2007/10/26 - 2007/10/27
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vegemaruさん
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正倉院展に行こうと友達から誘いがありました。
日曜は色々都合があったので、金土の二日間。金曜の夕方、仕事が終わってからそれぞれ奈良へ向かうことにしました。
自宅からの最寄り駅は同じですが、勤務地の都合で乗る駅は別々、退社時間もそれぞれの都合で別々。なので行きは別々、夕飯(駅弁)も別々、到着時刻も不定なのでホテルもシングルを二つ。まるで旅行と言うよりも出張のような状態。
そして一泊二日と言うより、前泊日帰りの慌しい日程で奈良を満喫してきました。
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京都往復のJRの切符を買ったのとホテルがJR奈良駅前だったので、京都から奈良にJRで向かったのですが、奈良線の電車は「城陽行き」、城陽って奈良の手前、向こう?とイキナリ不安になっていました。
7,8年前に電車で行った時は、すぐ着いたような気がしていたのですが、その時は近鉄を利用していたようです。
夜の11時ごろにホテルに到着して友人と会い、JR奈良駅前の居酒屋で軽く一杯しながら予定をたてました。
正倉院展は9時から開館なので、それにあわせてホテルを出て、国立博物館に着くと、予想通りの混雑・・・約30分待ち。開館したばかりなので、列は長かったけれども流れは早かったと思います。 -
中も超満員です。音声ガイドを2回繰り返してやっと見れるくらい。NHKのカメラも押し分け、目の前に現れたのは期待通りのキラキラした宝物。見ごたえがありました。
普段は全然面白いと思わない書も、鑑真の持ってきた活字かと思うほどの精密なものに感動し、日本で写した、所々修正のあるものにフフッと笑っていました。
私は今回初めての正倉院展でしたが、何度か来ている友人の話だと、展示品に目玉が多く、人も多いとのことです。
そして私は十数年の誤解が・・・教科書にも「奈良時代の宝物を収納した・・・」と書いてあるにもかかわらず、○○美術館展のように、正倉院が集めた過去から近代までの美術品かと思っていたのです。
おバカでした。
後日、「正倉院って何?」「奈良時代の天皇家の宝物をしまっておく所。」「臓物?」と会話した話を聞いて、上には上がいるとホッとしたものです。 -
正倉院展を出てから、次に向かうのは東大寺。まるで「順路」と書かれているかのように人の流れができていました。
鹿と並んで写真を撮っている人を横目に通っているハズなのに、なぜか鹿が寄って来る。
鼻先でお尻を突き上げられたり、右手も左手もまんべんなく鼻水をつけられたり。
なんかナメられているんですけど・・・
子供の頃、奈良公園で鹿に追いかけられた記憶か、鹿せんべいをまちがって食べた記憶、あるよね〜 -
鹿せんべいを買った人をねらうかのように、鹿せんべい売り場の前にたむろする鹿。
なぜ鹿は売り場のせんべいには手を出さないのか不思議です。どんな躾をしているのでしょうか。
ウチのツレが中学の修学旅行で東大寺に行った時、同級生が持っていたわら半紙の旅行のしおりを鹿に食べられたそうです。 -
拝観料を払って、伽藍の角から大仏殿を眺める。遠近感がおかしくなる瞬間です。
大きい、大きすぎる・・・
何度見ても圧倒される建物です。 -
大仏に萌え〜ている友人。
友人「大仏、久々に見た〜」
私「近所の大仏、毎日見てるんじゃ?」
友人「今、修復中でシート被ってるんだって。」
奈良の大仏と近所の大仏を一緒に扱う、バチあたりな会話でした・・・ -
穴くぐり。出れなくなったことを考えると怖くてとてもくぐれません。チビッ子が何度も繰り返し通っていて、「それ以上健康になる必要あるんかい!」とツッコミたくなりました。
大仏殿の柱はどれも人の手が届く高さまで朱塗りがはげています。穴くぐりの柱は特にツヤツヤでした。 -
お昼ごはんは携帯で検索した、吉野葛料理、天極堂です。県庁の横の駐車場の向かい。大きな道路沿いにあるのですぐに見つかりました。
正倉院展の影響か満席で約30分待ちでした。
レストランに併設された葛商品の販売所の中で待っていたのですが、これが罠・・・
葛餅は重いのに・・・葛粉も重いのに・・・と3回もレジに行っている間に、待ち時間はあっと言う間に過ぎてしまいました。 -
興福寺でも特別公開をしていました。
立派なポスターやチラシが印刷されていたのに、境内の案内板は手書き(達筆)のこの看板・・・
なぜか笑ってしまいました。 -
興福寺の五重塔。大きすぎてうまく写せません。
境内の中央は再建中の金色堂の基礎が、打ってあります。この基礎の具合は一休みにちょうどいい感じなのですが、うかつに座ると、鹿の黒いブツがあるので注意。
歴史物をナナメ読みした所、何となく「興福寺の僧兵=悪者」のイメージが強いのですが、都が京都に移ってから何百年間も、なぜ奈良のお寺が権力があるのか不思議でした。
元興寺でガイドしてもらったネタ(以下[元]、ただしウロ覚え有)では、興福寺は藤原家の氏寺のため、中世までかなりの勢力を持っていた。五重塔も再建する力があって、より大きくなったとか。 -
ならまちをウロウロして、ならまちセンターで地図をもらい、見所を説明してもらいました。
近くのお寺と、世界遺産の元興寺を勧められました。確か2年ほど前にも行って、古い瓦が面白いお寺だったなと記憶していましたが、向かった先は、元興寺塔址でした。
前に見た時と何か様子が違うし、民家???と思いながら中に入りました。 -
中には小ぢんまりとしたお堂と鐘楼、大きな礎石の跡がありました。
[元]元興寺の境内の一部で、幕末まで五重塔が建っていた場所。近所の火事の類焼で焼失してしまった。
せっかく近世まで残っていたのに、ギリギリまで頑張って最後のツメで失敗したようなガッカリを感じました。 -
元興寺、極楽坊です。
世界遺産&国宝ですが、近所のお寺?と思うほど境内も建物も小さいお寺です。
境内に入った途端、雨が強くなってきたので本堂に入り、小降りになるまで休んでいました。
1300年前の瓦の下で雨宿り。何か贅沢。 -
ならまちの航空写真に昔の元興寺の建物を貼り付けている模型を眺めていると、警備員の人が入ってきて、「今の境内はこちらです。」と教えてくれました。
昔の境内が約1m四方の模型で、右端(東門)の周辺の手のひら大が今の境内だそうです。
[元]元興寺は蘇我馬子が建てた飛鳥寺を奈良に移築したのが始まりで、東大寺ができるまでは日本で一番大きい寺だった。今のならまち一体が全て境内で、ならまちのクランクになっている場所は昔の伽藍に沿って道ができたため。東大寺が天皇家、興福寺が藤原家の保護を受けて勢力があったが、蘇我家のお寺のため、財政が苦しく維持も難しく、境内の中に民家が建ってしまった。焼失しても再建ができないため、今の大きさになってしまった。
蘇我氏は教科書の最初でイキナリ滅亡してしまうため、なじみのない名前ですが、1300年以上経っても何らかの名残があるのは相当の権力があったのだと改めて思いました。 -
元興寺境内の一角に萩に埋もれるように置いてある礎石です。かなり大きいそうです。
[元]昭和40年代にならまちにビルを建設することになって工事していると出てきた礎石。講堂の礎石と考えられている。そのまま埋めてしまう予定だったのを、教育委員会の活動で元興寺の境内に移した。 -
[元]収蔵庫に展示されている国宝の五重小塔は、奈良時代に作られた元興寺のご神体の一つで、本物の仏舎利を収めてある。
これは奈良時代に作られた模型だと思っていましたが、大きな入れ物だったと理解しました。そう言えば、五重塔は人が入るようにはできていないので、あれもこれも、実は入れ物?
[元]元興寺の目玉になっている瓦。色の違う一角だけが飛鳥寺から移築した奈良時代の「古い瓦」、他の均一な色で葺き方も違う箇所は鎌倉時代の「新しい瓦」。
境内の一角には「写真ポイント」と小さな看板が下がっています。
しかし、蘇我氏と元興寺の話を面白くガイドをしてくれた人が、お寺の警備員の方だったことが何よりも驚きでした。 -
滞在時間は少ないけど、おいしいものは食べたい!
と考えて、帰りの電車で食べるお弁当を、京都の老舗料亭の仕出し弁当にしました。
京都駅隣接の伊勢丹に予約して、乗換えついでに受け取りました。
魚三楼の秋の行楽弁当です。
おせち料理みたくて美しい。そして上品な味付け。ううう、うまい!
そして家に帰って読みました。「日出処の天子」
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