2007/09/05 - 2007/09/05
39位(同エリア385件中)
SUR SHANGHAIさん
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昨日、ポーランドの首都ワルシャワから車を駆って到着したのは古都クラクフ。
今日はそこから更に車で1時間半足らずの場所にあるアウシュヴィッツとビルケナウの強制収容所跡へ。
この二つの強制収容所跡は、ユネスコによって≪人類が二度とこのような過ちを繰り返してはいけない負の遺産≫として、1979年に世界文化遺産に登録された場所。
今では国立の博物館として一般に公開もされているので、クラクフのあたりまで来たら寄ってみるべき場所の一つだと思います。
これらの場所のことを初めて本で読んだのは中学生だった時。
同じような年頃のユダヤ人少年が、この強制収容所から生還した後に綴った体験記だった。
アウシュヴィッツ強制収容所もビルケナウ強制収容所も、実はどちらもドイツ語名で、それらの場所のある土地のポーランド語の名前はそれぞれオシフィエンチム、ブジェジンカだと知ったのもその本の中だったような…。
最も活発で活力に満ちた時期を過ごしていたはずの少年が、毎日死の恐怖に怯えながら暮らしただなんて、どれほど恐ろしい場所だろう、と思ったその場所へ今日向かう…。
表紙の画像は、アウシュヴィッツ強制収容所跡の鉄条網に捧げられた慰霊のための薔薇の花。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 交通
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- レンタカー 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
前日、ポーランド南部の古都クラクフに着いたSUR SHANGHAIとその旦那。
この日は車でアウシュヴィッツやビルケナウの強制収容所跡を訪れる計画。
一夜明けて、クラクフでの宿となったシェラトン・クラクフの部屋から見てみると、昨日の続きであいにくの雨。しかも寒い!
目の前を流れるヴィスワ川や川向こうの景色も灰色だ〜。
それでも気を取り直し、ホテルの傘を借りたあとはいざ出発! -
古都クラクフの中心部を出た後は、まずヨハネ・パウロ2世・クラクフ・バリツェ国際空港やその先にあるKatwice(カトヴィツェ)の街の方面へ。
クラクフの街を出てすぐに料金所がありますが、クラクフから出て行く時に料金を徴収されたかどうか記憶が曖昧ですみません。
アウシュヴィッツやビルケナウの強制収容所跡の見学を終えて、再びクラクフに帰って来た時には、この同じ料金所で6.50ズウォティを徴収されました。
料金所では1ユーロを3.60ズウォティ、1米ドルを2.60ズウォティとして使えるので、これらの小銭を持っている方はどうぞ。
お釣りはズウォティで返されるとの事なので、ご注意を。 -
アウシュヴィッツへ行くと言っても、その強制収容所跡がある町のポーランド語名はOświęcim(オシフィエンチム)なので、あとは933号線でその町を目指します。
要所要所にはこんな標識が出ていたので迷うことはありませんでした。
933号線は小さい町々を抜けていく片側一車線の地方道で、舗装は出来ていました。
後で見てみた案内書によると、1939年9月の戦闘以降、Oświęcim(オシフィエンチム)一帯はドイツ第三帝国の一部となり、ナチスによってアウシュヴィッツと名前を変えられたのだそう。 -
Oświęcim(オシフィエンチム)の町に入ると、今度は黒地に白い字で≪MUZEUM AUSCHWITZ (アウシュヴィッツ博物館)≫と書かれた標識がいくつか出ているのでそれに従って行きます。
クラクフから1時間半足らずでの到着。
この画像はアウシュヴィッツ強制収容所跡への入口。
敷地内に駐車場があって、駐車料金は7ズウォティ。
この敷地への入口向かいには小さいホテルもありましたが、見かけが重苦しい灰色なので、今日のこのお天気と相まって一層暗い雰囲気に…。 -
アウシュヴィッツ強制収容所跡の敷地。
駐車場には個人で来る車以外に大型バスも停まって、そこからは徒歩。
まずはビジターセンターを目指します。
そこまでの敷地内は芝生も木々も植えられて、何も知らなければ普通の公園だと思ってしまいそう。 -
アウシュヴィッツ強制収容所跡のビジターセンター入口にはさまざまな注意事項が出ています。
これから見学に行く囚人棟などの建物内部の展示は撮影禁止なのでご注意を。
今では国立の博物館になった強制収容所跡の見学は無料。
開館は午前8時からですが、閉館は季節によって午後3時から午後7時とばらつきがあるようです。
元日、12月25日、イースターの初日は休館。
サイトはこちら。http://www.auschwitz-muzeum.oswiecim.pl/ 英語版、ポーランド語版、ドイツ語版
このビジターセンター内には、トイレ、カフェあり。
各国語での案内書や書籍なども売られていて日本語版のものも数ズウォティ位からありました。
SUR SHANGHAIとその旦那は個人で見学しましたが、周辺ツアーもいろいろあるようです。
その内容や予約については、上記のサイトの中のVisiting the Memorialのページで確認できますよ。 -
これは、アウシュヴィッツ強制収容所跡の見取り図。
日本語版案内書に付いていたものです。
青い○の場所がビジター・センターの入口。そこから先の徒歩での見学は基本的に自由ですが、モデル・コースも赤い矢印付き点線で示されています。
敷地内を歩くだけだと1時間もかからないと思いますが、展示を見て回る全体の見学は2時間程度を予定して行くといいと思います。
数字やアルファベットを振った囚人棟や建物が重要な場所で、下に日本語で、以前の建物の用途や現在の展示の内容などについて簡単な説明が付いています。
画像をクリックして元画像で見てみても、文字がはっきりしないかと思いますが、一旦コピー・保存して更に拡大してみると、見えるようになると思いますので、必要な方はどうぞ。
この見取り図には出ていませんが、ビジター・センターと18号棟に見学者用トイレがありました。ほかにもあるのかも知れませんが、SUR SHANGHAIが気付いた限りではここだけでした。
注:この見取り図は東西南北の方向に従って描かれたものではありません。
別の地図で確認してみると、ビジター・センター入口はほぼ西向きのようでした。 -
イチオシ
ビジター・センターを出て、いよいよ囚人棟などが立ち並ぶ鉄条網に囲まれた内部へと入って行きます。
その入口となるのは、上に出した見取り図ではKとアルファベットが振ってあるSS衛兵所・収容所事務長室の脇のこのゲート。
画像左に見えている小さい木造の建物がSS衛兵所・収容所事務長室。
ナチス関連の記述にはよくSSという略語が出てきますが、これはSCHUTZSTAFFELの略で、日本語だとナチス親衛隊のこと。 -
今は国立の博物館になっているアウシュヴィッツ強制収容所跡。
これまでさまざまなドキュメンタリーでも目にしてきた正門ゲートをくぐる。
ここから先は、かつては電流が通されていた鉄条網の塀の中。
ゲートに出ている≪ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)≫の文字を、この場所へ送り込まれた人々は目に留める余裕も無かったに違いない。 -
上の方に出した見取り図の見学コースでは、正門ゲートから入ったあとに直進して、4号棟方向に行くようになっていましたが、SUR SHANGHAIとその旦那は、eとアルファベットが振ってある収容所厨房の所で右折。
ここで見えているのがその厨房だった建物ですが、点呼用の広場との間に立つ高くて黒い骨組みは、集団絞首刑用の台…。 -
アウシュヴィッツ強制収容所は、元々はポーランド人政治犯を収容するために1940年に設立されたのだそう。
なぜOświęcim(オシフィエンチム)が強制収容所設立の場として選ばれたかというと、以前ポーランド軍の基地があって、収容所としての増設が可能だったことと、鉄道の要衝となっていたからのようです。
最初にここに囚人として入って来たのは、政治犯として送られてきたポーランド人728人で、1940年6月14日のことだったのだとか。
当初一階建てが主だった20棟の建物も、その後は増え続ける囚人の労働力で二階建てに改築・増築されて、今残る形になったのだそう。
1941年にはOświęcim(オシフィエンチム)から3km離れたBrzezinka(ブジェジンカ)にもアウシュヴィッツ2号のビルケナウ強制収容所も造られ、1942年からはヒトラーのユダヤ人抹殺計画によって絶滅収容所の色合いを濃くしていったのだそう。
ビルケナウ強制収容所跡については、この後で訪れるので後述します。 -
かつては電流も通されていた鉄条網の塀は二重になっている。
その手前に出ているのはドイツ語とポーランド語(?)で≪停まれ!≫と書かれた髑髏マークの標識。
向こうに見えている建物は、かつては囚人受け入れ所だった建物で、鉄条網の外側にあります。
今は、このアウシュヴィッツ強制収容所跡を訪れる人々を迎え入れるビジター・センター。 -
正門ゲートから先の、かつては電流が通されていた鉄条網の塀の内側には、画像に出ているようなレンガ造り二階建ての囚人棟が規則的に並んでいる。
この画像と同じ形の棟は全部で28。
今はこれらの建物の中に、テーマ別の展示が並んでいます。
注: 全部の建物に展示があって公開されているわけではありません。上の方に出した見取り図でご確認ください。
元々はポーランド人政治犯収容のために設立されたというアウシュヴィッツ強制収容所も、その後はヨーロッパ各国のユダヤ人、ジプシーなども次々に送り込まれ、設立された2年後の1942年には、2万8千人もの囚人が同時に収容されていた時期もあったのだそう。
6号棟、7号棟では、囚人の生活、住居・衛生状態の展示がされていました。
建物内部の展示は撮影不可なので、画像はありません。
たとえ撮影が許されていたとしても、カメラを向ける気にはなれないと思った悲惨…。 -
各棟には番号が出ています。
ちょっと見ると「閉まっているのかな…。」と思う外観でも、展示が公開されている棟のドアは押すと開きます。
SUR SHANGHAIたちが行った時は雨が降って暗いお天気だったせいもあるんでしょうが、内部は一層暗く重苦しい雰囲気。
あまり見学者が入らない棟では、ちょっと怖く感じる人がいるかも。
この画像の27号棟は、ユダヤ人受難の歴史の展示がされていました。
ユダヤ人の歴史を振り返って見てみたい方はどうぞ。
内部の展示撮影は不可なので画像はありません。 -
イチオシ
27号棟の展示を見終わって下に下りる出口部分。
展示の撮影は不可なので撮りませんでしたが、この部分なら展示もないし、内部の雰囲気を思い起こすために…、と一枚だけパチリ。 -
27号棟を出て、10号棟と11号棟に挟まれた≪死の壁≫へ向かう。
その道筋、鉄条網の塀の向こうに見えたのは、チクロンBや囚人の持参物を保管していた倉庫。
チクロンBは、ガス室での囚人大量殺害に使用されたという劇薬。
もともとはシラミなどの害虫駆除のために製造された殺虫剤だったのだそう。
その大量の空き缶を展示している棟もありました。
他民族絶滅計画の展示がしてある4号棟だったと思います。 -
10号棟と11号棟の間には鉄柵をつけたレンガ塀が。
この奥にある壁が≪死の壁≫と呼ばれる場所。
塀の中に見える右手の棟が、別名≪死のブロック≫と呼ばれた11号棟。
左手の棟がスラブ民族に対する断種人体実験などが行われていた10号棟。こちらの内部は公開されていませんでした。
収容所内の刑務所でもあった11号棟の地下には餓死刑を宣告された囚人が入る18号室(飢餓室)があって、後に列聖されたポーランド人のマクシミリアン・マリア・コルベ神父は他の囚人の身代わりになって1941年にそこへ送り込まれ亡くなったのだそう。
そこには神父を記念する碑やキャンドルも置かれていました。
『シンドラーのリスト』以外にも、こういう実話もあったのかと思うと、人間の本質は果たして悪なのか善なのかと混乱してしまう。
そのほかにも、4人を一度に入れて立ち詰めにするという22号室(立ち牢)も残されていました。
レンガとコンクリートがむき出しになったそれらの場所…。
また、11号棟1階の臨時裁判室で死刑の判決を受けた囚人は、そのまま脱衣室で服を脱がされ、≪死の壁≫の前で銃殺されたのだそう。
その≪死の壁≫と向かい合うために塀の中へ入って行きます。 -
10号棟と11号棟の間にあるレンガの壁全体が≪死の壁≫と呼ばれる場所かと思ったら、その前にあるコンクリートの壁がそうらしい。
画像に向かって左手の10号棟の窓が木の板でふさがれているのは、≪死の壁≫の前での銃殺刑の様子を隠すための措置だったとのこと。 -
≪死の壁≫の前には、ここで処刑されて亡くなった人々の慰霊のための花やキャンドルが並ぶ。
SS(ナチス親衛隊)隊員によって、主にポーランド人囚人が数千人も銃殺された場所。
佇んでその壁を見つめる見学者たちは声も無い…。 -
囚人棟が並ぶアウシュヴィッツ強制収容所跡。
いつ植えられたのか白樺やそのほかの街路樹もあって、向こうに見えるのがかつては電流も通された鉄条網でなければ緑地の中の住宅街かキャンパスの一画のよう。 -
囚人としてヨーロッパ各国からアウシュヴィッツ強制収容所に送り込まれて来た人々のバッグやブラシ、メガネなどの持ち物、義足や衣類、刈り取られた大量の髪の毛やその毛織物製品などが展示されているのは、他民族絶滅計画の展示がしてある4号棟とナチスの犯罪証拠の展示がしてある5号棟。
このサイズの画像では見えにくくなっていますが、右手手前の棟が5号棟、その奥で見学者たちが入って行くのが4号棟。この二つの棟がツアーでやって来る人たちの必見の場所になっていて、人の出入りが一番多かったと思います。
それぞれの内部の展示は撮影不可なので画像は無し。
これまでに本などで見ていたバッグなどが大量に積み重ねられた場面も、実際に見るとその量の迫力とともに、それらの所有者だった人々の念のような物が迫って来るような気持ちになります。
その4号棟、5号棟以外にも、この道筋の棟にはヨーロッパ各国から囚人として連行されてきた人々などに関する展示がされているので、見て行くといいと思います。 -
イチオシ
かつて電流が通されていた鉄条網の塀の内側に並ぶ囚人棟の見学を終え、ガス室や焼却炉がある方向へと向かう。
その途中の鉄条網には数本の薔薇が。
囚人としてこのアウシュヴィッツ強制収容所に送られた人々の中には、自ら死を選んで電流の通った鉄条網に触れた人たちもいると聞いたから、その霊を慰めるために捧げられた薔薇なのかも。 -
上の画像の薔薇とはまた別の1本。
今も、ここで亡くなった誰かの慰霊のためにやって来る人たちがいるらしい。
鉄条網の上に置かれたその花の色。
淡いピンクの花びらが雨に濡れる…。
この地とは縁もゆかりも無いはずのSUR SHANGHAIも切なくなる眺め。 -
鉄条網の塀の外にあるガス室や焼却炉へ向かう出口そば。
12号棟だったかな?
その長い側面に沿って色模様付きのタイルが並んでいた。
このロープが張ってあった場所は何だろう。
説明が無いので不明。
囚人としてこのアウシュヴィッツ強制収容所に入っていた人々が作ったものなのかも。 -
ガス室や焼却炉へ向かう出口部分は、二重の鉄条網の塀を突っ切るように出来ていた。
二重になった鉄条網の間が通路のようになった部分を見る。
上部が内側に湾曲して、電流を通した高い鉄条網を乗り越えるのはそれだけで容易ではないと思うのに、二重にしただけでは飽き足らず、ライトや監視塔が設置されているのを見ると、
「この中に入った囚人たちを決して生かして出しはしない!」
と言うナチスやルドルフ・ヘス所長の意図が垣間見える。
画像左側に見えている建物は、手前がSS(ナチス親衛隊)管理局、奥が収容所司令部だったと思いますが、似たような建物ばかりなので、間違っていたらごめんなさい。 -
上の画像と同じ、ガス室や焼却炉へ向かう出口部分。
画像中央に白く見えているのがその小道で、左手が囚人棟が並ぶ内部。
右手に行くとガス室や焼却炉がある鉄条網の塀の外。
この画像で見えている建物はSS(ナチス親衛隊)の病院だったと思います。
二重になった鉄条網の塀の間が通路のようになった部分に入ってみる。
その内側に湾曲した鉄条網の高さ、かつては通されていた電流、そしてあちこちにある監視塔。
ちょっとだけ訪れてみたSUR SHANGHAIにも、ここから脱走するのは絶望的と思わせた。 -
ガス室や焼却炉へ向かう出口部分の小道を出て、振り返る。
この同じ道を同じように通って来て、人々はガス室へ送られたのかと思うと、この日の冷たい雨と一緒になって身震いがする…。
あの鉄条網の塀の内側に残るも地獄、外側に出てガス室へと進むも地獄…。
境目のこの場所でどっちを選ぶと聞かれたら、と想像すると、怖いのを通り越して呆然としてしまう。 -
鉄条網の塀の外から支柱の1本を見上げる。
囚人棟の並ぶ内側に湾曲したその形。
中にいる人々を逃すまいとデザインされたその曲線が禍々しく見えて仕方が無い。 -
イチオシ
有刺鉄線の1本の結び目。
ただそれだけの画像なのに、SUR SHANGHAIにはやけに怖く見える…。 -
鉄条網の塀の外に出ると、ガス室や焼却炉の隣にあるのは絞首台。
1947年4月16日にはアウシュヴィッツ強制収容所の所長だったルドルフ・へスの死刑がここで執行されたのだそう。
周りには何人も見学者がいるのに、誰も近づこうとしないその場所。 -
ガス室や焼却炉が残るあたりの木立ち。
この日の雨や霧の中でジッと沈黙しているかのよう。
柳の木って、雨に濡れると洗い髪の女性がうつむいているように見える。 -
そしてついに見たガス室と焼却炉の煙突。
想像だと煙突はもっと高いのかと思っていたSUR SHANGHAI。
ガス室の面積は210?。
シャワーを浴びられると信じ込まされた囚人たちが服を脱いでこの中に入って行ったんだ…。
その数は一度に2千人の事もあったのだとか。
扉が閉じられると、チクロンBのガスが部屋を満たし、人々は20分以内に死に至ったのだそう。
そしてその後は、髪の毛を刈り取られ、金歯は金の延べ棒に加工するべく抜かれ、最後の最後まで略奪された後の亡骸は焼却炉の中へ…。
1945年にアウシュヴィッツ強制収容所がソ連軍によって解放されたあと、倉庫で発見されたものの中には7トンもの頭髪もあったのだそう。
こうした頭髪や頭髪で作られたという布地は、上の方でもちょっと言いましたが他民族絶滅計画の展示がしてある4号棟に展示されていました。
頭髪の山の中に亜麻色のお下げ髪がいくつも混じっているのが生々しい。
人間は、ある状況の中で人性を失うとここまで出来るのか! と思ったのはベトナムでもカンボジアでもそうだったけど、このアウシュヴィッツ強制収容所跡でもまざまざと見てしまった思い。 -
ガス室も焼却炉のあるスペースも撮影禁止ですが、これだけは案内書の中に出ていた画像でご紹介。
画像奥がその焼却炉。
1940年から1943年まで使用されていたと言う焼却炉は3台あって、1日に350体もの亡骸が焼かれていた事もあったのだそう。
今はこの画像の中と同じように、あちこちに慰霊のために捧げられたと思われる花束が置かれています。 -
そろそろ駐車場へ戻って、Brzezinka(ブジェジンカ)にあるビルケナウの強制収容所跡へも行ってみよう。
…と、ガス室や焼却炉のある建物を出て歩き始める道。
今度は鉄条網の塀の外。
そこに出ていたのは、≪注意! 高電圧 生命の危険あり≫とドイツ語で書かれた標識。
もちろん今はこれらの鉄条網には電流は通されていないのですが、ビリビリとその気配が感じられる場所。 -
駐車場へと向かう途中で見た鉄条網の塀の支柱。
これは角部分の支柱なので、ほかの柱より太くなっています。
無機質的非情さを感じるコンクリートと金属の柱。
黄色い花のように見えるのは、有刺鉄線の1本に結び付けられたリボン。
これもここで亡くなった人への慰霊の気持ちが込められているんだろうか。
そこにだけ、ポッと光が当たって見える。 -
アウシュヴィッツ強制収容所跡の正門ゲート前をまた通って、振り出しのビジター・センターへ。
ビジター・センターには上でもちょっと書いたようにカフェや売店やトイレがあります。
アウシュヴィッツやビルケナウ関連の案内書なども数ズウォティ位から売られています。
あとは駐車場に戻って、今度はここから3kmほど離れたビルケナウの強制収容所跡へ。 -
アウシュヴィッツ強制収容所跡から、3kmほど離れたBrzezinka(ブジェジンカ)の村には、アウシュヴィッツ強制収容所2号であるビルケナウ強制収容所跡が。
これは1940年に設立されたアウシュヴィッツ強制収容所に続いて1941年に設立された収容所で、囚人の数が増えるに従って民族絶滅工場と化していったのだそう。
そこへの道筋には黒地に白い字で≪MUSEUM BIRKENAU(ビルケナウ博物館)≫の標識がいくつか出ていたので、迷わずに行けました。
これはビルケナウ強制収容所跡の見取り図。日本語版案内書に付いていたものです。
小さいキャンパスの一画のようにも見えたアウシュヴィッツ強制収容所跡とは違って、こちらは面積が175ヘクタールもある吹きさらしの平原の中に平屋建てバラックが300棟以上もあったのだそう。
今現在ほぼ当時のままで残っているのはレンガ造りのものが45棟、木造のものが22棟だそうです。
この見取り図で黒く塗りつぶされているのが当時の状態で現存するバラック。
遠目に見ても、バラック跡だったと分かるものがいくつも確認できました。
アルファベットを振ったバラックや建物などが重要な見学地点で、下に日本語で簡単な説明が付いています。
画像をクリックして元画像で見てみても、文字がはっきりしないかと思いますが、一旦コピー・保存して更に拡大してみると、見えるようになると思いますので、必要な方はどうぞ。
画像に青い○を付けた場所が駅舎のように見える≪死の門≫と呼ばれた入口で、鉄道がその敷地奥まで引かれています。
現在はその手前に駐車場もあり、駅舎風建物の中にはインフォメーションがありました。
ここも無料で見学できます。
ただ、面積が広いので、この画像に示された赤い実線や点線のモデル・コースを一通り回るには軽く2時間はかかると思って行くのがいいと思います。 -
アウシュヴィッツ強制収容所2号であるビルケナウ強制収容所跡に着いた時にはそれまでの冷たい雨と霧に風も混じる天候。
暖房を入れた車から出ると、霧雨もかかってカメラのレンズが曇った。
うう、冷たくて寒い…。10℃を切ってたんじゃないかな。
ビルケナウ強制収容所跡は野原の中の吹きさらしだから一層ジクジクと寒く感じたのかも。
9月の始めにこんなに寒くなるとは思っていなかったので意外。
軽いセーターと薄いジャケットしか持って来なかったのが悔やまれる。
秋の始まりと言えど、ここに行く時には天気予報を確認して、暖かい上着などを持って行くといいですよ。 -
≪死の門≫と呼ばれる駅舎風の建物からビルケナウ強制収容所跡の敷地内に入る。
はるか向こうに見える林まで、鉄道が引かれていて、それに沿った道が1本。
見学者は徒歩でこの道を奥へと歩いて行きます。
その両脇に見えるのは、やはり鉄条網の塀に囲まれたバラック群やその残骸。
その敷地が余りに広大なので、この画像ではその平屋建てバラックもよく見えないほど。
こう言っては不謹慎ですが、最初に行ったアウシュヴィッツ強制収容所跡ではその規模が想像よりかなり小さかったので、そこだけ見ると十万・百万単位での民族絶滅を狙った場所には見えなかったSUR SHANGHAIとその旦那。
でも、この3kmほど離れたアウシュヴィッツ強制収容所2号のビルケナウ強制収容所では、それは十分に可能だったと思えたその規模。 -
イチオシ
上の画像の道を歩いて来て線路の中に入り、今はビルケナウ強制収容所跡の入口になっている駅舎風の≪死の門≫を振り返る。
塔のようになっているのはSS(ナチス親衛隊)の中央衛兵所。
その下を貨物列車でくぐり、囚人として送り込まれた人々はここに到着したんだ…。
1944年の5月から、それらの列車がここに入ってきたのだそう。
列車から降りた後はナチスによる選別で振り分けられる人々…。
その様子を撮影した当時の画像を見たことのある人は多いはず。
今は吹きさらしの中に森閑と残るその引込み線。 -
ビルケナウ強制収容所跡の敷地奥に見える林とそこまで続く線路。
その線路には赤い薔薇が数本捧げられていた。
ここにも慰霊のために訪れる人がいるらしい…。
林の手前、線路の行き止まりになった所にはナチス政権下犠牲者の国際慰霊碑、ガス室・焼却炉の跡が二ヶ所あると見取り図に出ている。
更に先にはもう二ヶ所ガス室・焼却炉の跡があるらしい。
この天候の中、せめて林の前にあるという国際慰霊碑やガス室・焼却炉の跡まで行ってみようと思っていたら…、 -
…普段はSUR SHANGHAIよりはるかに寒さに強いはずの旦那が「オレ、寒くてこれ以上歩けない…。」
歩くのがイヤでそう言ってるのかとその顔を見たら蒼白! 傘を持つ手も白くなってる。 (◎o◎)
びっくりしたなあ。
見た場所の刺激が強かったせいもあるのかな…。
向こうの林手前にあるという慰霊碑がある場所までまだ道の半分以上あるし、一人で車に帰らせるのも不安だったので、ここで一緒に引き返すことに。
それではこの先にある慰霊碑などの説明が出来なくなってしまうので…、 -
…案内書に出ていた画像でご紹介します。
これは上の画像で鉄道が途切れる林の手前にあるというナチス政権下犠牲者のための国際慰霊碑が並ぶ場所で、1967年に除幕式が行われたのだそう。
その左右には第2、第3のガス室・焼却炉もあったのだそうですが…、 -
…慰霊碑が並ぶ場所に向かって左側にある第2ガス室・焼却炉は瓦礫の山だそう。
これはナチスがこのビルケナウ強制収容所から撤退する際に、SS(ナチス親衛隊)によって証拠隠滅のため爆破されたのだそうです。 -
≪死の門≫と言われた駅舎風の建物のゲートを見る。
SS(ナチス親衛隊)の中央衛兵所だったという塔部分がやけに怖い。
囚人として送られてきた人々は、向こうからあのゲートをくぐってここに到着した時には民族絶滅工場と化した収容所に着いたとは思っていなかったはず…。
線路にはここにも1本の赤い薔薇がポツリ。 -
イチオシ
レールそばに置かれたその薔薇の花。
まだ真新しい花のよう。
黒い枕木とレールの合間合間に、生命を表すような赤い花の色がちりばめられていると、このビルケナウ強制収容所跡も、あの時代を忘れてはいない、忘れてはいけないという人々が訪れては、こうして花を捧げているんだな、と思う。 -
≪死の門≫と呼ばれたビルケナウ強制収容所への入口だった部分を見る。
今はその≪死の門≫もフェンスで閉じられています。
かつては囚人として貨物列車で送られてきた人々は、向こうに見える入口からこの中へ入ってきた。
信号灯(?)の上にも薄いピンク色の薔薇が1本。
現在、見学者が入ってくる入口は、この画像だと右寄りに作られていました。 -
上にはSS(ナチス親衛隊)の中央衛兵所の塔がある≪死の門≫。
レールの上のトロッコには、やはり花束がいくつか。
このフェンスが、再び囚人列車受け入れのために開かないように、という願いが込められているようにも見えた。 -
慰霊碑やガス室・焼却炉が並ぶ敷地奥から戻って来た見学者グループが、小さく小さく見えるビルケナウ強制収容所跡のその広さ。
-
結局、ビルケナウ強制収容所での内部見学は≪死の門≫から入ってすぐ右手に並ぶ木造のバラックだけになったSUR SHANGHAI。
バラック内部は撮影可。
中では、雨宿りも兼ねて見学しているグループがどういうつもりなのかはしゃいで記念写真を撮り合っていたのでSUR SHANGHAIは写真は撮らず。 -
…というわけで、これも案内書からとった木造平屋建てのバラック内部。
もともとこのビルケナウ強制収容所があったBrzezinka(ブジェジンカ)の村のあたりは湿地なのに、基礎や床無しで建てられたバラック。
ビルケナウ強制収容所では、敷地を通る線路を挟んで左側に並ぶバラックはレンガ造りで女性用、右側に並ぶ木造バラックは男性用だったのだとか。
この蚕棚のようなベッドに人々がひしめき合って、その日その日の命を繋いでいたのかと思う。
一段に約8人が寝ていたのだそう。
1945年1月にソ連軍によって、ここで生きて解放を迎えた人々は果たしてどのくらいの人数だったのか…。
実際にはこのアウシュヴィッツやビルケナウのほかにも大規模な収容所としてはアウシュビッツ3号と呼ばれるモノヴィッツ強制収容所があって、その他小規模の収容所の数は40にも達したのだそう。
SUR SHANGHAIが中学生だった時に読んだユダヤ人少年の体験記も、この状況を生き延びて書かれた物だったんだ…、という感想を胸に、宿をとったクラクフの街へ戻る。
この旅行記でご紹介したアウシュヴィッツやビルケナウの強制収容所跡。
ポーランド南部まで来る事があれば、是非訪れて実際に見てもらいたい場所の一つだと思います。
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この旅行記へのコメント (16)
-
- さすらいの食いしんぼうさん 2010/04/13 13:02:52
- この旅行記は哀悼の薔薇の花です。
- SUR SHANGHAIさんへ、
拝読させてもらいました。
安易なコメントや感想など述べることができないほど打ちのめされました。
ましてや実際に訪れたSUR SHANGHAIさんにとって写真を見ながらの文章の記述は、さぞ胸に迫るものがあり並大抵ではなかっただろう、と察します。よくお伝えくださいました。ありがとうございました。
人間と歴史の残虐さを後世に伝えることが、これら収容所の保存の意義であるように、その意味でSUR SHANGHAIさんのこの旅行記はその一端を担うもの、と感じます。
言葉にならない怒りと哀悼の心を人々は薔薇やキャンドルにして収容所に残したのと同様、この旅行記はSUR SHANGHAIさんにとっての哀悼の薔薇の花になりました。
合掌
さすらいの食いしんぼうより
- SUR SHANGHAIさん からの返信 2010/04/14 10:54:11
- RE: この旅行記は哀悼の薔薇の花です。
- はじめまして、おはようございます。
コメントをありがとうございました。
この時の旅行記は内容がこの通り重いものなので、なかなか仕上がらずどうなるかと思いましたが、見てくださる方もいらっしゃると知ってどうにか出来上がりました。
歴史については素人の私ですので、記載内容に大きな間違いが無い事を祈るばかりです。
たまたま訪れた日は冷たい雨の降る日で、一層重苦しい雰囲気の場所でしたが、そこかしこに捧げられた薔薇の花やキャンドルの炎に救いを見出したような気持ちにもなりました。
これらの薔薇の花には、哀悼の念のほかにも「この歴史は忘れてはいけない。繰り返していけない。」といった誓いも込められているようで、悲しい美しさだけではない存在感がありました。
機会があれば、 さすらいの食いしんぼうさんもこの地を訪れてみてください。
> SUR SHANGHAIさんへ、
>
> 拝読させてもらいました。
> 安易なコメントや感想など述べることができないほど打ちのめされました。
> ましてや実際に訪れたSUR SHANGHAIさんにとって写真を見ながらの文章の記述は、さぞ胸に迫るものがあり並大抵ではなかっただろう、と察します。よくお伝えくださいました。ありがとうございました。
>
> 人間と歴史の残虐さを後世に伝えることが、これら収容所の保存の意義であるように、その意味でSUR SHANGHAIさんのこの旅行記はその一端を担うもの、と感じます。
>
> 言葉にならない怒りと哀悼の心を人々は薔薇やキャンドルにして収容所に残したのと同様、この旅行記はSUR SHANGHAIさんにとっての哀悼の薔薇の花になりました。
>
> 合掌
>
> さすらいの食いしんぼうより
-
- けーしちょーさん 2008/01/22 08:48:53
- アウシュビッツ。
- 薔薇は誰が置いたものなのかしら。
- SUR SHANGHAIさん からの返信 2008/01/22 19:11:31
- RE: アウシュビッツ。
- アウシュヴィッツ、ビルケナウのどちらの収容所跡でも、花束やリースのように小さい花輪、1本ずつ置かれた薔薇などの花を見かけました。
火事の心配が無さそうなところにはキャンドルも置かれていました。
単に見学でやって来たグループや個人ではなく、初めから慰霊の目的で花を準備して来たグループや個人が捧げて行ったのではないかと思います。
この日見た花は、数日経ってしなびかけた物のほか、ついその日の朝にでも置かれたのではないかと思うものまでありました。
慰霊の意味としてのほか、それらの花を捧げていった人々の、あの頃を忘れてはいない、忘れてはいけないという心の証のようで、異様な存在感を感じさせてくれた花でした。
- けーしちょーさん からの返信 2008/01/22 20:00:34
- RE: アウシュビッツ。
- こんな場所でも。
おかれた薔薇を美しいと思ってしまい、
なんだか不謹慎のような気がしていました。
きっと、広島の千羽鶴のようなものなのでしょうか。
アウシュビッツがドイツ名だってこと、この旅行記を読んで知りました。
結構、ショックでした。
けーしちょー拝
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- azianokazeさん 2008/01/21 15:50:39
- 雨に濡れたバラ
- 本当に雨に濡れるバラの花が切ないですね。
カンボジアが手作業なら、こちらはガス室といい、レールの向こうに口をあけた死の門といい、なにか工場生産的なシステテマティックなものがありますね。
いずれにしても、残忍さに変わりはないですが。
ユダヤ人やポーランド人など民族差別的なものがありますが、カンボジアでは自国民同士で虐殺を行っています。
人間の残虐さをかきたてるのには、民族的な問題は無数の理由のひとつに過ぎないみたいです。
最も火がつきやすい理由ではありますが。
今現在この残虐さを人間が克服できたのかと考えると、世界中あちこちで起きている紛争・テロから身近なネットの踊る罵詈雑言に至るまで、残念な答えしかないように思えます。
- SUR SHANGHAIさん からの返信 2008/01/22 18:57:21
- RE: 雨に濡れたバラ
- 人間とは、何かの理由をつけて自分とは違うグループに属する他者を排除しあうとする生き物なのかもしれないなどと思うことがあります。
そして、たまたま一方がもう一方を圧倒する力と結びついた時に、このように極端な形になってしまうのではないかとも思ったりもします。
かと思うと、コルベ神父や『シンドラーのリスト』のような美談があったり。
相反する性格を持ち合わせられる人間の心が一番恐ろしいのかも、です。
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- ぶうちゃんさん 2008/01/20 23:35:42
- はじめまして
- 言葉を失いますね。戦争が終わり60年以上の年月が経っていてここにかかわった方は少なくとも60歳以上。現実を知る人が減って行く中、静かに事実を語り継ぐ貴重な施設ですね。実稼動していたのはほんの数年なんでしょうがその数年で起きた事実が現在から将来に語り継ぐ役割は大きいですよね。
これからも覗かせていただきます。よろしくお願いします。
- SUR SHANGHAIさん からの返信 2008/01/21 23:18:36
- RE: はじめまして
- はじめまして。ご訪問と書き込み、ありがとうございました。(*^。^*)
そうですね。
この悲惨を生んだ時代からもう半世紀も過ぎたのに、今もこうして慰霊の花を捧げに訪れる人、見学に訪れる人が絶えないのは、忘れずにいよう、そして語り継いでいこうとする人々の心の現われのような気がします。
機会があれば、ぜひ訪れてみてください。
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- イーハンさん 2008/01/17 12:38:11
- いつも素晴らしい写真をありがとうございます。
- 素通りばかりの私ですが、いつも素晴らしいお写真に感心をしています、今回のアウシェビッツではその感情がこもった痛々しい気持ちをバラの花が、心を和ませてくれています、「霧と霧」あの場面が思い出されます・・・人間って何とあさはかな・・広島、長崎、沖縄 最近ではチベット、法輪講の弾圧も・・・つくづく平和ボケの日本です、もう一度しっかりと見直さなければ、そして今の平和に感謝せねば、先人の苦労と悲しみが報われませんから、やっぱり行ってみたくなりましたアウシェビッツに。イーハン
- SUR SHANGHAIさん からの返信 2008/01/19 10:36:52
- RE: いつも素晴らしい写真をありがとうございます。
- ご訪問と書き込み、ありがとうございます。m(__)m
こちらこそいつも通り過ぎるばかりの訪問で失礼しております。
いや〜、このアウシュヴィッツ編はどうまとめていいものやら悪戦苦闘中。
自分の感傷だけの記述だけでは終わらせたくない、かと言って歴史に詳しくない私が間違った事を書いては大変ですし、言い回しも自分なりに気を遣って書くと1日に数コマ分のコメントしか書けません。(^^ゞ
あと数日かかるのではないかと思います。
ここから車でたった一時間半ほどの古都クラクフの佇まいと見比べてみると、その差に愕然とします。
アウシュヴィッツとビルケナウの強制収容所跡は、人類の犯した行為を振り返るために訪れてもらいたい場所だと思います。
-
- たらよろさん 2008/01/16 15:39:39
- 歴史の深さに触れて
- 遅ればせながらあけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します。
アウシュビッツの収容所、編集途中ではありますが
拝見させていただきました。
私も学生の頃に読んだ本と大人になってから見た映画レベルの知識しかありませんが、
こうして画面で見るととても感慨深くなってしまいます。
私もいつか自分の目で見て、いろいろなことを感じたいなって思いました。
素晴らしい旅行記ありがとうございました。
たらよろ
- SUR SHANGHAIさん からの返信 2008/01/17 16:43:45
- RE: 歴史の深さに触れて
- ご訪問と書き込み、ありがとうございます。m(__)m
他の方へのお返事でも書いたのですが、アウシュヴィッツ強制収容所跡の訪問は、実際に旅行記に仕立てようとすると、何をどう書いていいのか迷ってしまって全然先に進んでいません。
楽しかった!という場所ならもっと気軽に気楽に書けるんですけどねえ…。
うんと迷った挙句、中途半端な出来になるかも。 (^^ゞ
-
- しゅんはさん 2008/01/15 22:58:45
- 雨にぬれたバラ
- SUR SHANGHAIさん
この写真たちは、悲しいです。
バラ‥‥
線路の赤いバラ 雨にぬれたバラはもっと悲しいです。
忘れてはいけないのですね。
しゅんは m(_ _)m
- SUR SHANGHAIさん からの返信 2008/01/17 16:39:08
- RE: 雨にぬれたバラ
- ご訪問と書き込み、ありがとうございます。m(__)m
アウシュヴィッツ強制収容所跡の訪問は、実際に旅行記に仕立てようとすると、何をどう書いていいのか迷ってしまって全然先に進みません。
自分の感じた物を書くだけでは終わらせたくないのですが、かと言って歴史的なことを滔々と語るだけの知識もありませんし。
いっそガイドブック的に淡々と書く方が気が楽かと思ったり。
中途半端な出来になるかもしれません…。(ーー;)
- しゅんはさん からの返信 2008/01/17 21:32:37
- RE: 雨にぬれたバラ
SUR SHANGHAIさんのその気持ち、とてもよく伝わってきています。
しゅんは(*^_^*)
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