2007/10/28 - 2007/10/28
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のださん
青木敦書、幼名半五郎は、日本橋の魚屋に生まれました。
勉強熱心で、文蔵というあだ名をつけられました。
将来は学問を修めたいと考えていましたが、父が病気がちで、いずれは家を継がなければならないかもしれません。
22歳のとき意を決して、恐る恐る父に「京都に行って勉強したい」と申し出ると、父は「お前に魚屋を継がせるつもりなどない」と言い、快く送り出してくれました。
敦書は、儒学者伊藤仁斎の子である伊藤東涯に師事し、3年間みっちりと医学・薬学を学び、江戸に戻って、魚屋をたたんだ両親とともに長屋に住みます。
敦書は、先祖の出身地に由来する昆陽という名を使うようになります。
寺子屋を開いて生計を立て、父を看病しますが、やがて父は鬼籍に入り、すぐに母も後を追います。
京都で学んだ学問は何だったのか?
昆陽は6年間喪に服し、墓参り以外は引きこもります。
時は8代将軍徳川吉宗の時代、西日本でイナゴ・ウンカが大発生し、冷夏も相まって、凶作に見舞われました。
餓死者は続出、これが世に言う享保の大飢饉です。
何か良い方策はないものか、吉宗は困り果てます。
昆陽は、そのすぐれた学問と人柄を見込まれ、町奉行所の与力・加藤又左衛門枝直→大岡越前守忠相→徳川吉宗というコースで推薦されます。
長崎や鹿児島では餓死者がいない。
エネルギー源として十分米の代用になる甘藷がその要因らしい、ということに着目した昆陽は、中国の書物「農政全書」や同門の先輩・松岡成章の「蕃藷録」などを参考にして「蕃藷考」という書物を著し、関東で甘藷を栽培するように提言します。
昆陽は甘藷の栽培を命じられ、日本橋から小石川まで6kmもの道のりを毎日通い詰めて成長を見守り、享保20年(1735年)、ついに栽培実験が成功します。
吉宗に蘭学を学ぶことを許可された昆陽は、蘭学の書物も数多く著します。
全国に甘藷を広めた功労者である青木昆陽は、人々から親しみをこめて「甘藷先生」と呼ばれました。
甘藷先生は、現在目黒不動尊こと瀧泉寺に眠っています。
命日は10月12日ですが、目黒不動尊では10月28日に甘藷まつりが行われます。
毎月28日は目黒不動尊の縁日だそうで、それに合わせた形のようです。
ということで、本日は瀧泉寺を中心とする目黒周遊です。
目黒の地名は目黒不動尊に由来する、とする説があるそうですが、やはり目黒という地名から目黒不動尊と名付けられたと考えるのが自然です。
「吾妻鏡」では、武蔵武士・目黒弥五郎の名が、源頼朝上洛の際の随兵として挙がっています。
その名が目黒の地名と関係あるとすると、すでに鎌倉時代には目黒という地名は存在したと言えます。
めぐろの「め」は、駿馬の「め」、「くろ」は畔(道)を指す古語。
つまり「めぐろ」は、馬と畔道を意味する馬畔という音から生まれたとする馬畔説。
これを採用しているのが「目黒区史」、さらに、目黒警察署の署旗には馬の絵が描かれています。
やはり馬畔説が有力のようですが、真相はいかに?
目黒には、学生時代の一時期バイトで通っていまして、なつかしく思います。
社会人になってから目黒駅で降りた記憶はない、ということは、目黒に行くのは学生時代以来なのかもしれません(忘れているだけかも)。
行きは、(以前は目黒と蒲田を結ぶということで目蒲線だった)東急目黒線の不動前駅で降ります。
しょっちゅう使っていた駅ですが、学生時代はこの駅がなぜ不動前という名前なのか考えすらしませんでした。
不動前と言っても、不動尊からは近くはありませんが、目黒駅からもやはり遠いですし、目黒駅から行くと裏口から入ってしまうかもしれないので、正面から入るには不動前駅から行くのが良いかと思います。
また、確か瀧泉寺境内にはバス停があるはずですので、バスで行くのも面白いと思います。
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今は随分変わって、昔の面影は全くない不動前駅を降りて、不動尊方向に進むと「かむろ坂通り」。
禿と書いて「はげ」ではなく「かむろ」と読むことがあります。
浮世絵を鑑賞していると、「遊女と禿」というタイトルの作品によく出くわしますが、その英語訳は"Courtesan and her assistant"などとなっていることが多いです。
要するにかむろとは、遊女の身の回りを世話する少女、って感じです。
はげではなくおかっぱ頭ですね。
元鳥取藩士で、強盗殺人などの悪事を重ねた悪党・平井権八(歌舞伎では白井権八)は、吉原に通い詰め、三浦屋の花魁・小紫と深い仲に。
しかし目黒東昌寺の住職に諭されて改心し、両親に一目会いたいと虚無僧になり郷里に戻るも、両親はすでに他界。
観念した権八は江戸に戻り自首し、鈴ヶ森で磔の刑に。
それを知った小紫は、東昌寺にある権八の墓前で自害(東昌寺には行き着けずに途中で自害したという説も)。
小紫の帰りを心配した三浦屋の主人は、小紫がかわいがっていたかむろを迎えにやりますが、かむろは小紫の死を知り、意気消沈で引き返します。
途中この付近で暴漢に襲われ、辱められることを恐れたかむろは、目の前の二ツ池に投身します。
かむろを哀れんだ人々は、この坂を「かむろ坂」と名付けました。 -
かむろ坂通りを上って途中にある行元寺。
これは階段を上がったところにあり、しかも看板等も出ていないので、ほとんどの人は寺とは気づかないでしょう。
室町時代創建の歴史ある天台宗の寺院で、元は神楽坂にありましたが、明治40年の区画整理によりこちらに移転してきました。 -
大田南畝(蜀山人)による隠語の碑。
1783(天明3年)、父の仇である宮条甚内を神楽坂で討ち取った百姓の富吉を称えて、仇討ちの助太刀をした南多門が、友人である蜀山人に碑文の撰を依頼しました。
「念彼観音力」と書かれたその裏面に、隠語が記されています。
復讐の碑文ということで、幕府に憚るところがあるので隠語になったそうです。 -
大震災横死者供養塔。
関東大震災後の大正14年に、犠牲者の慰霊のため建立されました。
前住職・豊道慶中(号は春海)氏の撰文であり揮毫です。
豊道春海は、晩年は書道界の最高峰とも言われた書家です。 -
行元寺からさらに不動尊よりの安養院。
この入り口もよくわからず、ぐるっと回る必要があります。
山門は目黒不動尊を向いています。
瀧泉寺の4子院のうちの1つで、開山は慈覚大師円仁とも言われています。
山門は江戸時代に造られたもので、戦災でも焼け残りました。
扁額は、中国からの帰化僧で書家としても知られた獨湛の揮毫。
境内に美術館があると聞きましたが、どこでしょうか? -
観音堂。
横の念仏供養塔には「南無阿弥陀佛」と六号名号が刻まれており、品川区指定文化財です。
そう、ここはまだ品川区、不動前駅も品川区。
目黒不動尊は目黒区です。 -
浅野長晟室・八代姫(称専院)の墓。
檀祖で、天海の勧めで出家してこちらに留まったそうです。
最後までお供をした侍女達が観音の姿で守っています。
荼毘に際し、五色の舎利が現れたそうです。
その後安養院は浅野家の庇護を受けることとなります。 -
瀧泉寺仁王門前の比翼塚。
権八・小紫を哀れに思った人々が建てました。
ここが明治4年まで存在した東昌寺の跡地だということです。
先ほど通ってきたかむろ坂通りには、かむろ坂公園という非常に小さな公園があり、かむろの彫像などもありますが、そこのかむろ坂説明板には「冷心寺」と書かれています。
この冷心寺というのは東昌寺のことでしょうか? -
瀧泉寺仁王門。
かなり立派です。
戦災で消失してしまったので、戦後再建されました。
目黒のタケノコというのは、江戸後期に碑文谷一帯で栽培され、「太く、柔らかく、おいしい」と評判を呼んだそうですが、目黒不動門前の料亭で「筍飯」がふるまわれ、その評判は一層高まったと言われています。
目黒不動門、ってこちらの仁王門のことでよろしいのでしょうか?
多分そうなのでしょう。 -
境内に入ります。
甘藷まつりだから今日来たが、相変わらず縁日には興味がない自分がいます。
まあいいや。
甘藷組合が建立したという「昆陽青木先生之碑」と「甘藷講碑」。
でかいです。
甘藷先生は生前こう語ったと伝えられます:
「甘藷が世に広まり、飢える人がいなくなる、これこそが私の願いだ」
私はサツマイモが好きですが、何不自由することなくその味を楽しめるのも甘藷先生のおかげです。 -
青木昆陽碑の隣には、何と北一輝先生碑!
大川周明による文だそうです。
なぜこの寺にあるのかは知りません。
何か縁があるのでしょうか?
まあどう考えても処刑されるほどの関わりではなかったでしょうが、これ以上は何も言えません。
静かに手を合わせるだけです。 -
勢至堂。
先の戦災で焼け残った、江戸時代中期の建造物です。 -
本居宣長の子孫に当たる本居長世の碑。
この方は「十五夜お月さん」を書いていたのですね。
他にも「赤い靴」とか。
知らないことばかりだな。
瀧泉寺のすぐ隣に住んでいたそうです。 -
前不動堂。
こちらも先の戦災で焼け残った、江戸時代中期の建造物です。 -
有名な独鈷の滝。
今から1,200年前、寺の開祖と言われる慈覚大師円仁が、持っていた独鈷を投げたところ、そこから霊泉が湧き出したのが名前の由来とされています。
以来枯れることはありません。
瀧泉寺の名前もここから来ているのでしょう。
2体の龍の口から水が吐き出されていますね。
池の中に「水かけ不動」がいますが、ひしゃくで水をかけると様々なご利益があるそうです。 -
阿弥陀堂。
阿弥陀三尊(観音・勢至・阿弥陀)を祀っています。 -
阿弥陀堂と同じブロック内にある観音堂。
江戸三十三観音霊場の結願札所で、ここに参拝すれば他の三十二もすべて回ったのと同じ功徳があると言われています。
聖観音・千手観音・十一面観音を祀っています。 -
観音堂の裏手辺り。
精霊堂があります。
その手前は春洞西川先生碑とあります。
西川春洞は、豊道春海の師匠です。
つまりこれは豊道春海の揮毫です。 -
出店をチラッと見てみると・・・
やはり今日はサツマイモは外せないようです。
縁日では常に売られているのでしょうか?
私は買いません。 -
これは面白い。
交通安全祈祷殿。 -
「鷹居の松」。
目黒は徳川将軍家の鷹狩りの場としてよく使われていました。
3代将軍家光のかわいがっていた鷹が行方不明になり、実栄という僧に祈らせたところ、鷹がこの松に舞い戻ってきたので、家光は大いに喜び、この松を「鷹居の松」と名付けました。
以来、目黒不動尊は江戸随一の不動参詣の名所となりました。
本堂まで続く参道が見えますが、鷹居の松を挟んで、真っ直ぐ上がっていく左の坂が男坂、右側に行くと女坂。 -
女坂方面にある神変大菩薩。
足腰健全に霊験あらたかだそうです。 -
男坂から上り直して、いよいよ本堂へ。
江戸五色不動は、天海の提言で、江戸の5つの方角の不動尊を選んで結界をつくる目的があったそうで、色は陰陽五行説に基づいているようです。
これに五街道を絡める説もありますが、そうすると目黒は東海道ですか。
江戸の三富と言って、湯島天神、谷中感応寺とともに富くじの聖地でありました。
10時になり、ちょうど護摩の時間のようです。 -
本堂の裏手には、露坐の銅製大日如来坐像。
元は屋内だったが、戦災により破壊されて以来屋外のようです。 -
延命地蔵尊。
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鐘楼堂。
普段は入れないようです。 -
大日如来の化身である不動明王。
その使者ともいうべき八大童子。
鐘楼堂の奥の盛り上がったところにいます。 -
境内を裏に抜けて、瀧泉寺墓地が飛び地としてありますけども、その一画。
ひっそりと「甘藷先生墓」。
国の指定文化財です。
富士山を望む景勝地の目黒を好んだ先生は、大鳥神社付近に別邸を構えていました。
生前自ら「甘藷先生」と刻んだそうです。
母と長女の墓も傍らに並んでいます。
甘藷先生に感謝しながら、瀧泉寺を後にします。
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