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旧市街門搭を後に、細い商店街の道を進むと、急に視界が開ける。<br />ここがのプラハに心臓とも云うべき旧市街広場。<br /><br />先ず目に付いたのが高い建物壁一杯に、黒の下地の上にいろいろの人々の情景が描かれた壁画。ここもこの先の時計搭の建物に繋がる旧市庁舎の一部。<br /><br />旧市庁舎の角を曲がると広場は一段と広がり、白壁が美しい「聖ミクラーシュ教会」、バリバリのゴシック様式の2本の搭を持つ「ティーン教会」が広場に面して建っている。<br />ティーン教会に向って左隣が「石の鐘の家」、さらに左隣が「ゴルツ・キンスキー宮殿」。<br /><br />ゴルツ・キンスキー宮殿の前にはかのヤン・フス像・・と説明が繋がる筈であったが、そこには被いの幕が張られて、ヤン・フス像は修理中。お陰でその幕が後ろのゴルツ・キンスキー宮殿も視線が遮えぎられてしまい、赤い屋根の一部だけしか見えない。<br /><br />元々ヴァルタヴァ川の交易所として可なりの繁栄をしていたこの場所を、城壁で囲み、ドイツから大勢の手工業者を移住させ、そのための教会や住居や生活の場を一層整備したのは13世紀のはじめボスニア国王となったヴァーツラフ2世。<br /><br />14世紀半ばには市民は自治権を持ち、最初の市庁舎の建設が始まる。<br /><br />16世紀に市民による街の再構築が行われる。<br />広場に着いた時最初に目に付いた黒い壁の壁画(スグラフィート装飾:ドレスデンの君主の行列の壁画がマイセン磁器に変わる前に描かれていたのと同じ技法・・ちょっと見たかったな!!。21マイセン陶器タイル25000枚・君主の行列の章参照)はそのときの名残。<br /><br />有名な市庁舎の「天文時計」は15世紀に作られたものを、1948年電動式に改良、今に至っている。<br /><br />1412年、ローマ教皇が免罪符(カトリック教会が財源確保のため乱発した、献金等の代償に信徒に与えた罪に対する罰の免除証書)を売り出した。<br />当時のボスニア国王、神聖ローマ皇帝ジキスムントはこれを支持。<br /><br />皇帝ジキスムントは、前々から教会の改革を主張し、ローマ教皇免罪符を売り出しに対し猛烈に批判するカレル大学学長のヤン・フスを、コンスタンツ(西南ドイツの町)の公会議に呼び出し、火刑にしてしまう。<br /><br />これが切っ掛けとなり、プラハは急進派(フス派ともいわれる)と穏健派とに別れ、いわゆるフス戦争に発展し、この戦争は穏健派(カトリック派)の勝利で終わる。<br /><br />一時比核的に平和が続いたボスニアに,カトリックとプロテスタントとの全面対決を齎し、ヨーロッパ中を巻き込んだ宗教戦争(30年戦争)に発展する切っ掛けとなったのが、1618年に起こった「窓外投出事件」(28プラハのシンボル聖ヴィート教会とイジー広場に続く中庭の章参照)。<br /><br />あっけなく敗北したボヘミアのプロテスタント派の首謀者27名は旧市街の市庁舎前で処刑され、以後ボヘミアは完全にカトリック系ドイツのハプスブルグ家支配の時代に移って行く。<br /><br />旧市街広場はプラハに於いて、何時の時代にも、常に”事”の中心・心臓の役を担わされてきたらしい。<br /><br />我々は旧ユダヤ人街散策をし、昼食の後、市庁舎の昼を告げる時計の鐘を聞くべく、再びここに足を運んだ。<br /><br />詳細は下記をご覧下さい。<br />http://www.geocities.jp/tshinyhp/tyuuou/frametyuuouroot.html

32プラハの心臓・旧市街広場と天文時計in プラハ

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2007/09/26 - 2007/09/26

3755位(同エリア4527件中)

旅行記グループ 中欧4か国旅情 チェコ編

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WT信

WT信さん

旧市街門搭を後に、細い商店街の道を進むと、急に視界が開ける。
ここがのプラハに心臓とも云うべき旧市街広場。

先ず目に付いたのが高い建物壁一杯に、黒の下地の上にいろいろの人々の情景が描かれた壁画。ここもこの先の時計搭の建物に繋がる旧市庁舎の一部。

旧市庁舎の角を曲がると広場は一段と広がり、白壁が美しい「聖ミクラーシュ教会」、バリバリのゴシック様式の2本の搭を持つ「ティーン教会」が広場に面して建っている。
ティーン教会に向って左隣が「石の鐘の家」、さらに左隣が「ゴルツ・キンスキー宮殿」。

ゴルツ・キンスキー宮殿の前にはかのヤン・フス像・・と説明が繋がる筈であったが、そこには被いの幕が張られて、ヤン・フス像は修理中。お陰でその幕が後ろのゴルツ・キンスキー宮殿も視線が遮えぎられてしまい、赤い屋根の一部だけしか見えない。

元々ヴァルタヴァ川の交易所として可なりの繁栄をしていたこの場所を、城壁で囲み、ドイツから大勢の手工業者を移住させ、そのための教会や住居や生活の場を一層整備したのは13世紀のはじめボスニア国王となったヴァーツラフ2世。

14世紀半ばには市民は自治権を持ち、最初の市庁舎の建設が始まる。

16世紀に市民による街の再構築が行われる。
広場に着いた時最初に目に付いた黒い壁の壁画(スグラフィート装飾:ドレスデンの君主の行列の壁画がマイセン磁器に変わる前に描かれていたのと同じ技法・・ちょっと見たかったな!!。21マイセン陶器タイル25000枚・君主の行列の章参照)はそのときの名残。

有名な市庁舎の「天文時計」は15世紀に作られたものを、1948年電動式に改良、今に至っている。

1412年、ローマ教皇が免罪符(カトリック教会が財源確保のため乱発した、献金等の代償に信徒に与えた罪に対する罰の免除証書)を売り出した。
当時のボスニア国王、神聖ローマ皇帝ジキスムントはこれを支持。

皇帝ジキスムントは、前々から教会の改革を主張し、ローマ教皇免罪符を売り出しに対し猛烈に批判するカレル大学学長のヤン・フスを、コンスタンツ(西南ドイツの町)の公会議に呼び出し、火刑にしてしまう。

これが切っ掛けとなり、プラハは急進派(フス派ともいわれる)と穏健派とに別れ、いわゆるフス戦争に発展し、この戦争は穏健派(カトリック派)の勝利で終わる。

一時比核的に平和が続いたボスニアに,カトリックとプロテスタントとの全面対決を齎し、ヨーロッパ中を巻き込んだ宗教戦争(30年戦争)に発展する切っ掛けとなったのが、1618年に起こった「窓外投出事件」(28プラハのシンボル聖ヴィート教会とイジー広場に続く中庭の章参照)。

あっけなく敗北したボヘミアのプロテスタント派の首謀者27名は旧市街の市庁舎前で処刑され、以後ボヘミアは完全にカトリック系ドイツのハプスブルグ家支配の時代に移って行く。

旧市街広場はプラハに於いて、何時の時代にも、常に”事”の中心・心臓の役を担わされてきたらしい。

我々は旧ユダヤ人街散策をし、昼食の後、市庁舎の昼を告げる時計の鐘を聞くべく、再びここに足を運んだ。

詳細は下記をご覧下さい。
http://www.geocities.jp/tshinyhp/tyuuou/frametyuuouroot.html

旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
  • <br /><br />古都の魔法に幻惑・中欧4ヶ国の旅:?チェコ編目次(17章)に戻る<br />http://4travel.jp/traveler/shintch/album/10201187/



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