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2007/07/19(木)第12日目:シゲット・マルマッツィエイ1日フリーデイ<br />【宿泊:Pension Prisacaru(ヴァド・イセイ村)】<br />ウクライナ正教会、カトリック教会、ルーマニア正教会、社会主義時代の被害者のメモリアル博物館、民俗博物館、野外民俗博物館<br /><br />光もあれば、影もあり。<br />ましてやルーマニアは、1989年に次々と起きた東欧革命の中で、唯一、最高指導者の流血を伴った国です。<br /><br />いまだ馬車が当たり前のように道を行き交う田舎道。<br />熊手を担いで歩く農婦がいて、馬も牛も一緒に道を行き、週に一回の市場に行くのに何時間も歩くかヒッチハイク。<br />家の門前にあるスカウンと呼ばれる長椅子は、老若男女が座って道を行く人々を眺めたり、おしゃべりしたりの小さな社交場。夏休みということもあって、ティーンエージャーの姿も見られました。<br />そんなのどかな、まったりと時の流れる世界であっても、コミュニティの間で民族の対立がくすぶり、それを時の為政者に利用されてきました。<br />かつて栄えたユダヤ人のコミュニティは、ナチス寄りの指導者の時代を経て、ほぼ絶滅してしまった過去もあります。<br />社会主義時代の影の部分とも無縁ではありませんでした。<br />村人の心のよりどころの信仰を導く司祭が、個人情報に一番触れやすいという理由で、秘密警察の手先を担わされた時代もあります。<br />マラムレシュの県庁所在地だったシゲット・マルマッツィエイには、社会主義時代の影の象徴の強制収容所がありました。<br />不名誉ながらも、ルーマニアにいくつかあった強制収容所の中でも有数のものが。<br /><br />その収容所跡が、現在はその歴史のメモリアル博物館になっていると知って、これもぜひ、シゲット・マルマッツィエイ観光に加えねばならないと思いました。<br />私にそんな影の部分はなかなか理解できないとしても、光ばかりを見ているわけにはいかないです。<br /><br />私がシゲット・マルマッツィエイで楽しみにしていたのは民俗博物館や野外博物館でした。<br />しかし、これらの博物館では、私以外に見学者はほとんどいませんでした。<br />一方、このメモリアル博物館は、見学者が途切れることはありませんでした。中高生くらいの団体も訪れていました。外国人観光客も多かったです。<br />それだけ人々の関心は高いのでしょう。<br /><br />この博物館では、ルーマニアの共産主義時代の暗黒の歴史だけでなく、近隣国の一連の東欧革命まで、広く取り上げているところが特徴的です。<br />独房跡1つ1つがその展示室、あるいは追悼のための空間となっています。<br />チケット売り場のところで、博物館の歴史についての解説(英語版で、A4サイズ1枚両面印刷、字は小さい)がもらえた他、50近くある全ての展示室について半ページから1ページにわたる英語の解説書を、入ってすぐのところで貸してもらえました。<br />この博物館の存在を知るきっかけとなったホームページ「旅人の東欧」では、英語の解説が少なくて残念だとありましたが、入口で貸してもらえた解説書は、展示室の壁の説明書き全てが英訳されていて、かなりヴォリュームがありました。<br />さすがにこれを全部読みながら見学する気力と体力はなく、斜め読みしたところもあります。でも、あとでじっくり読もうと、写真を撮っておいたページもあります。<br />そんなわけで、見学時間は1時間半と、気付けば思ったよりどっぷりハマっていました。<br /><br />「中心のStr. Corneliu Coposu(コポス通り)にはMuzeu al Gandirii Arestate si Centru International de Studii asupra Totalitarismuluiという長い名前を持つ博物館がある。その意味は「拘禁思想博物館と全体主義国際的研究所」である。博物館が入っている建物は1950年前後に諜報部の公安刑務所として使われ、元首相やその他の反共的なインテリゲンチャのメンバーが収容され強制労働を受けた。年をとった囚人の多くは、この刑務所を生き抜くことはできなかった。<br /> 現在は啓発的な展覧会となっている。第一のテーマは東欧に於ける言論・事実の隠蔽、そして少数民族の抑制だ。その内、元首相Ceausescus(チャウシェスク)の誇大妄想のプロジェクト(例えばドナウ川の運河)や強制的大量移住などについての詳細な情報や材料がある。それぞれの展覧会は囚人房に入っているが、英語の説明は少ないのがとても残念だ。それでもこの博物館の訪問はお勧めだ。中庭には面白いモニュメントと彫像群がある。外国人の入場料は40,000レイで、撮影許可は30,000レイ(2006年のデノミ前。おそらく2000年前後の値段。2007年7月現在、入場料は5レイ、写真代は3レイで、換算レートは1レイ=約55円)。その代わり、スタッフが英語で短い説明をしてくれる。」(誤植や言葉尻のみ一部訂正)<br />「旅人の東欧についてのページ(日本語版)」─「ルーマニア」より<br />http://www.tabibito.de/balkan/jrumaenien.shtml<br />「シゲット(シゲット・マルマッツィエイ)」のページ<br />http://www.tabibito.de/balkan/jsighet.shtml

2007年ルーマニア旅行第12日目(3)シゲット・マルマッツィエイ:社会主義時代の影の記憶の博物館

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2007/07/19 - 2007/07/19

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まみ

まみさん

2007/07/19(木)第12日目:シゲット・マルマッツィエイ1日フリーデイ
【宿泊:Pension Prisacaru(ヴァド・イセイ村)】
ウクライナ正教会、カトリック教会、ルーマニア正教会、社会主義時代の被害者のメモリアル博物館、民俗博物館、野外民俗博物館

光もあれば、影もあり。
ましてやルーマニアは、1989年に次々と起きた東欧革命の中で、唯一、最高指導者の流血を伴った国です。

いまだ馬車が当たり前のように道を行き交う田舎道。
熊手を担いで歩く農婦がいて、馬も牛も一緒に道を行き、週に一回の市場に行くのに何時間も歩くかヒッチハイク。
家の門前にあるスカウンと呼ばれる長椅子は、老若男女が座って道を行く人々を眺めたり、おしゃべりしたりの小さな社交場。夏休みということもあって、ティーンエージャーの姿も見られました。
そんなのどかな、まったりと時の流れる世界であっても、コミュニティの間で民族の対立がくすぶり、それを時の為政者に利用されてきました。
かつて栄えたユダヤ人のコミュニティは、ナチス寄りの指導者の時代を経て、ほぼ絶滅してしまった過去もあります。
社会主義時代の影の部分とも無縁ではありませんでした。
村人の心のよりどころの信仰を導く司祭が、個人情報に一番触れやすいという理由で、秘密警察の手先を担わされた時代もあります。
マラムレシュの県庁所在地だったシゲット・マルマッツィエイには、社会主義時代の影の象徴の強制収容所がありました。
不名誉ながらも、ルーマニアにいくつかあった強制収容所の中でも有数のものが。

その収容所跡が、現在はその歴史のメモリアル博物館になっていると知って、これもぜひ、シゲット・マルマッツィエイ観光に加えねばならないと思いました。
私にそんな影の部分はなかなか理解できないとしても、光ばかりを見ているわけにはいかないです。

私がシゲット・マルマッツィエイで楽しみにしていたのは民俗博物館や野外博物館でした。
しかし、これらの博物館では、私以外に見学者はほとんどいませんでした。
一方、このメモリアル博物館は、見学者が途切れることはありませんでした。中高生くらいの団体も訪れていました。外国人観光客も多かったです。
それだけ人々の関心は高いのでしょう。

この博物館では、ルーマニアの共産主義時代の暗黒の歴史だけでなく、近隣国の一連の東欧革命まで、広く取り上げているところが特徴的です。
独房跡1つ1つがその展示室、あるいは追悼のための空間となっています。
チケット売り場のところで、博物館の歴史についての解説(英語版で、A4サイズ1枚両面印刷、字は小さい)がもらえた他、50近くある全ての展示室について半ページから1ページにわたる英語の解説書を、入ってすぐのところで貸してもらえました。
この博物館の存在を知るきっかけとなったホームページ「旅人の東欧」では、英語の解説が少なくて残念だとありましたが、入口で貸してもらえた解説書は、展示室の壁の説明書き全てが英訳されていて、かなりヴォリュームがありました。
さすがにこれを全部読みながら見学する気力と体力はなく、斜め読みしたところもあります。でも、あとでじっくり読もうと、写真を撮っておいたページもあります。
そんなわけで、見学時間は1時間半と、気付けば思ったよりどっぷりハマっていました。

「中心のStr. Corneliu Coposu(コポス通り)にはMuzeu al Gandirii Arestate si Centru International de Studii asupra Totalitarismuluiという長い名前を持つ博物館がある。その意味は「拘禁思想博物館と全体主義国際的研究所」である。博物館が入っている建物は1950年前後に諜報部の公安刑務所として使われ、元首相やその他の反共的なインテリゲンチャのメンバーが収容され強制労働を受けた。年をとった囚人の多くは、この刑務所を生き抜くことはできなかった。
 現在は啓発的な展覧会となっている。第一のテーマは東欧に於ける言論・事実の隠蔽、そして少数民族の抑制だ。その内、元首相Ceausescus(チャウシェスク)の誇大妄想のプロジェクト(例えばドナウ川の運河)や強制的大量移住などについての詳細な情報や材料がある。それぞれの展覧会は囚人房に入っているが、英語の説明は少ないのがとても残念だ。それでもこの博物館の訪問はお勧めだ。中庭には面白いモニュメントと彫像群がある。外国人の入場料は40,000レイで、撮影許可は30,000レイ(2006年のデノミ前。おそらく2000年前後の値段。2007年7月現在、入場料は5レイ、写真代は3レイで、換算レートは1レイ=約55円)。その代わり、スタッフが英語で短い説明をしてくれる。」(誤植や言葉尻のみ一部訂正)
「旅人の東欧についてのページ(日本語版)」─「ルーマニア」より
http://www.tabibito.de/balkan/jrumaenien.shtml
「シゲット(シゲット・マルマッツィエイ)」のページ
http://www.tabibito.de/balkan/jsighet.shtml

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  • 街中のメモリアル博物館の垂れ幕と建物

    街中のメモリアル博物館の垂れ幕と建物

  • メモリアル博物館の建物<br /><br />Metaneira社のマラムレシュガイドブックでも、この博物館はシゲットの中で一番人々が訪れるところだろうと書かれています。<br />建物は1899年から1965年まで刑務所として使われたことになりますが、そのうち1948年から1955年は、共産党にとっての政治犯収容所となりました。<br />その暗黒の7年間、政治家、知識人、カトリック司教、陸軍将校、そして普通の人々(といっても、ルーマニアの中では政治的、知識的、文化的エリート層)が収容されました。一時、その数は200人にものぼりました。<br />監視は厳しく、逃亡は不可能でした。食事はろくに与えられず、暖房も明かりも不十分で、非常に不健康な環境でした。その劣悪な拘束状態の中で、約50名が死亡しました。その中には前首相(Iuliu Maniu)や、著名な歴史家兼政治家(Gheorghe I. Bratianu)もいました。<br />死亡者は、夜間、郊外の貧民墓地に秘密裏に埋葬されました。そのため、墓のありかが分かっていない人もいます。<br />1955年、ルーマニアが国連に加盟したとき、政治犯はこの収容所から移動され、もう少しましな環境での拘束あるいは軟禁になりました。<br />この博物館は1997年に開設されました。<br />博物館の展示は、反共産主義者の抵抗と共産党による弾圧の歴史に焦点を置いていますが、収容者の当時の環境や囚人個人の持ち物、秘密警察による取調べの手段についての展示などもあります。<br />中庭には、半地下の円形礼拝堂「追憶と祈りの空間」があります。この収容所の犠牲者の8,000人以上の人々の名前がずらっと壁に書かれてあります。真ん中には水がたたえられ、小さなロウソクが捧げられていました。<br />天井は礼拝堂を完全に覆っていないので明るいのですが、天井の穴から水面に光が一条射し込んでいるところは、厳かな雰囲気がありました。<br />ただ、「旅人の東欧」でも紹介されていた犠牲者の行進の彫刻は、中庭のどこにあるのかよく分からず、見つけることができませんでした。<br />(情報源:RomanianMonasteries.orgのサイトで購入したMetaneira社のマラムレシュガイドブック)<br />http://www.romanianmonasteries.org/buymaramuresbook.html

    メモリアル博物館の建物

    Metaneira社のマラムレシュガイドブックでも、この博物館はシゲットの中で一番人々が訪れるところだろうと書かれています。
    建物は1899年から1965年まで刑務所として使われたことになりますが、そのうち1948年から1955年は、共産党にとっての政治犯収容所となりました。
    その暗黒の7年間、政治家、知識人、カトリック司教、陸軍将校、そして普通の人々(といっても、ルーマニアの中では政治的、知識的、文化的エリート層)が収容されました。一時、その数は200人にものぼりました。
    監視は厳しく、逃亡は不可能でした。食事はろくに与えられず、暖房も明かりも不十分で、非常に不健康な環境でした。その劣悪な拘束状態の中で、約50名が死亡しました。その中には前首相(Iuliu Maniu)や、著名な歴史家兼政治家(Gheorghe I. Bratianu)もいました。
    死亡者は、夜間、郊外の貧民墓地に秘密裏に埋葬されました。そのため、墓のありかが分かっていない人もいます。
    1955年、ルーマニアが国連に加盟したとき、政治犯はこの収容所から移動され、もう少しましな環境での拘束あるいは軟禁になりました。
    この博物館は1997年に開設されました。
    博物館の展示は、反共産主義者の抵抗と共産党による弾圧の歴史に焦点を置いていますが、収容者の当時の環境や囚人個人の持ち物、秘密警察による取調べの手段についての展示などもあります。
    中庭には、半地下の円形礼拝堂「追憶と祈りの空間」があります。この収容所の犠牲者の8,000人以上の人々の名前がずらっと壁に書かれてあります。真ん中には水がたたえられ、小さなロウソクが捧げられていました。
    天井は礼拝堂を完全に覆っていないので明るいのですが、天井の穴から水面に光が一条射し込んでいるところは、厳かな雰囲気がありました。
    ただ、「旅人の東欧」でも紹介されていた犠牲者の行進の彫刻は、中庭のどこにあるのかよく分からず、見つけることができませんでした。
    (情報源:RomanianMonasteries.orgのサイトで購入したMetaneira社のマラムレシュガイドブック)
    http://www.romanianmonasteries.org/buymaramuresbook.html

  • 展示室へ向かう廊下<br /><br />犠牲者と思われる人たちの写真がぎっしりです。

    展示室へ向かう廊下

    犠牲者と思われる人たちの写真がぎっしりです。

  • 独房のあるエリアへ

    独房のあるエリアへ

  • 数カ国語で書かれた碑文<br /><br />この中には英語がありません。<br />かろうじて分かるのはドイツ語です。<br />Ihr Werdet die Warhheit erkennen, und die Wahrheit wird euch fri machen<br />Ioan 8.32<br />これを訳そうと思いましたが、Ioan=ヨハネなので、実は聖書のヨハネによる福音書8.32節でした。<br />「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」<br />この博物館を訪れる人に対するメッセージでしょうか。

    数カ国語で書かれた碑文

    この中には英語がありません。
    かろうじて分かるのはドイツ語です。
    Ihr Werdet die Warhheit erkennen, und die Wahrheit wird euch fri machen
    Ioan 8.32
    これを訳そうと思いましたが、Ioan=ヨハネなので、実は聖書のヨハネによる福音書8.32節でした。
    「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
    この博物館を訪れる人に対するメッセージでしょうか。

  • 展示室となっている独房のある棟の1階から見上げて<br /><br />全部で3階(日本式に勘定)ありました。<br />かつての独房がそれぞれテーマのある展示室となっています。

    展示室となっている独房のある棟の1階から見上げて

    全部で3階(日本式に勘定)ありました。
    かつての独房がそれぞれテーマのある展示室となっています。

  • 独房の扉<br /><br />丸いのぞき穴と小さな差入れの窓があります。

    独房の扉

    丸いのぞき穴と小さな差入れの窓があります。

  • Room 13: Repression against the Church(教会に対する圧力)<br /><br />「ルーマニア正教は、チャウシェスクの独裁時代に国教とされ、それまでのギリシャ・カトリックは弾圧されることとなった。1989年以来、それまで隠れて信仰されていたギリシャ・カトリックが復活し、村によっては争いがあり、教会の分捕り合戦も多く見られた。独裁者側にとってカトリックの存在は好ましくなかった。本山がヴァチカンにあり、主導権の問題があった。ギリシャ・カトリックの牧師の何人かは投獄、拷問され、信者は沈黙を守らざるを得なかった。強権は信仰の自由を認めるかに装ったが、正教は、権力と妥協をし、祈りの際、ルーマニア社会主義共和国といった文句を入れることが義務づけられ、司祭が同時に秘密警察のエージェントであることも不思議ではなかった。これは、いわずもがな、司祭は信者の秘密を自由に知ることができ、動向を逐一つかんでいたからである。」<br />(「マラムレシュ〜ルーマニア山村のフォークロア」みやこうせい著(未知谷社)より)

    Room 13: Repression against the Church(教会に対する圧力)

    「ルーマニア正教は、チャウシェスクの独裁時代に国教とされ、それまでのギリシャ・カトリックは弾圧されることとなった。1989年以来、それまで隠れて信仰されていたギリシャ・カトリックが復活し、村によっては争いがあり、教会の分捕り合戦も多く見られた。独裁者側にとってカトリックの存在は好ましくなかった。本山がヴァチカンにあり、主導権の問題があった。ギリシャ・カトリックの牧師の何人かは投獄、拷問され、信者は沈黙を守らざるを得なかった。強権は信仰の自由を認めるかに装ったが、正教は、権力と妥協をし、祈りの際、ルーマニア社会主義共和国といった文句を入れることが義務づけられ、司祭が同時に秘密警察のエージェントであることも不思議ではなかった。これは、いわずもがな、司祭は信者の秘密を自由に知ることができ、動向を逐一つかんでいたからである。」
    (「マラムレシュ〜ルーマニア山村のフォークロア」みやこうせい著(未知谷社)より)

  • Room 13: Repression against the Church(教会に対する圧力)<br /><br />収容された司祭さまも、こんな囚人服を着せられていたんですね。<br />背後に掲示された写真の司祭さまもここの犠牲者でしょう。<br /><br />「共産党政権は、1948年に「宗教法」を出し、国が教会を統制する体制を固めた。多くの修道院が職業センターに改組され、聖職者たちは別の世俗の職業を学ぶことを促された。<br />ルーマニア正教会の指導部は共産党政権と良好な関係を保ち、ルーマニア民族の民族主義を強調する国策に協力した。一方で多くの聖職者たちが教会を離れていった。1963年までに司祭と修道士をあわせ2500人が逮捕され、2000人以上の修道士が修道生活を強制的に断念させられた。<br />教会を離れた聖職者たちは、長期服役の判決を受けた。また教会にとどまった聖職者の中には多数の秘密警察協力者や情報提供者がいた。2001年、正教会司祭で旧共産党政権に協力したもののリストが公開されることを阻むために、ルーマニア正教会はかつての秘密警察の文書閲覧を許す法律を変えようとしたが失敗した。<br />1989年、ルーマニア革命で共産党政権が崩壊すると、国から教会への統制は廃止された。」<br />(ウィキペディアフリー百科事典「ルーマニア正教会」より引用)<br /><br />共産党による教会統制戦略は宗派ごとに異なりました。<br />ルーマニア正教会は、主教や司祭の強制的な入れ替えを行ない、共産党に恭順を示した聖職者を残すようにしました。<br />それは、バチカンの教皇をトップと認めた正教会との合いの子のようなギリシャ・カトリック教会でも同じでした。<br />そのため多くの聖職者が逮捕され、収容所に送られました。<br />カトリック教会については、共産党は、これが外国勢力と結びつきやすいとして、バチカンとの協定(Concordate/Concordat)を一方的に破棄し、聖職者を追放・収容所送りにして弾圧しました。<br />新教も同じく外国勢力の巣として、共産党はこれを認めませんでした。共産党は新教の「告解」が統制が及ばないので拒否しましたが、これらの宗教活動と信仰は秘密裏に存続しました。<br />(情報源:博物館で入口で借りた英文解説書)<br /><br />社会主義時代のギリシャ・カトリック教会<br />「第二次大戦後成立した共産党政権は、1948年ルーマニアの東方典礼カトリック教会に対して弾圧を行った。教会堂は没収され、正教会に与えられた。信者は正教会への改宗を強制された。1950年、ルーマニア・カトリックは再び合法化されたが、共産党政権下での活動は制約されていた。」<br />(ウィキペディアフリー百科事典「ルーマニア正教会」より引用)

    Room 13: Repression against the Church(教会に対する圧力)

    収容された司祭さまも、こんな囚人服を着せられていたんですね。
    背後に掲示された写真の司祭さまもここの犠牲者でしょう。

    「共産党政権は、1948年に「宗教法」を出し、国が教会を統制する体制を固めた。多くの修道院が職業センターに改組され、聖職者たちは別の世俗の職業を学ぶことを促された。
    ルーマニア正教会の指導部は共産党政権と良好な関係を保ち、ルーマニア民族の民族主義を強調する国策に協力した。一方で多くの聖職者たちが教会を離れていった。1963年までに司祭と修道士をあわせ2500人が逮捕され、2000人以上の修道士が修道生活を強制的に断念させられた。
    教会を離れた聖職者たちは、長期服役の判決を受けた。また教会にとどまった聖職者の中には多数の秘密警察協力者や情報提供者がいた。2001年、正教会司祭で旧共産党政権に協力したもののリストが公開されることを阻むために、ルーマニア正教会はかつての秘密警察の文書閲覧を許す法律を変えようとしたが失敗した。
    1989年、ルーマニア革命で共産党政権が崩壊すると、国から教会への統制は廃止された。」
    (ウィキペディアフリー百科事典「ルーマニア正教会」より引用)

    共産党による教会統制戦略は宗派ごとに異なりました。
    ルーマニア正教会は、主教や司祭の強制的な入れ替えを行ない、共産党に恭順を示した聖職者を残すようにしました。
    それは、バチカンの教皇をトップと認めた正教会との合いの子のようなギリシャ・カトリック教会でも同じでした。
    そのため多くの聖職者が逮捕され、収容所に送られました。
    カトリック教会については、共産党は、これが外国勢力と結びつきやすいとして、バチカンとの協定(Concordate/Concordat)を一方的に破棄し、聖職者を追放・収容所送りにして弾圧しました。
    新教も同じく外国勢力の巣として、共産党はこれを認めませんでした。共産党は新教の「告解」が統制が及ばないので拒否しましたが、これらの宗教活動と信仰は秘密裏に存続しました。
    (情報源:博物館で入口で借りた英文解説書)

    社会主義時代のギリシャ・カトリック教会
    「第二次大戦後成立した共産党政権は、1948年ルーマニアの東方典礼カトリック教会に対して弾圧を行った。教会堂は没収され、正教会に与えられた。信者は正教会への改宗を強制された。1950年、ルーマニア・カトリックは再び合法化されたが、共産党政権下での活動は制約されていた。」
    (ウィキペディアフリー百科事典「ルーマニア正教会」より引用)

  • metoda de tortura(拷問方法)<br /><br />これって、マニュアル!?

    metoda de tortura(拷問方法)

    これって、マニュアル!?

  • ハンサムなミハイ1世の写真<br />Room 20: Communism versus the Monarchy(共産主義と王制)<br /><br />共産党により王制廃止に追いやられたときの、最後のルーマニア王です。<br />しかも2度も即位し、いずれも時代に翻弄されたであろう、若きルーマニア王でした。<br />第20室目では、ルーマニアがどのようにソ連の支配下に陥り、王制の廃止に追い込まれたかを示す書類や写真や記事などが展示されていました。<br />入口で借りた英文解説書によると@<br /><br />彼は、父カルロ2世が皇太子時代に愛人問題で王位継承権を放棄していたため、祖父フェルディナンド1世が亡くなった後、わずか6才で即位しました。<br />しかし、その3年後に、父カルロ2世がクーデターを起こして息子を退位させて自分が即位します。<br />しかし、カルロ2世は独裁政治を行って世論の批難を浴びます。<br />1940年のウィーン裁定のときに領土を割譲させられるに至り、ついにカルロ2世が退位に追いやられると、ミハイ1世は19才で再び王位に就きます。<br />しかし共産党の台頭の中、ソ連占領下、ミハイ1世が26歳のときにルーマニアの王制は廃止され、翌年ミハイ1世は亡命を余儀なくされます。<br />共産体制崩壊後の1992年、すなわち51才のときにやっと、ルーマニアに帰国が許されたそうです。<br />政治活動を行わないことや、旧王室財産の一部を返還することを条件に。

    ハンサムなミハイ1世の写真
    Room 20: Communism versus the Monarchy(共産主義と王制)

    共産党により王制廃止に追いやられたときの、最後のルーマニア王です。
    しかも2度も即位し、いずれも時代に翻弄されたであろう、若きルーマニア王でした。
    第20室目では、ルーマニアがどのようにソ連の支配下に陥り、王制の廃止に追い込まれたかを示す書類や写真や記事などが展示されていました。
    入口で借りた英文解説書によると@

    彼は、父カルロ2世が皇太子時代に愛人問題で王位継承権を放棄していたため、祖父フェルディナンド1世が亡くなった後、わずか6才で即位しました。
    しかし、その3年後に、父カルロ2世がクーデターを起こして息子を退位させて自分が即位します。
    しかし、カルロ2世は独裁政治を行って世論の批難を浴びます。
    1940年のウィーン裁定のときに領土を割譲させられるに至り、ついにカルロ2世が退位に追いやられると、ミハイ1世は19才で再び王位に就きます。
    しかし共産党の台頭の中、ソ連占領下、ミハイ1世が26歳のときにルーマニアの王制は廃止され、翌年ミハイ1世は亡命を余儀なくされます。
    共産体制崩壊後の1992年、すなわち51才のときにやっと、ルーマニアに帰国が許されたそうです。
    政治活動を行わないことや、旧王室財産の一部を返還することを条件に。

  • 女性の囚人についての展示室<br /><br />犠牲になった女性たちの名前と写真が記載されています。

    女性の囚人についての展示室

    犠牲になった女性たちの名前と写真が記載されています。

  • 鉄条網の後ろの囚人<br /><br />ラドゥ・ベルチャ(Radu Bercea)画<br />メモリアル博物館内の「Amintiri din Gulag」という本の挿絵の原画展にて<br /><br />まるでこの独房で死んだ人の幽霊のようです。

    鉄条網の後ろの囚人

    ラドゥ・ベルチャ(Radu Bercea)画
    メモリアル博物館内の「Amintiri din Gulag」という本の挿絵の原画展にて

    まるでこの独房で死んだ人の幽霊のようです。

  • 強制収容所<br /><br />ラドゥ・ベルチャ(Radu Bercea)画<br />メモリアル博物館内の「Amintiri din Gulag」という本の挿絵の原画展にて<br /><br />社会主義時代に、体制に不都合な人間を収容した収容所は、ルーマニア国内にシゲット・マルマッツィエイだけでなく何ヶ所かありました。<br /><br />※写真のイラストとは直接関係ありませんが、影の歴史のメモリアル博物館にちなみ、マラムレシュ地方のユダヤ人についても触れたいと思います。ただし、引用により説明に代えます。<br /><br />★マラムレシュ地方のユダヤ人について(その1)<br />「当時(19世紀)、すでにガリシア(ティサ川対岸の遠く北西、今はウクライナ共和国とポーランド東部に分散)やウクライナのユダヤ人迫害はこうじて、のちポグロム(ユダヤ人虐待、または虐殺)に発展するのだが、その勢いはすさまじく、彼らは住んでいる場所を追われ、流浪の民と化して新天地を求め、南下してルーマニアへ着のみ着のまま大量にやって来た。マラムレシュでユダヤ人の入らなかった村はなかった。ユダヤ人は立場はルーマニア人と同じく、ハンガリー統治下の被支配者で、陰に陽に抑圧される側だった。もとより偏見が少なく人好きなモロシェニ(マラムレシュの人のこと)のこと、一般にユダヤ人とは気持ちのよい付き合いを保っていた、という。ただ、宗教の違いは素朴で少なからず無知な農民にとって一つの大きなこだわりとなっていた。<br /> 第一次大戦前には、経済権がユダヤ人に大きく掌握されたこともあって、モロシェニの心情はおだやかならず、不満が少しずつくすぶっていた。」<br />(「マラムレシュ〜ルーマニア山村のフォークロア」みやこうせい著(未知谷社)より)

    強制収容所

    ラドゥ・ベルチャ(Radu Bercea)画
    メモリアル博物館内の「Amintiri din Gulag」という本の挿絵の原画展にて

    社会主義時代に、体制に不都合な人間を収容した収容所は、ルーマニア国内にシゲット・マルマッツィエイだけでなく何ヶ所かありました。

    ※写真のイラストとは直接関係ありませんが、影の歴史のメモリアル博物館にちなみ、マラムレシュ地方のユダヤ人についても触れたいと思います。ただし、引用により説明に代えます。

    ★マラムレシュ地方のユダヤ人について(その1)
    「当時(19世紀)、すでにガリシア(ティサ川対岸の遠く北西、今はウクライナ共和国とポーランド東部に分散)やウクライナのユダヤ人迫害はこうじて、のちポグロム(ユダヤ人虐待、または虐殺)に発展するのだが、その勢いはすさまじく、彼らは住んでいる場所を追われ、流浪の民と化して新天地を求め、南下してルーマニアへ着のみ着のまま大量にやって来た。マラムレシュでユダヤ人の入らなかった村はなかった。ユダヤ人は立場はルーマニア人と同じく、ハンガリー統治下の被支配者で、陰に陽に抑圧される側だった。もとより偏見が少なく人好きなモロシェニ(マラムレシュの人のこと)のこと、一般にユダヤ人とは気持ちのよい付き合いを保っていた、という。ただ、宗教の違いは素朴で少なからず無知な農民にとって一つの大きなこだわりとなっていた。
     第一次大戦前には、経済権がユダヤ人に大きく掌握されたこともあって、モロシェニの心情はおだやかならず、不満が少しずつくすぶっていた。」
    (「マラムレシュ〜ルーマニア山村のフォークロア」みやこうせい著(未知谷社)より)

  • 尋問場面<br /><br />ラドゥ・ベルチャ(Radu Bercea)画<br />メモリアル博物館内の「Amintiri din Gulag」という本の挿絵の原画展にて<br /><br />尋問者の顔が少しコミカルなのが、場面の悲惨さを和らげているかもしれませんが───囚人の体は、拷問跡だらけで痛々しいです。<br /><br />★マラムレシュ地方のユダヤ人について(その2)<br />「シゲットは何といっても、立地が良く、様々のユダヤ人が集まって来て、シオニストの組織もあり、ヘブライ語、イディッシュ、ハンガリー語の定期刊行物が出された。印刷所、図書館、劇場、多くのシナゴオグがあり、16世紀から19世紀にかけて、少数派であったルーマニア人も学校を作り、ルーマニア語の書籍を印刷し、法律アカデミーを設け、文化が大いに栄えたことが、シゲットの文書館でうかがえる。読書の人ユダヤ人が大いに周辺の人士を刺激したことは想像に難くない。ルーマニア・ハンガリーの教養人士はユダヤ人のインテリと大方は偏見なく親交を結び意見を交換したとよく聞く。<br /> ここで誤解をとくためにあえていいたいのはユダヤ人の富める階級は一握りで大かたは貧しかったのである。貧困からはい上るためにも刻苦勉励はユダヤ人のならいとなっていた。夜も眠らず針を頭に刺しても勉学するとはユダヤ人にいわれた表現である。」<br />(「マラムレシュ〜ルーマニア山村のフォークロア」みやこうせい著(未知谷社)より)

    尋問場面

    ラドゥ・ベルチャ(Radu Bercea)画
    メモリアル博物館内の「Amintiri din Gulag」という本の挿絵の原画展にて

    尋問者の顔が少しコミカルなのが、場面の悲惨さを和らげているかもしれませんが───囚人の体は、拷問跡だらけで痛々しいです。

    ★マラムレシュ地方のユダヤ人について(その2)
    「シゲットは何といっても、立地が良く、様々のユダヤ人が集まって来て、シオニストの組織もあり、ヘブライ語、イディッシュ、ハンガリー語の定期刊行物が出された。印刷所、図書館、劇場、多くのシナゴオグがあり、16世紀から19世紀にかけて、少数派であったルーマニア人も学校を作り、ルーマニア語の書籍を印刷し、法律アカデミーを設け、文化が大いに栄えたことが、シゲットの文書館でうかがえる。読書の人ユダヤ人が大いに周辺の人士を刺激したことは想像に難くない。ルーマニア・ハンガリーの教養人士はユダヤ人のインテリと大方は偏見なく親交を結び意見を交換したとよく聞く。
     ここで誤解をとくためにあえていいたいのはユダヤ人の富める階級は一握りで大かたは貧しかったのである。貧困からはい上るためにも刻苦勉励はユダヤ人のならいとなっていた。夜も眠らず針を頭に刺しても勉学するとはユダヤ人にいわれた表現である。」
    (「マラムレシュ〜ルーマニア山村のフォークロア」みやこうせい著(未知谷社)より)

  • 独房で祈る囚人<br /><br />ラドゥ・ベルチャ(Radu Bercea)画<br />メモリアル博物館内の「Amintiri din Gulag」という本の挿絵の原画展にて<br /><br />自由になれるように祈っているのでしょうか。<br /><br />★マラムレシュ地方のユダヤ人について(その3)<br />「1944年の4月のこと、赤軍はシゲットから30キロ以内の地点に迫り、連合軍はフランスに上陸しようとしていた。マラムレシュのすべての村で、折しもユダヤ人狩り(人口約3万5千人)が始まった。ナチス・ドイツのユダヤ殲滅作戦の意を受けたホルティー指揮下のハンガリーの憲兵がやって来た。(中略)シゲットは、ドニエプル川以西の、純粋なユダヤ人の街の典型だった。人口2万5千人のうち、1万5千人がユダヤ人、あとは大多数がハンガリー人だった。シゲットからほぼ100パーセントのユダヤ人が収容所へ行き、多くがガス室で殺されるか猛火の中に投げ込まれた。マラムレシュでユダヤ人が全滅した村はいくつもある。」<br />(「マラムレシュ〜ルーマニア山村のフォークロア」みやこうせい著(未知谷社)より)

    独房で祈る囚人

    ラドゥ・ベルチャ(Radu Bercea)画
    メモリアル博物館内の「Amintiri din Gulag」という本の挿絵の原画展にて

    自由になれるように祈っているのでしょうか。

    ★マラムレシュ地方のユダヤ人について(その3)
    「1944年の4月のこと、赤軍はシゲットから30キロ以内の地点に迫り、連合軍はフランスに上陸しようとしていた。マラムレシュのすべての村で、折しもユダヤ人狩り(人口約3万5千人)が始まった。ナチス・ドイツのユダヤ殲滅作戦の意を受けたホルティー指揮下のハンガリーの憲兵がやって来た。(中略)シゲットは、ドニエプル川以西の、純粋なユダヤ人の街の典型だった。人口2万5千人のうち、1万5千人がユダヤ人、あとは大多数がハンガリー人だった。シゲットからほぼ100パーセントのユダヤ人が収容所へ行き、多くがガス室で殺されるか猛火の中に投げ込まれた。マラムレシュでユダヤ人が全滅した村はいくつもある。」
    (「マラムレシュ〜ルーマニア山村のフォークロア」みやこうせい著(未知谷社)より)

  • 囚人たち<br /><br />ラドゥ・ベルチャ(Radu Bercea)画<br />メモリアル博物館内の「Amintiri din Gulag」という本の挿絵の原画展にて<br /><br />高名な司祭や学者、かつてのVIPもいたでしょうに、囚人服は人格を否定します。<br /><br />★マラムレシュ地方のユダヤ人について(その4)<br />「ユダヤ人がアウシュビッツに連行されたあと、シゲットではユダヤ人の財産を目がけて、ユダヤ人の家への侵入、大略奪、大狼藉があったという。当時のシゲットの半分近くはハンガリー人に占められていたという。どの民族が野蛮な行為を働いたのか、人々の記憶は定かでない? 全体主義が国土を被ってから、政策で人口の移動、民族の入れかえが行われた。少数民族を一ヶ所にとどめておくのは権力にとってリスクがある。シゲットには、村から次々とルーマニア人が送り込まれてきた。ハンガリー人は国内の遠隔の地へ分散させる。民族の力をたわめるのにはそれが一番いい方法である。並みのルーマニア人なら、ユダヤ人へのポグロムの記憶は忘れたいか、リアルには触れたくないことであろう。」<br />(「マラムレシュ〜ルーマニア山村のフォークロア」みやこうせい著(未知谷社)より)

    囚人たち

    ラドゥ・ベルチャ(Radu Bercea)画
    メモリアル博物館内の「Amintiri din Gulag」という本の挿絵の原画展にて

    高名な司祭や学者、かつてのVIPもいたでしょうに、囚人服は人格を否定します。

    ★マラムレシュ地方のユダヤ人について(その4)
    「ユダヤ人がアウシュビッツに連行されたあと、シゲットではユダヤ人の財産を目がけて、ユダヤ人の家への侵入、大略奪、大狼藉があったという。当時のシゲットの半分近くはハンガリー人に占められていたという。どの民族が野蛮な行為を働いたのか、人々の記憶は定かでない? 全体主義が国土を被ってから、政策で人口の移動、民族の入れかえが行われた。少数民族を一ヶ所にとどめておくのは権力にとってリスクがある。シゲットには、村から次々とルーマニア人が送り込まれてきた。ハンガリー人は国内の遠隔の地へ分散させる。民族の力をたわめるのにはそれが一番いい方法である。並みのルーマニア人なら、ユダヤ人へのポグロムの記憶は忘れたいか、リアルには触れたくないことであろう。」
    (「マラムレシュ〜ルーマニア山村のフォークロア」みやこうせい著(未知谷社)より)

  • 鉄条網の後ろの囚人たち<br /><br />ラドゥ・ベルチャ(Radu Bercea)画<br />メモリアル博物館内の「Amintiri din Gulag」という本の挿絵の原画展にて<br /><br />自由への渇望や収容所の劣悪な環境のせいか、ほとんど骸骨のような顔になっています。

    鉄条網の後ろの囚人たち

    ラドゥ・ベルチャ(Radu Bercea)画
    メモリアル博物館内の「Amintiri din Gulag」という本の挿絵の原画展にて

    自由への渇望や収容所の劣悪な環境のせいか、ほとんど骸骨のような顔になっています。

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