女にそう言うと「300元」だと言う。「高い、6時間200元ならどうだ」と言ったら、今すぐから4時までと言うことで話は決まった。
満洲里国際飯店は「05〜06:地球の歩き方」にも最高レベルのホテルとの紹介がある。でも2号棟は別棟で安い料金のホテルになっている。玄関は同じでフロントも同じ、朝食も同じだった。フロントに行き「すでに予約している」と言うと直ぐに分かったのか「白布仁・・」と言う名前が出て、押金も不要で直ぐに部屋の鍵を渡された。
満洲里の街の様子はすでにWebで知っていたので、驚きはなく誰かが印象を書いていたように長崎に出来た「ハウステンボスのような街並み」というのが当たっているように思う。原色に近い色とりどりの真新しいロシア風のビル群が道路の左右に立ち並んでいた。 -
満洲里⇔哈爾濱東
私は哈爾濱から乗ったから・・・。
里程:935km
走行時間:13時間43分
軟臥:下鋪 -
満洲里駅の表玄関は南側
今の市街は線路を渡って北側に開かれている
北側には乗降口はない
写真に写っている女性は???です -
満洲里国際飯店の豪華なロビー
私の宿泊は2号棟:一泊200元(3000円也) -
待ってもらっいたタクシーは前に停まっている黒い車
でも後ろも女性運転手だったので、後ろに乗ろうとした
ちょっと顔が違うなあと思ったら、前から「張英清」が降りて来て
気がついた。
後ろの方が良かったかも・・・。 -
郊外は大草原が広がります
羊の放牧に遭遇
満洲里での旅の始まりです
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■10時1分:呼倫湖に出発。
タクシーの運転手は張英清:37歳、結婚しているが子供なし、主人も運転手で一台の車を日中と夜とに交代して稼ぐそうだ。この辺にはそんな夫婦運転手が多かった。収入は二人で4千元(60,000円)くらいで、趣味は服を買うことだと言っていた。
ホテルから出て車に乗ろうとしたら、どうも運転手の顔が違うのではと思ったら、前の車から張英清が降りて来て「こっち」と手招きをしたので分かった。
10時55分:呼倫湖(着)
夜行でほとんど寝れずに満洲里について、ちょとホテルで休憩しただけで直ぐにタクシーに乗ったので、調子が出ないままだった。というよりどうも観光地巡りは興味が出なく、折角来たのだから行っておこう、来た証に写真を撮っておかなければ・・・というくらいの、ふざけた感覚なのだ。
道中の景色もあまり記憶になく、枚数も少ない呼倫湖が近づくにつれて草原が広がっていたようだった。風が強く冷たい風が吹きまくっていた。呼倫湖といっても琵琶湖の4倍もある大きな湖で観光ポイントが沢山あるようだ。私が来たのはその中でも近いほうで、もっと遠くのスポットの方が景色は良いのかも知れないが、そこにはもっと料金が必要だと言うことだった。
水は少なく、結構先の方まで歩いていった。一組の旅行者の一団が私より先に10人くらいの男女で歩いており、彼らは先の水際まで行き直ぐに引き返して来ていた。すれ違ったら中国人旅行者だった。
しばらく水の干上がった呼倫湖の湖底で強風の中、周囲を見回し「あ〜、あの地図にあった湖に今俺は来ているんだなあ・・」と、一応感傷に耽った。そうでないと何故か?気分も盛り上がらない。満洲里まで来たのに、未だテンションが上がっていなかった。やはりノモンハンだ。
11時15分:呼倫湖を去る。
テンションは上がらなかったがこの強風の中、水際まで歩き20分くらいは滞在した。帰りにどこかで昼食をというと扎賜諾爾(ジャライノア)の近くの草原にあるモンゴルパオが点在する観光レストランに行った、一応彼女は「ここで良いのか?」と聞いてきたけど、私も何だか高そうだなと思いながら、まあええかと思って「いい」と言って入っていった。彼女も初めてのようだったが。 -
呼倫湖
達賚湖(ダライ湖:モンゴル語で海)
蒙古族の白布仁は呼倫湖と言っていたけど
何故? -
風強く、砂が飛び捲り、寒い
中国人観光客?とおぼしき一団が来ていた
それ以外に人気はなく -
琵琶湖の四倍か、デカイ
あの地図にあった場所に今来ているのか・・・という感慨であったが
冷たい風が吹きまくる殺風景な景色にテンション上がらず
水辺が沖の方に後退しているように見えるが・・・。
『毎年、水量が増えて、年々湖が大きくなっていく成長途上の湖で、
中国の五大淡水湖の一つに数えられている。』
↑こんな説明もある -
こんな写真、たしか見たことがあったなあ・・・。
と、思いながら写真を撮る -
達賚湖からの帰り道
こんな風景に異国を感じる。こんなところで
一体、どんな毎日を過ごす生活なのか?と -
扎賚諾爾(ジャライノア)サービスエリア1kmの標識があった
満洲里の手前の駅が扎賚諾爾西站だ
この近くでモンゴル料理を食べた -
こ、こ、こんなとこに連れて来てくれた
張英清も初めて来ると言いながら
なんでやねん
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■11時55分:草原のモンゴル料理のレストランに入る
観光レストランのようで民俗衣装を着た若い男女が働いている。でも客の車は一台も停まっていなかったし、今日取り敢えずは私たちが一番目の客のようだった。
いくつものパオが並ぶ中の一つに案内された。10人くらいは囲める大きな丸テーブルが中央にあり、姑娘が三人付いている。メニューは張英清に任せた。私は聞いてくるたびに頷いていただけだ。でもまさかと思うくらい注文し、二人でその時食ったのは四分の一もない。ほとんど食えなかった物もあった。
姑娘の内、一人だけ満州族だった。後は漢族。みんなモンゴルの民族衣装を着て働いている。休みは無し、寝泊りもここ、三食住まい付だが合宿というか飯場というか・・・給料は800元(12,000円)だと言っていた。そして経営者はやはり漢族だということである。
満族はすでに漢化(漢民族化)され、独自の言語は消滅しているらしい。これは後に成吉思(仮名)に聞いた話だが・・・。ウィキペディアにも漢民族に同化されていると書いてある。しかし中国の少数民族優遇政策によって満族とする民族籍を取得するものが増え、人口としては多くなったようだ。(2000年の人口調査では満族人口は10,682,263人)・・・一千万人もいるのか。
因みに日本の外務省のデーターによれば
中国の人口約13億人、漢民族は92%、約12億人。元の時代のモンゴル人も、今は内蒙古自治区の中で少数民族に成り果て、清朝を誇った満州族も今や漢民族に同化し、その言語もなくす・・・か、恐るべし漢民族。
今や蒙古族、チベット族、ウィグル族も漢民族の12億にはどうしようもないのか。
1時1分:食い終わる、大部分は持ち帰りだったけど。
最後の方に出てきた羊肉の串刺し(シシカバブー)とピザのようなお好み焼きのようなものは美味かった。それを一枚と串焼き2本は夜食にと自分で持って帰ったが、あとは大きな袋に張英清が全部入れて土産にした。金額は¥240元(3600円)量が多すぎ、高過ぎる昼食代になったが、こんな時も旅では瞬時の切り替えが必要で〜す。
「ありがたいこんなところに連れてきてもらって珍しい物を食えた。」・・・と、中国女は逞しいし甘くは無い。それにこんな環境の厳しいところで生き抜くにはそれくらいの性根が当たり前なのだろう。まあそれもこれも最初から“優しさ”や“正直さ”を期待していないからこそ言える。そしてそれこそが中国人として嘆くべきことであるはずだ。 -
一応、「此処でいいの?」と聞いてはくれた
まあ、ええか・・・である
一体、どんなもん食わしてくれるねん -
周囲に何にもない草原の一角にモンゴル料理の店がある
若い従業員はここに寝起きし、休みはないという
合宿生活の如し -
一、二、三、・・・十
10人分が用意されたテーブルだった
そこに二人坐る。
貸し切りパオに、専従「姑娘」三人が付く -
左:満族、あとは漢族、真ん中の姑娘がリーダー格
右端はただ笑顔で立っていた
リーダー格の姑娘は、さすがしっかりしていた
此処には同じ年頃の男性従業員も沢山働いている
きっと楽しい青春を送っていると思う
彼女たちはみんな明るかった -
これだけ食うには朝青龍でも無理やと思うで
牛肉、羊肉、歯が強靭なことも必須です
白い塊は骨付きの羊肉で、ナイフで削ぎながら食います -
中ロ国境に向かう道中、こんなド派手な建物が次々建っているようでした
ロシア人の趣味とは到底思えず
しょうもないとはこのことですが・・・。
偽物文化ってのはホンマ幻滅でしかありまへん
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■1時18分:満洲里に戻り中ロ国境へ
一応満洲里に戻り、中ロ国境に向かった。
1時31分:中ロ国境へ到着
手前にゲートがあり入場料(20元)を払って中に入るのだが、外国人は一応入れないことになっているらしい。ホントは抜け道があって誰しも入っているようだけど私一人でタクシーを降りゲートに向かって行ったら、門に立っている警備兵に「駄目です」と言われた。
その時は何も知らなかったので「日本人だからか?」と聞いたら相手も恐縮そうに「日本人だからではなく外国人はみんな駄目です」と言われてしまった。その時やっと“そう言えばそんなことが何かに書いてあったなあ”と、思い出した。
1時36分:国境より去る
まあ、又明日来るだろうし、今日はいいかと思って帰ることにした。ホンマ今日はどうも調子が出ない。そんな日もある、時もある。そうか、デジカメの時間で見れば写真は何枚か写したけど、5分しか付近に滞在していなかったのか・・・である。
2時2分:ホテルの部屋に戻る
張英清と4時までの6時間貸し切りだったが4時間の2時で終了した。 -
国境ゲートに来ましたが、スゴスゴ退散
明日又来るので・・・と
夜行明けはいつもテンション上がりません -
何やねん、これ
何を教育すんねん -
中国側の国境警備基地
一体どんな仕事振りなのか?
覗いてみたいけどなあ -
部屋の窓越しの風景
何となくロシア風の建物のような雰囲気はある
ここは偽満洲ではなく、偽ロシアです
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■4時10分:外に散策へ
やはり夜行で疲れてテンションも上がらず、2時間くらい部屋で仮眠していたようだ。ちょっと元気復活、さあ満洲里の町を歩きに行こうである。着いてすぐに呼倫湖に行ったのでまだ満洲里の街の全容が全く分からない。
地図で見ても実際の感じも大きな町ではなく、これなら歩くだけでも中心部のほとんどは分かるだろう。出かけようと降りて行ったらホテルのロビーで、フロントの横に席を設けて“おっさんが”両替をしていた。ロシア人相手のようでロシア人が何人もいたが日本円も可能のようだったので聞いてみた。
「日本円1万円は人民元で幾らになる?」そしたら40代の両替屋は「スゥバイクアイ:400元」と抜け抜けと言った。私は返事する気もなく奴に横目でニタッとしながら通り過ぎた。そこまで言うか・・・である。
4時23分
ロシア語の看板が溢れロシア人が多いのに驚きながらホテルの周囲から歩き出した。直ぐに小さな中国銀行を見つけたので、取りあえず1万円両替をした。今日は653.24元だった。
それから1909年建築、旧ロシア帝国・ソ連駐満洲里領事館を探しに行った。当たり前だが地図の通り線路から直ぐの西一道街沿い南側にあった。今は彼得堡賓館(Bi de bu bin guan)、一泊60元ほどの安ホテルとして健在だ。
我が家で下調べをして写真で見ていた建物を現地で地図を辿って見つけるのは楽しいものだ。「ふ〜ん、こんな所にこんな感じで建っていたのか、思っていたより貧弱だなあ・・・」とか、自分で写してきた写真を見たら又それはそこそこ綺麗な建物として写っているが、実際は十分に古く手入れも行き届いていなかった。旧ロシア領事館の面目はすでになく。 -
満洲里はこんな看板が並ぶ街です
ロシア人が闊歩しています
家族連れも結構見ましたが
子供は何処で勉強を???
ロシア人学校でもあるのでしょうか?
ロシア語教室は沢山あるようですが -
この黄色い建物が満洲里国際飯店です
周囲も新しいビルが建ち並んでいるという感じです
安っぽいですが -
1909年建築、旧ロシア帝国・ソ連駐満洲里領事館
今は一泊60元(900円)ほどの安ホテル
駅の北側、西一道街を西方向に少し歩いたところにある
昔の栄華今いずこ。 -
この陸橋を渡れば満洲里駅の表玄関(南側)に行けます
中国は線路の片側にしか乗降口がない駅が多いので不便です
満洲里は市街が線路で南北に分断され、北と南で都会と田舎です
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5時
線路を越える陸橋を見つけた。駅前広場は線路の南側にあり、最初私が出てきたのはそっちの方だ。線路を越えて人が渡る陸橋は駅舎を正面に見て左側(西方向)150mほどのところにある。最初これが分かっていれば歩いて国際飯店にも行けただろうけど。陸橋を歩けば満洲里駅構内の全貌が見える。
シベリアからの木材輸入の集積地なのだろう。凄い量の木材が構内の彼方此方に積み上げられ貨車にも満載されている。この線路を西に進めば直ぐにもロシア領内に入る。国境の街である。陸橋上に掲げられたた看板にはロシア語学校の看板もあった。
昭和9年
国境の町
作詞:大木惇夫
作曲:阿部武雄
歌唱:東海林太郎
制作:滝野細道
(一)
橇の鈴さえ 寂しく響く
雪の曠野よ 町の灯よ
一つ山越しゃ 他国の星が
凍りつくよな 国境
(二)
故郷はなれて はるばる千里
なんで思いが とどこうぞ
遠きあの空 つくづく眺め
男泣きする 宵もある
(三)
行方知らない さすらい暮し
空も灰色 また吹雪
思いばかりが ただただ燃えて
君と逢うのは いつの日ぞ
陸橋を降りるたすぐ傍に小さな本屋があったので入って「満洲里の地図はある?」と聞いたら爺さんが「ある」といって出してきた。5元で買う。古書店だが地図は置いているのだろう。どこの本屋も軍事関係の本や雑誌が多いように感じる。嘘や捏造の戦史・英雄伝など日本人から見れば読む気もしないが、漢民族の文化は嘘捏造など関係なく“派手”であれば由なのだ。
満洲里駅の表玄関は線路の南側だが、街の中心街は線路を挟んで北側だ。まったく風景が違う。学校だとか古い町並みが残っていた。まだその時は満洲時代の満洲里内の日本関係の建築物や暮らしていた地域も分からなかったので、ただ想像しながら歩き写真を撮ったりしていた。翌日、成吉思に案内されて初めて「そうかこれが日本人学校なのか・・・」で、あったが、この日、私は無意識に目にし、写真にも写していた。
この日の満洲里の気温は最低零下1度、最高気温10度である。明石の真冬の気温だった。時間も6時前になり線路南側の地域を一巡りし、また陸橋を渡って中心街へと戻った。昔在満邦人が5,6月頃に桜花を小さくしたような花があり、それを「ハイラル桜」とか名付けていたそうだ。そんな桜のような花を満開にした小さな木々があったので・・・今はちょうど5月半ば、この花がもしかしたらそうなのかも?と、思って写真に撮ったが翌日、成吉思に聞いたらそれはハイラル桜と呼ばれていたものではなく「梅」だと言われた。。
6時53分
ソ連軍を称えているのだろう紅軍烈士公園があったが公園に入る気もせず歩く。途中ワンバ(インターネットカフェイ)を見つけて入った。入って受付で、上网(Shang wang=シャンワン)と言えば分かってくれる、料金は5元。今回の旅では結局、日本語で書き込めるパソコンは無かった。やはり黒龍江省・内蒙古はロシアに近く日本から遠いのだろう。
7時36分:ワンバを出てホテルに戻る
外は私は無論寒いけど、ロシア人も寒いようで頭もすっぽり入るコートを着ている者も多い。でも普通のカッコの者も歩いているし撮った写真の画像からは寒さを想像するのは中々難しい。
帰りに水と紅茶のペットボトルを買い(5元)部屋に戻った。そして今日の昼に持ち帰った串刺し羊肉2本とお好み焼き1枚、それに日本から持って来たウィンナーやお菓子を食って寝た。
これが満洲里一日目である。二日目は如何に? -
線路を越えて南側に歩いています
ロシア語教室の看板は見かけますが、
日本語教室の看板は見かけなかったです
ここでは土産物屋の姑娘からも、誰からも
片言の日本語も聞いた記憶がないですね -
シベリアから材木が運ばれて来るようです
材木の集積地のようです
日本企業も材木を買いに来ているようですが
満洲里に日本企業の駐在員がいるのかも? -
満洲里駅前広場
表玄関はひっそりしています
線路の北側は賑やかですが -
駅の南側はこれから開けるようです
道を作り古い家屋を壊しているようです
この時は何も知らずに歩いていましたが
写真、左斜めに写っている緑の屋根の建物が
旧日本人小学校です -
中国の郵便ポストは緑色
日本では一昔前まで赤色が立っていましたが
今回の旅行では各地で見かけました -
駅の南側に広がっている家並み
これぞ満洲里の風情ですが -
この家々も戦後に建てられたものだそうです
そんなに古くはないが、造りが粗雑ですぐボロボロになる
・・・と、誰かが言っていました -
これが「海拉爾サクラ」
って言われていた花かもと思って白布仁に聞いたら
これは「梅です」と言われました -
陸橋を渡って北側に戻って来ました
線路を挟んで北と南は別の町です -
紅軍烈士公園
中国は囚人のソ連軍に解放してもらったそうです -
満洲里を闊歩するロシア女性
この格好を見れば寒さが分かると思います
マイナス1℃〜10℃
私にとっては真冬です
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