2008/02/11 - 2008/02/11
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のださん
午前中もめちゃくちゃ歩き回りましたが、ここからまたひたすら歩きが続きます。
新宿御苑から明治神宮外苑まで。
これがまた結構な距離です。
新宿御苑前駅は、昔仕事の関係でしょっちゅう乗り降りしていましたが、新宿御苑には入ったことがありません。
新宿御苑は、元信州高遠藩内藤氏の中屋敷の一部です。
徳川家康の関東移封が決定し、内藤清成は伊賀組鉄砲隊を率いて、今の新宿2丁目を中心としてその一帯に陣地を敷きました。
伊賀組百人鉄砲隊は、慶長7年(1602年)に大久保に移されて百人町の町名ができました。
内藤氏は翌年、布陣していた新宿の地をそのまま拝領しました。
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四谷3丁目の交差点まで戻り、せっかくなのでちょっとだけ消防博物館を見学。
前回来たとき(http://4travel.jp/traveler/last-sam/album/10170218/)は、江戸を中心に見たので、今回は明治以降を。
時間もあまりないのでほんのわずかだけ見ることにします。 -
こちらは企画展の一コマ。
「東京消防歌」だそうです。
知らなかった。 -
明治時代の消火風景を、縮尺1/10で。
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白木屋の火災(http://4travel.jp/traveler/last-sam/pict/12589035/)。
すさまじいですね。 -
消防博物館を出て、新宿通りを西に。
外苑西通りに当たって左折、つまり南へ進みます。
斉藤茂吉終焉の地の説明板が、ビルの入り口左側に掲げてありますが、入り組んでいるから実に見つけにくい。
昭和25年11月から、昭和28年2月に没するまで住んだそうです。
碑文は斉藤茂太氏によるもので、最後の歌集「つきかげ」に収められているという歌が記されています:
「新宿の 大京町と いふとほり
わが足よわり 住みつかむとす」
ここの地名は大京町です。 -
外苑西通りを渡って、さらに南に進み、多武峯内藤神社にやってきました。
多武峯は「とおのみね(とうのみね?)」と読むそうです。
初代内藤清成が、屋敷内(現新宿御苑)に先祖である藤原鎌足を祀り、奈良の春日大社から勧請合祀したもの。
元は屋敷内にあり、明治19年に現在地に移転した、とのことです。 -
徳川家康が江戸入府後、家臣の内藤清成に、馬で1周できる範囲の土地を与える、と約束しました。
馬は走り終わると疲れ果てて死んでしまいました。
文化13年(1816年)、馬の供養のため「駿馬塚」が建てられました。
右側には白馬殿がありますが、これも同時期くらいに建てられたのでしょう。 -
境内に隣接して、鉛筆の碑。
明治10年(1877年)、佐賀藩出身の眞崎仁六は、パリ万国博覧会で初めて見た鉛筆にいたく感動しました。
明治20年(1887年)、仁六は多武峯内藤神社の西側に眞崎鉛筆製造所を興しました。
後の三菱鉛筆株式会社です。
この碑は、平成18年(2006年)10月、創業120年を記念して建てられたそうです。 -
ちょっと非効率ですけど、多武峯内藤神社からまた北へ戻ります。
四谷大木戸跡碑。
玉川兄弟が、羽村から四谷大木戸までの約10里(約43km)に上水を開削しました(http://4travel.jp/traveler/last-sam/pict/12956595/)。
それが承応2年(1653年)。
実際の大木戸の位置は、ここから約80m東だそうです。
この碑は、昭和34年、丸の内線の工事で出土した玉川上水の石樋を利用して造られたもの、だということです。 -
並んで水道碑記。
玉川上水開削の由来を記したものだそうです。
結構でかい。
高さ4.6mだそうです。
このそばには、東京都水道局新宿営業所があります。 -
新宿御苑大木戸門前に、内藤新宿開設三百年記念碑。
内藤新宿は元禄11年(1698年)に開設されたということで、その300年後の平成10年(1998年)に建てられたそうです。 -
それでは、大木戸門から新宿御苑に入ります。
3つある門のうちの1つですね。 -
大木戸休憩所から眺めてみます。
新宿御苑は広くて、とてもくまなく回る時間も体力もないので、今日は一部のみ。
池中心に回ろうかな。
今日は天気も良くてあまり寒さを感じないから、結構人が多いです。 -
玉藻池。
内藤家の庭園である玉川園の一部だそうです。
やっぱり池は良いですね。
庭園には池です。 -
マップを見てもどう進んでいるのかよくわからない。
花などほとんど咲いていないと思ったが、途中でカンザクラに出会いました。
この品種だから今咲いているのでしょう。
人気のようで、皆さん近づいています。 -
つぼみはこんな感じですか。
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これはペーパーホワイトといって、フサザキスイセンの亜種だそうです。
紅葉の終わりごろ咲き始めるということです。 -
ホントに道がわかりにくいが、どうやら日本庭園に着いたようです。
向こう側に見えるのは多分旧御涼亭でしょう。 -
ぐるっと回って、旧御涼亭にちょっと入ります。
説明によると、昭和天皇の皇太子時代に、御成婚を記念して、台湾在住有志から贈られたものだそうです。
だから、台湾で使われた建築様式が見られるとのことです。 -
旧御涼亭から景色を眺めてみます。
和みます。 -
千駄ヶ谷門から出ます。
新宿御苑は広いので、また来ます。
春辺りが良いでしょうかね。 -
千駄ヶ谷門を出て右に進みます。
更生保護会館という建物の前。
「新井白石終焉の地」。
徳川吉宗が将軍になると失脚し、享保6年(1721年)にこちらに移り住んできました。
絶筆の「采覧異言」を完成させた後、享保10年(1725年)5月、69歳で亡くなります。 -
地図で見ると明治神宮外苑までは歩いてそんなにかからないだろうと思っていたが、めっちゃ歩く!
しかも絵画館の位置がわかりにくくて時間をロス。
やっと到着。
館内は暖房が入っているそうですが、寒いです。
コートを着ながらの鑑賞です。
画は壁画。
日本画と西洋画が40枚ずつで、見応えあり。 -
17時に出て、最近はこの時間でもそんなに暗いという感じではないので、絵画館の周りをちょっとだけ回ります。
絵画館全体はこんな感じですか。
普段は建物自体に注目はしませんが、これは私でも形は良いと思います。
大正15年(1926年)に完成した鉄筋コンクリート造りで、外壁は花崗岩、内側は大理石です。
天辺がザビエルさんですね。 -
「ひとつばたご(なんじゃもんじゃ)」。
幕末からあったそうで、現在は2代目です。
壁画「凱旋観兵式」に描かれています。 -
葬場殿址。
明治天皇のご葬儀の際の葬場殿の跡だそうです。
楠の下に碑が建っていますが、碑の建立と同時に楠が植樹された、とのことです。 -
樺太日露国境天測標。
明治38年(1905年)、日露講和条約(ポーツマス条約)締結により、樺太の北緯50度以南が日本領土になりました。
その境界を標示する標石の模造です。
ちなみに、明治8年(1875年)の樺太・千島交換条約で、樺太全土がロシア領、全千島列島が日本領となりましたが、樺太に住んでいたアイヌは、ロシア国籍か日本国籍を選択する必要があり、日本国籍を選ぶと、北海道に移住しなければなりませんでした。
日露講和条約で樺太の北緯50度以南が日本領となると、慣れた土地が良いと思った樺太アイヌたちは、30年ぶりに「故郷」に帰っていきました。 -
御鷹の松。
徳川家光が鷹狩りの途中で休憩していると、江戸城より飛び去っていた愛鷹「遊女」が飛んできて松の枝に止まったので、家光はたいそう喜び、「遊女の松」と名づけました。
後世の人々が「お鷹の松」と呼んだ、とのことです。
この松は2代目だそうです。 -
建国記念文庫。
昭和24年12月9日の「建国記念の日」制定にあたり寄せられた数十万通もの制定希望意見書が保管されているとのことです。
公開は16時半までということで、近づくことはできませんが、建国記念の日をしめるのにふさわしい場所とも言えるでしょう。
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この旅行記へのコメント (2)
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- 一歩人さん 2009/03/25 15:41:33
- 鉄砲隊ですよね
- のださんへ
こんにちわ、一歩人です。
あいかわらず、鉄砲隊の口コミをしようと
検索したので、訪問しました。
新宿に限らず、高度成長期の青春時代とは
比較にならない変貌ですが、ひっそりと
今も残る史跡・墓碑は見逃せません。
ありがとうございました。
失礼しま〜す。
- のださん からの返信 2009/03/25 23:56:04
- RE: 鉄砲隊ですよね
- 一歩人さん、ありがとうございます。
鉄砲隊ゆかりと言えば、何と言っても新大久保駅そばの皆中稲荷神社ですね。
新宿御苑からはちょっと離れているかな。
新宿界隈にもほとんど足を運ばなくなりました。
そう言えば、井上勝のお墓参りにも行ってきました。
しかし、墓地には行きましたけど、東海寺本堂にはどこから入るのか
わからなくて、まだお参りしていません。
今度行かなきゃな。
それでは、またよろしくお願いいたします。
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