
2007/11/26 - 2007/12/03
1029位(同エリア6215件中)
wiz さん
アドヴェントシーズンの中欧再訪の旅。
2005年12月のウィーン訪問と同様、
画家グスタフ・クリムトを巡る旅の記録です。
Quest for Gustav Klimt
今回のクリムト探求はいかに。
ウィーン2泊という短い滞在で今回巡った場所(美術館)は
◆ヒーツィング墓地再訪
◆「ミッツィ・ツィマーマンとクリムト」特別展
◆クリムト最期のアトリエ 再訪 (今回は外観のみ)
◆クリムトの生家があった場所
◆セセッション分離派館 再訪
◆ウィーン・ミュージアム・カールスプラッツ 再訪
◆ベルヴェデーレ宮殿上宮オーストリア・ギャラリー 再訪
◆美術史美術館 再訪
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特別展 参考:
「MIZZI Zimmermann, GUSTAV Klimt und die Josefstadt」
(ミッツィ・ツィマーマンとクリムトとヨーゼフシュタット)
WIEN Bezirksmuseum Josefstadt(ヨーゼフシュタット地区博物館)
http://www.bezirksmuseum.at/
◆「MIZZI Zimmermann, GUSTAV Klimt und die Josefstadt」
:独語原文
Viele bekannte Kunstler lebten und wirkten in der Josefstadt, so auch Gustav Klimt in seinem Atelier in der Josefstadter Strasse. Klimt ist weltberuhmt, aber dennoch gibt es noch Uberraschungen, diesmal in Form unveroffentlichter Briefe Gustav Klimts an Mizzi Zimmermann. Diese und weitere unbekannte Objekte zeigt nun erstmalig das Bezirksmuseum Josefstadt. Der Besucher kann sich dem Zauber des Originals hingeben. Erstmalig wird auch Mizzi Zimmermann und ihrem Leben mit und nach Gustav Klimt breiterer Raum gegeben. Sie ist in der Literatur durchaus als Gefahrtin Klimts bekannt, hat sie doch Klimt zwei S&amp;amp;amp;amp;ouml;hne geboren und viele entscheidende Jahre ihres nicht leichten Lebens in der Josefstadt verbracht. Die Ausstellung kann auch, nach umfassender Lekt&amp;amp;amp;amp;uuml;re seiner Briefe an Mizzi Zimmermann zeigen, dass uber den Kunstler und Menschen Gustav Klimt, vermutlich nicht das letzte Wort gesprochen ist.
Ein nur fur diese Ausstellung aufgelegtes Begleitbuch (68 Seiten, 20 sw- und 21 Farbfotos) mit einer beigelegtenCD, auf der Wolfgang Hubsch Briefe von Gustav Klimt an Mizzi Zimmermann liest, soll naheren Einblick in die Beziehung zwischen den beiden Menschen geben.
Eintritt frei
◆「MIZZI Zimmermann, GUSTAV Klimt and the Josefstadt」
:英文翻訳
Many known artists lived and worked in the Josefstadt, according to also Gustav Klimt in his studio in the Josefstadter street. Klimt is world-famous, but nevertheless there are still surprises, this time in form of unpublished letters Gustav Klimts at Mizzi Zimmermann. These and further unknown objects now shows the district museum Josefstadt for the first time. The visitor can sacrifice himself to the magic of the original. Also to Mizzi Zimmermann and her life is given to wider area first-time with and after Gustav Klimt. She absolutely is known in the literature as a companion Klimts, however, Klimt bears her/them two sons and spends many crucial years theirs of easy life in the Josefstadt. The exhibition also can, show at Mizzi Zimmermann after extensive reading of his letters that presumably of Gustav Klimt over the artist and people, not the last word is spoken.
An accompanying book only put on for this exhibition, 68 sides, 20 sw - and 21 color photos, with a beigelegtenCD, on which Wolfgang Hubsch Briefe reads letters of Gustav Klimt to Mizzi Zimmermann, should give nearer insight into the relationship between the two people.
Admission free
- 21.10.2007 WIEN Bezirksmuseum Josefstadt HP
- 旅行の満足度
- 5.0
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空
-
” クリムト・ヴィラ Klimt Villa ”
~Gustav Klimt -Letztes Atelier
~Gustav Klimt -Last Studio
グスタフ・クリムト 最後のアトリエ
Gustav Klimt Letztes Atelier
1130 Wien, Feldmuehlgasse 11
クリムトの死(1918年2月6日)の直後に、
エゴン・シーレはこう語っている。
【 彼の友人たちは、庭を含めたヒーツィングの家と、その家具調度全てを買い取るべきだ。 クリムトの家の組み立て構成それ自体がすでに 総合芸術 であり、これはもはや破壊されることがあってはならないから。 】
(1921年ウィーン、F.カルプフェン著「エゴン・シーレ」より)
Egon Schiele's dream to save Klimt studio close to realisation (1.11.07/THE ART NEWSPAPER) -
G u s t a v K l i m t
Letztes Atelier 1912−1918
◆グスタフ・クリムト最後のアトリエ
1860年代、かつてのザンクト・ヴァイト村に、北側に張り出し部分を持つ平屋の建物がすでに存在していた。 この場所にヴィラが建てられたのは、1923年になってからのことである。 建物は広い庭園に囲まれ、現在もその姿をとどめている。 クリムトは、後にその家主の娘婿となった画家のフェリックス・アルブレヒト・ハルタ(1884〜1967)との親交がきっかけで、ヨーゼフシュタットのアトリエを引き払った後、1911年から12年にかけてこの建物を借り受け、手を加えることになる。 角のヒーツィンガー大通りの101番と104番には、若い友人エゴン・シーレ(1890〜1918)がアトリエと住居を構えていた。
外面は白いしっくい、窓とドアは黒く塗られた簡素な建物が、彩り豊かな植物の繁る広大な庭にひっそりと建っていた。 当時、この夢のようなアンサンブルを奏でる空間の静寂に、時折、傍らの鉄路を走る列車の音が響きわたったことであろう。
この建物で、多数のデッサンとともに、女性肖像画、風景画(特にアッター湖とガルダ湖の)等からなる有名なクリムト後期の作品が生み出されたのである。 それらの画面はほとんど遠近法に依らず、はっきりそれと解る装飾や模様が一面にほどこされている。
◆建物の歴史
クリムトの家主とその後継者は1922年から23年にかけて、平屋根と、両側にバロック風外階段を備えた2階を増築した。 後にこの建物は「クリムト・ヴィラ」と呼ばれるようになったが、国の文化財局は、この建物とクリムトとの関連を認めなかった。
しかし1998年夏、一つの市民運動グループの努力により、とりわけ「missing link」と呼ばれる建築設計図の再発見によって、アトリエとその複数の隣室の大部分は今日なお当時のまま残されていることが証明されている。
◆建築様式
クリムトは若い頃の創作期に、ネオバロックの公共建造物(ブルク劇場や美術史美術館内の階段の間の天井画)を後期歴史主義様式で仕上げている。 彼は、自らも1897年の共同設立者となるウィーン分離派の建築家たちと親交を結ぶようになるが、彼ら(フリードリヒ・オーマン、ロベルト・オーレイ、ヨーゼフ・ホフマン、オットー・プルチャーら)は、クリムトのデッサンに顕著に表れているのと同様に、バロックの形式表現から多くのインスピレーションを与えられている。 ゆえに、この建物のネオバロック様式のヴィラへの建て替えも、「近代精神の偉業に対する反動的センスの勝利」といった誤った捉え方をされるべきではない。 もとより、クリムト自身が自らを「絵画の帝王」と自認するようなことは、毛頭なかったのである。
◆クリムトの工芸美術への影響
ウィーン大学講堂の天井画の一件に例をみるように、クリムトの絵は激しい公の議論を巻き起こし、そうした騒動を後目に、彼は自らの避難所たる仕事場に戻り、「ますます孤独に、しかしそれ故に、押し寄せる世代の中心人物となっていった。 彼は、主に工芸美術分野において後身に直接的な感化を与えることになるが、その媒介となった工芸美術学校(現在の応用美術大学)とウィーン工房に今も根づく指導的個性は、クリムトがそれらに与えた影響抜きにして語ることはできないものだといえる。」 (1926年、ハンツ・ティーツェ著「新オーストリア史;1815年〜1918年」より) 芸術的、社会的な地位の確定と自己発見のこの時期(キーワード;ユーゲントシュティール、アーノルド・シェーンベルクの無調音楽に至るまでのウィーン分離派)に、クリムトはヨーロッパ以外の文化に強い関心を表し始めている。
◆クリムトのアトリエの遺品
事実、彼のアトリエの隣室には、アジアの衣装、日本の赤黒色の鎧、2枚の中国画そして「土着の」アフリカ彫刻品が残されている。 クリムトが1912年、彼の50歳の誕生日に友人から贈られたヨーゼフ・ホフマン作の整理戸棚、机などとともに、そうした遺品の大部分が現在そのまま個人の所有となっている。
★クリムトのモードへの影響
クリムトは6人兄弟姉妹、生涯独身で家族の面倒をよく看た。 女性のモデルには気前よく報酬を支払った。 また、彼の生涯の伴侶となったエミーリエ・フローゲを通して、フローゲ姉妹のモード.サロン(1938年まで存在)に影響を与えた。 手の込んだ、床に届く長さの芸術的改革服を彼はファッション写真に収め、自ら署名している。 その改革服は、コルセットで締め付けるパリ・モードとは対照的に、日常生活全般に関わる総合芸術の一部として戸外でも着用された。 クリムトは、芸術的才能に恵まれた、新時代を切り拓く知的集団の一角を支える存在であり、また、彼のアトリエに集う仲間たちの中心人物でもあった。 なお、その一部は、今もなおヨーロッパないし海外でも広く名前が知られている。
◆クリムト・ヴィラの保存に向けて
ウィーンのユーゲント・シュティールとウィーン.モードにとっての重要な刺激の源泉となっている、このヴィラと庭園のアンサンブル、その環境の大部分は、公共の所有物、すなわちオーストリア共和国の手に委ねられるべきである。 それによって「記念の場所」という概念を越えた、「ある一つの場所」を再現させることが可能になる。 そこでは、アトリエと庭園の様式を通して、生活と芸術活動からなるユーゲント・シュティールの必要不可欠の要請が、総合芸術として具現されることになる。
ウィーン川(注:現在は地下鉄U4の横を流れる運河になっている)に程近い対岸にあったクリムトの生家は、1966年に取り壊されている。 それだけに、最後に残されたクリムトのアトリエが、活発な文化的用途に供されることが切に望まれるところである。
※以上、2005/12クリムト・ヴィラにて購入のパンフレットより
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◆Das Belvedere wird ab 2008 eine Gustav Klimt Gedenk- und Forschungsstatte in der Liegenschaft Feldmuhlgasse 11 betreiben. Ein Teil des in Wien/Hietzing gelegenen Gebaudes diente dem Kunstler Gustav Klimt als letztes Atelier (1911/12 bis 1918). Ziel der im Fruhjahr 2008 beginnenden umfangreichen Bau- und Restaurierungsarbeiten ist es, das Haus und den umliegenden Garten in ihren historischen Zustand zurückzufuhren.
◆ ”GUSTAV KLIMT - LETZTES ATELIER ”
derzeit geschlossen - voraussichtlich bis 2008
Der Prekariumvertrag zwischen Klimt-Verein und Burghauptmannschaft wurde per 30. Juni 2007 aufgelost.
Das Belvedere hat mit Juli 2007 die Zustandigkeit über die Klimt-Liegenschaft ubernommen. -
Secession
http://www.secession.at/ -
Belvedere
http://www.belvedere.at/de
OESTERREICHISCHE WERKSTAETTEN
http://www.austrianarts.com/ -
Leopold Museum
http://www.leopoldmuseum.org/
MAK
http://www.mak.at/ -
私は絵やデッサンを描くことはできる。
(Mar.2010)
私自身そう思うし、他人にも、
そう思うといってくれる人が何人かいる。
けれどもそれが真実であるかどうか確信はない。
ただ二つのことだけは確かである。
1.私の自画像はない。
絵の対象としては自分自身に興味がない。
むしろ他人、とくに女性、
そして他の色々な現象に興味があるのだ。
自分が別段面白みのある人間ではないことを、
私は確信している。
私には、これといって見るべきところもない。
私は画家であり、毎日毎日、朝から晩まで絵を描く。
人物像や風景画、ときには肖像画を。
2.語られた言葉、書かれた言葉には、
私はなじまない。
自分や自分の仕事について語る場合には
特にそうである。
簡単な手紙を書かなければならないときでさえ、
まるで船酔いがしそうで、不安で恐ろしいのだ。
こういうわけだから、私に関して
絵画や文字による自画像を求めるのはやめてほしい。
それは別段嘆かわしいことではない。
芸術家という点では注目すべき人物である
私に関して、何か知りたいと思うなら、
私の絵をじっくりと観察して、
そこに私の人となりと私の意図を
探し出してもらいたい。
− GUSTAV KLIMT
「クリムト Klimt TASCHEN28」より
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2007年12月に投稿して以来、たくさんの方に
当旅行記を見て頂き、ありがとうございました。
この度、旅行記の写真を元に
【動画】を作成・移行致しました。
http://youtu.be/2ZShW7MO8JA
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