2008/03/01 - 2008/03/01
145位(同エリア212件中)
のださん
京成には、成田空港に行くときくらいしか乗ったことはなく、そもそもが成田山参拝客を輸送するのが主な目的だったらしくて、まあ私にはあまり縁のない路線です。
今日はちょっと京成方面を回ってみようかと思いまして、その前に日暮里駅の北西側の寺社を巡ってみます。
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まずは日暮里駅前ロータリーの太田道灌像。
開成学園がある西日暮里4丁目の台地は道灌山と呼ばれ、太田道灌の出城があったからという説がありますが、実は関小次郎長耀入道道閑(http://4travel.jp/traveler/last-sam/pict/13121457/)の館があったから、という説が有力のようです。
太田道灌があまりにも有名なので、道閑が道灌へと変わっていった、と考えられます。
日暮里駅の近くには朝倉彫塑館があります(http://4travel.jp/traveler/last-sam/pict/13121299/)が、朝倉文夫も太田道灌像を造っています(http://4travel.jp/traveler/last-sam/pict/12396283/)。 -
駅を挟んで反対側。
御殿坂がのびています。
根岸の御隠殿(http://4travel.jp/traveler/last-sam/pict/13121561/)に向かう坂道であったことから名づけられたそうです。 -
御殿坂の右側。
日蓮宗長久山本行寺。
太田道灌の嫡男・太田資康は、永正10年(1513年)、北条早雲の軍勢に敗れ、三浦で討ち死にしたといわれています。
その子・太田資高が、資康の13回忌の菩提を弔うため江戸城内に建立したのがこの寺で、その後神田・谷中を経て、宝永6年(1709年)に現在地に移転してきました。
観月の地であったので、別名月見寺といいます。 -
境内にはかつて道灌物見塚がありましたが、現在残っているのは道灌丘碑。
筑波山人による撰です。
寛延3年(1750年)、住職日忠らによって建立されました。
斥侯台(物見塚)の由来などが刻まれているそうです。 -
21世日桓(俳号一瓢)は、多くの俳人と交流があり、その中に小林一茶もいました。
一茶はしばしばこの寺に訪れていたそうです。
一茶留錫の・・・これ何と書いてあるのでしょうかね?
「家」ではないような気がするが・・・まあいいや、碑があります。
「刀禰の帆が 寝ても見ゆるぞ 青田原」by 一茶
「菜の花と しりつゝのむや つるべから」by 一瓢 -
こちらにも一茶の碑。
「陽炎や 道灌どのの 物見塚」 -
種田山頭火。
「ほっと東京に来ている月がある」
種田山頭火の句碑は、東京ではこれが唯一だという話も聞きました。
山頭火ってラーメン店がありますね。
種田山頭火と関係ありそうですね。 -
墓地の入り口付近。
明治期の漢詩人・大久保湘南の墓があります。
これはでかいです。 -
永井尚志(なおゆき、なおむね)の墓。
三河奥殿藩藩主・松平乗尹の子として生まれ、25歳のときに旗本の永井尚徳の養子となります。
外国奉行・軍艦奉行を歴任しますが、安政の大獄で連座し処罰されます。
のちに大目付・若年寄を務め、大政奉還の上表文も起草します。
鳥羽伏見の戦いに敗れ、榎本武揚とともに五稜郭で降伏。
のちに赦されて新政府に仕えます。 -
右が、江戸後期の儒学者で漢詩人の市河寛斎の墓。
「文安先生市河子静墓銘」とあります。
江戸の4大詩人の一人に挙げられます。
左が、寛斎の長子で、幕末三筆の一人と称される市河米庵の墓。
「米庵河翁寿蔵之碑」とあります。 -
日蓮宗大黒山経王寺。
明暦元年(1655年)、日暮里の豪農・冠勝平が、帰依していた要詮院日慶上人に寺地を寄進して開基したと伝えられています。
大黒天が祀られているということですけども、谷中七福神ということでよいのでしょうか? -
山門の門扉に銃痕が残っているという話を聞いていましたが、これですか。
上野戦争のとき、彰義隊士がこちらに身を寄せたため、官軍の攻撃を受けたということです。
この界隈はこんなところが多いのかもしれません。
寛永寺の黒門も痕がすさまじいですね(http://4travel.jp/traveler/last-sam/pict/12300623/)。 -
日蓮宗宝珠山延命院。
徳川4代将軍家綱の乳母・三沢局の開基だとされています。
七面大明神が祀られています。
八百屋お七の母親が、ここで願掛けをして、無事生まれたので、お七と名づけたという俗説もあります。
享和3年(1803年)、美男子とされた住職・日潤(日道)と大奥を巻き込んだ大スキャンダル・延命院事件が勃発。
日潤は、寺社奉行・脇坂淡路守安董により死罪に処されます。 -
都の天然記念物に指定されている、樹齢600年以上と言われるシイの木です。
かつては幹周り5.5mだったが、2002年に南側の大枝が崩壊し、安全のために現在の形を保っているとのことです。 -
夕焼けだんだんという階段を下っていって、ここが有名な谷中銀座ですか。
まだ多くの店は開いていないみたいですし、今日のところはここは歩きません。 -
日暮里延命院貝塚の説明板がありますが、貝塚自体はないようです。
明治21年(1888年)、関保之助が、延命院の崖下の工事現場で貝塚を発見したそうです。 -
臨済宗京都妙心寺派の瑞応山南泉寺。
元和2年(1616年)大愚禅師が創建し、中興開基は、徳川家光〜綱吉に仕えた老女岡野。
美濃遠山氏の念持仏・木造聖観音立像が安置されています。 -
境内左の菅谷不動尊。
別名団十郎不動。
明治の頃、9代目団十郎の弟子・新蔵が目を患い、願掛けをしたら治癒しました。
また、火災のとき、この不動尊を田圃に投げ入れたところ、タニシが止まって焼け残ったことから、タニシ不動尊とも言われます。 -
「おまねぎ」ってありますね。
この祠には、男根や女陰の石が置かれていて、これらは男女の和合を示す陰陽石だそうです。 -
明治・大正期に本草学の権威と言われた理学博士・白井光太郎の墓。
牧野富太郎と同時期に活躍していますね。 -
遠山家第12代で、浦賀奉行の遠山景高の墓。
遠山の金さんの遠縁でしょうね。 -
幕末の講談師、初代と二代の松林伯円の墓が並んでいます。
初代伯円は、江戸軍談初代神田伯龍に入門、師匠亡き後松林亭伯円と名乗り、江戸中の人気をさらいましたが、安政の大地震で圧死してしまいます。
二代伯円は、常陸国下館藩士の家に生まれ、他の家の養子となりますが、講釈好きが昂じて離縁され、講談師となります。
「鼠小僧」「高橋お伝」などの創作が有名で、泥棒伯円の異名をとります。
三遊亭円朝と並び称されます。 -
日蓮宗日照山法光寺。
慶安3年(1650年)四谷坂町に創建されましたが、明治22年(1889年)に現在地に移転したそうです。
門前左に陸軍少年飛行兵慰霊碑があります。
ノモンハン事変以来、少年飛行兵として空に散った4万5千人の霊を慰めるもの。
昭和45年に建てられたそうです。 -
富士見坂。
坂下北側に、後に修性院に合併される妙隆寺の墓地があったことから、別名妙隆寺坂。
妙隆寺は花見寺とも呼ばれたことから、またの名を花見坂。
都内に富士見坂は多く存在しますが、現在では唯一富士山を望めるのがこの坂なのだそうです。 -
日蓮宗の修性院は、別名花見寺。
境内に多数の花樹が植えられ、四季折々の草花を楽しめたそうです。
谷中七福神のうち「日ぐらしの布袋」が鎮座します。
この界隈は日が暮れるまで楽しめる景勝地ということで、「日暮らしの里」、つまり「日暮里」と呼ばれるようになりました。 -
日尾荊山衣さく蔵碑。
日尾荊山は、儒者で、漢学と国学を修め、多くの門弟を擁していました。
死後、門弟らが遺品を埋め、経歴を記した碑が建てられました。
この碑は元は妙隆寺にあったものだそうです。 -
臨済宗の青雲寺も花見寺の一つ。
境内には大きな松があって、「道灌船繋ぎの松」と呼ばれていたそうです。 -
植え込みには「雲と雪を五分五分に見る山桜 もう一寸も目をはなされじ」の碑があります。
詠んだのは安井甘露庵という狂歌師で、享和年間に境内に住んでいたそうです。 -
本堂前に、日暮里舟繋松之碑と、安井金毘羅大権現鎮座という碑。
これは本所松坂町の平林正五郎が文化7年(1810年)に建てたそうです。 -
本堂左手に、滝沢(曲亭)馬琴筆塚の碑。
使い古した筆を供養するため、文化7年(1810年)に建てられたということです。
(文化6年という説も?)
碑文は馬琴の儒学の師・亀田鵬斎だそうです。 -
北の、道灌山通りって言うのかな、その通りに出て、向こう側に渡ります。
泣く子も黙る天下の開成高校は、今日は卒業式みたいです。
その開成前に、「佐竹屋敷と渡辺町」の説明板が立っています。
この界隈は、秋田藩主佐竹右京大夫義和の広大な抱屋敷があったそうです。
元禄16年(1704年)、水戸家と相対替えして手に入れました。
約2万坪の敷地内に、衆楽園という庭園があり、城北屈指の名園として有名でした。
明治以降荒廃して佐竹っ原と呼ばれていたのを、大正5年(1916年)に渡辺銀行頭取の渡辺治右衛門が買収し、近代的田園都市の団地を造成したので、渡辺町と呼ばれるようになりました。 -
すぐそばに道灌山遺跡の説明板。
昭和29年の発掘調査で3つの竪穴式住居が発見されています。
開成学園がある台地のことを道灌山と呼ぶみたいですね。 -
ひぐらし坂を上って歩道橋を渡ります。
東側が西日暮里駅、南側が西日暮里公園です。
西日暮里公園を通っていきます。 -
道灌山や日暮里の説明が結構詳細に。
時間があれば読んでみると良いと思います。 -
第一日暮里小学校前の「正直親切」記念碑。
正直親切の文字は高村光太郎によるもので、昭和26年岩手県山口小学校の児童たちのために書いたものを、創立100周年記念碑用に使っているのだそうです。
高村光太郎は日暮里小学校の卒業生ということです。 -
太平洋美術会。
これは前身が太平洋画会ですね。
太平洋美術学校が戦災により焼失したので、この地に移転し、昭和32年に名称を太平洋美術会とした、ということです。 -
その反対側に、諏訪神社。
元久2年(1205年)、信濃国の上諏訪社を、豊島左衛門尉経泰が勧請したと伝えられ、祭神は建御名方命。
徳川3代将軍家光から5石の朱印を安堵されています。 -
社殿に近づくと、「れ組」とあります。
9番組のれ組の担当地域は、谷中感応寺(現天王寺)門前と谷中村だったから奉納したのでしょう。 -
線路側に地蔵坂が下りています。
これは、この後参拝する別当の浄光寺に有名な地蔵尊があることにちなむのだそうです。 -
源為朝公の山車人形。
安政年間(1854〜60)の制作で、「日暮里諏訪様の山車」は当時から有名で格式が高いものでした。
日清戦勝の祝賀会が皇居前で催され、東京中の山車が勢揃いしたが、諏訪の順位は3番目だったそうです。
これって毎月1日に展示されるという話も聞きましたが、それが本当だったら、たまたま今日来てラッキーだったのでしょうか? -
真言宗豊山派の浄光寺、元諏訪神社の別当寺です。
元文2年(1737年)、徳川8代将軍吉宗が鷹狩りの際立ち寄り、以来御膳所となりました。
境内には将軍腰かけの石があるそうです(探してみたが見つからず)。
この将軍ですけども、年代が正しければ吉宗ですが、家光という説があるそうです。
台地上で眺めが素晴らしく、特に雪景色が良かったので別名雪見寺と呼ばれます。 -
山門くぐって左側に、銅像地蔵菩薩立像。
3mくらいです。
江戸(東都)六地蔵の3番目に挙げられます。
一般に江戸六地蔵とは、正元が享保のころに造立したものを指し、例えば霊巌寺のもの(http://4travel.jp/traveler/last-sam/pict/13077895/)とか元永代寺のもの(http://4travel.jp/traveler/last-sam/pict/13111384/)です。
こちらにあるのは、空無上人が元禄のころに造立したものの一つです。
初期の六地蔵で現存するのは、ここと千駄木の専念寺のものだけです。 -
福神漬発明者野田清右衛門表彰碑。
野田清右衛門は、「酒悦」の第15代。
考案されたのは明治初期ですね。
店が上野不忍池の弁才天の近くにあったことから、七福神にちなみ福神漬けと名づけられました。 -
また富士見坂に出くわしました。
先ほどは下端、今度は上端。
富士山を見てやろうと思ったが、見えないような気がするぞ。
富士山ってこっちの方向で良いのですよね?
見方を変えれば見えるの? -
真言宗豊山派の養福寺にやってきました。
境内の仁王門が目立ちます。
宝永年間(1704〜11)の建立と伝えられ、運慶作という一対の仁王像、裏側には四天王のうち広目天と多聞天(毘沙門天)の像。
本堂などは戦火で失ったが、仁王門は戦災を免れたそうです。 -
市河寛斎らとともに江戸の4大詩人に挙げられる柏木如亭の「柏山人碑」。
生涯の多くを放浪に費やし、亡くなったのは京都です。
友人らが如亭を偲んでこの碑を建てました。 -
自堕落先生之墓。
山崎三左衛門という元武士が、自堕落と名乗り、諸国を遊覧して俳諧に遊び、奥の細道を行脚しました。
元文4年(1739年)12月晦日、生前葬を行い、棺桶の中におさまっていたが、読経の途中で抜け出して、会葬の人々と飲み狂ったそうです。
そのときに建てた墓碑です。 -
談林派歴代句碑が並んでいます。
中央には梅翁花樽碑。
「梅翁西山宗因」とあります。
右に月の碑、左に菱形標石、左端に雪の碑。
雪の碑は文化5年(1808年)に建てられ、その他は、井原西鶴の百回忌を記念して寛政4年(1792年)に建てられました。
井原西鶴は西山宗因に師事しました。 -
法華宗本門派啓運寺。
木造毘沙門天像が安置されています。
ひとまず日暮里寺社巡りは終了。
回るのであれば、私が回ったのとは逆方向で回るほうが良いのかもしれません。
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